双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきち 盗みばたらき
~成郎吉、江戸でクロと出会う

足柄山あしがらやまは花盛り~  
 腹をすかせた熊たちが
 お目覚め、お目覚めなさりませ~
 今日も元気な、き、きんの金~
 まさかりかついだ金太郎きんたろう

 舞台の袖では、歌に合わせて三味線しやみせんと太鼓、お囃子方はやしかたにぎやかに楽曲をかき鳴らす。
 葦簀よしず板塀いたべいだけで囲われた粗末な芝居小屋だが、桜の山をあしらった舞台はあでやかで、ここだけまだ春が続いている。
 とはいえ、すっかり夏の陽気で、びっしりと入った客たちは皆、三味線の音に合わせるように団扇うちわをパタパタとあおいでいた。
 ざっと七、八十人くらいはいそうだ。老若男女ろうにやくなんによ、七割方が町人層だが、武家やその家族、お女中ふうや、手拭てぬぐいを頭に載せた坊さんもいる。
 その客たちがいっせいに沸いた。
 舞台に現れた三頭の熊が、でんぐり返りをしたり、とんぼを切ったりして、その一頭が中央に渡してあった梯子はしごの上に飛び移り、逆立さかだちをしている。
 すると、ドコドンドンという太鼓に合わせて、中央の桜の幕が開き金太郎が現れた。
 金と描かれた真っ赤な腹掛けに、そで無し羽織、おかっぱ頭、大きな張りぼてのまさかりを担いでいる。まさに金太郎の格好だが、白粉おしろいに真っ赤な口紅の年増女だ。
 男たちがやいやいと冷やかしの声を上げる。腹掛けの下は、肌色のぴったりとした襦袢じゆばんで、裸に見えるのだ。
「待ってました、小吉こきち金太郎!」
「羽織をとっちまえ」
 と掛け声が飛んで、どっと客たちが笑う。
 金太郎は左右から襲いかかってくる二頭の熊を、宙に飛び、とんぼ返りでかわして、まさかりをひらりひらりと左右に振る。
 回転する度に、羽織から肌襦袢の尻が見えて、客たちが沸く。この立ち回りがしばらく続く。
 斬られた二頭の熊が袖に引っ込むと、金太郎はひょいと、梯子の上に飛び移る。客たちはやいのやいのと歓声を上げる。
 幅のない梯子の上で、残っていた熊がごろりと転がると、金太郎が跳躍ちようやくし、見事に反対側に着地する。梯子で回転する熊の身軽さもたいしたものだが、金太郎に扮している玉本たまもと小吉も、一座の看板を張っているだけある。
 この〝金太郎と熊の曲〟は、梯子の上の立ち回りが最大の見せ場だった。熊と金太郎が梯子を上下に揺らしながら戦い続ける。
 客たちがオオッと一斉に声を上げた。手順を間違えたのか、熊が片足を踏み外し、金太郎のまさかりが空を切って、二人とも梯子の上で、身体からだを斜めにして落ちまいと踏ん張っている。
 熊がひょいと自分から転がり落ちた。
 熊は背中から落ちながらも、受け身で転がる。金太郎は続いて、梯子からひらりと降り立つと、倒れた熊の首にまさかりを振り下ろす。大の字になって手足をバタバタさせる熊と、見得みえを切る金太郎。
 ここでジャカジャカ、ドンドンと三味線にお囃子、太鼓がかき鳴らされ、幕がすとんと下ろされる。まさかりを大きく掲げた金太郎の姿も消えた。
 客たちは団扇をバタバタと叩いて、歓声を上げる。
 チョンチョンと拍子木ひようしぎが叩かれる。
 本日の玉本小吉一座、昼の部の興業はこれにて終了。

 葦簀で囲われた衣装部屋で、梯子でんぐり返しをしていた熊が、
「ひえっ、あちちちち」
 と悲鳴を上げ、着ぐるみを脱いでいた。
 熊の顔をぎ取ると汗だらけの顔。細いあごと一本線で描いたような鼻だけ見ると二枚目だが、垂れ下がった両の眼が、よく言うと愛嬌あいきよう、そのままだと間抜けに見える。
 成郎吉なろうきちである。
「夏はたまらねえや、熊の衣装は」
 と横から、ふんどし一丁の裸で身体を拭いているのは、先に引っ込んだ熊役の弁太べんた
「妙な声がしたが、成太なりたがしくじったのか?」
 甘酒をグビグビやりながら、もう一人の熊役の陣五郎じんごろうが嬉しそうに言う。
 ここでは成郎吉は、成太と名乗っているようだ。
「えへへ、梯子踏み外しちまって、落っこちました」
「やっぱり、いくら筋がいいっていっても、梯子はまだ無理かもしれねえな」
 と笑いながら弁太。
「だがよ、座長の指名だからな」
 とうらやましそうな声で陣五郎。
「そうだな、おめえは入ったばっかりなのに、座長に気に入られてる。俺なんぞ、舞台に上げてもらうのに三年もかかったぜ」
 そう謙遜けんそんする弁太だが、もう二十年以上も軽業師かるわざしをしていると聞いた。この一座になくてはならない一人だ。陣五郎はまだ若く、この一座に入ってから三年目だ。
 そんな陣五郎がぼやくのも無理からぬ。成郎吉はまだ半年しか経っていないのに、もう舞台で熊役を務めている。それもトリの演目、梯子の上の小吉座長の相方だ。
 今日みたいなしくじりはあっても、成郎吉は玉本小吉一座に入って、いとも簡単に梯子の上でとんぼ返りをやってみせ、相方に抜擢ばつてきされたのだ。
「前に巡業芝居の一座で、立ち回りをやってました」
 という触れ込みで、この軽業一座にもぐり込んだのだが、座長の小吉と弁太は、成郎吉の本職に薄々気づいているようだ。
 今も細々ほそぼそと残るしのびの一族がいて、子どもの頃から忍者になる訓練を受けている。その厳しさは、軽業の修業をある意味超える。
 むろん、軽業師になるための修業も半端はんぱなく厳しい。物心ついた頃から、身体能力をさまざまに鍛える。素質もあって、軽業師の血を継いだ子がその芸も継ぐことが多い。
 それだけでなく、女衒ぜげん香具師やしなどの手を経て、金で買われた子が、素質を見込まれて一座に売られてくることもある。
 熟練の軽業師は、その子の全身を触り、眼を見れば、素質のあるなしが瞬時に分かるのだという。
「ふくらはぎから背中を経て、首の座り方に筋道が見えるのさ。それで眼の奥の光があれば文句なし。ま、そんなきた甲斐がいがある子とは、めったに会わないけどね」
 入ったばかりの成郎吉に、小吉はそう言って笑った。小吉によると、成郎吉は素質はあるし、受けてきた訓練で、軽業師をこなせるだけの技量も備えているそうだ。
「けれど看板張るには、あと十年はかかる。あんたにやる気があれば、の話だし」
 と小吉はあだっぽい眼で、成郎吉の顔をのぞき込んだ。
 訳あって成郎吉が、忍の一族から逃れたにんだと察している。この一座にも、長居はしそうもないということも。
 熊役の時は顔が見えないのでいいが、それ以外の役の時は、成太と名乗る軽業師は、べったりと化粧をしてからしか舞台に立とうとしない。そうした振る舞いも気づかれているのだろう。そして身につけてきたという技の違いにも。
 忍になるための修業は、軽業師と似ているところもある。身体能力を徹底的に鍛える。決定的に違うのは、軽業師は人に見せてなんぼだが、忍は人に見られてはいけない技を磨く。そこには、いかにたくみに人を殺すか、という術や技も含まれている。
 成郎吉はここに入って、改めて自身が秘めていた、忍としての決定的な弱点に気づかされていた。
 軽業を披露して、喝采かつさいを浴びることに喜びを感じたりする。どうやら座長や陣五郎を見ていると、その喜びが生き甲斐になっているようだ。忍にはあるまじき感覚だ。
 そうした感情の揺れこそが、忍には致命的な弱点となる。技術的、身体的な能力以上に、非情に徹しきれない弱さ。よく言えば人間的な優しさなのだが、双忍そうにんの相方であったおたまに言わせれば、単なるいい加減、ずぼら、優柔不断さである。
 人は自身の弱点を認めたくないし、自覚すれば克服しようとする。成郎吉も同じだったが、なにせ優柔不断という性格は、土壇場どたんばのような局面でこそ露呈ろていするものだ。
 戸隠村とがくしむらでの忍者一族での内部抗争で、ついに成郎吉は猫目ねこめ一族を抜ける羽目はめになった。それまでなんとかごまかしてきた成郎吉のいい加減さが、とうとう裏目となって、お玉を裏切る羽目になり、命からがら抜け忍となって故郷を後にしたのが、十ヶ月前のこと。
 成郎吉は戸隠村から松本まつもと城下に潜伏、そこも危なくなり、一文無しになって浜松はままつに出た。忍の術のひとつである調達術(要するに盗みだ)で路銀を得て、小田原おだわら城下に入った。
 ここで興業をしていたのが、玉本小吉一座だった。成郎吉は座長の小吉に梯子の上での宙返りを披露して、一座に加えてもらったというわけだ。
 そうして一座は、小田原から江戸に出て、東両国ひがしりようごく見世物みせもの小屋で今、しばらくの興業を行っているところ。
「しっかりおやり。恩を忘れるんじゃないよ!」
 という小吉のおしかりを得て、成郎吉は頭を下げながら、葦簀張りの楽屋を出る。
「暮れ六つ(午後六時)までに戻っておいでよ、もう、今の若い者は……」
 背中で小吉のぼやきを聞いて「へぇ~っ、へいへい」と逃げる。
「へい、は、一回!」
 まずい、本気で怒らせそうだ。
 成郎吉はふうと肩で息をして、小屋の裏から表通りに急ぐ。
 小吉はああ見えて「三十路みそじはとっくに越えている」と弁太が教えてくれた。
 派手な舞台衣装ではなく、地味な藍微塵あいみじんの着物とかなら、商家の若女将わかおかみで通るだろう。
 そう見えながら小吉は、宙返りなんぞ朝飯前、〝一本竹〟といって、舞台の左右に渡した竹の上に乗って踊る。〝紙渡り〟は、宙に張った帯状の紙の上を、三味線を鳴らしながら歩いてみせる。他にも〝枕返し〟や〝傘回し〟〝曲鞠きよくまり〟と、いろいろな芸ができた。
 そうした軽業だけでなく、〝金太郎と熊〟のような色気芝居も小吉の売りで、陣五郎がうらやむように、そいつを時折、成郎吉に向けてくる。
 今も楽屋で小吉が、舞台のしくじりを叱りながらも、胸元をじわじわ広げてすり寄ってきた。成郎吉は「あ、弁太さんに頼まれごとを」と逃げ出してきたのだ。
 東両国の広小路ひろこうじは、夕方近くになるにつれ、涼を求める人たちで賑わっていた。
 玉本一座の芝居小屋は、今は娘義太夫むすめぎだゆうが掛かっていた。暮れ六つから、また小吉たちが交代して違う演目を掛ける。
 西両国の上品さに比べて、東両国はいかがわしさにあふれている。玉本一座はまともなほうだろう。
 おどろおどろしい蛇女へびおんなやろく首女の見世物に、〝これつけやれつけ〟という半裸の女に男客が吹き矢で息を吹きかける遊びもある。
 成郎吉もここに来た時に、おもしろがってひと通り覗いてまわった。
 蛇女は、全身に作り物のうろこを貼り付けた女が横たわっている見世物。乳房や下半身の鱗が剥がれていたりする。
 ろくろ首女は、一人の女が座布団ざぶとんに座っているのだが、舞台が暗くなると同時に、鳴り物の音と共に女の首がにょきにょきと天井てんじように向かって伸びていく。実は女は二人いて、提灯ちようちん蛇腹じやばらのようなつつつながっている仕掛けだった。
 こうしたたわいない見世物でも、客たちは喜んでいた。
 よくまあ怒らないものだ、と思ったのは、「一丈二寸(約三・一メートル)の大いたち」という見世物で、中に入ると、血糊ちのりがべったりついた大きな板が置いてあるだけ。わずか四文という木戸銭だからなのか、江戸っ子は皆、苦笑して出ていった。これに文句をつけようものなら、野暮天やぼてんと笑われるのだとか。
 もっとひどいのは、「べな」という見世物で、「さあ、べなだ、べなだ、ご覧よ、べなだ」という口上に、何だろう? と小屋に入ると、伏せた鉄ナベが置いてあって、女が棒で叩きながら「べなっ、べなっ」と叫んでいる。
 これには成郎吉もつい笑ってしまった。嘘はついていない。

 成郎吉は両国橋のほうにぷらぷらと歩いていった。ここまでくると、川を渡ってきた風が心地よい。
 この江戸の喧噪けんそう、人混みがかもし出す熱と、音の混ざり合いの中に、生まれて初めて身を置いた時、なぜか成郎吉は、こここそが自分のいるべき場所だと思ったのだ。
 成郎吉は物心ついた頃から戸隠村にいて、忍となるための訓練を受けながら、そこで育った。山に山が連なる山脈の中の小島のような村落だ。
 ただ、どこからか貰われてきたのか、生国しようごくも親も知らない。誰も教えてくれなかったし、誰にも聞いてはいけない、という暗黙のおきてがあった。
 村は室町期むろまちきより続くという猫目一族が治めていて、成郎吉や双忍だったお玉は、彼らの手足となるために、どこからか調達されてきた子だった。
 そんな成郎吉は、江戸に足を踏み入れ、人々の間を抜けてきたような風を頬に感じた時に、ひどく懐かしい空気と再会した気がした。
――俺は、ここで生まれた……。
 とふと思った。
 追われる身だが、見つかるまでこの江戸で生きていきたい、と成郎吉は両国橋の上で改めて思っていた。
 橋の上は今日もごった返していた。川も屋根船や荷船、猪牙舟ちよきぶねが忙しそうに行き来している。よくぶつからないものだと感心する。あでやかな芸者衆を侍らせ、まだ夕方までに間があるのに提灯をともした屋形船も見える。
 大川おおかわ恒例、夏の川開き花火はすでに終わった。一時は新しく老中になった水野忠邦みずのただくに様が、中止にしようとしたらしい。
「あの『た~まや~』って声と、空に咲く華で、江戸っ子はよ、まりに溜まった腹の虫とかを散らすのによ。まったく……」
 とこぼしていたのは、香具師の組頭くみがしらだったか。
「馬鹿野郎、めったなことを口にするんじゃねえ!」
 と横にいた元締もとじめ丸尾屋勘太郎まるおやかんたろうから、その香具師は煙管キセルの頭で叩かれていた。
 玉本一座が東両国で興業をする際に、縄張なわばりとして取り仕切っている香具師の元締に挨拶あいさつに行った時だ。新入りだった成郎吉も連れていかれた。
 勘太郎親分は見るからに好色そうな悪相の男で、ひどく機嫌が悪かった。話に出ていた水野様が、大改革とやらをやろうとしているとかで、去年もくしこうがいかんざしに、ぜいをこらした煙管を身に帯びることはまかりならぬ、という倹約令けんやくれいが出されていた。
 花火はなんとか見逃されたが、次に取り締まられそうなのが、東両国界隈かいわいのいかがわしいもよおし物だろう。
 小吉の挨拶よりも、今後の興業が心配のようだ。成郎吉もチラと見ただけで、気にも留めようとしなかった。

 成郎吉は橋からきびすを返して戻り始めた。
 暮れ六つ半(午後七時)から、また玉本小吉一座の興業が始まる。
 その前に、橋の上から見た「蝶舞猫ちようまいねこ踊り」というのぼりが気になった。新しい一座のようで、覗いていくことにした。
 扉を潜って薄暗い小屋に入ると、三味線の音色に合わせて、甲高かんだかい女の唄が聞こえた。

〽雪よ降れ降れ 風なら吹くな うちのあのひと 船乗りじゃ 風がものいや ことづてしょもの 風は諸国を 吹き廻る~

 暖簾のれんを分けて中に入って息をんだ。
 小屋に季節外れの雪が舞っていた。
 小さな舞台に高座こうざしつらえてあって、波をあしらったかみしもに羽織はかまの娘が、立てひざで芸を披露していた。ハタハタと扇子せんすを煽ぎ、左袖からてのひらを通して、次々と湧いてくる紙吹雪を散らしているのだ。
 どういう仕掛けなのか、娘のいる高座の下から風が吹き上がり、紙吹雪を小屋いっぱいに舞わせている。
 都々逸どどいつと三味線に合わせて、尽きぬ泉のように紙吹雪が舞う。
 五十人位の客たちは、ほうけたように口を開けて、娘と小屋いっぱいに散る紙片を見上げている。
 いつの間にか、舞う紙吹雪が白から桃色に染まって、雪から桜の花びらに変わった。娘の左右に置かれた行灯あんどんの色が、薄赤色に変えられていた。
 紙を散らす娘の顔もうつすらと桜色に染まった。
 年の頃は十七、八。一重の目尻が細く流れるようで、紅を塗った小さな唇が開くと、白い歯がまぶしく輝く。
 成郎吉は客たちの後ろに突っ立ったままで、桜吹雪の中、ちらちらと揺れる娘の笑みを見つめていた。
 桜の精とやらがいるならば、こんな姿で、微笑ほほえみをたたえながら、満開の花の下に立っているに違いない。
 心奪われた成郎吉は、本当にそう思った。
 数えるほどしかなかったが、善光寺ぜんこうじ境内けいだいで行われていた催しで、村歌舞伎むらかぶきや玉本一座のような軽業も見たことがあった。初めて見た時には、その華やかさに驚いたものだ。
 でも、今ここで繰り広げられている夢幻むげんの世界は、一度も見たことがなかった。
 ぽかんと見とれていると、高座の娘がパタンと扇子を閉じた。
 娘はくるりと背中を見せると、三味線の音色も急にジャカジャカと激しくなった。
 ふいっと娘の裃の左右から、黒い大きなアゲハ蝶が二羽、ひらひらと泳ぎながら舞い始めた。
 娘が手を上下させながら、正面を向いた。先ほどの可憐かれんさとはまるで違う、あやしい笑みを浮かべる女の顔に変わっていた。
 娘が左右の手を上げ下げすると、それに合わせて蝶が上に下にと飛ぶ。娘が蝶をあやつっているように見える。
 白い背景に隠れているが、忍の眼を持っている成郎吉には、細い糸が蝶についているのが分かった。
 すが糸だ。
 かいこまゆを直接ほぐした、細くて丈夫な糸で蝶を操っているのだ。忍者もこの糸をさまざまな仕掛けに使う。
 娘が高座の床の戸板を開くと、ひょいと一匹の猫を取り出した。両の手で抱えて、左右中央の客たちに見せる。
 真っ黒な大きな猫で、眼が黄金色。赤い首輪についた鈴がリンリンと鳴った。
 三味線の音色が、チャチャンチャンチャンとかき鳴らされた。
 同時に、舞台にとんと放り投げられた黒猫が、二本足ですっくと立つと、ピョンピョンと踊り始めた。鈴の音が追いかける。
 頭の上で蝶が飛び、黒猫が捕まえようとねる。それが〝猫じゃ猫じゃ〟を、蝶と共に踊っているように見える。
 娘も立ち上がり、「はいはい」と、妖艶ようえんな笑みのままで一緒に踊り始めた。
 そういえば、この一座の幟には「蝶舞猫踊り」と描かれていた。これがその演目か。
 客たちは大喜びで、喝采を浴びせている。
 が、成郎吉の気持ちは、まさに背中に水をかけられたように、一気に冷めていた。
 これは仕込まれた芸だ。それも猫の本意ではない方法で。戸隠村で猫たちと育った成郎吉には、瞬時にそれが分かった。
 舞台で踊る黒猫の黄金の眼は、本来の輝きを失っている。それだけではない、この猫はめすだ。それも腹に子がいる。そんな猫にこんなことをさせてはいけない。
 カッと頭に血が上った。
 成郎吉はついとしゃがむと、剥き出しの地面から小石を二つ拾った。
 客たちの陰にひそむと、ぴしっぴしっと小石を親指で弾いた。一個が舞台の袖で三味線を鳴らしていた女のばちに直撃した。バシッと糸が切れた。
 もう一個は高座の娘の手の甲に当たった。
「痛っ!」と娘は膝をついた。黒猫はニャと四つ足になると、舞台から逃げた。
 客たちは何が起きたのか分からずに、どよめいている。
 成郎吉は小屋を出ようとして、高座のほうに視線を投げた。
 中腰のまま手を押さえ、娘がじっと成郎吉を見ていた。唇を噛んで、矢のような眼差しで。
 成郎吉は娘の視線を切って、暖簾を分けて小屋を出た。
 あの夢幻の桜を散らせる可憐な姿が、娘の本性なのか、それとも身ごもった猫を踊らせる魔性のほうなのか?
 また衝動に駆られて、いい加減なことをしてしまったのかもしれない。
 成郎吉は夕方の心許こころもとない江戸の空を見上げて、唇を噛んでいた。  
(第22回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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