双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

あちきは猫でありんす

 吉原よしわらに行くには、大抵の男は山谷堀さんやぼりから日本堤にほんづつみをてくてく歩いて、大門おおもんを潜る。
 夕方のこんな時刻になると、鼻の下を伸ばした野郎どもが、まあぞろぞろぞろろと歩いて行くよ。懲りねえやつらだ。
 雪もすっかり溶けたことだし、陽射しが柔らかくなると、特にここは、一足早く春が来るってことだ。
 この山谷堀の入口にあるのが西方寺さいほうじで、「土手の道哲どうてつ」で吉原では通っている。その昔、道哲って坊さんが、このあたりにあった処刑場で、首をさらされた罪人を供養したってことでついた名前だ。
 道哲についちゃあ、有名な高尾太夫たかおだゆう、そうだよ、仙台藩のお殿様を袖にして殺されたっていう仙台高尾さ。この二代目高尾太夫の本当の思い人っていうのが、道哲だったという説もあるんだが、それはまた別の話だ。いずれ機会があれば教えてやるよ。
 それだけじゃなくて吉原にとっちゃあ、関わりのある寺なんだ。吉原で死んじまって、引き取り手のない遊女は、ここか三ノ輪みのわ浄閑寺じょうかんじに葬られる。葬るっていえば聞こえがいいが、ま、投げ込まれるっていったほうが正確だ。
 そうそう前に話したが、薄雲うすぐも太夫が飼っていたたまを懇ろに葬って、墓まで建てたっていうのがこの西方寺だ。それが始まりだったのか、ここには猫塚ってのもあるそうだ。
 そうなんだよ、あちきはまだ来たことがない。ずっと吉原の中の猫だったんものだから、くるわから外に出ることはめったにない。大門を潜って、あたりの土手や田んぼをうろうろしたことはあったがな。
 そんなあちきなのに、ついに吉原を出て、遠出をしてきたってわけだ。
 何でだって?
 いろいろとあったんだよ。
 浮雲姉さんはどうしたかって?
 うーん、やっぱりその話になったか……。
 あちきだって、話したくないこともあるんだぜ。
 でもよ、話さなくっちゃいけねえよな……。
 ちくしょうめ、吉原に急ごうって野郎どもからすれば、アッという間の土手なんだが、猫にしてみると、結構な距離だぜ。
 それも通行人を避けながらだから、疲れるんだよ……。
 あ? うん……浮雲姉さんか?
 そうだよ、死んじまったんだよ!
 姉さんはあの世へ行った。
 たちの悪い風邪だったみてえで……。それだけじゃねえな、前から弱っていたんだ。遊女暮らしがなげえからな、もう身体はボロボロだった。そこに風邪で胸をやられた。そのまま飯が喉を通らなくなって……。
 あちきはよう、そうやって死んでいく遊女はピンからキリ、大見世の花魁から、お歯黒溝はぐろどぶ安女郎やすじょうろうまで、雄になったり、雌になったりしながら、何人も見てきた。そりゃあよ、かわいがってくれた飼い主と別れるのは、それなりに感慨ってのもあったよ。
 でもまあ、食い扶持ぶちのために次の飼い主を探さなくちゃいけねえし、あちきは廓の中を縄張りにしていたからな。
 でもよ、そろそろ生き方を変えてみるかなって思ったのさ。縄張りっていっても、猫には決まりごとなんて、面倒なものはねえから、どこへ行っても構わねえんだがな。
 今度ばっかりはちいとこたえた……。
 浮雲姉さんが息を引き取る時に、あちきの首筋を撫でて、うっすらと笑ったんだ。悲しい顔なんだけど、どこかうれしそうにも見えるんだな。
「わっちは生まれ変われるものなら、今度は猫がいい、あちきみたいな……」
 養生部屋に移された時に、そういってあちきを抱いた。そんなことをあちきにいった遊女なんぞ、初めてだったからな。
 でもよ、あちきは喉を鳴らすしか……。
 そうだよ、見世にはどこだって、そういう部屋があるんだ。養生が聞いてあきれらあ。もう働けなくなって、死ぬしかねえ女郎を置いておく部屋さ。客がとれなくなって姉さんも移されたんだ。
 後は何にもしちゃくれえねえ。医者にも診せねえし、薬も飲ませねえ。ま、粥くらいは食わせるがな。
 ちくしょう、猫に生まれ変わりたいだ?
 人間なんぞが、猫に生まれ変われるわけはねえんだが、姉さんはあん時、望みを叶えたみたいな顔だった……。
 姉さんは身寄りってのがなくて、西方寺に投げ込まれた。浄閑寺じゃなくて、土手の道哲のこっちにしたのは、姉さんが猫好きだったから、せめてってことだ。でもよ、あちきも見世から放り出された。あの遣り手婆に。
 そうだった、階段から落としてやるのを忘れていたな。そいつはしくじった。
 あちきもついつい昨日のことなんぞ、忘れちまうんだよ。
 ま、だからよ、新しい猫の生き方をするにあたって、墓参りってのをな。
 聞きてえんだろ? 分かってるよ……。
 よしさんだろ。
 国芳くによしがどうしたか、って……。
 教えてやるよ。
 水滸伝の絵を見せに来てから、あいつは一度も来なかったのさ。姉さんが死んだのも知らねえんじゃねえかな。
 あ、姉さんがおっんだのは、あれから二月ふたつき近く後さ。その間、国芳は来なかった。
 あいつの描いた「通俗水滸伝豪傑つうぞくすいこでんごうけつ百八人」の五人の絵は、大評判をとったんだ。
 姉さんのいうとおりだった。吉原に来る客も、遊女の機嫌取りで持ってくるって有様さ。美人画なら分かるが、水滸伝の豪傑、武者絵を土産に、ってのは珍しい。
 そのくらいに売れてるってことだ。
 小耳に挟んだ、(っていうか、猫の耳に挟んだ、が正確なんだが)一勇斎いちゆうさい国芳の名前は一気に挙がった上に、何しろ残りの百三人も、続けて出すってんで、国芳は吉原なんぞに来る暇もねえ。版元の工房に閉じ込められて描かされているっていう話だ。
 えっ、姉さんは文を出さなかったのか?
 そうだよな。吉原の遊女、特に中見世あたりの女郎は、贔屓をつなぎ止めるために、せっせと文を出す。内容はみんな同じだ。「ぬしに会いとうありんす。わちきは息がくるしゅうて、せつのうおす。次はいつ来なんすか」ってな。
 だけどよう、姉さんはそんな文は出さなかった。それまでは、芳さんには三日にあげず出していたけど、せいぜい十日に一遍、「水滸伝の絵の評判を聞いていてうれしゅうおす」とか、「お暇になったら来てくれなんし」「絵の続きはまだでありんすか」ってな内容だ。
 そうさ、病の後でパタリと便りが途絶えたら、あいつだって何かあったと思うだろ。姉さんは自分の身体のことは一切触れずに、怪しまれないようにって……。
「しつこい風邪ですが、治りかけておざんす」って嘘も書いてたな……。
 おっ、ここが西方寺か。投げ込み寺っていうから、もっと寂れた寺かと思ったら……。
 何だ? 妙な音が聞こえてくるぞ。
 坊主が経を上げてるのか? いや、そうじゃねえなあ。誰かが怒鳴ってやがる、いや、そうじゃねえ、泣いてるみてえだ……?
「あっ!」
 と叫んだつもりだったが、あちきは猫なので、ニャア! という声になった。とっぷりと暮れてきて、木立に埋もれた境内は暗い。あちきには変わらずに見えるが。
 あれが猫塚なのか、片隅に大きな石が置いてある。その前に濃紺のどてらを羽織った男がいた。あぐらをかいて、あたり構わず、大声で泣いてやがる。
 国芳だ。
 あちきの鳴き声に、国芳が涙でビシャビシャになった顔を向けた。
 手にはくちゃくちゃになった浮世絵を持っていて、どうやら涙を拭く手拭い代わりにしてたようだ。水滸伝の行者武松ぎょうじゃぶしょうだ。
「ありゃ、おめえは……」
 拳で頬を拭うと、国芳はあちきをまじまじと見た。
「あちき、だよな?」
「ミャオン」
「おめえ、何でこんなところに?」
「ミャオ、ミャオ」
 あちきはそそくさと近づくと、国芳のあぐらの上に乗ってやった。
「あちき? 浮雲の……?」
 ちょいと歩き疲れたこともあったけど、なかなか座り心地がよさそうだった。そのままクルリと一回転すると、丸くなって股に身を預け、国芳の顔を見上げて、ニャオンと応えてやった。
 国芳には、あの夜、浮雲姉さんが膝に顔を乗せて「もう一回、しなんすかえ?」っていったように思えたはずだ。
 ぽかんと口を空けたまま、国芳は見下ろしている。あちきは喉を鳴らしながら、左手を嘗めるところから身繕いを始めた。
 国芳はグズンと鼻をすすると、ひとつ、ふたつと大きく息を吐いた。
 そのまま黙って、身繕いをするあちきを見つめている。それからおもむろにいった。
「俺さ、これからは自分のことをわっちと呼ぶことにするよ」
 そうかい……。
「おめえは、俺……じゃあねえや、わっちの家に来い。わっちの猫になりな」
 ま、それもおもしろそうだな。
「今はよ、水滸伝を描かなくちゃいけねえが、わっちはこれから猫も描くよ」
 浮雲のためなら許してやるよ。
「わっちは本当は、小さい頃から猫を飼っていて、猫は好きなんだぜ」
 せっかく身繕いをしているのに、国芳はよいしょと、あちきを持ち上げると、立ち上がった。
「わっちはこれから、描くよ。描いて描いて、描きまくって、北斎ほくさいを超えるような絵師になるよ」
 国芳はあちきをどてらの懐に入れると、猫塚にクルリと背を向けて歩き出した。
「約束するぜ」
 てめえはようやく上向くかもしれねえな……。
「あちきは猫でありんす……。笑えるな」
 運が向くかどうかは、国芳さんよ、あんたの飼い方次第だぜ。
 歩きながら国芳は、また鼻をくすんと鳴らした。
「いい絵を描くよ、浮雲……」
 そう呟いてあちきの頭を撫でた。どてらから顔を上げて、ニャアと鳴いてやった。
 暮れ六つの鐘がゴンと鳴った。

(第7回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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