双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著


猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきち 盗みばたらき
その三~にゃろきち、猫に化ける

 クロがひたひたと長い廊下を歩いていく。
 成郎吉なろうきちもひたひたと、クロが付けた足跡を踏むように追いかけていく。
 室内は夜の闇にすっぽりと覆われているのだけど、よく磨かれた廊下はどこからか漏れた光で、小さな黒い影と、大きな人の影を映している。
 梅雨つゆの晴れ間で月が顔を見せ、成郎吉はクロを連れて盗みばたらきに出た。
 久しぶりの商家で、日本橋にほんばしにある薬種問屋だった。昼間に下見で歩いてまわって、いくつかの店に目星めぼしをつけた。太物ふともの問屋に呉服店、小道具問屋、紙問屋など。が、数軒目に辿たどり着いたこの薬種問屋に、成郎吉はどうしても忍び込みたくなっていた。
 日本橋は大店おおだなが多いが、さすがにこの目抜き通りに店を構えるだけあってすきがない。その店が都合がいいかどうかは(泥棒にとってはだが)、使用人たちを見るとおおよそ分かる。小僧や女中に至るまで、しつけが出来ている店は入りにくい。
 反面、掃除が行き届いていない、客への対応が悪い店は、どこかにゆるみがあって、忍び込みやすい。
 その薬種問屋は、いわばどちらでもなかった。客への対応は悪くもよくもなく普通、しつけも適当でいい加減。ただ、泥棒にとって都合が悪いのは、やたらと警戒をしている。
 あるじと女房、番頭が表を何度もうかがったり、不審な客がいないかを確かめていたり。ということは、普通に商売をしている店ではなく、何かあるということだ。それも後ろ暗い何か。
 こういう店は泥棒の被害にあっても、わざわざ奉行所に届けたりしない。
 なんでも数年前に売り出した「救仁丸きゆうじんがん」という滋養強壮、胃痛に効く薬が当たって儲かっているという。
 昼間、その薬を買ったが、役者のようにまゆを切り揃えた番頭が対応した。
 とび職人の格好の成郎吉を、一目見て眉を寄せた。「おめえに買えるのか、高いよ」という胸の中の声が聞こえた気がした。
 成郎吉が財布を出し、中の小判やら一分金や二分金を見せると、がらりと態度を変え、熱心に薬の効用を説いた。
 救仁丸を買ってから裏に廻って見た。二階屋の店は奥が住居で、庭に二つ蔵がある。蔵の一つが奥の座敷とつながっているが、何か奇妙だった。蔵の窓はふさがれているのだが、その上に明かり取りの窓が切ってあって、そこからうっすらと煙が出ている。台所から出る煮炊きの煙ではない。
 成郎吉は鼻をひくつかせた。店頭に漂っていた匂いより濃い薬の香り。蔵の中にかまどがあって、薬をせんじて精製しているようだ。
 ふいに頭のすみ楊枝ようじで突かれたような気がした。
 その匂いを以前嗅いだことがある……。
 必死に思い出そうとするが、楊枝の先に辿り着かない。

 そうしてその夜、成郎吉は薬種問屋の「大松屋おおまつや」に忍び込んだわけだ。
 侵入はいつものようにクロに任せた。クロは勝手口の戸が簡単に開けられることを教えてくれた。警戒していても、抜けは必ずある。
 帳場の銭函ぜにばこに、小銭ばかり三両あまりが置きっ放しで、全部頂戴ちようだいした。使用人や主夫婦はぐっすりと眠っているようだ。
 それから売り場の薬棚から、ついでにもう一品。分厚ぶあついたいそうなしつらえの油紙の袋。中身は粉薬を入れた化粧紙の小袋が五つ。
 外側の油紙袋に金文字で「朝鮮人参ちようせんにんじん」と記されているが、会津あいづ産の高麗こうらい人参だ。
 実は薬種問屋を狙った理由は、この人参薬を手に入れるという目的もあった。銭函の三両よりも、この高麗人参一袋のほうがはるかに高額なはずだ。
 それから匂いの記憶と、クロの跡を辿って、奥へ奥へと向かって行った。
 煙を上げていた蔵は、どんづまりのこの小部屋の向こうにあるはずだ。
 ふすまを開いてみたが、小部屋の中に居座っていたのは大きさもはかれない闇だった。夜目よめが利くといっても、さすがにこの闇では、成郎吉とて身動きがとれない。
 足下あしもとにいたクロがすっと闇に入った。黒い身体からだが一瞬で闇に溶けたが、成郎吉を見たのもすぐに分かった。黄金の眼が二つ輝いている。猫はやはり摩訶まか不思議な生き物だ。
 成郎吉は腰に下げていた忍び袋を開いた。ここに忍び(盗み)の七つ道具が入っている。その中から小判ほどの大きさの鉄製の印籠いんろうを出す。袖火そでびという火器で、ふたを開くと火種が入っている。
 ふうっと息をかけると、赤い火種から小さな炎が上がる。小さくとも暗闇の勢いをそぐくらいのあかりとなる。
 小部屋の壁一面が頑丈がんじような鉄の扉で覆われていて、その前に座るクロの姿が浮かび上がった。真上に大きな錠前が下げられている。
 錠前が鬼瓦(おにがわらのように見える。成郎吉は小さくため息をついた。
 錠前破りは得意なほうだが、肝心かんじんの道具がない。忍び袋に入っているのは、七つ道具ではなく六つ道具だ。二月ふたつきほど前、盗みに入った質屋での放火騒ぎの際に、錠前破りに使う刃曲はまがりを落としてしまった。その刃曲はおそらく今、八丁堀はつちようぼりの同心が持っている。
 その時、成郎吉の身体の中で、火種が蝋燭ろうそくほどの炎を上げた。かすかに音が聞こえた。何かがぜる音と、ゴリゴリとこする音。
 成郎吉は鉄の扉に耳をつけた。重い鉄の扉の向こうから聞こえる。この深夜に誰かが、蔵を改造した薬の調合部屋にいる。
 刃曲があったとしても、錠前は開けられそうもなかったわけだ。
 小部屋の闇から抜け、クロの前に猫袋をひろげる。クロは不満そうな顔を向けたが、ひょいと飛び込んで、半回転する。成郎吉は猫袋を背負うと、袖火の印籠に蓋をする。
 蔵から漂っていた匂いの記憶を辿ることは、次の機会にしよう。引き上げ時だ。
 小部屋を抜けようとして、成郎吉の身体の火種は松明たいまつほど、いや、放火騒ぎで浴びた龕灯がんどうほどの光となって走った。
 影がひとつ廊下から現れた。どこからか漏れた月明かりに全身が浮かぶ。
 侍だ。
 左右の手が腰の刀のつかに添えられている。
「何者だ?」
 格子窓から射す月の光が、しわがれ声の侍の顔を照らした。月代さかやきが伸び放題の浪人者だ。かすかに酒の匂いがした。飲んでいたようだ。
 居合を使うらしく、その構えのままり足でじりじりと成郎吉に近づく。
 成郎吉は立ったままで動かない。
 異変を察したクロの身体も硬直している。
 すでに成郎吉は、ふところの十字手裏剣しゆりけんを手にしていた。左手はクロを入れた背中の猫袋を抑えていて、指先でトン、トンと合図を送っている。
 そのままで侍との距離が縮まった。
 あと一寸……抜き打ちの剣先の間合いまで。
 浪人の身体が前に繰り出された。酒が入っていても、用心棒に雇われるだけの腕はあるようだ。
 横殴りに居合の剣が放たれた。闇さえも切り裂くほどの速さ。
 が、その裂け目を見切った上で、成郎吉は腰を引きのがれている。同時に右手の手裏剣を飛ばす。浪人はつばで手裏剣を跳ね返した。
 キンという音を立てて手裏剣が跳ね返り、浪人のももに刺さる。
 ウッと浪人がひざを突いた。その角度で跳ね返るように手裏剣を投げたのだ。
 次の瞬間、成郎吉は鴨居かもいつかむと同時に壁を蹴って宙を反転している。
 うめきながらも浪人の二の太刀が繰り出されたが、空を斬った。そして、「ぎゃっ!」と叫んでのけぞった。
 浪人の顔を真っ黒な布が覆っている。
 動いているのは布ではなく、クロだ!
 成郎吉のトントンという合図から、宙を飛ぶ瞬間のポンとひと叩きで、猫袋から飛び出したクロが浪人の頭にしがみついていた。
 忍法“猫とばし”!
 成郎吉は起き上がろうとする浪人の右手を右足で蹴り上げ、左足であごを一撃している。刀が飛び、天井に突き刺さる。浪人は気絶し崩れ落ちた。
 ピイと口笛を吹くと、クロは浪人の頭から跳ねて、成郎吉の肩へと飛び移る。
「おい! 何事だ?」
 太い男の声がした。仲間がいるようだ。
 成郎吉はしかしクロを抱えて、廊下を抜けている。振り返りもしない。
 忍び込んだ台所はひっそりと眠ったままで、成郎吉は勝手口の戸を開いて、庭に躍り出た。
 そこからは奥の蔵は見えなかった。帰りに蔵の屋根に登って中の様子を見ようとも思ったが、それどころではない。
 一刻も早くずらかるに限る。
 夕方になって、クロを連れて浅草三間町あさくささんげんちようのほとけ長屋に戻ると、おけいが待ち構えていた。スズを抱いている。
 質屋の放火騒ぎで拾った子猫で、いろいろあって、隣のお景が飼うようになっていた。
 猫袋から飛び降りたクロを見て、スズはミャアミャアと鳴く。お景が降ろしてやると、クロを追って成郎吉の店へと入っていく。クロを母親のように思っているようだ。クロは、うるさいわね、と尻尾しつぽではたきながらも、相手をしている。
「遅いじゃない」
 日もすっかり長くなっていて、暮れるまで間がある。ちっとも遅くないのだが。
「何かあったのか?」
 成郎吉は眉を寄せているお景の顔を見る。
「おひなちゃんちさ。おっかさんの具合が……」
「あ、そうだ。これもらってきたよ」
 懐から巾着袋きんちやくぶくろを出してお景に渡す。
「なんだい?」
 とお景が中を覗いて、高麗人参入りの小袋を出した。あのたいそうな化粧油袋は捨てて、中身だけ移した。小袋には「朝鮮人参」とは書かれていない。
「人参を煎じた薬だよ。知り合いの薬売りから分けてもらった。おひなのおふくろさんの……なんて言ったか」
「おいとさん」
「ずいぶん悪いんだろ。飲ませてやりな」
「ふーん、ありがとう……」
 と言いながら、お景は小袋をハタハタと振って続ける。
「人参って、どこのだい? 板橋いたばしあたりかな? にゃろの知り合いって、どうせかつぎの薬屋とかだろ? 本当は日本橋あたりにでんと店を構えてる生薬屋きぐすりやの、本物の朝鮮人参を飲ませてやりたいんだけどね」
「……(ちくしょう、言いてえが)」
「ま、気休めにはなるね。おひなちゃんも喜八きはちさんも喜ぶよ」
 とお景はようやく笑った。
「気休めなんて余計なことは言うなよ。本物の朝鮮人参だ! って飲ませるんだ」
「嘘つくのかい?」
「嘘じゃねえよ。ちゃんと、こいつは……」
 成郎吉はごにょごにょとごまかすだけ。高価な本物を成郎吉が買えるはずはない、とお景は決めつけている。
「分かった、そうだね。やまいは気からとも言うし、ちゃんとしたのを手に入れたってことにするよ。人に言えない方法で」
 成郎吉はそうそうと笑うしかない。
 成郎吉がスズと一緒に助けるはめになったおひなは、隣のかやの木長屋に住んでいる。父親の経師屋きようじやの喜八と、お景の父親の半吉はんきちが知り合いで、ここに住むことになった。
 おひなの母、喜八の女房のお糸は、冬にひいた風邪かぜが抜けずにいたのだが、肺病はいびようへと進んでしまい、一月ひとつき前から寝込んでいた。ようやくてくれた医者も、
「栄養のあるものを食べて、暖かくして養生ようじようするしかない」
 と首を横に振るだけだった。おひなとお景が、それなりに値の張る山鯨やまくじら(イノシシ)の肉を調達してきたり、タマゴがゆやショウガ汁だったりを食べさせようとするが、お糸ののどを通らない。代わりにせきの数が増えるばかりで日に日に痩せていった。
「そいで、おひなの家がどうかしたのか?」
「そうなんだよ。ひどいことになってるんだ。かやの木のごうつく大家おおやさ」
 お景が顎でしゃくる。成郎吉たちの長屋からも、よく茂ったかやの木が見える。これが井戸端に植わっていてその名があった。
「ああ、かやの実けちべえか」
「けちべえが、お糸さんが胸の病だっていうんで、追い出そうとしているのよ。女房に移るってんで。店賃(たなちんまっているってのもあるんだけど」
 大家の勝兵衛かつべえは歳は五十過ぎ、かやの木長屋の大家におさまる前は植木屋だったという。その前に大家だった忠太郎ちゆうたろうは、伊勢参いせまいりに出た旅先で病を得て死んでしまった。忠太郎夫婦には子がなく、歳のさほど変わらないおいの勝兵衛が旅先から骨を持って帰り、葬式等々を済ませ、そのまま大家におさまった。
 忠太郎の女房のおひさ気鬱きうつの病をわずらっていて、顔を見せることはめったになかったが、勝兵衛を後釜あとがまに受け入れた。ごうつく勝兵衛は、大家だけでなく、亭主の株も手に入れたと噂されたという。
 勝兵衛は大家になってから、しわいぶりでめきめき有名になった。
 前の大家忠太郎はおおらかで、秋にとれるかやの木の実を町の人に分け与えていた。かやの実は食用や灯油としても重宝ちようほうされる。ところが勝兵衛は、ただの一個たりとも、持ち出しを許さないけちっぷり。そこでついたあだながかやの実けちべえだった。
 成郎吉はこの浅草三間町に住み始めた五日目に、勝兵衛に怒鳴り込まれた。
 春の眠くなるような昼過ぎだった。クロはようやく新しい長屋になじむようになっていて、ご近所の見廻りにいそしんでいた。
 猫は住処すみかが変われば、(むろん猫にとってのだけど)新しい生活地図作りをしなくてはいけない。自分の縄張なわばり確保と、ご近所猫さんや猫好き人間へのご挨拶あいさつ、上下関係作り、といった重要な案件を片付けるのだ。
 クロはそんじょそこらの猫ではなく(いわばりすぐりの忍猫しのびねこなので)、どこへいっても上下関係ならばたちまち上位に駆け上る。地域の親分猫が、それなりの修羅場しゆらばくぐった貫禄の雄猫おすねこだとしても、クロの黄金の瞳で一瞥いちべつされるだけで、尻尾をクルリと尻の下に巻いてしまう。「こちらこそよろしくお願い致します。お姐様ねえさま」という意思表示だ。
 そうした見廻りの過程で、クロは初物のカツオの切り身を頂戴したらしい。
 らしいというのは、勝兵衛から「あんたの猫が盗みやがった!」と言われただけで、成郎吉が現場を拝んだわけではない。
 しかし勝兵衛宅の台所から、クロが切り身をくわえて堂々と出ていったそうな。クロにしたら挨拶代わり。
 確かにその少し前、クロは見廻りから戻ってきて、せっせと舌なめずりをしていた。その様子から、それなりのご馳走ちそうを食したというのは察せられたのだが。
「一両で買い求めた初鰹の半身だ!」
 というのが勝兵衛の言い分だが、魚屋によると「吾妻橋あづまばしから飛び降りるくらいの思いで、一年に一度だけ、けちべえが買い求める五寸(約十五センチ)ほどの切り身」なのだそうだ。
 成郎吉もクロを横目で見ながら、「猫ってのはそんなもんだし」とか、「ほんとにクロなのかなあ」と弱気に抵抗したが、勝兵衛は巨体(相撲すもうとりのようにでかい)をぐいぐい押し出して怒りをぶつけてきた。
 押し問答を聞きつけたお景が間に入って、余計に大騒ぎになり、成郎吉はお景をなだめすかして、勝兵衛には二分(一両の半分)を払って、勘弁かんべんしてもらった。
「いいか、うちに猫を近づけるんじゃねえ! 敷居しきいまたいだら、三味線しやみせんの皮にしてやるぞ」
 と勝兵衛は脅しをかけて戻っていった。
「おめえが大川おおかわに落っこちて、土左衛門どざえもんになりやがれ!」
 お景はプリプリと怒りを爆発させた。クロは知らん顔で身繕みづくろいをしていたが。

 成郎吉とお景は、かやの木長屋のおひなの店に行った。
 入口に勝兵衛の家があって、その奥に棟割むねわり長屋が並ぶ。勝兵衛は元植木屋だけあって、小さいながらも、庭だけはよく手入れされていた。忠太郎時代から残されていた植木と、その向こうのかやの木を借景しやつけいに見立てて、立派な石灯籠いしどうろうまで置いていた。
 勝兵衛も女房もいるのかいないのか、ひっそりとしている。
 成郎吉らのほとけ長屋とは板塀いたべいで仕切られていて、ぐるりと廻らないと一番奥のおひなの店には行けない(成郎吉にとって建前は、だけど)。クロたち猫は塀など関係なく、行きたいところへ出入りしているのだが。
「そういえば、おひなちゃんちの猫」
寅次郎とらじろう
 名前とは違って小心者のトラ柄猫。スズはそもそも、おひなが働き先の質屋でえさを与えていたノラ猫だったが、この先住猫の寅次郎がいるので飼えないということだった。
「寅次郎が臆病おくびよう猫になったのは、けちべえのせいみたい」
「猫嫌いなのか?」
「そう、前の大家さんは寅次郎に餌もやってたし、自分ちでもゴマメって猫を飼っていて、そりゃもう可愛がっていたんだって。そうしたらけちべえが大家になって、ゴマメはいなくなったし、寅次郎を見ると、棒を持って叩いたり、蹴飛ばしたり」
「ゴマメって猫はどこへ行ったんだ?」
「違ったかな。けちべえが大家になる前って言ってたかも。忠太郎さんがお伊勢参りに出かけた頃から、ゴマメは姿を消した。何しろ猫なんで、二、三日姿が見えなくても気にしないから。飼い主以外は」
 そう言いながらお景はおひなの店の戸を叩いた。障子戸しようじどの向こうから弱々しい咳が聞こえる。「はい」という声がして、おひなが顔を出した。
 咳とともに病を含ませた空気が、薄暗い部屋から流れ出てくるようだ。
「お景ねえちゃん、なろうきちさんも」
 と病んだ空気を払う笑顔をおひなは向けてくる。まだ十二のこの少女は、成郎吉の名を正確に呼んでくれる数少ない一人だ。
 六畳間の奥の蒲団ふとんから、お糸があおさを通り越して蝋のような顔を向けていた。その蒲団からトラ柄の猫が飛び出して、天袋てんぶくろへともぐり込むのが見えた。寅次郎の臆病さこそ人参も効かない不治の病だろう。
「ほら、これ、にゃろが調達してきた。本物の、朝鮮人参。こいつを飲めば元気になるよ」
“本物の”を強調しすぎだ。
 けれども巾着袋を受け取ったおひなは、中の小袋を見てから顔を上げ、成郎吉をじっと見つめた。
 この少女は察しがいい。しかも、お景と違って成郎吉の正体を知っている。成郎吉が調達してきたという朝鮮人参の正体も“本物”だと分かったようだ。
「ありがとう」
 と朝の訪れを告げるような微笑みを向けてくる。こんな顔をされるので、つい成郎吉は頼まれもしない盗みばたらきをしてしまうのだ。成郎吉の弱みは女(と猫)に違いない。
 とはいえ人参なんぞでは、この娘とこの一家の窮状きゆうじようを救うことはできない。どうせ足を突っ込んでしまったのなら……。
 風が吹き、ザワとかやの葉がざわめいた。
 その時、ウギャッと叫んで、寅次郎が天袋から飛び出して、部屋の隅に立てかけてあった衝立ついたての影に逃げ込んだ。
 ウニャニャニャ(“でかい図体のくせに”と言ったように聞こえた)と、天袋から顔を出したのはクロ!
 まったくいつの間に入った? まるで忍者みたいじゃないか!(って忍猫だった)
 猫たち以外の四人は、ぽかんと天袋から見下ろしている黒猫を眺めている。
 あ、そうか、そういう手があった!
 成郎吉はほくそ笑み、こっくりと頷いた。

(第16回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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