双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

のみ取り屋おたま 脇ばたらき その六
破れ番傘ばんがさ殺人事件

 小さな庭の向こう、色とりどりに染まった木立こだちが、サワサワと揺れていた。
 江戸の町もすっかり秋の気配に満ちてきた。ここ麻布あざぶ近辺は、愛宕あたごの山を中心に緑が多く、日を追うごとに黄色やら赤やらの色を濃くしていた。昨日までに降った雨で、つやまでも増したようだ。
 お玉がいた北国の山々は、夏を過ぎると一気に、それも息を吹きかけるような速さで、山のてっぺんからふもとにかけて、鮮やかに色を変えていった。小さな人間たちが秋の色に呑み込まれるみたいだった。
 それに比べると、江戸の秋はどこか間延まのびしていた。寺社やら大名屋敷の木立がポコリポコリと紅葉していき、町屋へと飛び火していく。
 お玉は大きく欠伸あくびをしながら、縁側に座って両隣の猫を撫でた。右が茶トラのオスのちゃわんで、左は白猫のメスのとくり。三人(正確には一人と二匹)は朝飯を食べたばかりで、ちゃわん、とくりの順で欠伸をして、お玉にうつったようだ。
 この一軒家のあるじだった隠居いんきよが植えたのだろうか、猫のひたいくらいの庭で紅葉がうつすらと赤く染まろうとしている。
 故郷の戸隠とがくしを離れて夏を越した。来たばかりの頃は、江戸の喧噪けんそうに当てられっぱなしだったけど、さすがに慣れてきた。
 江戸に来るなりお玉は、瀬戸物問屋せとものどんやの隠居の猫が誘拐されるという事件に巻き込まれた。誘拐された老猫のすりばちと、身代金を払おうとした隠居の角屋才右衛門かどやさいえもんは亡くなってしてしまった。それより前に隠居が飼っていた三匹の猫の世話係として、お玉は雇われていたのだ。
 隠居の遺言で、お玉はこの家に住み、残ったちゃわんととくりの面倒を見ることになった。角屋は才右衛門の息子の才治郎さいじろうが継いで、しば金杉通かなすぎどおりに店を構えている。
 なにしろ角屋は瀬戸物を扱っているので、猫が飼えない。才右衛門は隠居して、ようやく念願の猫との暮らしを得ていたのだが。
 家賃はただにしてもらっていたが、食い扶持ぶちは自分で稼がなくてはいけない。お玉は誘拐騒ぎの折に手に入れた桐箱きりばこを背負って、「石見銀山鼠捕いわみぎんざんねずみとり」の薬を売って歩いた。
 身代金受け渡しの目印になるようにと、桐箱の背板せいたに、金色に輝く猫の眼を描いたのだけど、それが看板になった。「石見銀山 猫いらず」と書かれた小さなのぼりを箱の横に立て、江戸の町を売り歩く。
 実際は石見産でも、銀山でもなく、お玉自身が調合した効き目の弱い(でも鼠は十分に殺せる)丸薬がんやくだ。なんせお玉はくノ一である。薬(特に危ないほう)の調合、生産くらいお手のものだ。
 女中奉公とかでなく、江戸の町を歩き回る職を選んだ。そう、お玉が江戸に来たのは、にんとなった成郎吉なろうきちを見つけ出して、なんとしてもほうむらなくてはいけないからだ。
「じゃあ、あたしは商売に行くよ。あんたたちいらずを売ってくるから」
 昼寝どきに入った二匹に、お玉は声をかけて立ち上がる。その時、
「おう、達者か?」
 と男が入ってきた。黒の巻羽織まきばおり浅黄あさぎの着流し、腰には両刀と朱房しゆぶさ十手じつて。同心の岡倉市平太おかくらいちへいただ。
「あ、ええ……」
 お玉はぺこりと頭を下げる。
 岡倉は慣れた様子で、お玉が座っていた縁側に腰を下ろす。眠ろうとしていたとくりが警戒して、ひょいと身をひるがえし家の奥に退散。ちゃわんのほうは顔を上げてチラと見ただけ。
「俺の家にも猫がいるんだがよ、こいつが間抜けな猫でな。取っても取っても、蚤をもらってきやがるんだ」
「ゴンベエ」
「あ、話したか」
「二回くらい」
「そうだったか……。何とかならねえかな」
 岡倉は丸くなっているちゃわんの腹をぐちゃぐちゃといじくる。ちゃわんは面倒くさそうに身をよじり、ウミャとひと声。
「茶、くらいだせよ」
 岡倉は鼻毛を抜いて飛ばしながらあごをしゃくる。
「これから商売に出ようかと……」
「どうせ、売れねえ猫いらずだろ。あ、あと、こいつもな」
煙管キセル煙草たばこ入れを出して掲げる。
 隠居が使っていた煙草盆を岡倉の横に置いて、お玉は台所に。
 猫の誘拐騒ぎの折に、お玉は凄腕すごうでの元忍者と戦った。そいつの鎖鎌くさりがまで殺されそうになった時、岡倉の剣に助けられたのだ。
 それから岡倉はちょくちょく顔を出すようになった。自身は定町廻じようまちまわり同心で、受け持ちは神田かんだ浅草あさくさ近辺なのだが、なぜか麻布のお玉の家に来る。
 最初は何が狙いなのかが分からずに、お玉はとまどった。ただ色気はなく、そっちのほうの警戒はすぐに解いた。どうも岡倉は、お玉を女としては見ていないようだ。
 角屋の主の才治郎によると、岡倉の歳は三十二、八丁堀はつちようぼりの同心屋敷に母親と二人暮らし。一度嫁取りをしたが離縁していた。子どもはなし。結婚生活五年を経ても跡継ぎができなかった、というのが離縁の表立おもてだっての理由。
「……らしい、っていうことですけどね」
 と噂好きの才治郎は声をひそめた。妻女さいじよは寺社奉行の遠戚えんせきで、出世の糸口になろうかという縁談だった。それを反故ほごにするには、人に言えないごとがあったらしい。それが何かは瀬戸物問屋の主も知らなかったが。
 離縁後もいくつかの縁談があったが、岡倉はのらりくらりと逃げているとか。もうひとつ、岡倉の父も町同心だったが、非業ひごうの死を遂げたらしい。
 岡倉は猫のかどわかし騒ぎの折に、お玉がしのびの技で戦っていたのを見ていた。しかし、お玉の素性すじようについて、一度も問い詰めたりしない。ただ、岡倉の狙いについて、お玉は薄々うすうす察していた。
 お玉をくの一と知った上で、手下、つまりしたぴきとして使いたいのではないか?
「ちょっとよ、手伝ってほしいんだ。今日一日の猫いらず代くらいは出すからよ」
 煙管をしまい、お茶をズズズズズと飲んだ後で岡倉は立ち上がった。
「えっ、あたしがですか?」
 警戒感が顔に出たようだが、岡倉はまったく意に介さない。
「ああ。おめえならって、気がするんだよ」
「なんですか?」
 岡倉はにやりと笑って告げた。
「殺しだよ」
 内神田豊島町うちかんだとしまちようの自身番屋に寄るなり、岡倉は居眠りしていた番太郎ばんたろうに声を掛けた。
寛吉かんきち、起きろ! ほとけはちゃんと見張ってるか?」
「あ、えっ、今はタコっぱち、じゃねえや、多八郎たはちろうの親分が」
 飛び起きた番太郎の寛吉が、よだれぬぐいながら答える。
「お、多八郎直々じきじきかい」
「親分も文句たらたらですぜ。だいぶにおってきて。あっしは鼻がすっかり馬鹿になっちゃいやしたが」
「身元はまだ分からねえか?」
「この近所だけじゃなく、馬喰町ばくろちよう小伝馬町こでんまちようあたりの安宿や木賃宿きちんやども聞いて廻ったけど、心当たりはねえって」
「そうか」
「どうせ、どっかから流れてきた無宿人むしゆくにんみてえだし、喧嘩けんかでもしてられたんじゃねえかって、親分が。さっさと回向院えこういんあたりで供養くようしてもらえばいいのに。岡倉の旦那だんなは何を……あ、いけねえ」
 寛吉は慌てて口を押さえる。考えるより先に舌が勝手に動いてしまうようだ。眼をキョロキョロさせたついでに、岡倉の後ろにいるお玉をしげしげと眺める。「石見銀山」の幟を掲げた黄八丈きはちじようの娘っ子が、どうして同心にくっついているのか? その疑問を口にしようとする前に岡倉が顎をしゃくる。
「あっちはどうだ? 青田屋あおたやって店は?」
「小さな八百屋ならあったみてえですが、番傘配るような大店おおだなはねえって。青田屋なんていう妙な名は……」
「お前、まさか、青田屋で探しているんじゃねえだろうな?」
「へっ?」
 と寛吉は眼を白黒。
「いいや、どこにある?」
「へ、こっちでさあ」
 寛吉はひょいと土間に降りると、すみからたたんだ番傘を持ってきた。泥がこびりついていて、竹の骨が飛び出したり、裂けた油紙がまくれていたりする。
「こいつだ。パッと開いて驚く破れ傘、差そうもんなら、差さねえよりも濡れちまおうか、ってしろもんだ」
 ふしをつけながら岡倉が傘を開く。油紙は半分ほどしか残っていない。残っている半分もあちこちに穴が空いていて、傘とはとても言えない本当に破れ傘。
 骨の一部に、泥に混じって血とおぼしき跡がついていた。
 商家が客に配ったもののようで、屋号の文字も半分以上残っている。〝青〟という字が丸々、その下に左側が欠けた〝田〟と〝屋〟とおぼしき字。なるほど青田屋ではない。右側に青のつく字だ……、清田屋きよたやだろうか?
「仏の近くに落ちていた。ここんとこ雨だったからな。こんな傘でもないよりましってんで差していたのかもしれねえ」
「……」
 お玉は黙ったまま破れ傘を見つめる。こいつを見せて、岡倉はどういうつもりなのか? 傘をパサリと閉じて岡倉は告げる。
「他は何も残っちゃいねえ。ふんどし一丁だ。匕首あいくちかなんかで滅多刺めつたざしで、身ぐるみがされてる。行くぞ」
「えっ!」
「仏は土手に置きっ放しだ。おめえの見立てを聞きてえんだよ」
 寛吉もお玉以上に驚いている様子だ。
 スタスタと自身番を出ていく岡倉の、お玉は慌てて後を追う。

 柳原やなぎわらの土手が神田川沿いにずっと続いている。このあたりは夜ともなると、夜鷹よたかたちの仕事場になる。
 岡倉が言うように二日ばかり雨が降ったりやんだりで、夜鷹たちもほとんど休みと決め込んでいたが、物好きな客たちの需要に応えようと、数名の女たちが土手に立っていた。
 およしという四十過ぎの夜鷹が、傘を一本差して、もう一本をわきはさんで客をとっていた。こっちはちゃんとした番傘で、二本を地面に立てて、その下にござを敷いて使うのである。
 およしがようやく見つけた客の下で揺られていたのだが、雨を弾かんばかりの悲鳴を上げた。顔を横に向けたその先に、眼をいた男の顔があったからだ。薄闇うすやみの中、その眼に生の光はなかった。
 客の男は逃げ出して、およしは夜鷹仲間を引き連れて豊島町の自身番屋に知らせた。
 たまたまおかぴきの多八郎が、大工の棟梁とうりようたちと酒盛さかもりをしていた。
 多八郎親分は、神田界隈かいわい縄張なわばりにしているが、〝うきどこタコっぱち〟のあだ名で通っているとか。豊島町の髪結かみゆいの亭主で、岡っ引に見えない。ふわふわと空を泳ぐたこみたいに歩き、丸顔で髪が薄いという。
「ま、確かに海のたこが、空に飛んでる凧みてえなんだな。ほら、あいつだ」
 と岡倉が肩で笑いながら、土手下に立つ岡っ引を差す。なるほど、そのまんまだ。お玉は口元が緩むのをこらえる。
「旦那、いけねえや。三日目のいわしみてえに臭って……」
 多八郎はそう言いながら、岡倉の後ろのお玉を、口を蛸のように突き出してにらむ。
「お、ごくろう。もう葬っていいぜ。こいつはお玉だ。役に立つんで、手伝ってもらっている。仲良くしてやってくれ」
 岡倉は顎でしゃくる。まだ、手伝いなんてしてないけれど……。
「ども」
 口の中でもごもご言って、岡っ引にぺこりと頭を下げる。
「そうけえ、俺は豊島町の多八郎だ。生まれた時からの神田っ子で、この先の髪結い……」
「いいから、仏だよ。こいつに」
 と岡倉はすそまくって、土手に続く小道をずんずんと登る。多八郎とお玉が続く。
 土手に柳の木が左右にズラッと並んでいる。西側は昼間となると、露天の古着屋が軒を連ねている。死体があったあたりは、店が出ない一角で、柳の木の下に雑草がしげり、発見が遅れたという。
 夜鷹のおよしが見つけた時には、すでに死後一日以上はっていたらしい。番傘は少し離れた草むらの中。仏の持ち物だったと推測できるのは、傘に残された血の跡と、死体の指が、傘の油紙の一片を掴んでいたからで、とっくみあいになった時に、傘で防ごうとしたようだ。
「こいつだ、見なよ」
 岡倉が荒筵あらむしろをめくる。土手に登る頃から鼻をついていた死臭が、煙になって立ち上ったようだ。小バエも舞い上がる。
 お玉は「うっ!」と口を押さえた。左手は自分の着物の半襟はんえりを掴んでいた。ぐいと胸を棒で突かれたような気がしたのだ。
 仰向あおむけの死体は三十五、いや四十近いかもしれない。どす黒く変色していたが、男は町人ではなく、肉体を駆使くしする職についていたことがうかがえる。胸毛が濃く、肩から背中まで毛皮のように続いていた。
 胸から脇腹あたりに無数の刺し傷があって、固まった血が膠状にかわじようになってへばりついている。
 腰の六尺褌は汚れていて、身体からだの色と同化している。太ももも硬い筋肉で、変色する前でも日に焼けて黒かったと思われる。
 まげはひしゃげて、顔もゆがんで崩れかけていたが、生前は頬もこけた精悍せいかん面持おももちだったと思われる。
 ――山の男だ……。
 と、ひと目見た時にお玉は直感した。
 江戸の町にも、人足にんそくや職人、駕籠かごかきや馬子まごなど、身体を使う男たちはたくさんいる。が、この死体となっている男は、町にいるそうした男たちと違う空気をまとっている。
「どうだい?」
 岡倉がお玉の顔をのぞき込む。横で鼻をひくひくさせながら多八郎が見ている。
 お玉は岡倉の顔を一瞥いちべつし、ひざを落として死体の右手を持ち上げた。太い五本の指が半開きで固まっていた。
「何か分かるか? なんでも言ってみな」
「まだ……」
 男の手を下ろすと、お玉はそれだけ告げた。
「せめて身元くれえは、調べてやりてえって思ってな。おめえなら、って気がしたんだ」
 にやりと岡倉が笑う。お玉は、その顔を睨んだ。この八丁堀の同心は油断がならない。のほほんとした見た目とは違って、存外したたかなのかもしれない。
 その午後から、お玉は死体の身元探しを始めた。岡倉の手下、ましてや多八郎親分の子分になるつもりなど毛頭もうとうないのだが。
 岡倉には命を救われたという借りがあったが、それよりもあの死体を目の当たりにして、放っておけない気になっていた。岡倉の思うつぼかもしれないけれど。
 物心ついてから、お玉は信濃しなのの戸隠村で育った。生国しようごくはどこかは知らないが、戸隠や飯縄いいづな黒姫くろひめの山が母親みたいなものだった。
 死んでいる男を見て、男がまとっていた山の匂いに胸をかれた。匂いといっても、実際に男の身体から発していたのは、耐えられないほどの死臭だったのだが、それとは異なる共感のような思い。
 男はきっとお玉のように、どこかの山奥から、何かの目的があって江戸に来たのだ。そして、思わぬ災難に見舞われ命を奪われてしまった。
 多八郎親分の言うように、江戸の人間にとっては、天下のお江戸にやってきたおのぼりさんに過ぎないのだろう。そのお上りさんが揉め事を起こし、の果てに殺された。男の身元を調べようもないし、わざわざ同心が、手下を使って調べるほどの案件とも思えないのかもしれない。
 けれども、何を考えているのか岡倉は、お玉に調べさせている。
 一緒に昼飯を食べ、奉行所に行くという岡倉と別れ、まずお玉は、日本橋にほんばしの大通りに行った。
 江戸に来るなり巻き込まれた隠居と猫の事件の後で、一度だけここに来ていた。
 あの時は金杉橋の角屋から、そのまま東海道とうかいどう筋を進み、芝口しばぐちを抜け、人の流れに乗って京橋きようばしを渡り、この日本橋の大通りへ来た。
 忍の者として、滅多なことに驚かない、動揺しないという訓練を受けていたが、この通りの喧噪と活気には、度肝を抜かれてしまった。正直、こんなに江戸にはいろいろな人がいたんだと足がすくんだ。
 今日も似たような気になっていた。唯一残された手がかりの番傘。その出所を探すのに、大店が軒を連ねる日本橋からと思ったのだが……。看板や暖簾のれんを眺めながら歩いていたのでは、らちがあかない。
 そもそも屋号入りの番傘は、先ほど前を通った呉服屋ごふくやの大店、越後屋えちごやが始めたという。急な雨が降った日、越後屋の店先に番傘が山と積まれた。顧客こきやくにはもちろん、通行人にも越後屋はその傘を貸した。帰ってこないのも承知しようちの上、そんな損よりも、越後屋と描かれた傘が町にあふれれば、大いに宣伝になるというもくろみだ。
 それが当たって、まねをする商店が増えた。越後屋ほど大がかりでないにしろ、屋号が入った番傘を商家が作るのは当たり前のようになっていた。
 にしても、半分だけの〝青〟と〝田屋〟だけで見つけようとするのは、いかにも心もとない。
 番太郎の寛吉は、多八郎親分の下っ引みたいなこともしていたが、そのまま〝青田屋〟で探していたらしい。
 お玉はそこまで抜けていないが、さてどうしたものか……。
 物売りに呼び込みやらお囃子はやしやらの騒音に、喧嘩なのか怒鳴り声まで聞こえる大通りで、お玉はしばらく考えて、ぽんと手を叩いた。この手があった。
 目の前に本屋がある。色とりどりの絵双紙えぞうし浮世絵うきよえが店先に並べられ、さむらいや町娘が腰を下ろしてめくっている。
 幟のついた背中の箱を、お玉は店から見えないところに置いて、本屋へと向かった。絵双紙を眺めた後で、片隅に並べられている冊子を手に取った。『江戸名物案内』と表紙に書かれている。
 江戸のさまざまな名店の評判記で、うなぎ屋、寿司店、菓子店から会席料理の店といった食べ物屋だけでなく、呉服店や小間物屋こまものや、茶店の看板娘などなど、ありとあらゆるものが書き手の主観で順位がつけられ、感想が記されている。江戸に来た旅人だけでなく、江戸っ子にも人気の案内本で、毎年のように改訂版が出されていた。
 買うふりをして、料理茶屋がまとめられている箇所を開き店名に眼を走らせた。青のつく字の店は「深川ふかがわ 清瀬きよせ」という会席料理屋が一軒あるだけ。
 次の項目を読もうとしたら、
「お店をお探しで? 本をお探しで?」
 と声がした。顔を上げると、愛想あいそ笑いを顔に張り付けた番頭らしき男が、覗き込んでいる。物売り然とした娘が、立ち読みで済ませようとしていると思ったのだろう。そのとおりなのだが……。
「あ、これを買おうかな……」
 とお玉は眼を泳がせて、「あっ」と小さく声を上げた。もっといいのがあった。
「あれ、下さい。店の名が出ているのを、りすぐって」
 店の奥に長い箱が置かれていて、そこに一枚刷りの紙片が並べらえていた。

 お玉は日本橋通りから少し入ったお稲荷いなりさんの石段に座って、買い求めた『番付表』をかたぱしから眺めた。
『江戸評判記』以上に出されて、江戸っ子がおもしろがって買っていたのが、この番付表だった。そもそもは相撲すもう取りの名前が、大関から順に書かれたのが相撲番付で、その書式そのままで、いろいろな職種や事物の番付が一枚刷りの表となっている。
 料理茶屋番付では、青のつくのは、先ほどの「清瀬」と、お玉もその名を聞いたことがあった「平清ひらせい」が大きな字で記されていて、あと「清水楼しみずろう」と「万清まんせい」があった。
 うなぎ屋の「江戸前 大蒲焼おおかばやき」という番付では「清光亭せいこうてい」、名酒番付には「清水」。
 どれもさんずいの〝清〟しかない。するとやっぱり番傘の店は、清田屋なのか?
 〝精〟〝靖〟〝請〟〝情〟……とお玉は枝で地面に、思いつくまま書いてみる。さすがに情田屋じようたやはなさそうだ。
「あ、サバって確か魚ヘンに青だったっけ? 鯖田屋さばたや、あれ青じゃないか……」
 ぶつぶつ独り言を言いながら、最後の一枚を広げ、上から順番に追っていった。
「あった、晴れ!」
 番付表を手にお玉は、思わず立ち上がった。「お江戸古着屋暖簾番付」という一枚で、びっしりと町名と店名が書かれている。ざっと見ても三百店くらいはありそうだ。その一番上の段に黒々と書かれていた。
市ヶ谷柳町いちがややなぎちよう 晴田屋はるたや
(第26回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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