双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきち 盗みばたらき
~成郎吉、江戸でクロと出会う

 舞猫まいねこ一座の黒猫はカラスという名だった。
 二つの顔を持つ娘の名は千鳥ちどり
 成郎吉なろうきちが石つぶてを千鳥の手の甲に投げて一月ひとつきほど後に、カラスは子を産んだ。五匹産んだが、二匹は死産で、もう一匹は生まれて間もなく息が絶えた。
 生き残ったのは、縞柄しまがらおすと真っ黒なめすの二匹だった。
 舞猫一座の小屋に、今日も成郎吉は、子猫の様子を見に来ていた。
 ミャアミャアと必死に鳴いて母親を探す二匹を、両手に抱いてあやす成郎吉に、
「妙な男だね。娘っこじゃあるまいし」
 と千鳥がふんと笑った。
 成郎吉が現れると、決まって千鳥が楽屋から出てくるようになっていた。
 桜を舞わせている時の少女の顔でもなく、猫をあやつる魔性の女でもなく、千筋せんすじ単衣ひとえを着たどこにでもいそうな町娘の顔だ。これが千鳥の素顔なのだ。
 舞台に立つ時、どんな女にも変われる。芸人というのは、そうなれるように修業を積むのだという。
 成郎吉はそんな女に初めて会った。
 しのびの女、おたまのようなくの一も、変幻自在に他人に化ける術を備えているが、やはり根本的に違う気がする。
 子猫の柔らかな毛を撫でて、にょきにょきと差し伸ばされた前足の肉球を触っているだけで、成郎吉は口元がゆるんでしまう。
 縞柄の雄のほうはやんちゃで、盛んに動き回る。捕まえてじっとさせておくのが大変だ。
 真っ黒な雌は、いくらかうぶ毛のような白い毛も混じっていて、小さいながらも毛色につやをたたえている。
 この黒猫は、緑がかった黄金色の大きな眼で、何か言いたげに成郎吉を見つめてくる。まだ名前も付けられていないこの猫に、成郎吉はいつしか心を奪われていた。
 千鳥のほうはといえば、こんなふうに猫に愛情を向ける男を見たことがなかったようだ。
 千鳥の一座では、猫は小道具に過ぎない。生きている猫には〝猫じゃ猫じゃ〟を踊らせるし、死ねば三味線しやみせんになる。
 むろん大切な商売道具だし、カラスのような花形を張れる優秀な猫には、いいえさを与え、寝床を柔らかな布にして、毛並みも絶えず光沢こうたくが保てるように、専用の羅紗布らしやぬので撫でる。
 生き物だけに情も移るが、必要以上の思い入れは、芸を披露する際の邪魔になるという。
 千鳥は一座を率いていた亡き父から、そう教えられて育った。
 今の舞猫一座の座長には、千鳥の継母ままはは朱音あかねが納まっていた。千鳥が八つの時、実母は下足番げそくばんの男と駆け落ちした。朱音はその後で女房に納まった。父が生きている間はともかく、死んでからは、千鳥は朱音とはますますそりが合わなくなったようだ。
 成郎吉も何度か、座長の朱音と顔を合わせた。四十を二つ三つ超えているだろう。小太りでうすを思わせる体形だが、そこにひとまわり小さな、やはり臼のような頭が乗っかっている。眼と鼻が大きく、その顔でにらまれると、ついあやまってしまいそうになる。
 朱音は座長として、香具師やし元締もとじめ組頭くみがしらたちを相手に、興業の日程や上がりの配分を引き受けていた。
 香具師の元締は、やくざ者ではないが、親分と呼ばれるだけの度量の大きさ、睨みを利かせるだけの迫力がなくては務まらない。それがないと、縄張なわばりを維持できない。
 香具師はやくざ者と似たり寄ったりで、気が荒いし、仲間意識が強い。この香具師たちを束ねる組頭がいて、その上に親分と称される元締がいる。東両国ひがしりようごくを縄張りにしているのが丸尾屋勘太郎まるおやかんたろうだ。
 舞猫一座の朱音にしても、玉本小吉たまもとこきち一座の小吉にしても、女だてらに香具師たちと互角に渡り合っていた。もっぱら朱音は迫力で、小吉は色気としたたかさで。

 二匹の子猫を遊ばせながら成郎吉は、襟元えりもとから見える千鳥の首筋をつい見てしまう。
 石つぶての一件で、当初は千鳥からは敵意を剥き出しにされたのだが、成郎吉はこの一月の間で(猫にもかこつけて)、千鳥に接近していったのだ。
「カラスは元気になったのか?」
 二匹をかごに戻しながら成郎吉は、化粧の薄い千鳥の横顔を見た。舞台に上がる時以外、千鳥はいつも化粧っ気がない。
「うん、お乳は出る。けど……」
 子猫たちを指で撫でながら、千鳥はまゆを曇らせた。
 カラスは五匹を出産してから、腰が抜けたように動けないでいた。
 今は代わりの猫たちが、とっかえひっかえで三味線に合わせて〝猫じゃ猫じゃ〟を舞台で踊っていた。
 猫たちにこの芸を覚えさせるには、動けるようになった子猫の頃から、強制的に身体からだに仕込んでしまう。
 鉄板の上に子猫を置いて、逃げられないよう囲ってしまう。三味線をジャカジャカとかき鳴らすと同時に、鉄板を火にかけるのだ。鉄板が熱くなり、耐えられなくなった猫は、ピョンピョンとねる。これを繰り返すと、三味線の同じ曲を耳にするだけで、猫は二本足で立ち、跳ねるようになる。
 猫はそもそも芸には向かない生き物だ。人に見せる曲芸をやらせるには、本性を曲げなくていけない。
 成郎吉たちのいた猫目ねこめ一族は、猫に無理な芸を仕込むのではなく、猫の習性を忍術にかす工夫をしていた。双忍そうにんは二人でひと組となって活動をする忍者だが、成郎吉の相方がお玉だった。双忍は二人で一人、どちらが上下ではない。
 それだけでなく、猫目一族の忍者には、猫を双忍の相手とする者もいたくらいだ。同等の相方として。
 成郎吉が三味線で踊るカラスを見て、怒りを爆発させたのは、そんな一族の教えがあったからだ。
 しかし舞猫一座にとってカラスは、美しい姿で舞うように跳びはねる花形役者だった。カラスがこのまま動けないとしたら、座長の朱音はどうするのか?
 石つぶてを投げた翌々日、成郎吉は舞猫一座に乗り込んでいったのだ。
 そのまま知らん顔で通そうと思ったりしたが、どうしても抑えられなくなった(成郎吉が忍者に徹しきれない弱点がまた露呈ろていした)。
 その時は座長の朱音は不在で、千鳥と高座の下からふいごで風を送っていた満八まんぱちという男が対応した。この男が猫の世話係も兼ねていた。
「こいつだよ!」
 千鳥は成郎吉を見るなり、殴りつけんばかりの剣幕けんまくで睨んできた。赤くれた手の甲を見せる。成郎吉はそれには答えずに、いきなり告げた。
「知っているのか? あの黒猫の腹には子どもがいる。もう一月もすれば生まれる」
 千鳥は気づいていなかった様子で、ぽかんと口を開けたまま成郎吉を凝視ぎようしした。満八はふいと口をゆがめて眼を逸らした。
「満八、ほんとうかい?」
 千鳥が怒りをこめて詰問きつもんした。
「……どうりで、ここんとこ」
 と言葉をにごしてそっぽを向いた。いくら猫でも、腹に子を宿したまま、猫じゃ猫じゃを踊らせたら流産をしてしまう。
「座長に言わなくちゃ……」
 成郎吉に向けていた怒りを、宙に漂わせて千鳥がつぶやく。
「座長は知ってますぜ。踊れなくなるギリギリまでやらせろ、って」
 満八がにやりと笑って告げた。
「なんだって、そんな……」
 千鳥の怒りの矛先ほこさきが変わったようだ。唇を噛んで、じっと何事かを考えていた。
 満八はぶつぶつ呟きながら消えた。
 千鳥は(その時はまだ名前を知らなかったのだが)、ふいと顔を上げると、黙って突っ立っている成郎吉に尋ねた。
「ところで、あんた、誰?」
 成郎吉はもちろん本名ではなく、玉本小吉一座の軽業師かるわざし成太なりたと名乗った。
 それから今日に至るまで、成郎吉は毎日のようにカラスの様子を見に来た。当初はそれを口実に、千鳥という娘に関心があったからなのだが。
 千鳥はずいぶん朱音とやりあったようだ。カラスはすでに二度子を産んでいたが、初産の時は、分かった段階で舞台を休ませ、無事に四匹の子を産んだ。その折は猫役者は足りていて、子猫たちは皆、もらわれていった。
 二度目の出産では、気づくのが遅れたことで、皆死産だったという。千鳥はこの時は、継母や満八の「気づかなかった」という言い訳に、疑いを抱いたものの、深く問いただそうとしなかった。千鳥にとってもまだその時は、猫は道具に過ぎなかったのだ。
 けれども、今やカラスは一座の花形だ。使い捨てにはできない。
 数日後、また訪れた成郎吉に、
「子どもが生まれるまで、カラスは休ませていいって」
 と千鳥は嬉しそうに告げた。
 成郎吉は、胸から消えないしこりを吐き出すように口にしていた。
「カラス以外の猫たちはいいのか?」
「えっ?」
 千鳥は思いもしなかったことを、成太という軽業師から言われて、ぽかんと小さな口を開いた。
 けれど成郎吉はそう告げた後で、千鳥から視線を外した。自分が無茶な言いがかりをつけていることに気づいていた。
 うなぎ屋がに泳がせているうなぎを、かわいそうだからと裂くのをやめたら、商売は上がったりだ。舞猫を売りにしている一座の、猫使い娘に言っても詮無せんなきことだ。
「すまねえ。ま、カラスが無事に子どもを産んでくれたらいいんだ」
 その時成郎吉は、笑ってごまかしたが、千鳥は唇を噛んだままで考えていた。
 そんなことがあって、カラスはようやく二匹だけ子を産んだのだ。
 子猫たちはすくすくと育っていった。
 けれどカラスは、子猫たちに乳を与えることだけに全精力を注いでいるようで、みるみるせていった。
 成郎吉と千鳥は、カラスの好物だというイワシを汁にしたり、鰹節かつおぶしを細かく刻んで与えたりした。カラスはめようとするそぶりは見せたが、のどを通らないようだ。
 こうして、黒光りしていたカラスの毛並みから、艶が消えていった。
 玉本小吉一座の東両国での興業が残り半月となった。
 今年の夏が、赤とんぼの出現と共に終わろうとしていた。
 一座の次の興業は水戸みとと決まっていた。成郎吉は相変わらず熊の着ぐるみと厚化粧で舞台に出ていた。座長や弁吉べんきち、十人ほどいる座員たちは、このまま成太は小吉座長のお気に入りとして、旅を共にするものと思い込んでいる。
 だが成郎吉は優柔不断なりに、一座を離れてこの江戸で生きていこうと思っていた。ただ恩のある小吉に、そのことを言い出せないまま、ずるずると日が経っていく。
 もうひとつの成郎吉の懸念けねんは、もちろん千鳥とカラスと二匹の子猫だ。
 カラスは一時の衰弱すいじやくを脱して、起き上がれるまでに回復していた。それでも歩くのがようやくで、とても舞台に出ることはできない。その様子を見た舞猫一座の朱音座長は、千鳥の眼を避けるように、満八とひそひそ話をしているという。
 千鳥はカラスから目を離さないようにして、世話を続けていた。朱音たちの手に渡ったら処分される。昔から、役に立たなくなった役者猫が皆そうされたように。
 もうひとつ、朱音と満八がやろうとしていることがあった。
 足がしっかりしてきた黒猫と縞柄猫、仮の名として、千鳥はクロとシマと呼んでいたが、この二匹に〝猫じゃ猫じゃ〟の芸を仕込もうとしていたのだ。
 以前ならば千鳥は、何のためらいもなく、子猫を朱音たちにゆだねただろう。千鳥は猫舞一座の猫使いなのだから。
 けれど千鳥は、成郎吉と一緒にカラスの代わりに子猫を世話していて、父親が教えなかった生き物の命の力と、その重さに気づいてしまった。
 シマに小指を嘗めさせ、クロの鼻を撫でている千鳥の無心な横顔を見ていて、成郎吉はその変化が分かった。
 楽屋裏の西日の射す小部屋で、ほんの夕方のひととき、成郎吉と千鳥は子猫たちと過ごした。
 それは成郎吉にとって、想像もしていなかった春の日だまりのような時間だった。猫たちと千鳥と過ごす、ほんの一時の柔らかな刻。けっして、いつまでも続くことのないと分かっている、千鳥が舞わせる蝶の羽ばたきのような刻。
 ただ海辺にぼんやりと立っていたら、いつの間にかしおが満ちて、足首まで波が寄せている。成郎吉はそれに気づきながら、知らないふりをしようとしていた。
 そんなある日、成郎吉は小吉に呼び出されて楽屋に行った。
「お呼びですか?」
 と入って思わず身体が固まった。上座に香具師の元締の丸尾屋勘太郎がいて、右に小吉と、左に朱音が座っていた。
「座んな」
 と小吉に命じられるままに、板間の上に正座した。
「成太、あんた、こちらの一座に出入りして、よからぬことをしているって聞いたよ」
 小吉はともかくとして、二つの冷たい視線が矢のようだ。
「あ、いや、俺は猫が心配なだけで」
 下を向いて言い訳をしようとしたら、
「うちはその猫を見世物にしてるんだ。あんたに心配される筋はないんだよ」
 腹から出るような声で朱音が吐き捨てた。それからくどくどと、成郎吉が千鳥を惑わせてきた経緯いきさつや、一座をつぶそうとしていることを語った。
 しばらくは三人で、朱音の言い分を黙って聞いていた。しやべらせていたら一日中聞かされていたかもしれない。
「舞猫の、分かった。ここはおいらの出番だ。任せな」
 勘太郎親分が太い声で制止し、ようやく朱音は黙ってうなずいた。
 ふうと小吉が息を吐いた。
「おい、わけえの」
「へえ」
 親分の呼びかけに、成郎吉は頭を下げた。
「もう二度と、舞猫一座の敷居を跨ぐな。千鳥にも会わねえと約束しな」
「……」
 成郎吉は唇を噛んだ。何か言わなくていけない、と。
「あたしが約束させます。どうか親分さんも朱音ねえさんもここのところは」
 小吉が床に届かんばかりに頭を下げた。勘太郎も朱音も冷ややかに見ている。
「よし、これでいい。丸尾屋が丸く収めたってわけだ」
 勘太郎親分はそう言うと、ゲラゲラと笑った。小吉と朱音が追従ついしよう笑いをする。
 成郎吉は頭を下げたままで動かなかった。
 その夜、成郎吉は、寝所しんじよとしていた衣装部屋を抜け出した。隣で寝ている陣五郎じんごろうのいびきは、変わらずに聞こえる。
 私物と、貯めた金子きんすを布袋ひとつにまとめて、背中にくくり付けている。
 さすがにこの時刻になると、いかがわしい東両国の一帯も、ひっそりと眠りについている。今夜は西の空に出ているはずの月も、厚い雲に隠れていて見えない。
 それでも忍者として夜目よめの利く成郎吉は、路地の方向くらいは見える。
 成郎吉は誰もいないことを確かめて、小吉の寝所へと向かった。
 迷ったが、さすがに黙ったまま消えるのは忍びがたく、これまでの礼と迷惑をかける詫びの言葉をふみにしたためた。これを小吉の枕元に置いていくことにした。
 楽屋を兼ねた小吉の部屋の戸を、音もなく開けた。さすがに中は真っ暗で、成郎吉は小吉が寝ている板の間を凝視した。
 こんもりと夜着よぎがふくらんでいるのが見えた。かすかに寝息も聞こえた。
 成郎吉はゆっくりと近づくと、小吉の枕の横に畳んだ文を置いた。ぼうと白い小吉の顔が分かった。
 その顔を片手で拝もうとした時、手首がきつく掴まれた。
「あ!」
 小さいながら小吉の手は、一本だけで逆立ちの全身を支える位の怪力だ。成郎吉が引こうとしても動かない。
 とっさに成郎吉は、空いた左手でふところ小柄こづかを掴んでいた。
「やめな、成太。来ると思っていたよ」
 小吉が耳元でささやいた。
「座長、見逃して……」
 ようやく成郎吉はそれだけを言った。
「そうはいかない。あんた、千鳥って娘と駆け落ちでもしようっていうのかい?」
 成郎吉は答えなかった。図星ずぼしだった。
「そんなことをしたら、ずっと追われる一生さ。今のあんた一人だけなら、逃げ切れるかもしれないが、娘っ子まで、そんな目に会わせちゃあ、いけない。一人前の男がすることじゃない」
「座長、俺はどっちみち、一座には……」
「分かっていたよ。あんたは抜けていい。一人で消えな。あとの始末は付けるよ」
「……確かめたいんでさあ。どうしても、俺には心残りが」
 ようやくそれだけ告げた。
 小吉は長い間、成郎吉の手首を掴んだままで、じっと暗闇を見つめていた。
「そうかい、そこまで惚れたかい」
「……」
「朱音は黙っちゃいないよ。となると、丸尾屋の親分にどうしめしをつけるか……」
 答える代わりに、成郎吉は頭を深々と下げるしかなかった。その後始末を小吉に押しつけることが、一番の心残りだ。
 すると小吉は乾いた口調で言った。
「親分はいいさ。一度、私が抱かれてやれば、片付く話だ」
「えっ、そんな……」
「あんた、私がどうしてこれまで、女手でひとつで、一座をやってこられたのか、分かってないね」
 暗闇で小吉が笑った。はっきり見えていたらきっと、悲しい笑みだっただろう。
「よし、舞猫娘のほうはあんたの好きにしな。あのあばずれ座長なんぞ、いくらでも私が相手してやるよ。けれど……」
 小吉は闇の中で真っ直ぐに成郎吉を見つめた。その瞳が濡れながら揺れているのが分かった。それはよく見えた気がする。
「親分に汚される前に、せめてあんたが、印をつけてから消えな」
 そう言うと小吉は、成郎吉の身体を夜着の中にぐいと引き入れた。
 成郎吉はあらがわなかった。最後の最後に逃げられなかった。いや、逃げようとしなかった。
 お玉が知ったら、「このずぼら男」と呆れられるかもしれない。けれど、優柔不断ではなく、成郎吉は小吉の誘いに乗った。
 朝までのわずかな時を、孤独な女座長のために。

 明け六つ(午前六時)の鐘が鳴り、東の空と厚い雲の間が、夜明けの赤い帯となって浮かんでいた。
 成郎吉は約束していた本所竪川ほんじよたてかわの二之橋に来た。
 いつもの地味な千筋柄の着物で立っている千鳥の姿が見えた。ひどく心細そうで、はかなげだった。
 半ば予想したとおりだった。千鳥は成郎吉の申し出を受けなかった。
 走ってきた成郎吉に千鳥は気づいて、あの舞台の上ではけっして見せなかった淡雪のような微笑ほほえみを浮かべた。
 成郎吉は千鳥の前に立った。
 黙ったままで互いを見つめた。
 二之橋を朝の早い職人や物売りが、怪訝けげんそうに横目で見ては消えていく。
 千鳥の着物のそでが丸まって、もごもごと動いているのに成郎吉は気づいた。
 ふっと笑って千鳥が、袖から黒い固まりを取り出した。
 みゃみゃみゃとクロが鳴いて、二本の前足を伸ばした。
 成郎吉は導かれるように、クロを受け取る。
 子猫は両のてのひらにすっぽりと収まって、成郎吉の顔を見て、みゃ~~あと鳴いた。
 千鳥はようやく口を開いた。
「知ってるでしょ、深川八幡ふかがわはちまん様の蕎麦屋そばやさん?」
「あ、うん」
「おかみさんが、猫を欲しがっていたの」
「じゃあ……」
「うん、シマをあげることにした。可愛かわいがってくれるわ、きっと」
「そうか」
「クロは成太さんしかいない」
 成郎吉がコックリと頷くと、クロがニャと鳴いた。千鳥は足下あしもとに視線を落とした。
「ごめんね」
「え?」
「ずっと考えていた。カラス以外の猫たちのこと」
「あ、あれは」
「あの子たちは、あれが定めなんだ。私の一座に貰われて来てしまって、芸を仕込まれて……あそこでしか生きられない」
「うん」
「私もおんなじなんだよ」
「……」
「だから私が、あの子たちが舞台で、心から踊れるように……。できないに、決まっているけど、私も」
 千鳥は声を詰まらせた。
「すまない、俺が余計な……」
「カラスはね、私が最後まで面倒見るよ」
「ああ」
「この子ともお別れさせたよ。だから」
 千鳥は涙でいっぱいの眼で、成郎吉を見上げた。
「私ね、夢を見たんだ」
「どんな?」
「成太さんのおかみさんにしてもらって、二人で新しい一座を作るの。私が手妻てづまで桜吹雪をいっぱいに舞わせて、その中で成太さんが軽業を見せるの」
「……うん、できたらいいな」
 千鳥の眼からボロボロと、後から後からあふれた涙が頬を流れていく。
「さようなら」
 くるりと千鳥は背中を向けた。
 成郎吉の掌のクロがミャアとまた鳴いた。
「俺さ、ほんとは!」
 成郎吉はようやく声を出した。
 離れていく千鳥の背中がにじんでいた。
「成郎吉っていうんだ! にゃろきち」
 ふいと千鳥が立ち止まって、振り返った。
 涙で濡れた精一杯の笑顔を向けて、声に出さずに言った。
『にゃんきち!』

 千鳥の姿が見えなくなっても、成郎吉は橋のたもとに立ちすくんでいた。
 懐に入れたクロが顔を出して、成郎吉を見上げてニャアと鳴いた。
「クロと俺で双忍になればいいんだ」
 自分と、生まれて間もない子猫の、江戸での生き方をこれから見つけなくてはいけない。
 朝日が橋を照らすのを見て、にんの成郎吉は、クロの頭を撫でながら渡っていった。  
(第23回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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