双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきち 盗みばたらき その五
盗人籐吉ぬすつととうきちに弟子入りする

 一月ひとつき後、日本橋本石町にほんばしほんこくちよう煙草問屋大木屋たばこどんやおおきやが、四人組の賊に襲われた。
 何度目かの木枯らしが、江戸の空からぐに吹き下ろす寒い夜で、大木屋は表通りの戸口はむろん、裏庭に面した座敷の雨戸もきっちりと閉じていた。
 むしろ閉じきっていたせいで、大木屋のあるじ夫婦に三人の子ども、住み込みの番頭や小僧、女中など十数人が、縛り上げられたままで、朝まで気づかれなかった。
 早朝、明け六つ(午前六時)前に、店の小僧が入口の錠を開け、店前の掃除をするのだが、その朝は六つを四半刻(約三十分)過ぎても、寝静まったままで、隣家の小僧が異変を察知した。
 小僧が店をぐるりと廻って入口を探したが、どこもぴったりと閉じられていた。戸を叩いても応答がない。
 通い番頭が出勤してきて、入口の錠を外し、広間でさるぐつわと荒縄あらなわで監禁された主たちを発見した。
 地元のおかぴきを経て、葛山三五郎くずやまさんごろうという定町廻じようまちまわりの同心が呼ばれた。
 ちょうど大木屋は、煙草買い付けの金子きんすを調達したばかりで、八百両余りが盗まれた。賊は金以外のものにはまったく手を付けず、店の者を縛り上げたが、危害は一切加えていなかった。あまりに鮮やかな仕事ぶりに、
「たいしたもんだな」
 と葛山は思わずつぶやいた。
 賊はどこから侵入したのか?
 また、その夜、大木屋に大金があるのを知っての上で押し込んだのか?
 葛山は主の平次郎から順に尋問をしたが、賊を手引きしたような店の者はいそうもなかった。
 ともあれ、賊の出没はこうだ。
 店の者が全員、寝静まっていた丑三うしみつ時(午前二時頃)に、燭台しよくだいが店頭や廊下に掲げられた。
 寝ぼけまなこの小僧があかりに気づき、起き上がった。刹那、喉元にキラリと光る匕首あいくちが突きつけられていた。黒装束くろしようぞく頭巾ずきんの男が二人、灯りの下に立っていて、匕首を持たないもう一人が、たちまち小僧を後ろ手に縛り上げた。
 それから後ろ手の小僧は、頭巾男に命じられるままに、店の者を順に起こしてまわった。もう一人の男が手際よく縛り、広間に彼らを集めていった。
 首領らしき頭巾男が、小僧の耳元で、「次だ」と告げるだけ。
 人数を数えていたというから、その夜、この家にいる使用人の数も知っていたことになる。
 実際、最初の小僧に首領は、
「泊まり客はいねえな?」
 と確かめたという。
 賊はこの二人と、もう二人いて、一人は屋敷裏の二つの蔵の戸を、主から奪った鍵で解錠して、隠していた金を見つけ出していた。
 もう一人の姿は誰も見ていない。ただ、帳場の壁に埋め込まれていた金庫の錠を、何かの機具を使って開けていたらしい。その音を広間に集められた店の者が聞いていた。
 この金庫の鍵は、用心のために通いの番頭が持ち帰ることになっていた。
 かなり頑丈がんじような錠だったが、賊は四半刻(約三十分)もかからずに開けたという。
 八百両の半分はここに入っていて、残りの四百両は主の寝所と、蔵の中の手文庫に分けて置かれていたが、全部持っていかれた。
 そうして、表口から堂々と出ていき、主から奪った鍵で外側から錠を掛けていった。
 葛山は店の周囲を調べて廻ったが、外から無理にこじ開けたような跡もない。
ねずみ小僧なら、屋根からかわらいだり、天窓から滑り込んだりしたらしいが……」
 と屋根を見上げて呟いた。

 鼠小僧次郎吉じろきちが捕まったのは、成郎吉が江戸に来る十年ほど前になる。次郎吉自身、捕まるまで十年間の盗人稼業だった。
 忍び込んだ屋敷は九十八カ所、回数は百二十数回と言うから、二度以上、忍び込んだところがあるわけだ。盗んだ金は三千両とも一万両とも言われている。
 ただ、葛山の「鼠小僧なら」という見方は、半分間違っている。次郎吉は、もっぱら武家屋敷専門で、商家にはほとんど盗みに入らなかったからだ。盗人になる前に次郎吉は、武家屋敷に出入りする建具師だった。仕事を通して屋敷の造りに熟知するようになり、それが盗みにかされた。
 加えて商家の厳重さに比べると、武家屋敷はすきだらけだった。身軽な次郎吉は、武家屋敷の屋根に簡単に登れたし、鍵など掛かっていない天窓や明かり取りから、するするともぐり込めた。
 盗みに入った屋敷や回数、金額とも、次郎吉が自身の記憶を辿たどってなされた自白なので、確かではない。もっと多かったのかもしれないし、どうせ処刑されるならと、見栄みえを張ったのかもしれない。
 鼠小僧次郎吉について、籐吉はいかにも懐かしそうに語る。
「さあな、どっちだったか、俺も知らねえや。アニイが盗んだのは、三千両か一万両か」
 どぶろくの入ったぐい呑みを傾けながら、籐吉はふふふと笑う。大きな盗みが成功し、気がゆるんだのか、酔いの廻りが早い。
「そんなことはどっちでもいいんだ。俺にとっちゃあ、アニイはたった一人のお師匠様ってやつだ。で、こっちは神様だ」
 と背中を成郎吉なろうきちに向けようとする。背中の刺青いれずみに描かれた人物のことだ。
 成郎吉はむろん、有名な大泥棒の伝説は知っていたが、描かれたイガグリ頭の男が、石川五右衛門いしかわごえもんだと知らなかった。彼を描いた浮世絵を見たことがなかったから。
「籐吉さんは、どのくらい鼠小僧の次郎吉さんと?」
 籐吉は一時、次郎吉の弟分として盗みを手伝っていたという。
「二年だな。捕まる三年くらい前に、アニイが『これからはおいら一人でやる。おめえも一本立ちしな』って、ま、盗人として俺も晴れて一人前になったってことよ」
「一人前の盗人、晴れて?」
 成郎吉は籐吉にしやくをしながら、笑いをこらえる。
「なんでえ、おかしいか?」
 と籐吉が言うと、すぐ横で手酌で飲んでいた亀五郎かめごろうが、鼻の穴をふくらませた。
「あっしは、親分にそう言われても、離れませんぜ。なあ、つる
「うん」
 と鶴助つるすけは小さくうなずくだけ。この男は大抵「うん」か「うんにゃ」としか言わない。下戸げこだとかで、茶を飲んでいる。
「親分はやめろ、って言ってるだろ。籐吉さんでいい」
 と籐吉が赤い顔でつばを飛ばす。
 ここにいる二十歳はたち過ぎの亀五郎と、年齢不詳の鶴助が籐吉の子分だった。
 大木屋の盗みで、蔵や主の寝所の家捜しをしたのが亀五郎。籐吉にぴったりくっついて、使用人たちを縛って廻ったのが鶴助だ。
 この鶴助は忍者崩れに違いない。あの手早くてほどけない縄の使い方や、さるぐつわのませ方は、しのびの訓練を受けた者の技だ。
「本当はよ、通い番頭の家を襲って縛って、金庫の鍵を手に入れてから忍び込むっていう筋書きを書いていたんだ。用意していた錠前破りがどじったからな。その手間をおめえが加わってくれて省けたぜ。まあ、飲めや」
 と成郎吉のさかずきにどぶろくを注ごうとする。
「あ、もうおいらは、そろそろ」
 成郎吉は盃を伏せようとした。さっきから何度目かのやりとりだ。
「なんでえ、女でも待ってるのか?」
「ええ、まあ……」
 成郎吉は照れたふりをする。いっそそう言えば、解放してくれるかもしれない。
「女なんぞ、待たしておけ。いいか、この稼業は、いつ何時、戻れなくなるか分からねえんだからな」
 と籐吉は成郎吉の盃を満たす。
 籐吉は男が惚れ込むほどの侠気きようきを備えているが、酒癖の悪いのが玉にきずだった。
 成郎吉を待っているのは、隣のたなのおけい、ではなく、もっとあやしく、愛らしく、成郎吉を翻弄ほんろうする女。そう、長屋に置いてけぼりをくらわせている黒猫のクロだ。今度の一味の盗みに加わったために、丸二日も長屋に帰っていない。
「ま、俺はよ、おめえが気に入ったんだ。見込んだとおりだ」
「ありがとうございます」
「そうだ。俺の教えたことを忘れるなよ」
「はい、けっして」
「なんだ。何を教えた、言ってみろ」
「えっと……」
 実はきっちり覚えていなかった。それでも何とか思い出す。
「一、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。すなわち、欲を掻くと身の破滅。
 二、足跡残すべからず。すなわち、盗むのは金だけ。
 三、人を殺さば末代まで。すなわち、盗みばたらきで誰も殺すな。
 四、毛の先ほども疑い残すべからず。すなわち、ためらうならば、ひとまず逃げよ。
 五、つとめ前からおこたるなかれ。すなわち、支度を怠ることなかれ……」
「そうだ。にゃろきち、おめえは本当に猫みてえだ。身も軽い。次郎吉アニイ並みに素質があるんだからな」
 成郎吉は〝盗人の素質がある〟と褒められて、苦笑いするしかない。半分やけっぱちで籐吉たちの誘いに乗ったが、盗人を本業とするつもりもない(この時はまだ、だけど)。
 籐吉の言葉に亀五郎が、おもしろくなさそうな表情を浮かべる。鶴助は唇も動かさず、何を考えているかも分からない。
「でもよ、亀。おめえの〝もぐら〟があっての盗みばたらきだ。よくやった」
 絶妙な間合いで籐吉にねぎらわれ、亀五郎は嬉しそうに相好そうごうくずす。
 もぐらという呼び名ではないが、戸隠とがくし忍者にも似た技がある。「参差かたたがえ術」だ。参差とは、大小や高低の差のこと。敵が出る時に忍び込み、入る時に忍び出る。そのわずかな一瞬の隙に、気づかれずに敵陣を出入りする技である。
 成郎吉が加わった盗人の籐吉一味は、いかにして大木屋に侵入したか?
 謎解きを(というほどのものではないが)しよう。同心の葛山の探索は見当違いだ。
 昼間の客の応対に大木屋が追われていた時、お店者たなものよそおった亀五郎が客たちにまぎれ込み、隙を見て店の奥に入り込んだ。
 客たちには店の者と見せかけ、店の者からは客の使いかと思わせる。亀五郎はそのまま店の奥へと忍び込み、蜘蛛くもの巣の張った物置に身を隠し、深夜になるまで、小便もせずにひそんでいた。
 外からの合図(その夜は籐吉によるフクロウの鳴き声)で、物置から抜け出した亀五郎は裏口を開けて一味を導いた。それから籐吉と鶴助、そして黒装束に着替えた亀五郎はそれぞれの働きをした。成郎吉の役目は錠前を開けるだけ。
 そして、籐吉一味にはもう一人、欠かせない仲間がいた。
 トンと戸を叩く音がして、座敷にいた四人の身体に緊張が走る。
 続いてトン、トトト、トンと鳴って、一同は肩の力を抜いた。
 それでも、戸の節穴から亀五郎が外をうかがい、確かめてから潜り戸を開く。
 ここは籐吉の浜町河岸はまちようがし近くの隠れ家で、スイと身をかがめて入ってきたのはおゆうだ。賭場とばでのあだっぽい胴師ではなく、商家の御内儀おないぎ然とした髪と地味な格子柄こうしがらの着物だ。
「あんたら、よくやったね」
 入るなりお夕はそう言って、ふいと風に吹かれたように笑った。が、顔を上げるなりまゆを寄せて告げた。
「あんた、ここは引き払ったほうがいいよ」
 お夕は籐吉の情婦だが、一味のかしらは実はお夕なのではないかと成郎吉は思う。
 表向きは、籐吉が亀治郎や鶴助に指示を与える。この二人だけでなく、籐吉の子分筋が関八州かんはつしゆう上方かみがたにもいて、時に応じて連携を取り合うのだという。
 お夕は常に籐吉を立てるが、そうした役目を、二人で演じ分けているようだ。
 煙草問屋の大木屋の内情を、事細かく調べ上げたのもお夕だった。
 賭場での丁半博奕ちようはんばくち壺振つぼふりや、ホンビキの胴師は、お夕の裏の顔で(いや、そもそもこちらが本物の顔かもしれない)、表向きは口入くちいれ屋の女将おかみなのだ。
 ただ、その口入れ屋稼業は別れた亭主にやらせ、女将という立場を利用して、女中や使用人、中間ちゆうげん、職人らを店に紹介しながら、その実情を報告させていた。
 店には斡旋あつせんした者たちをきちんと働かせるために、そして斡旋した者には、店と約束どおりの扱いを受けているかを確かめるためだ、と告げて、お夕は世話した者たちと会っては、店の内情を聞き出していた。
 みな、まさか盗人の下調べをさせられているなんて、露ほども思っていない。面倒見のいい女将さんと信じ切っていた。
 大木屋もその一軒で、斡旋した女中から店の大まかな間取りや習慣、主の平次郎の行状ぎようじようや、夫婦仲まで聞き出していた。そして女房との間に溝があることを知り、平次郎にも接近し、船宿の二階で酒のやりとりをするまでになっていた。
 こうして煙草問屋に大金の集まる日をつかみ、籐吉一味を動かして、ごっそりと頂戴ちようだいしたというわけだ。
 ただ、今回は実行するに当たって、籐吉とお夕には、懸念けねんがあった。盗みには頭の籐吉と、子分の二人以外に、本来はもう一人、浜次郎はまじろうという錠前破りを雇い入れるはずだった。ところが浜次郎は、酒に酔って喧嘩けんかをし、利き腕の指を折ってしまった。
 そこにちょうどよく、まさに天から降って来たのが成郎吉だった。
 成郎吉が忍の者、それもにんだと一目で見抜いたお夕は、仲間に引き入れることにした。
 賭場でホンビキに眼を輝かせる成郎吉のふところが寂しいことはもちろん、その懐のさらに奥、心の中にやり場のない鬱積うつせきや不安が巣くっていることまで見てとった。
 まさか、成郎吉が錠前破りの腕まで、備えているとは、お夕すら思わなかったのだが。
「あの子は天性の盗人だよ」
 とお夕が籐吉に告げたことを、成郎吉は知らない。

「なんでえ、ここが八丁堀はつちようぼりにばれたのか?」
 入ってきたお夕に籐吉の声が震えた。成郎吉だけでなく、亀五郎や鶴助もお夕を凝視ぎようしする。
「嗅ぎつけたのは、左平次さへいじさ。あいつ賭場をめちゃくちゃにされて、あたいたちに落とし前を付けさせようと、あちこちに手を廻して探してたんだ」
「なんでえ、百両じゃ足りねえってか」
大吹屋おおぶきやとお殿様から頂戴したのが、五百両じゃなかったと知ったらしい」
「ちっ、それでここを」
「あたしが口入れ屋の女将だっていうのもばれた。あんたらがここを隠れ家にしているのも知れたようだ」
 二人の会話を成郎吉たちは聞いている。
 賭場で騒ぎを起こして、大吹屋という呉服ごふく問屋と、五千石の旗本のお殿様の有り金を盗み取った。あの賭場の胴元の左平次も承知させてのたくらみだった。
 が、左平次は取り分の額が不満で、反撃に出たのだ。あるいは、大吹屋なのか、殿様なのかが左平次に、誰かを使って脅しをかけたのかもしれない。
 日が暮れようとして、浜町河岸は人通りも少なくなっていた。
 籐吉らが隠れ家を出ようとした時、すでに左平次のひきいる香具師やしたち二十人余りが、河岸の上で待ち構えていた。長脇差ながどす、匕首、鳶口とびぐち、商売ものの棍棒こんぼうなど、みな、武器を手にしている。
 籐吉が成郎吉に告げた盗人の教え、
「毛の先ほども疑い残すべからず。すなわち、ためらうならば、ひとまず逃げよ」
 の、毛の先ほどの疑いを残してしまったがゆえに、逃げ時を逸したと言えそうだ。
「おい籐吉、お夕、よくもこの俺をおちょくってくれたな。おめえらが盗んだ八百両も、そっくり寄越よこせ。命が欲しけりゃな!」
 でっぷりと太った左平次が叫ぶ。
 ジリジリと香具師たちが近づいてくる。河岸を抜けようとした物売りが、ただならぬ様子に慌てて引き返す。
 成郎吉は刃曲はまがりを構えながら、まだためらっていた。
 胴巻きには、今度の盗みばたらきで得たもちが四つ、しっかりと百両が納まっている。
 籐吉たちとのつきあいは、まだ一月に満たない。一味の仲間になって盗みに加担したのも今度が初めてだった。命を賭けてやつらと戦う必要はない。
 忍のおきてに、義理や人情はないのだ。あるのは与えられた指命を果たすことと、おのれの命を守ることこそを最優先すべし、だ。
 ならば、この百両を持って、ここから逃れることこそを図るべきだ。
 まさにそうしようとした瞬間、
「にゃろきち、逃げていいぜ。さっさと女のところへ帰りやがれ」
 耳元で籐吉がささやいて、ニヤリと笑った。
 それが聞こえたのか、聞こえなかったのか、鶴助がいつの間に手にしていた忍刀しのびがたなを抜いて、男たちに向けて突進した。釣られるように亀五郎が続く。
 ちっ!
 と成郎吉の身体からだが跳躍した。
 着地しながら、鳶口を振るってきた男の頭上にかかとを落とした。
 ぐわっと男がのけぞり、頭から血が吹き出る。
 一気に殺し合いが始まった。
 籐吉がお夕をかばいながら、男たちと斬り合っているのが見えた。
 亀五郎と鶴助が十人ほどの男たちに囲まれ、四方から殴られている。二人とも血だらけになりながら、暴れている。
「やれ、やれ、やっちまえ!」
 と左平次が土手の上で叫んでいる。自らに危険が及ばない場所だ。
 成郎吉は数人の男たちの攻撃を、風が木々を抜けるようにかわすと、真っ直ぐに左平次のいる土手に走った。
 左平次はぎょっとして、横にいた鉢巻はちまき男の陰に隠れようとする。
 成郎吉の懐から右手が横に繰り出されると同時に、白い光が真っ直ぐに走った。
 棒手裏剣ぼうしゆりけんが、左平次ののどぼとけに深々と刺さっている。
 ウグッとうめき声を上げて、左平次の巨体がドウと倒れた。鉢巻き男はヒッと悲鳴を上げて逃げる。
 振り返ると、籐吉がお夕を庇って倒れている。その背に長脇差が振り下ろされ、着物が裂け、背中があらわになった。
 石川五右衛門が首から血を流している。
 成郎吉は胴巻きに手を突っ込むと、切り餅を二つ掴んで空に投げた。
 夕焼けのあかね色に染まる空に、黄金色の小判が舞った。
 きらきらと光を四方に散らしながら、小判は河岸に落ちていく。
 あっけにとられて見ていた男たちが、地面に落ちた小判を拾おうと転げ回る。奪い合いで、喧嘩を始める者もいる。
 亀五郎と鶴助が重なり合って倒れていた。二人ともぴくりとも動かない。
 成郎吉は、倒れている籐吉とお夕に走った。
 辿り着く前に、背中を血だらけにした籐吉がむっくりと身体を起こした。
 自分で立ち上がったのではない。お夕が籐吉を背負ったのだ。
 そのまま堀へと歩いていく。しっかりとした足取りだった。
 桟橋さんばし猪牙舟ちよきぶね一艘いつそうもやってあった。
 お夕は籐吉を背負って桟橋に立つと、背中から舟へと転がり込んだ。
 長脇差を振りかぶった若い男が、舟へと飛び込もうとする。
 が、男の身体は真横に弾け飛ぶと、水しぶきを立てて堀に落ちた。
 成郎吉が蹴り落としたのだ。
 お夕がをがっちりと握ると、堀へと漕ぎ出していく。
 桟橋に着地した成郎吉を見て、ふっと笑った。賭場でホンビキの繰り札から、一枚を選んだ時のように。
 籐吉は仰向あおむけでぐったりと動かなかった。死んだかと思ったら、右手がふいと上がると、あばよと成郎吉に手を振った。
 二人を乗せた舟は、ゆっくりと大川おおかわに向かい、夕闇ゆうやみけていく。
 成郎吉は舟の行方ゆくえを見届けることもなく、桟橋からもう消えている。
 河岸を突っ走りながら成郎吉は、一刻も早く、待っている女、クロのいる裏長屋に帰りたかった。
(第29回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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