双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著


猫小僧成郎吉ねここぞうにゃろきち 盗みばたらき
その一~黒猫盗人ぬすっとにゃろきち、参上

 深川大島町ふかがわおおじまちょうの裏長屋に成郎吉は住んでいる。通いの瓦葺かわらぶき職人ということになっている。盗人稼業で屋根瓦の上は庭みたいなものなので、まんざら嘘でもない。かややこけら葺きの家に、盗みに入ることはめったにないし。
 隣の店は筆職人と、煮売屋で働く娘のおけいだ(クロがなついているという話はした)。
 昼近くになって、成郎吉が若い娘を連れて帰ってきて、お景は眼を真ん丸にした。今までそんなことは一度もなかった。しかも娘は猫袋に入ったクロを抱いている。
「親方の遠縁の娘でお津多つたさんだ。おいらが江戸見物の案内をすることになった」
 なるべく普段のタメ口調で言ったつもりだが、顔が引きつっているのは、お景の寄った眉を見れば分かる。
 成郎吉が盗みばたらきをする夜は、瓦屋の親方の家に泊まり込んでいることになっている。親方のかみさんが猫好きで、クロが大のお気に入りなので連れて行く、と。
「コマちゃん、お帰りですことよ」
 お津多こと津多姫は、そういうと勝手に成郎吉のたなに入っていった。
「クロだってのによ~ハハハハ」
「ふ~ん、“お帰りですことよ”かい……」
 お景の視線はひと足早い木枯こがらしだ。
「ま、ちょっといろいろあってな」
 実際にあれからあった、いろいろ。

 二刻(約四時間)以上も前に遡るが、成郎吉は娘を連れて、旗本屋敷の番町から、両国広小路りょうごくひろこうじ近くまで歩いた。
 娘に道を覚えさせないために、朝の内神田うちかんだの通りをくねくねと。
 かなりの距離だったが、娘はクロの入った猫袋をしっかり抱いて、黙ってついてきた。
 クロは袋の中にいる時はじっと動かない。ただ、成郎吉が抱いていればなのだが。
 広小路裏に、成郎吉が借りている隠れ家がある。二間ふたまと小さな台所だけの小屋で、空き家にしか見えない。ここに仕事道具や盗んだ金品が隠してある。
 クロ以外誰も入れたことがない。途中で津多と名乗ったお姫様の扱いをあれこれと考え、隠れ家に連れて行くしかない、と自分に言い聞かせた。ひとまずだが。
 途中で何度も、クロを奪い取れる機会はあったが、広い江戸にお姫様を置き去りにすることになる。かといって、朝っぱらから男と女が、訳ありっぽく歩くのは人目を引きすぎる。成郎吉が前を歩いて、少し離れて娘についてこさせていてもだ。
 すれ違う人たちは、成郎吉には関心を払わなかったが、娘には振り返った。町娘の恰好だが、歩く様がどこか違う。秋なのに、春のそよ風が頬を撫でていったような気にさせる。しかも娘は首から大きな袋を下げていて、真っ黒な猫が顔を出し、秋のうろこ雲をうっとりと眺めている(風情なのだ)。
 クロの耳の後ろをたえず撫でながら、何ごとか呟いている娘を見ると、成郎吉はため息をつくしかなかった。
 広小路裏の隠れ家で、成郎吉は津多の頼みとやらを聞いたが、なかなか話そうとしなかった。
 代わりに津多は、懐から薄い紙袋を出した。三味線しゃみせんを抱えた着物の猫と、コウモリのように飛ぶ真っ黒な猫が描かれ、「朧月猫おぼろづきねこのさうし 初編上下 京山きょうざん作 国芳くによし画」とあった。
 袋には黄表紙本が入っていた。読み込んだのだろう。両側が凹んでいる。
 成郎吉は読むつもりはなかったのに、つい物語に引き込まれてしまった。津多はそんな成郎吉をじっと見ている。
 クロは台所の水をピチャピチャとなめて、身繕いを始めている。毎朝の大事なおつとめなのだ。
「朧月猫のさうし」は、鰹節問屋かぶおぶしどんやの飼い猫こまの物語。こまは隣家の雄猫とらと恋仲だが、生まれた子を巡って、他の雄猫との騒動が勃発する。いろいろあって、こまととらは浮世の義理を欠いて心中を決意する。猫仲間のぶちが二人を止め、今出川いまでがわというやんごとなき家の、縁の下に身を寄せることを勧める。ところがここで、飼い犬に襲われて、こまととらは離ればなれに。
 こまは女中に見つけられ、お姫様に飼われることに。風呂に入れてもらい、体に伽羅きゃらまで炊き込まれ、お姫様の寵愛を得る。
 贅沢三昧でかえって腹を壊して、お姫様の膝でうとうとしていたら粗相そそうをしてしまい、ついに暇を出されてしまう……。
「なんでえ、だからクロがコマかい」とか、「心中だあ、猫がするもんか」「縁の下は確かに」「猫は粗相なんぞしょっちゅうだぜ……」と、呟きながら読んでいた。
「ええ、本当にかわいいなら、猫が粗相をしたくらいで捨てたりいたしません」
 成郎吉が「粗相なんぞ」と呟いた時に、津多がポツリと返した。
 我に返った成郎吉は顔を上げた。津多の真剣な瞳がじっと見つめていた。
「で、どうして、このくだらない話が、おまえさんの家出になるんだ?」
 視線を外して成郎吉は尋ねた。
「おふねが、それほどお嫌なら、おやめなさいと申しました」
「おふねってのは誰?」
「奥女中です。私についていた……」
「もう、いねえのか、おふねさんは?」
「暇を出されました。父に“高橋たかはし様への嫁入りはしたくありません”と申しましたら、父は“家に泥を塗るのか!”と烈火のごとく怒り、私を折檻しようと……おふねが間に入り、かばってくれたのですが」
「おまえさんをもらおうっていう果報者が、そんなに気に入らねえのかい?」
「……」
 津多は唇を噛みしめた。嫌なのだ。
「でもよ、わがままじゃねえのか。親が決めた縁談だろ。その果報者とは会ったのか?」
 津多はこっくりと頷いて、眉を寄せた。
「わがままは一度も申さずに生きてまいりました。でも、父は出世のために、あのような男に、私を差し出そうとしているのです」
 成郎吉は黙って、目を潤ませている津多の美しい横顔を見つめた。
 津多の父が(出世のために)縁談を承知した高橋とかいう果報者は、とてつもなく嫌な野郎に思えてきた。よしんば、このお姫様のわがままだとしても、こんなに嫌っていて幸せになれるはずはない。
「その着物は、おふねが用意したのか?」
 涙をいっぱいに溜めた目で、津多は成郎吉を真っ直ぐに見た。今度は風に揺れる柳の葉どころではなく、心の臓が跳ねた。
 クロがひょいと鴨居の上にひとっ飛びし、成郎吉は思わず息を止めてしまった。
「おふねが連れ出してくれる手はずだったのです! でも叶わなくなってしまって……」
 一人でも家を出てしまおうかと、眠れない夜を過ごしていたら、廊下でニャオと声がした。襖を開けると、見たこともない黒猫が入ってきて、膝にすり寄ってきた。
「猫は泣いていた私の頬を嘗めて、慰めてくれました。『朧月猫のさうし』のコマに違いない、と思ったのです。コマは恋するとらと家を出て、おのれの思いを貫き生きようとする。どのような運命が待ち構えていようと……」
「でも、それは……」
「私はコマのような勇気を持ちたい……ですが、たった一人で私が家を出ても、どこへ行けばいいのかも……」
「そうしたら、俺が現れたってわけか」
「あなたは、見るからに怪しい賊ですが、この猫に導かれて、私のところに来たのだと」
「ま、怪しいよな……お導きってか」
 成郎吉は鴨居の上であくびをしているクロを見る。
 なんてこった。
 ため息をつき、津多に視線を戻すと、いとおしそうなまなざしで、津多もクロを見ていた。
「今ごろ、お屋敷では大変な騒ぎだぜ」
 もうひとつ大きなため息を成郎吉はついた。
 クロを深川大島町の長屋に戻して、成郎吉はお景に告げたように、津多を江戸見物に連れて行くことにした。
 というのは口実で、成郎吉は津多をいつまでも、自分の店に置いておくわけにはいかないと、改めて思い至ったのだ。
 クロは仕事が(といってももちろん、成郎吉の本業の盗人のほうだけど)終わると、ぐっすりと寝る。
 猫は起きている短い時間以外は、ずっと寝ているのだけど(当たり前だ)、クロは普通の猫と違って、盗みの相棒の時は丸々一日でも起きていたりする。
 成郎吉が首から下げる猫袋が好きなのか、忍び込んだ先の屋敷の中を歩くのが道楽なのか、よく分からないが。
 その代わりに、お気に入りのねぐら、成郎吉の店の押し入れの座布団で、丸一日分を取り返そうと眠り続ける。他じゃだめで、ニャゴニャゴといつまでも文句を言うのだ。
 そういうこともあって、津多を連れて大島町へ戻ってきたのだが、その時は広小路裏の隠れ家に、いつまでもお姫様を置いておくわけにはいかないと思った。
 だからって、自分の住まいはもっとまずいことに今さら気づいた。家出娘というより、どう見ても、盗みに入った賊、つまり俺がかどわかしたとしか見えないわけで、どうにかしなくてはいけない。
 成郎吉は元々忍者だったということは、ちらっと述べたが、自分がその特殊な職に向いていないことに気づかされるのは、こういう時である。
 その時々の感情で動いてしまって、後でしみじみ自分のバカさ加減に頭を抱えるのだ。
 深川八幡はちまんから両国橋りょうごくばしをぶつぶつと、自分への愚痴を呟きながら渡っていた。
 少し離れて津多がついてくる。猫を下げていなくても、男どもは、いや女だって、町娘のなりをしていながら、どこか品を香りのように漂わせる娘を見ていく。
 本当にまずい……。
 いつ津多姫を探す追っ手が迫ってくるか分からない。
 あの旗本屋敷(そういえば、津多という名前は聞いたのだが、家名は知らないままだ)には、成郎吉の手がかりは残してきていない(はずだ)。
 頂戴した九両から足はつかない(はずだ)。
 それより、姫がいなくなった、ということで大騒ぎしている(はずだ)。
 俺が(出世のために娘を差し出す)父だったら、あるいは娘には同情的だが、夫に逆らおうとしない母だったら、娘の覚悟の家出に、どう対応するだろう?
 大騒ぎしていないことも考えられた。対面とやらを、やたら気にする父だとすると、嫁ぎ先の出世の鍵となる高橋家に知られまいとするやもしれない。密かに家の用人とかに、探させていることも考えられる。
 探させるとするとどこか……あ、そうだ! 
 振り返ると津多がいない。
「!」
 成郎吉はひどく動揺した。
 両国橋はいろんな人が行き来している。キョロキョロ探したがいない。
 慌てて、引き返し、津多の姿を探した。今朝は置き去りにして逃げようとしていたのに……。
 津多は欄干らんかんにもたれるようにして立ち、大川おおかわの流れを見ていた。
「おい、離れるなって……」
 ハアハアと息をして、成郎吉は津多の肩に手をかけた。津多はチラとその手を見た。慌てて成郎吉は手を離す。
「コマが落っこちたのは、ここかもしれないって思ったの」
 津多は悲しそうな顔を向けた。
「朧月猫のさうし」の最後のことである。お姫様から暇を出されたこまは、出入りの糸針屋の女に上等な布団目当てで引き取られ、連れて行かれる途中で、橋の欄干に置かれる。そうしたらまたしても野良犬に吠えられて、川へと落ちてしまうのだ。
 山東さんとう京山が文を書き、歌川うたがわ国芳が絵を描いたこの草紙は、七編まで続くそうだが、津多が持っているのは二編だけだった。
「ここじゃねえよ。もっと小さな橋だ。確か花水橋はなみずばしっていう」
 成郎吉はなぜか慰めていた。
「ええ、分かっています」
 津多は本当は別のことを考えていたようだ。自分の行く末なのか、家のことか……。
「様子を見に行こう、日本橋にほんばしだ」
「日本橋……ああ」
 津多も成郎吉の思惑が分かったようだ。

 日本橋の呉服問屋福多屋ふくだやはそれなりに大店おおだなだった。ここの娘のおふねが、お得意様の旗本屋敷に奥女中の奉公に出たというわけだ。
 津多を近所の汁粉屋しるこやに隠して、成郎吉は店を窺った。侍が慌ただしく出入りしている様子もなく、丁稚でっちや番頭が客の相手をしている。
 裏に廻ると、たすき掛けの娘が掃除をしていた。ぽっちゃりと色白で、左の頬にほくろが三つ並んでいる。津多から聞いた特徴と一致する。
 おふねだ。
 成郎吉はしばらく周囲を窺う。おふねのそぶりに落ち着きがなさそうに見えたが、誰かが見張っている様子もない。
「おふねさん、だろ?」
 声をかけると、おふねが肩をびくりと震わせ成郎吉を見た。顔色が変わっている。
「あんた……誰?」
 職人姿の成郎吉を、上から下まで眺める。成郎吉は沈黙で答えた。
「見つかった……の?」
 やはり、探しに来ていた。津多が頼るのはおふねだと、家人かじんも思ったのだ。
「いや……」
 成郎吉とおふねはまた、見つめ合った。互いに探っている。信じていい相手なのか?
「姫さまはどこに……」
 おふねの心からの問いに、成郎吉は小さく笑ってこっくりと頷いた。
 おふねは胸に手を当てて、「よかった」と大きく息を吐いた。

 成郎吉は大島町の自分の店の障子戸を、「けえったよ」と開けた。
 ウニャアとクロが起きてきて、いつものように、いっぱいの伸びで迎える。そのまま、成郎吉の足に何度も頭をすりつける。
 成郎吉はどかりと腰を下ろして、クロの頭を撫でた。
――なんて一日だ。
 そう呟いて、懐から「朧月猫のさうし」を取り出した。
「クロの飼い主のニャロウ様に」
 と津多が、日本橋の汁粉屋で別れ際に渡した。成郎吉はぼんやりしたままで、「ああ」と受け取り、礼も言わなかった。
 横で心配そうに、そしてず~っと「こいつは誰なんだ?」という問いかけを、顔に貼り付けたおふねが見つめていた。
 成郎吉はもちろん、津多もおふねに一切を語ってはいない。それがいつの間にか、暗黙で交わした約束になっていた。
 おふねの元に来たのは、父でも用人でもなく、母親だった。
「奥方様は泣きながら、お嬢様の思いを叶えると申されました。奥方様も高橋様を嫌っておいででした。おのれの命をかけても、この縁談は破談にしてみせると。ですから、どうかお家にお戻り下さい」
 おふねは涙まじりに津多に告げた。
「ほっとしたぜ。それがいい、けえんな」
 成郎吉は強がるしかない。かなりの長い間津多は黙っていたが、
「はい。そうします」
 涙に濡れた瞳を真っ直ぐに向け、かすかに笑みを浮かべ、そう告げた。
 そうして、あっさりと別れてきたのだ。
 夕陽が雲を分けて急に差し、障子を赤く染めた。クロの立ち姿が赤い光の中に浮かび、黄金色の二つの目が反射する。
「ちくしょうめ、俺はバカだよな」
 夕陽に背中を叩かれたみたいに、成郎吉は突然、ウオンオンと大声を上げて泣いた。
 クロは両の目を一度閉じたが、すたすたと成郎吉の側まで来た。
 両足を膝に乗せると、顔を伸ばして、成郎吉の頬に流れる涙をペロペロと嘗めた。
 成郎吉はいっそう悲しくなって、クロを抱いてまた泣いた。


(第5回につづく)

バックナンバー

柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop