双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

のみ取り屋おたま 脇ばたらき
その五〜お玉、江戸で猫娘になる

 半刻はんとき(約一時間)もかからずにお玉は、麻布あざぶ才右衛門さいえもんの家に戻った。
 あかりは消えていて、屋敷はひっそりと眠っているかのようだ。
 お玉が玄関の戸を開くと、光る二つの眼がひたひたと寄ってきて、ミャアと鳴いた。隠れ上手なちゃわんだ。
 一匹は無事だった!
 お玉は子猫を抱き上げると、才右衛門の部屋へと急いだ。
「ご隠居様!」
 と声を掛けてふすまを開くと、うごうごとうめき声と、床に転がる影が見えた。
 お玉は夜目よめく。月明かりだけで、部屋の様子が見てとれた。
 才右衛門は両手両足を荒縄あらなわで縛られている。口には猿ぐつわ。
 背中からひょいと現れたのは、白猫のとくり。とんと置いたちゃわんに走り寄ると、身体を嘗める。
 もう一匹も生きていた!
 が、すりばちの気配がない。部屋のすみに置かれていた大鉢おおばちが割れて転がっている。
「お待ち下さい」
 お玉は声をかけ、行灯に火を入れ、才右衛門の縄を解いた。
 縛られながらずいぶん暴れたのだろう。猿ぐつわを解くと、才右衛門は苦しそうに息を吐く。素人しろうとにはけっして解けない忍者の縛りがされていた。
「すりばちが、すりばちが……」
 お玉が水を飲ませると、才右衛門はようやく告げた。
「あの女が」
 うんうんと才右衛門がうなずく。
「おまかせ下さい。きっと私が助けます」
「えっ」
 と才右衛門は眼をいた。目の前の雇ったばかりの女中が、ただの田舎娘でないことにようやく気づいたのだ。
 そういえばお玉は、見たこともない職人のような格好をしている。
「おようがすりばちをさらっていったんですね。要求は?」
 お玉の問いに、息をんだまま才右衛門は指を一本立てた。
「千両」
 お玉はつぶやいて、続けて尋ねた。
「払うつもり?」
 才右衛門はこっくりと頷いた。
「私は、ずっと、ずっと菊丸きくまるを……」
 名前は聞いていなかったが、才右衛門が十歳の時に死なせた猫の名は菊丸だったのか。つい先ほど、お玉が気絶させた犬と同じ名前とは。
「すりばちは菊丸の生まれ変わりなのです。私は菊丸とまた会える日が、きっと来ると信じて、五十年、生きてきた……」
 言い訳をするように才右衛門が呟く。
「ええ、そのとおり、信じます。猫はそういう生き物です。何代も生き返る猫もいれば、時をへだてて生まれ変わる猫もいます」
 才右衛門はしわだらけの口をあんぐりと開け、お玉を見ている。
 割れたすりばちの寝床の横で、ちゃわんととくりが二人を見て、同時にニャと鳴いた。
「お前は、いったい?」
 それには答えず、お玉はお葉の情夫があの時のおまん飴売あめうりであることや、才右衛門から金を引き出すために近づいたことを、かいつまんで話した。
「その万平まんぺいという男と、筋書きを書いた女将おかみ、それにお葉も四谷よつやの岡場所にいるのだね」
「今のところは」
「ではすぐに助けなくては。一味を捕まえてやる。知り合いの八丁堀はつちようぼりがいるんだ。岡倉市平太おかくらいちへいたさまといって、北町奉行所の定町廻じようまちまわりの同心だ。あの方に知らせて」
 才右衛門はよろりと立ち上がる。
「お待ち下さい。踏み込んだとしても……」
 才右衛門を座らせると、お玉は鼻をくりくりとこすった。考える時のお玉のくせだ。
 鮫ヶ橋さめがばしの女郎屋でお玉は、万平や女将には顔は見られていないはずだ。しかし、彼らと同じ種類の女、くの一が盗み聞きをしていたことは知られてしまった。
 彼らはどう動くだろう? 
 お葉が万平のところに猫を連れて戻ったとして、話を聞いて、逃げたくの一が、才右衛門に雇われたぼんやりした女中だと気づくだろうか?
 三人もいれば誰かが……あの女将ならば、結びつけるかもしれない。
 明日、捕り方を連れて踏み込んだとしても、万平やお葉は別のところに隠れていて、応対するのは女将だけだろう。
「いったい何のお調べで? えっ、猫? 人さらいじゃなく、猫さらいですかい」
 と大笑いをする女将の顔が見えるようだ。
 才右衛門は、眉間みけんに深いしわを刻んで、お玉を凝視ぎようししている。
 懇意こんいにしている、いやおそらく普段からそでの下を渡している岡倉という同心は、才右衛門の申し出を聞いたとしても、猫を助けに動くとは思えない。秘かに調べにはおもむくかもしれないが、何も見つけられずにすごすごと引っ込むのは同じだ。
 そのむねを才右衛門に伝え、またお玉は鼻を擦った。
 やつらは早めに江戸を引き払おうとしていた。老中水野みずのの改革だけではなく、別の理由もあるのかもしれない。そのためにまとまった金がいるのだ。
 探られていたことを知って、千両をあきらめて逃げるか?
「それじゃあ、じゃまなすりばちは」
 お玉の考えを聞いて、才右衛門はますます青ざめる。
 あっさり殺してしまうか? いや、
「なんとか金に変えようとするはずです」
 才右衛門は眼を固く閉じた。
 この人は本当に、たった一匹の老猫のために千両さえ惜しもうとしていない。江戸中の人間から「馬鹿だ」と大笑いされたとしても。
「鮫ヶ橋は明日にでも、私が様子を探ってみます。お葉は何と言ってましたか?」
「私を縛りあげた後で、“千両を用意しろ。できたら、金杉通かなすぎどおりの店の看板に赤いひもを結べ。こいつとの交換方法は後で知らせる”と。すりばちを抱えて、薄笑いを浮かべて」
 お葉は才右衛門ならば、溺愛できあいする猫のために金を出すと踏んだ。時間が経てば経つほど、老いた猫の命も短くなる。それも承知の上で。
「奉行所に告げたら、すりばちの首だけがここに届くとも言っていた。私が、いい年をしてあんな女の色香に迷ったばかりに、菊丸に申し訳が立たない」
 クククと嗚咽おえつを漏らし、才右衛門は泣きはじめた。
 隠居に残されていた“男”を、笑うのはもうよそう。
 それよりも、卑劣ひれつなやつらは許せない。
 しのびの者は、生き抜くためには、どのような手段を講じてもいいことになっている。ただし、それは使命をまっとうするためというかんむりがある。まっとうできない時には、死をもいとわないのが忍なのだ。
「千両、用意できるのですか?」
 お玉は才右衛門の顔を凝視した。
角屋かどやは私の店です。息子たちに文句は言わせない」
 才右衛門は本気の馬鹿者のようだ。
 お玉の素性すじようも、もう気にならないのだろう。尋ねようともしない。
 やつらはどう出るか? 仲間の忍者が他にもいるのだろうか? 
 こっちはたった一人だ。助けてくれる仲間もいない。
 追いかけている成郎吉なろうきちの顔が、ふいっと心に浮かんだ。が、すぐに消し去った。
 江戸に来るなり、こんなもめ事に巻き込まれるとは。とんだ船に乗ってしまったが、降りるわけにはいかない。
金子きんすができなくても、明日の夕方までには印を看板につけて下さい」
 お玉はきっぱりと、才右衛門にそう告げた。
 翌日、才右衛門を金杉通りの店に送り届け、麻布に戻って二匹の猫にえさをやり、やってきたおかんを家に帰し(これが一番面倒だった)、鮫ヶ橋の女郎屋へと様子をうかがいに行った。
 やはり、お葉や万平の姿はない。むろん猫も。ただ、犬の菊丸は納屋の柱に縄で繋がれていた。お玉が庭に忍び込むと、真っ先に気づいて首を上げた。お玉は右肘みぎひじを見せた後で、笑みを浮かべると、菊丸はクウンと鳴いて伏せをした。
 女将の声が聞こえて、お玉は菊丸のいる納屋に隠れた。
味噌汁みそしるはしじみ汁にしておくれ。風呂は沸いてるね」
 と欠伸あくびをしながら下女げじよに伝えている。岡場所の女将らしく、遅い朝で朝風呂に入るのが習慣のようだ。
 昨夜言っていたような「早いとこ、おさらばする」様子はみじんもない。
 女将が台所脇のえ風呂に入った。湯を浴びる音の後で、鼻歌まで聞こえてくる。
 お玉は人気ひとけのない万平の部屋に忍び寄ると、耳をすました。誰かがひそんでいる気配はかけらも感じられない。まるで忍び込めと伝えているようだ。
 板戸に手を掛けて引くと、音もなく滑るように開いた。
 誰も、それこそ猫の子一匹いない。夏のゆるんだ空気だけが、眠っているように動かない。誰もいないというよりも、ここに人が住んでいたという痕跡こんせきさえなく、ただの空き部屋になっていた。
 開いた板戸の縁や、畳、がらんとした部屋の隅々すみずみに、お玉は素早く視線を走らせた。侵入者の痕跡を刻ませる、板戸に紙片をはさんだり、絹糸きぬいとが渡してあったり、といった細工もされていない。
 いや、明らかな“細工”があった。
 床の間にぽつりと四角い箱が置いてある。片側に肩紐がついていて、背負えるようになっている。
 薬箱のようだ。富山とやまの薬売りが背負っているような木箱だ。
 お玉はするりと部屋に入ると、木箱に近づいた。正面が扉になっていて、開くと紙が一枚だけ入っていた。
「此(ココ)ニ 千両入レ マテ」
 と黒々と書かれていた。
 万平らは、才右衛門が雇った猫の世話係の小娘が、昨夜の忍者と見抜いた。そしてここに来ることも。
 お玉は薬箱を背負うと、部屋から出ようとしてひたりと止まった。
 懐から矢立やたてを取り出すと、真っ白なふすまにさらさらと筆を走らせた。
「かならず、ぶじなるねこであること、たしかめての千両なり
 そうして、鮫ヶ橋の女郎屋を出た。裏庭から勝手口にかけて、意図したように無人だ。繋がれた菊丸がお玉を見上げて情けなさそうな鳴き声を上げた。
 据え風呂からは、女将の鼻歌がまだ聞こえていた。

 麻布の家でお玉は待っていた。
 昼を過ぎて、八つ(午後二時頃)になっても才右衛門は戻ってこない。
 薬箱を背負ったままでお玉は、四谷から真っ直ぐにしばの金杉通りの角屋に寄った。
 東海道に繋がる大通りは、行き交う人で賑わっていた。江戸に入る人、出る人という旅人が目立つ。
 角屋は金杉橋の先にあって、店先に大小の瀬戸物が所狭しと並べられている。よく響く黄色い声で、客の相手をしているのは、まだうら若い娘だ。
 このあたりの街道沿いの店は競って、こうした若い娘を、店先に売り子として置いていた。むろん客の耳目を引くためだ。
 お玉は二階から下がっている角屋の板看板を見上げたが、まだ合図の赤い紐はついていなかった。
 才右衛門はああは言ったが、さすがに息子たちに反対されているのかもしれない。あるいは、表通りに店を出す問屋とはいえ、いきなり千両もの現金を都合できないのかもしれない。たかが一匹の猫のために。
 お玉は裏にまわって、才右衛門を呼び出してもらった。
 焦燥しきった顔のままで才右衛門は現れ、お玉の背中の箱と書き付けを見た。
「急がないと、すりばちが……」
 と眉を寄せるお玉に、唇を噛んで才右衛門は決意を告げた。
「分かった。金子はなんとかする。お前の言うように、合図も出しておくから」
 麻布の家に戻ろうとして、ふいに思いついて、お玉は才右衛門の許しを得た。
 才右衛門は隠居の手すさびに絵をたしなんでいた。素人芸には違いないが、色紙に典雅てんがな江戸の風景を描いていた。
 その絵の具と筆を借りて、お玉は薬箱の扉に絵を描いた。岩絵の具の白と黒、そして金をたっぷりと使って。
 絵は猫目一族のお頭から教わった。忍の弟子たちの中でも、お玉は筋がいいとおかしらから褒められたものだ。
 薬箱のふたに描いたのは、大きな猫の眼だった。金色に輝く眼を箱いっぱいにひとつ。
 ただの薄汚れた薬箱は、遠くから見ても爛々らんらんと光る猫の目となった。
 雇われたばかりの頃、角屋のある金杉の名の由来を、才右衛門が教えてくれた。
 昔この通りに、杉に似た栴檀せんだんの木があって、暗い夜でも金色の光を発するように見えた。この金色の杉が沖合からの目印になって、漁師たちから有りがたがられたのだと。
 箱はどうせ、中身の小判ごと、万平らに持って行かれるのだろうが、後で追いかける目印になるかもしれない、と思ったのだ。
 横でちゃわんととくりが遊んでいた。
「できた!」
 とお玉が金色の猫の目を眺めていたら、才右衛門が飛び込んできた。麻の丈夫そうな布袋と、書き付けを手にしている。万平が残したものと同じ紙だ。
 やつらが、受け渡しの場所と時間を知らせてきたのだ。

 暮れ六つ(午後六時頃)の鐘が鳴ると、赤坂あかさか溜池ためいけあたりはたちまち薄暗さと寂しさが増してくる。
 それでも池のほとりにポツリポツリと夜鳴き蕎麦屋そばやの屋台の提灯ちようちんが並び、武家の奉公人や侍たちの影が通り過ぎていく。
 池の土手にきりの木が何本も植えられていて、その一本の下にお玉と才右衛門がいた。指定は六つ半(午後七時)だったが、早めに来た。
 息子たちや事情を聞かされた大番頭も、同行をうたが、才右衛門は頑として拒んだ。書き付けには、“主(アルジ)ト女中ノ二人”と記されていたから。
 才右衛門にとって大切なのは、金子や面子めんつではない。愛猫のすりばちの身なのだ。
「こんな小娘だけで!」
 と息子の才治郎さいじろうが呆れたが、才右衛門は、
「その辺の用心棒より頼りになるよ」
 と笑った。お玉の正体を薄々察しているようだ。
 が、お玉の足下に置いてある薬箱には、実は三百両ほどしか入っていなかった。それだけ集めるのが精一杯だったという。
 やむを得ず、麻袋の底に石ころを敷いて、切餅きりもちとなっていた小判の帯を解いてバラバラにし、さらに一部金、二分金も混ぜて入れてかさを増やした。
 やつらがだまされるとは思えないが、箱から麻袋を出して、口を開けて中を見れば、千両くらいあると思わせられるかもしれない。
 お玉はすっかり暗くなった池と、対岸の黒い土手を見つめた。
 いつの間にか空に出ていた月が水面みなもに映り、ゆらゆらと揺れていた。
 万平やお葉たちと、忍者同士の殺し合いになったら、どう戦うか……?
 そう思った瞬間、お玉は才右衛門を木陰こかげにかがませ、月明かりの下におどり出た。
 楕円形だえんけい両刃もろばの忍具、しころを構えている。これがお玉の一番得意な武器だ。
「おやまあ、ぶっそうな猫娘だこと」
 ゆらりと、お葉がいつもの黄八丈きはちじようの着物で現れた。横に万平。さすがにお万が飴売りの衣装ではなく、格子こうし模様の単衣ひとえ。左手に丸くふくらんだ風呂敷ふろしき包みを提げている。
「おめえは俺たちの同類だな。どうして、そんなジジイのために邪魔をする?」
 お玉は答える代わりにしころの刃を見せた。
「すりばちは……?」
 と才右衛門が木陰から飛び出した。万平が風呂敷を掲げる。
「ここにいるよ。おっと、動くな。金だ。箱を見せろ!」
 お玉は箱の肩紐をつかんで、地面にどかりと置いた。
「ちゃんと金が入っているか、確かめさせてもらうぜ」
 万平の言葉に、お葉がジリと近づいてくる。
「そっちもだ! 猫は生きているのか?」
「ほらよ、鳴け、ほら!」
 万平が風呂敷の下をぽんと叩いた。
 わずかに揺れて、かすれたひどく弱々しいすりばちの鳴き声がした。
 死にかけている!
「な、こいつだろ?」
「おめえら、何をした!」
 才右衛門がいきなり万平に突進した。
「ちっ!」
 とお玉も跳躍したが、わずかに遅れた。
 万平に掴み掛かろうとした瞬間、お葉の身体が横に飛び、才右衛門の身体からだと重なった。
 月光が闇の中で散ったように見えた。お葉の手には小柄こづかが握られていて、才右衛門の胸にめり込んでいた。
 カクリと膝を折って倒れながらも、才右衛門はお葉の身体にしがみついた。
 お玉のしころは、才右衛門を振り解こうとしたお葉の首筋を切り裂いていた。
 うっ! と首を押さえてお葉は崩れ落ちた。月の明かりに、お葉の青白い肌が光り、どす黒い血に染まっていった。
「お葉!――てめえ!」
 万平は猫の入った風呂敷包みをお玉に放ると、続けて石つぶてを投げた。
 ギャッとすりばちの悲鳴が上がり、包みが地面を転がる。
 お玉は半身でつぶてをかわしたが、すぐに後ろから飛んできた。分銅ぶんどうだった。
 万平の武器は鎖鎌くさりがまだ。
 ヒュンヒュンヒュンと廻り、左右から凄まじい勢いで分銅が襲ってくる。
 お玉は桐の木に身を隠しつつ、ひたすら逃げた。
 ビュンビュンガッと空気を裂き、桐の木皮をも砕き散らして分銅が襲ってくる。
 これがあのお万が飴売りか!?
「くらえ!」
 万平の一撃が、地面に倒れたお玉の脳天を目がけて繰り出された。
 分銅がバリッと音を立てて、お玉の頭蓋骨ずがいこつにめり込んだ。
 が、違った。万平が鎖を引くと、分銅はひどく重くなって戻った。とっさにお玉は木箱を盾にしたのだ。
 四角い箱が宙に舞い上がり、月光に照らされて、金色の小判や小粒を散らせた。分銅を側面にめり込ませた木箱は、地面にどすりと落ちた。蓋の猫の目がきらりと光る。
 お玉は地面から跳躍するなり、しころを投げた。
 うっ!
 呻く万平の脇腹にしころが刺さっている。心の臓を目がけて投げたのだが、避けられた。
 万平は刺さったしころを、抜くのではなくぐいと押し込んだ。血止めの術だ。
 鎖をぱちりと外して落とすと、白い刃の鎌を掲げてニヤッと笑った。
 お玉は懐を探ったが、手裏剣しゆりけんの入った袋がない! 落とした。
 殺られる! 
 と思った瞬間、桐の木陰からまた月の光が走った。
 抜き身が真横から繰り出され、万平の胸を貫いている。
 ぽかんと口を開けて、万平は自分の横で刀を抜いた男を見た。
 何を思ったのか、万平はやじろべえのように両手を広げると、二度三度と跳ねながら、池の畔までたたらを踏んだ。そして、どうと倒れた。
 お玉は確かに聞いた。
〽かわいけりゃこそ、神田かんだから〜
 とお万が飴売りの唄を。
「なんだ、こいつは」
 黒の巻羽織まきばおりに着流しの侍が、刀をさやに納めながらお玉を見た。八丁堀の同心。
「岡倉さま!」
 と提灯を掲げた角屋の才治郎が駆け寄って来た。大番頭もいる。
 お玉はハッとして振り向いた。
 才右衛門が土手に倒れていた。やみの中で、もぞもぞと動いているのが見えた。
 生きてる!
 お玉は駆け寄って、うつぶせの才右衛門の身体を抱き起こした。
「おとっつぁん!」
「大旦那さま!」
 才治郎と大番頭に、岡倉市平太が駆け寄り、提灯で照らした。
「!」
 才右衛門は、猫をしっかり抱いていた。すりばちだ。
 もう息をしていないようだ。
「ご隠居様、ごめんなさい。守れなくて……」
 お玉は涙をこらえて、ようやくそれだけ言った。
 すると、才右衛門は泥だらけの顔で、にっこりと笑った。
「いいんだ、お玉さん。あんたのお陰だ。こうやって……こうやって、菊丸、いいや、すりばちだった。こいつと一緒に……」
「おとっつぁん!」
 才治郎が膝をつき、父親の頭を両手で支えた。
「泣くん……じゃないよ。店を、頼むよ……そ、それから、お玉さん」
「はい」
「ちゃわん、と、とくりを、頼む……こいつは、私と一緒だから……」
 才右衛門はようやくそれだけ言うと、もう一度、すりばちを愛おしそうに抱き上げ、頬ずりした。
 提灯の火が風に揺れて、すりばちの口元も才右衛門の顔も笑っているように見えた。
 
(第21回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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