双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著


猫小僧成郎吉ねここぞうにゃろきち 盗みばたらき
その一~黒猫盗人ぬすっとにゃろきち、参上

 月夜に遠吠えが聞こえる。
 むろん猫じゃなく、いかにも間抜けそうな犬の声で、江戸の町は眠ったままだ。
 数町離れたあたりから、応じた別の犬の遠吠えが聞こえてきた。これを合図に犬たちの「俺はここだぜ」の叫びが繋がっていった。
 最初に遠吠えを発した主が、耳を澄ましている。犬ではなかった。
 なにしろこいつは、武家屋敷を囲む築地塀ついじべいの小屋根の上にしゃがんでいる。屋敷内に植わっている松の木が小屋根を覆っていて、姿は見えないのだが犬ではない。大体、犬は壁の下のほうで片足上げて用は足しても、上に座ったりはしない。
 屋根の上を歩くのは猫くらいで、こんな夜中に座っているのが人間だとすると、表どころか後ろ暗い稼業に決まっている。
「よっしゃ、クロ、番犬はいねえぞ」
 男の呟きに、首からぶら下がった袋から、黒い固まりがニョキと現れ、ニャロウっと答えた。
 本物の猫もいた。松の葉の隙間から漏れる月の光に、両の金色の眼が美しく輝く。
 クロと呼ばれた黒猫は男の名前を呼んだ、とも聞こえる。
 男は「成郎吉」と書き、きちんと読むと「なろうきち」だが、気が短い江戸っ子は誰も「なろ~うきち」なんて呼ばない。舌の廻る人で「なろきちさん」で、おおかたは「にゃろきち」か「にゃろきっつあん」で、なかにはただの「にゃあ」である。小柄で見た眼は十八、九に見えるが、二十三才になる。
 さて、後ろ暗い稼業の成郎吉は、クロ入り袋を下げ、番町ばんちょうのとある旗本屋敷に忍び込もうとしているわけだ。この広さなら石高こくだかは四千石くらいか。盗み易そうな屋敷である。
 築地塀の上から松の枝を伝って庭に降りる。塀に沿って植木が並び、手入れの行き届いていない植え込みが続く。こういう屋敷ならなおさらいい、泥棒にとってだけど。
 昼間の雨で地面がまだ濡れていた。その向こう、屋敷の瓦屋根が月の光を浴びている。
 成郎吉は音もさせずに近寄ると(おっ、こいつは猫歩き!)、ゆっくりと周囲を窺う。
 草木も眠り、妖怪と泥棒跋扈ばっこ丑三うしみつ時。
 屋敷の中の住民も寝入っているようだ。
――さて、さて、どこから入るか?
 成郎吉は、袋の口を開けると、黒猫がストンと降りた。長い尻尾を垂直に立て、全身で伸びをする。
 クロの出番だ。
 しなやかな身体でひょいと水たまりを飛び越えて、屋敷の軒下へと入っていく。初めての家なのに、勝手知ったる我が家という風情。猫ははるかに、人間以上の能力をあれこれと秘めているのである。
 追いかける成郎吉は、さすがにクロのようにはいかないが、入りくんだ縁の下を巧みに追いかけていく。
 一寸先も見えない闇ながら、蜘蛛の巣をはらい、埃を立てないよう、吸わないように、成郎吉はクロの後を追う。頼りは鼻と耳、養った経験と勘だ。
 ニャアとかすかな鳴き声がして、クロが見上げていた。わずかに光が漏れている。
 クロが教えてくれた板をゆっくりと押すと、カタッと小さな音を立てて外れた。すぐさま中に入ろうとするクロの身体を抑え、成郎吉は耳を澄ます。
 この部屋には誰もいない。
 ゆっくりと三枚の床板を外すと、成郎吉も通れる穴となった。先に忍び込んだクロは、好奇心丸出しで、動き回っている。
 縁の下の闇から比べると、行灯あんどんを並べたくらいに思える。真っ黒な固まりが土間をスルスルと動いている。ぎんなんを思わせる両目で、猫だと分かる。
 台所に続く板場で、味噌の匂いがおりのように沈殿している。ここには金目のものはなさそうで、成郎吉はスタスタと長い廊下を歩いて、屋敷の奥へと入っていった。
 途中の部屋からぐぐぐと複数のいびきが聞こえる。女中部屋のようだ。
 その先に奥方おくがたの住居空間が続く。
 成郎吉が当たりをつけて一室に入ると、違い棚の並ぶ居間だった。障子を通した月の光が成郎吉の影を作った。
 今夜の仕事は今のところ順調だ。クロはいつものように勝手に屋敷の中を散策している。撤退する時に、呼べばちゃんと戻ってくる賢い猫だ。
 成郎吉はこうやって相棒のクロと盗人稼業をしている。少し前に鼠小僧ねずみこぞうという名前で処刑された盗人の有名人がいたが、成郎吉が名乗るならば「猫小僧」以外にない。
 ただ、盗人に異名なんぞは不要だ。ましてやその名前を世間に広めるなんぞ、愚の骨頂である。できるだけ目立たずに、細く長く続けることが生き残りの秘訣なのだ。
 戸棚の上に手文庫が置いてあって、小判が数枚と豆金まめきん豆銀まめぎんが雑に放り込まれていた。その中から小判を一枚と、銀貨、金貨を見繕って自分の袱紗ふくさに入れる。
 こういう家への盗みは、全部を持っていかないのが成郎吉の流儀だ。八~九両くらいにしておく。
 商家に入った場合は、あるだけいただく。帳簿をしっかりつけている商家だと一、二分でも金庫からなくなると、大騒ぎになることが多い。どうせ盗人の仕業と知れるならあらかた貰っていく。
 ところが武家はいい加減で、こういう管理をしているところは、数両なくなっても気づかずに済まされたりする。鼠小僧が捕まるまで、総額数万両盗んでいたというのは眉唾まゆつばもんだが、武家屋敷専門だったからだ。
 成郎吉は、今夜の成果を懐にしっかり納めると、浮き足立つ気分で、でも音をさせない猫走りで台所へと戻っていった。
 台所自体がひっそりと眠っている。鍋やらおけやらかまどやらの寝息が聞こえそうだ。ということはクロはここからどこかに移動した。
 チチチチチと小さく舌を鳴らして、耳を澄ます。ヒタヒタヒタとクロの足裏が床を歩く音が……
 ありゃ? 聞こえない。
 もう一度、チチチチチチチと少し強めに。
 やっぱり反応がない。
 前にもこういうことがあった。大きな屋敷でずっと奥へと迷い込んでいた。飼い猫と出会って、じゃれ合っていたこともあった。
 成郎吉は左右の長い廊下に両手のひらをついて、頬を近づける。こうすると、猫がつけた梅型の足跡が見える。
 左だ。ずっと奥へと続いている。
 クロのやつ、どこまで行った……
 成郎吉の足が止まった。
 一室からゆらゆらと灯りが揺れていた。誰かが起きている。しかもクロの足跡はその部屋の前で消えている。
 襖が二寸(約六センチ)ばかり開いていて、灯りの帯が廊下に長く伸びているのが見えた。
 成郎吉が近づいたのを察したのか、クロのニャロウという声が聞こえた。それだけじゃない、グルグルと喉を鳴らしていやがる。
 クロが成郎吉以外の人間に喉を鳴らすことは、めったにない。長屋の煮売り屋のおけいくらいだ。
 どうしたものか……
 成郎吉は仕方なく部屋へとじわりと近づいた。グルグルと喉を鳴らす音がはっきりと聞き取れるほどに静かだ。チリチリと行灯の油が燃える音も聞こえる。
 光が漏れている襖の隙間に顔を近づける。
 かすかに白粉おしろいの匂い。若い女の部屋だ。金屏風きんびょうぶと、蒔絵まきえ造りの鏡台が見える。
 首を前に伸ばした瞬間、黒々とした二つの瞳とばっちりと合ってしまった。それがクロの金色の眼だったらどれほどよかったか。
 十五、六くらいの若い女が、まばたきもせず成郎吉を見つめていた。泣いていたのか、白眼が少し赤い。膝に抱かれたクロは、娘に喉を撫でられ、目を細めている。
 成郎吉はじりじりと腰を落とした。娘が叫ぶと同時に……
 が、娘は黙ったまま見つめている。そのまなざしが蜘蛛の糸となって、中腰のままの成郎吉の身体を縛り上げたようだ。
 奇妙なのは娘のいでたちだった。夜着とかでなく、黄八丈きはちじょう小袖こそでで、細帯、白い足袋。
ごていねいに赤い鼻緒はなおの草履まで膝の前に置いてある。これからどこかに出かける町娘といった風情だ。
 けれども、町娘であるはずがない。鏡台ひとつ見ても、部屋の主がこの娘に違いなく、お屋敷のご当主の娘、すなわちお姫様ということになりそうだ。
 前にも一度、しくじったことがあった、厠から出てきた奥女中と、廊下で出会い頭に遭遇してしまったのだ。
 むろんその時の奥女中は、黒ずくめで頭巾姿の曲者を見て、悲鳴を上げようとした。成郎吉はとっさに女の口を塞ぎ、当て身で気絶させ、猿ぐつわを噛ませ、後ろ手で縛って、納戸に放り込んでとっとと逃げた。
 どう考えても、この娘はおかしい。
「この、猫は、お前、の、猫かい?」
 娘は一語一語を区切って囁いた。
「あ~、うん、俺、の、だ」
 思わず成郎吉も、区切って答えた。
「お前は賊であろう?」
「……う~ん、そうみたい」
「名はなんと申す?」
「……」
「お前ではない。この猫だ」
「あ、クロ」
「クロや、お前は人質、いえ、猫質ねこじちだぞ。クロでなくコマと呼ぼう」
 娘は玉を転がすというより、笹の葉を落ちる水の雫のように告げ、クロの喉を撫でた。
 何でコマなのか?
 コマにされたクロは、二人の間の気配を察したのか、喉を鳴らすのをやめていた。それでも、娘の膝からは動こうとしない。
 時々だが成郎吉は、猫を相棒にしたことを後悔する。犬と違ってはるかに言うことを聞かない。何を考えているか想像を超える。今だってまさにそうだ。
 成郎吉はそれでも忍者上がりである。ひとっ飛びなのだ、襖を開けてクロの背中を右手に抱え、左手で撫でている娘まで……。
「私は叫び、コマの首をひねる」
 娘は、成郎吉の思いを読むように笑った。あの折の女中のようにはいきそうもない。
「どうしろと?」
 頭の中でからくり時計の歯車みたいに、成郎吉なりに思考を廻し、娘のいいなりになることにした。ひとまずだ。
「頼みを聞いてくれれば、コマは返す」
 娘は鼻を猫みたいにひとかきすると、にっこりと笑った。
 か、かわいい……。
 成郎吉の心の臓が、秋風にそよぐ柳の葉くらいにユラリと揺れた。
 ということで、(って、どうもありえない経緯いきさつなのだが)成郎吉は築地塀の前で、娘を背負うはめになった。
 ここを越えるには背負うしかない。娘の胸のふくらみを背中に、ほの甘い香りを鼻に、息づかいを頬に感じて、成郎吉は一瞬、深夜の旗本屋敷にいることを忘れた。
 ニャロウという鳴き声で我に返った。
 娘は背中にクロの入った袋を背負っている。
 成郎吉が首から下げようとしたのだが、娘は「猫質だから」と離さず、まるで親ガメの背中に、状態となっている。
 成郎吉は子どもの頃の忍者村での修行を思い出した。石の詰まった俵を背負って山野を駆け巡る。最初にヘタるのは決まって成郎吉で、師匠から鞭で叩かれた。
 来たとおりに塀を越えようとしたら、娘があっちと指した。数間先で塀が半分くらい崩れていた。ここなら、娘だって乗り越えられるじゃないか!
「着物が汚れます、ねえコマ」
 娘は人の心が読めるかように言う。コマと呼ばれたクロがニャンと続ける。
――お前はいつの間に、娘の猫になりやがったんだ……
 と口の中で呟くと、ニャゴニャゴとクロは何事か主張している。
 東の空がかすかに明るい。まだ夜明けまで一刻(二時間)近くある。町家あたりだと、豆腐屋が起きて水汲みを始めたりする。あるいは夜っぴきで屋台を担いでいた夜鳴き蕎麦屋が、店じまいをして帰ろうとする頃だ。ここは武家屋敷が並ぶ一角で、まだまだひっそりと眠ったままだが。
 町家だろうが武家町だろうが、猫入り袋を背負った娘を、背負った男なんているはずがない。ま、昼間でもそんなのはいないが。
 裏路地からまだ暗い表通りを覗き、誰もいないのを確かめて、娘を背中から下ろす。
「ここでいいだろう。クロをけえしな」
 暗いはずだが、娘の三角になっている眼と尖った口が見えた気がする。
「ここじゃ、すぐ見つかります。どっちに行けばいいかも分かりませぬ」
「知ったことか」
 成郎吉が背中の袋に手を伸ばそうとしたと同時に、「たすけ~」と、脳天に抜けそうな悲鳴が娘の口から飛び出した。
 慌てて成郎吉は、娘の身体を抱き寄せ、口を塞ぐ。潰されたクロが「ウギャアン」と袋から飛び出し、木立こだちのほうに走っていった。
「おい、クロ! あ、イテ! この」
 娘の口を塞いでいた右手が噛まれた。
「無礼者!」
 成郎吉が当て身を繰り出そうとするより早く、娘の右手の拳がみぞおちに食い込んだ。
 抱きかかえたまばたきほどの瞬間、小娘とは思えぬ女の匂いと柔らかさを感じた。そんな甘い芳香も消し飛んで、成郎吉は腹を抑えてしゃがみ込んだ。
 イデッ、イデデ、と息を吸いつつ、怒りとなさけなさで顔を上げる。娘は逃げようともせずに、成郎吉を見下ろしていた。
 なんてこった、すっかりなまっちまってる。昔の俺なら、小娘にこんな目に合わされるはずもない。それよりもクロを人質、いや、猫質に取られた時に、相棒を見捨てて逃げるか、娘の命も容赦なく奪っていたはずだ。
 成郎吉は娘に背を向けて、クロの消えたほうへと飛んだ。
 その距離は二間(約三・六メートル)近い。娘の前から消えたように見えたはずだ。
 成郎吉は一時も早くこの娘と離れたかった。相棒の名前だけで、自分の素性も知られていない。クロを見つけて消えてしまえば、二度と会うこともないわけだ。
 武家屋敷の跡だったのだろう、木立こだちと雑草が生い茂った一角に成郎吉は身を潜めた。娘は完全に成郎吉を見失ったはずだ。
 耳を澄ませて、様子を伺う。通りに娘の影は見えない。よし。ようやく厄介やっかい女と離れられた。あの旗本のお姫様が何をしたかったのか、ほんとうに知ったことではない。
 チチチチと舌を鳴らし、成郎吉は耳をそばだてた。はぐれたことは前にもあったが、必ず成郎吉は相棒を見つけて連れて帰った。
 ほら、聞こえた。猫の足裏が草をさくさくいわせて歩くかすかな音。
 成郎吉は静かにその方向へと移動する。サルスベリの木のあたりだ。ミャアと鳴き声がした。よし。
 つるりとした木の肌を手のひらで撫ぜて、ゆっくりと回る。いた!
「コマ、私が見つけましてよ」
 娘がクロを胸にしっかりと抱いて笑った。木陰の闇の下で、娘の白い歯が光った。
 ニャロウとクロが鳴いた。


(第4回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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