双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

白猫志乃しの しのびばたらき
その三~戸隠山とがくしやまの死闘

 戸隠の森はうっそうと深い。
 空は晴れていても、木立こだちの下となると光はさえぎられ、空気も重く、緑の匂いがおりのように沈んでいた。
 が、その空気が斬り裂かれ、ぶるぶると震えている。
 森の木立を駆けている黒い影のせいだ。
 影が猿に見えるのは、その動きだけでなく、毛皮の袖無そでな羽織ばおりに、けものの腰当てをつけているからだ。夏なのに毛皮。
 忍だ。
 猿のような忍一匹だけでなく、その後ろを走る三つの影がある。こちらは柿色かきいろの忍衣装でたくみに包囲網を狭めたり、拡大したりして、標的である猿男の後を追っている。
 猿男の名は佐太郎さたろうという。
 顔も猿顔で、身の軽さがであり、みずからを木猿きざる佐太郎と称していたが、仲間たちからはもっぱら“猿じじい”と呼ばれていた。
 歳は五十半ば、忍としての盛りは過ぎ、動きはいくぶん鈍くなった。しかし、忍としての経験が、一刻(二時間)ほど前の危険の匂いをぎつけ、逃れ出ることを可能にした。
 十数人いた仲間たちの安否を確かめる間もなかった。それよりも、生き残って知らせなくてはならない。
 佐太郎は、とある杉の大木を登りながら振り向きざま、棒手裏剣ぼうしゆりけんを飛ばした。
 手応えがあって、追っ手の一人がうめき声を上げて落ちた。
 致命傷にはなっていないだろうが、ひとまず敵は二人になった。
 この二人から逃れて、猫目ねこめ一族のかしらの家に戻らねばならない。
 杉の大木から伸びる枝を伝い、隣の木に飛び移ろうとした時、両側から同時に手裏剣が飛んで来た。
 佐太郎は右からの手裏剣を羽織の袖で防いだが、左の手裏剣を受け損ねた。
 脇腹に、ズキリと痛みが走る。
 とっさに枝を掴もうとしたが、届かなかった。身体からだが真っ逆さまに落ちていく。
 顔を上げた一瞬、枝にぶら下がる忍びの一人と眼が合った。頭巾ずきんですっぽりと顔を隠しているが、うるんだ瞳で睫毛まつげが長い。
 くノ一だ。
 屋敷の台所で見た女に違いない。
 見かけない顔だったが、下女の一人が、
「おたかさん」
 と呼び、佐太郎の視線が、七、八人いた女たちの中からその女に止まったのだ。が、おたかと呼ばれた女は、佐太郎を見ることもなく、下女たちの中にまぎれた。
 地味ななりだったが、女だけが他の下女たちと違って見えた。肩から首筋にかけて、陽炎かげろうのように女の匂いが漂っていた。
 その姿が脳裏を過ぎたのは一瞬で、佐太郎の身体は、杉木立の地面に叩きつけられた。
 手裏剣の刺さっていない右半身から落ちる。衝撃を弱めたが、肋骨あばらぼねが二、三本は折れている。
 が、瞬時に立ち上がる。
 上から二人の忍が枝を伝わり、降りてくる気配がした。
 今、二人を相手にすれば、間違いなく殺される。
 佐太郎は痛む脇腹から手裏剣を引き抜く。
 自身の血に汚れた星形の十字手裏剣。やはり伊賀いがの忍びだ。
 先に降り立った忍(こちらは男だ)に投げ返すなり、身体ごと突進した。
 手裏剣を避けようとした忍は、佐太郎の思わぬ反撃に防御がわずかに遅れた。
 佐太郎はとっさに抜いたしころで、忍の胸を突いている。
 暴れる忍の足に自らの足を絡ませて、地面に飛んだ。
 が、忍の小刀が佐太郎の背中をえぐる。
 この杉木立の向こうはゆるやかな土手で、その下に小川が流れている。
 佐太郎がいくらか有利なのは、この辺りに土地鑑があることだ。
 転がりながら、忍の心の臓を深々と突く。
 むくろと化した忍の身体で衝撃を弱め、土手を転がり落ちる。
 水しぶきを上げて川に落ちた時に、忍の身体を放り出すと水にもぐった。
 潜るといってもひざほどの深さもない。ただ岩を分かつ急流で、小柄な佐太郎の身体を下流へと瞬時に運んでくれた。
 水面から顔を出すと、あのくノ一が巨岩の上に立っているのが見えた。
 流れ去る佐太郎をじっと見つめている。追うのをあきらめたようだ。
 このまま流れに乗れば、猫目一族の里へと辿たどりつける。
 突如起きた凶事を、お頭に知らせなくてはならない。命をしても。
 が、水を飲み込んで吐き出そうとしたら、また口からドッと入り込む。
 身体が反転し、岩に叩きつけられた。
 胸に水が満ちて、息ができない。
 気が遠くなったが、佐太郎の脳に水をいて泳ぐ一匹の獣の姿がよぎった。
 ――そうだ、あいつは!
 まだ、死ぬわけにはいかない。佐太郎には心残りがあった。
 女房と子ども……ではない。
 女房のおたねは二年前に死んだ。息子の佐平次さへいじは忍ばたらきで上方かみがたひそんでいて、もう十年も会っていない。心残りは、
 ジンきち
 ジン吉は、水を怖がらずに泳ぎ、対岸までなわを張る忍猫だ。
 その技を仕込んだのは佐太郎だ。
 佐太郎が無様ぶざまおぼれ死んだのでは、ジン吉に合わせる顔がない。
 もう一度でいい、ジン吉ののどをひとでしてから、あの世に行きたい。
 口から入り込む水を吐き出し、佐太郎はそれだけを念じて、必死に水を掻き分けた。
 さて、この戸隠村の事件は、天保てんぽう十年(一八三九)の夏のことである。
 前話の成郎吉なろうきちが、「め川田楽がわでんがく」屋の板前、八十吉やそきちを探して井伊家いいけかみ屋敷に忍び込み、“おたか”というくノ一と逢ったのは、四年後の天保十四年の春。
 戸隠の猫目一族と、井伊家の隠密おんみつ“伊賀徒行かち”との因縁いんねん、その端緒たんしよと言える殺し合いが、四年前のこの日に始まったのだ。
 いかにしてそのような事態になったのか?
 簡単に述べておきたい。
 戸隠村は松代藩まつしろはん十万石の領内にある。この時代の藩主はんしゆは八代の真田幸貫さなだゆきつら
 読者は、『双忍そうにん、奉行所へ忍び込む』という章を覚えておいでだろうか?
 本編の二人の主人公、蚤取のみとり屋のおたまと、猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきちが、江戸で遭遇し殺し合いを経て再び双忍となり、妖怪と呼ばれた鳥居耀蔵とりいようぞうのいる南町奉行所に忍び込んだ。あの折、鳥居と密談していた“信濃守しなののかみ”こそが、この幸貫様である。
 このお方は、寛政かんせいの改革の推進者松平定信まつだいらさだのぶの次男で、七代松代藩主真田幸専ゆきたかの養子となり、文政ぶんせい六年(一八二三)、三十二歳の時、幸専様の隠居に伴い八代藩主となった。
 さらに鳥居耀蔵と密談する一年前の天保十二年に、五十一歳にして老中になった。譜代格ふだいかくとはいえ外様とざま大名扱いだった真田家からの、異例の抜擢である。
 ところで、七代藩主の真田幸専様。このお殿様も養子なのである。
 そう、このお方こそが近江彦根おうみひこね藩主井伊直幸なおゆきの九男で、六代真田幸弘ゆきひろの娘を妻として松代藩主となった。
 つまり、七代、八代と続いて婿殿が藩主となったのだ。
 真田家といえば、誰もが思い出すのは、真田幸村ゆきむらこと信繁のぶしげであろう。信繁は大坂おおさか冬の陣の折、散々に井伊の軍を打ち破った。
 苦杯をきつした井伊直孝なおたかは、続く夏の陣で武功をあげ、彦根藩主に収まった(因縁といえばこの時からであろうか)。
 ただ、ご存じのように、真田家は徳川とくがわ方が勝ち残る場合にも備えて、信繁の兄の信之のぶゆきが東軍にくみしていた。
 徳川の世になり、真田家は上田城主うえだじようしゆを経て、松代藩主となった。
 六代、七代と、跡継ぎの男子に恵まれなかったことを逆手さかてにとって真田家は、譜代筆頭の井伊家と、松平家(それも松平定信の子、つまり八代将軍吉宗よしむねのひ孫)という徳川幕府との結びつきの強い家から婿殿を迎えたのである。
 ところで真田家は、戦国期より積極的に忍を使った。そもそも真田氏の祖は、甲賀流忍家こうがりゆうにんけ望月家もちづきけであるとも伝えられている。真田家は忍の血筋なのだ。
 が、戸隠忍者は、そもそもから真田忍軍ではなかった。北信濃にそびえる戸隠山は、平安時代より修験道しゆげんどう行場ぎようばとして知られていて、その流れをくんでいた。
 戸隠山のみならず、黒姫山くろひめやま飯縄山いいづなやま、さらに妙高山みようこうさん白根山しらねさん浅間山あさまやまなど、上信越じようしんえつに及ぶ山々は修験道でつながっている。
 戦国期に最も活躍した各国の忍は、徳川の泰平たいへいの世になり、多くが転身を余儀なくされたという話はした。戸隠忍家もしかり。
 松代藩真田家の領民となり、戸隠忍家は家ごとにそれぞれの生きるすべを生み出した。その中で猫目一族は修験道の流れ、まさに猫が備えているような妖術、幻惑術げんわくじゆつと、卓越たくえつした忍の術を磨いた。
 こうして一族は、信濃はもとより、全国の大名や豪商から高額の報酬で雇われる忍集団となったのはよいが、他の信濃忍家からおそれられるようになり、孤立していたのだ。
 加えて井伊家との確執である。
 井伊家から七代松代藩主となるために来た折、幸専様は側近に伊賀徒行をひそませていた。
 かつて和歌山わかやま紀伊家きいけから八代将軍に収まった吉宗公は、自らの手足となるお庭番を配置した。
 これにならった幸専様は、伊賀徒行を隠密として使った。この策を強化し、まさに吉宗の血を引く八代藩主の幸貫様は、真田十万石配下の忍たちを、ひとつまたひとつと伊賀徒行の支配下に取り込んでいった。
 が、最後に配下に置いた戸隠忍家の中で、得体えたいの知れない猫目一族は、仲間たちからも裏切られたのだ。

 この年、天保十年という年も大きく関わっている。
 天保の飢饉ききんである。
 天保三年を皮切りに、天候不順による冷害や川の氾濫はんらん、暴風雨などが毎年のように繰り返されるようになっていた。
 中でも天保八年は最悪の年となった。前年からの不作に加え、この年も全国的な冷夏となり、諸物価、特に食糧の値段は高騰した。
 信濃地方も山々の村、城下の町村に至るまで凶作となり、食用となるものは草根木皮そうこんもくひに至るまで食い尽くすという有り様となった。
 あまりの飢えぶりに、藩からかゆほどこすなどの措置もとられたが、領内すべての村に行き渡らなかった。村々の百姓たちは、食を求めて町へと流入する有り様だった。
 戸隠村も例外ではなかったが、猫目一族だけはただの一人も餓死者を出さなかった。食糧を調達できるだけの資金と、強いツテを持っていたからだ。
 最悪の天保八年を経て、九年はようやく持ち直し、十年は天候も平穏に戻り、例年なみの豊作が見込める夏になっていた。
 が、人々に根付いた飢えの記憶は、簡単にはぬぐえない。むしろ月日を重ねることで、じわりじわりと恐怖と化して沈殿ちんでんしていた。
 戸隠忍家は猫目一族を抹殺まつさつし、たくわえている資金を奪うたくらみをひそかに進めていた。陰で糸を引いていたのが、彦根井伊家より来た伊賀徒行の忍びだったのである。
 その日、村人たちの集まりが、戸隠村の庄屋宅で行われた。忍家だけでなく、主だった百姓や商家のあるじも参加することになっていた。
 毎年この時期、秋祭りの運営や新たな村の決めごとについて、話し合いがなされていた。
 特にその年は、数年来続いていた飢饉への新たな備えや、後始末の役割分担が議題になるという通達が猫目一族にも来ていた。
 猫目一族の集落は、庄屋の屋敷から最も遠い戸隠山の奥社の周辺、鳥居川とりいがわ沿いに散らばっている。
 猫目の頭は、たちの悪い夏風邪なつかぜで参加せず、若頭格わかがしらかく清治せいじが佐太郎を補佐として、主だった者十名余りを引き連れて行った。
 特に今年は、猫目一族には風当たりが強くなりそうな予感が、佐太郎だけでなく一行の誰にもあった。
 佐太郎は、他の忍家が押しつけてくるだろう要求(すなわちまとまった金子きんすだ)を頑としてはねつけるべきだと主張していたが、清治は歩み寄りを模索していた。猫目の頭は清治に一任していた。
 ちなみに、戸隠村にいくつもある忍家は、表立っては百姓であったり、きこり木地師きじし、マタギ、炭焼きを営んでいる。猫目一族はこれに加えて、山伏やまぶし加持祈祷かじきとう遊行師ゆぎようしとして村に定住していない者たちもいた。
 松代藩のろくむ武家の中にも忍びはいるが、表向きの身分は普請方ふしんかただったり、書物役かきものやくだったりする。
 猫目の頭はもしかしたら、独特な勘でその年の不穏な空気を感じとっていたのかもしれない。
 頭は左目を常に赤銅色しやくどういろ眼帯がんたいで隠していた。ひとたびその眼帯を取ると、猫の眼のように色を変え、瞳孔どうこうの大きさを変える不思議な眼が現れた。
 この眼で見つめられると、心が読まれ、あやつられると言われていた。この眼ゆえに、妖術使いの猫目の頭と畏れられていた。
 佐太郎たち一行は、庄屋の屋敷の一番奥、控えの間とやらに案内された。
 そこには酒と焼き岩魚いわな、山菜のひたしといったさかなの膳が用意されていた。
 質素ながら、いつもと同じもてなしだったが、佐太郎は膳を見るなり胸騒ぎがした。
かわやに行く」と告げて、佐太郎はきびすを返した。ふところの手裏剣を手にしている。
 いつもと同じだが、いつもと同じなのが妙におかしい。そういえば寄り合いは、一昨年も昨年も、飢饉を理由に開かれなかった。
 佐太郎は部屋を出る際、清治に目配せをした。
 清治も膳の前に座りながら、わずかにまゆを寄せていた。
 佐太郎の懸念をとっさに理解した清治は、一同に懐に秘めた忍具にんぐをいつでも出せるように合図を送る。
 佐太郎は厠を探すふりをして、屋敷内を探った。その折、台所の前を通りかかり、おたかという女を見たのだ。
 庄屋の屋敷をひとまわりしたが、特に異常はなかった。
 が、やはりおかしさに気づいた。
 佐太郎は一行が案内された部屋へと走った。
 猫目一族しか招かれていない。それ以外の客たちはどこにもいない。
 佐太郎が辿りつく前に、叫び声とともに部屋の戸板が吹き飛び、清治が転がり出た。
 佐太郎はとっさに、物置部屋に身を潜めた。数十人の武装したさむらいや忍が、控えの間を取り囲んでいた。
 侍たちはすでに剣を抜いており、忍たちも得物えものを手にしている。
 飛び出した清治に、侍が剣を振るった。
 清治は侍に小刀を飛ばすと同時に、煙玉けむりだまを廊下に叩きつけた。
 パンと弾ける音と共に、白煙が周囲に舞い上がった。
 戸板が次々と飛び、仲間たちが反撃しているのが見えた。
 佐太郎は白煙に紛れ、襲撃者たちの背後へと廻った。
 手裏剣を投げようとした手が一瞬止まった。
 ――ろくあにい!
 清治が対峙たいじしている相手の顔が見えた。
 戸隠忍家のひとつ、羽根はね一族の頭の六兵衛ろくべえ。佐太郎の義兄だった。二年前に亡くなった女房おたねの兄だ。
 羽根一族は、猫目一族を何かとかばってくれていた。その六兵衛が顔見知りの清治を殺そうとしている。
 混乱を通り越して、怒りの炎が一気に燃え上がった。
 が、清治が六兵衛の背後にいる佐太郎に気づいた。
 ――構わずに、行け!
 と、その眼が告げていた。
 清治の視線を追った六兵衛も、佐太郎の姿をとらえた。
「そいつを逃がすな!」
 六兵衛が叫ぶ。
 佐太郎は身をひるがえし、植え込みから跳躍ちようやくした。裏木戸を蹴り飛ばすと、裏庭を突っ切る。
 うかつにもわなまったが、習慣から逃げ道は確かめてあった。怒りを押し殺し、ひたすら駆けた。
 行く手に侍が二人いて、佐太郎を見るなり剣を抜いた。佐太郎は手裏剣を飛ばし、庄屋家の軒に跳躍した。軒から街道裏の路地に降り立ち、森を目指して突っ走った。
 森に入ろうとした時に、三人の忍が追ってくるのに気づいた。

 傷を負った佐太郎が戻る前に、猫目の頭は異変を察知していた。
 庄屋の屋敷がある方角の空に、黄色の狼煙のろしが上がっていた。
 寄り合いに出た誰かがいたのだ。
 その色の狼煙は、「襲撃された」という合図だった。
 頭は配下の下忍げにん五人を呼んだ。
 その前に、下女のおはなに赤色と緑色の二つの狼煙を上げさせている。
 赤は、散らばっている残りの一族の者たちに「戦わずに逃れよ(それもできるだけ遠くに)」という指令だ。
 そしてもうひとつの緑色の狼煙は、猫目一族だけに取り決められている特別な指令だ。
「猫を放て!」
 である。
 各家々で飼われている一匹から七、八匹の猫たちを家から外に放つ。首に鈴をつけている猫は首輪を外して。
 猫目一族にとって、猫たちは命と同じだ。自分たちが逃れる前に、猫を自由にすることで、訓練された猫はひとまず森に隠れる。
 家々が襲われるのに、わずかな時しかないだろう。
 下忍たちには、かねてよりの打ち合わせどおりに、村の要所に物見ものみに行かせた。襲撃者と遭遇したら、それぞれ音色の異なる笛で知らせることになっている。
 下忍は敵と遭遇すれば、笛を鳴らした後で戦うことになる。命を投げ出して、できるだけ時間を稼ぐのが次の任務となる。
 頭は全身を忍装束しようぞくで固めた。袴にはばきをつけ、革の手甲てつこうを締める。
 背中には背負い袋、腰に忍び刀を帯びる。
 そして最後に左目を隠していた眼帯を外した。
 頭には家族はいなかった。下女のお花と、年もバラバラの下忍たちを住まわせているだけ。猫も半年前まで一緒だったアカが、天国に召されてからは飼っていなかった。
 手甲脚絆きやはんという旅の姿となったお花も、頭に一礼すると森へと消えて行った。
 頭の左目がふっと色を変えて光った。隣の小屋をじっとうかがうと、ひたりひたりと草鞋わらじの音をさせて近づいていく。
 戸をスッと開けると同時に、呻き声が聞こえた。
「お、おかしら、す、まねえ……今、うかがおうと……」
 土間の暗がりに座っているのは佐太郎だ。濡れた着物のままで、ひざに茶トラ猫のジン吉を載せていた。
 ジン吉の喉を撫でながらも、佐太郎の顔はすでに土色を通り越して白い。
「いいんだ。ご苦労だったな。よく、ここまで辿りついた」
「い、が、者。くノ一の、おたか……六あにいも……」
 佐太郎は息を継ぎながら、ようやくそれだけ言った。
 その時、二人の息がひたりと止まった。
「ようやく帰ってきたか」
 頭の背後に、ゆらりと白い影が音もなく降り立った。
「志乃さま……」
 佐太郎が顔をゆがめて最後の力で笑ってみせた。
 白猫志乃の白い髪が、風もないのにふわりとふくらんだ。
 次の瞬間、志乃は猫目の頭を飛び越えて、佐太郎の前に立っている。
 佐太郎の眼は喜びに満ちていた。
 膝のジン吉も志乃を見上げて、ニャアンと甘えた声を出す。
 佐太郎と女房のおたねは、赤子あかごだった志乃を親代わりとなって育てたのだ。幾代いくだいもの猫たちと共に。
 志乃は佐太郎のほおを右手で撫でた。
 それを合図にしたかのように、佐太郎はもう一度ふいと微笑ほほえむと、カクリとあごを落とした。
 ミャ、とジン吉が鳴いて、佐太郎を見上げた。ジン吉の眼がせつなく濡れて淡い光を放っている。
「おめえも逃げな」
 頭はジン吉の身体を持ち上げると、土間にひょいと置いた。
 ジン吉は土間から外へとスタスタ歩いていく。一度も振り返らずに。
 息をしなくなった佐太郎を前に、志乃と頭が立ちつくしている。
 頭は光の変わる左目で志乃を凝視ぎようしした。
 その姿が白描と化して、怒りの炎に包まれている。
(第38回へつづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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