双葉社web文芸マガジン[カラフル]

猫でござる~江戸にゃん草紙 / 柏田道夫・著

猫小僧成郎吉ねここぞうにやろきち 盗みばたらき
その二~にゃろきち、火消しになる

 天晴屋あっぱれやには行かずに、遠回りしてほとけ長屋に戻った。クロが新しい長屋の寝床に落ち着いているか気になっていた。
 ほとけ長屋に近づくと、鼻をかすめる匂いに緑色が混じる。浅草寺せんそうじ周辺は寺が多いせいもあって、線香は街の匂いだが、長屋の入口が仏具屋のせいで、特に鼻につくのだ。慣れるまでの辛抱だ。悪い匂いじゃねえし……。
 ところが、線香の匂いだけじゃねえものが成郎吉なろうきちを待っていた。またしても、よりによってである。
 みゃあお、という猫の鳴き声。クロではない子猫の、どこかで聞いたことがあるような。
 ろうそくの絵が描かれた障子しょうじ(前にろうそく屋が住んでいたとかで、やっぱりここのところ火がついてまわる)を開くと、クロと縞柄しまがらの子猫がじゃれ合っていた。
 寝っ転がったクロが、まわりながらちょっかいを出してくる子猫の攻撃を交わしている。大人猫の対応だ。
「お帰り、破れた障子張っておいてやったよ」
 とあねさんかぶりのおけいが顔を出す。いつものように女房気取り。
「な、な、な、なんだ、この猫」
「スズよ、名前がスズね」
 確かにスズだ。あの質屋の屋根にいた……。
「知るか? なんでス、猫がいるんだ?」
素猫すねこ? 猫に素とか、素じゃないのがいるのかね?」
「いや、そうじゃなくて」
「預かった。ノラだけど、もらい手が見つかるまでね。うちで飼ってもいいんだけど、おとっつぁんが、好きじゃないの知ってるだろ」
「だ、誰から?」
「おひなちゃん」
 あの飯炊めしたき娘! 
「おひな……って、知り合いか?」
「うん、ここを世話してくれたのが、おひなちゃんのおとっつぁんで、経師屋きょうじや喜八きはちさん。おひなちゃんは、諏訪町すわちょうの質屋で飯炊きをしてる。ほら、ぼや騒ぎがあった」
「あ~、そうか……その経師屋は半吉はんきっつぁんの知り合いなのか?」
「そう。仕事仲間だったみたい」
「ふーん……。で、喜八さん親子は、どちらにお住まいで。まさかこのほとけ長屋?」
「嫌だ、お住まいで、だって。違うよ。裏のかやの木長屋」
 塀をへだてた向こうにある長屋で、井戸の脇に大きなかやの木が植わっていた。
「喜八さんちにはもう猫がいるのよ。寅次郎とらじろうっていうんだけど、この猫が名前とは違って小心者でね、よその猫が来ると何も食べなくなるんで飼えないんだって。その点、さすがにクロだね、ちゃんと……」
 とお景がまくし立てていたら、「お景ねえちゃん、借りてきた」と娘が顔を出した。
 おひなだ。手に金槌かなづちを持っている。
 成郎吉はごくりとつばを飲み込む。
 突っ立っている成郎吉を、おひなはまばたきもせずに見つめる。あの夜と同じどんぐりまなこ
 仕方なく成郎吉は「やあ」と笑ってみせる。ほおが引きつっているのが分かった。
「あ、おひなちゃん、ありがとう。このバカづらがニャロね。なろうきち、クロの飼い主」
 おひなから金槌を受け取ると、お景は鴨居かもいから出たくぎをとんとん叩く。
「おう、よろしくな」
 おひなは何も答えずに、じっと見ている。
 成郎吉はそっぽを向く。すぐ脇の柄杓ひしゃくを手にして、置いてあるおけから水を汲む。
「あ、それ、雑巾ぞうきんがけの水!」
 成郎吉は盛大に水を吐き出した。
 お景の爆笑につられて、コロコロとおひなが笑った。スズがおひなの足に頭をすりつける。おひなが抱き上げて頬ずり。クロはニャアゴと鳴いて、大あくび。
 成郎吉は口を拭いながらおひなをうかがう。
 大丈夫そうだ。おひなは気づいていない。
 たぶん……(希望的観測)。
 天井の節穴ふしあなを眺めながら成郎吉は、頭の中で渦巻うずまいているここ数日のことを思い出していた。行灯あんどんの火が節穴を揺らし、天井も渦を巻いているようだ。行ったことはないが、瀬戸内海せとないかいの入口の鳴門なるとの海は、でっかい渦が絶えず巻いていて、腕っこきの漁師じゃないとかいを取られてしまうのだとか。
 今の成郎吉の頭も、何度も櫂を突っ込むのだけど、かえって渦は数が増えたりする。
 深川ふかがわを焼き出されて、クロの寝床が燃えてしまったことがケチの付け始めで、あれから悪いほうに悪いほうに向かっているわけだ。
 ちなみに、今、クロは押し入れで、お景があつらえた座布団の上でしょうがない風情ふぜいで寝ている。横にぴったりくっついてスズも。
 いっそのこと、クロを連れてここから消えちまえばいいのだ。これまでだってそうしてきた。生まれ育った戸隠村とがくしむらから、わけあって逃げて江戸に来て、できるだけひと所には住まないようにしてきた。にんで盗みばたらきを続けるための掟みたいなものだ。
 それが半年ほど前にお景の隣に越したことから、成郎吉に見えないくさりが付いているみたいになった。お景に何も告げずに消えたりすると、七代先までたたられそうだ。
 大島町おおじまちょうの長屋では「ほれ合っているんじゃねえか」ってからかうやつもいたが、お景も成郎吉も同時に首を横に振った。なのに何で、お景の命令に俺は従っているのか……。
 成郎吉はあの時みたいに首を振る。
 お景のことより、今度のやっかいごとだ。本当におひなは成郎吉をあの夜の賊だと気づいていないのか?
 あの後、お景が外に出たのを見計らって、成郎吉はおひなにかまをかけてみた。
「おめえ、質屋の火事を最初に見つけて消したんだってな?」
 おひなは何も答えず成郎吉を見つめた。
褒美ほうびなんぞもらえるんじゃねえか」
「……」
「そのスズも一緒だったんだって?」
 と聞いた時だけおひなは「うん」とうなずいた。
「火事を消して、スズを抱えてって大変だっただろうな」
 という成郎吉のひと言に、おひなは何か言おうとした。聞き取れない。
「えっ?」
 成郎吉が近づくと、ささやくように
「こわい」
 と顔をこわばらせた。
「何が?」
 という成郎吉の問いには答えず、お景が戻ってきて、その話は立ち消えになった。それからスズの頭を撫でて長屋に戻っていった。
 成郎吉は起き上がると、半分開いた押し入れをのぞく。行灯の揺れる火に、大きめの黒い真ん丸と、小さな縞のいびつな丸が並んでいるのが見える。
 猫っていうのは、無防備に眠る姿を見せているだけで、見てる人間の頬を緩ませる。特に縞のほうはまだ子猫だ。これほどに人の心を温める姿が他にあるだろうか? 怖れなんてかけらも感じさせずに、ふっくらと微笑ほほえんだままで眠っている。もわりとした腹の毛が、揺れる灯に合わせかすかに上下している。おのれの命と夢を告げる春のそよ風のように。
 クロがふいに金色の眼を開けて成郎吉を見た。声にならない声でニャと鳴く。
 成郎吉の頭の渦の中心を、櫂がとらえた気がした。
 やはりおひなは、成郎吉だと気づいている。
 そして、もう一度、助けを求めている。
 その願いに応えてやれば、もうひとつ残った懸念けねんも解消されるだろう。そう、あの夜になくしてしまった成郎吉の大切な道具、錠前外しに使った刃曲はまがりの行方も。
 次の日から、成郎吉はお景の眼を避けて、おひなを見張ることにした。
 おひなはかやの木長屋で、経師屋の父親と母親、妹と四人暮らし。まだ夜明け前に起きて母親の家事の手伝いをして、すぐ近くの諏訪町の質屋「ろくいち」に行く。今度は下女げじょの手伝い。飯炊きだけでなく、掃除や洗濯もこなして、夕方頃に自分の長屋に戻る。人手が足りない時はそのまま泊まり込む。火事を見つけた夜がそうだった。
 おひなは時々、後ろを振り返ったり、一人でいる時に不安そうなそぶりを見せたりする。それでも、成郎吉が秘かに見張っていることには気づいていない。そこはそれ、腐っても、というやつで、成郎吉は元忍者なのだ。
 長屋に戻る途中で、決まってほとけ長屋に寄る。成郎吉はむろん、煮売り屋の仕事に戻ったお景もいないのだけど、勝手に入り込んで(成郎吉は自分のたなに戸締まりなんてしていない)、スズとクロにえさを食べさせ、ひもで遊んでやったりする。
 スズのもらい手はお景が探しているが、あまり熱心じゃないのか見つかっていない(おひなが可愛がっていることと、なんとか父親を説得して飼おうとしているらしい)。
 スズと無邪気に遊ぶ時だけ、おひなは素猫ならぬ、素の十二の娘に戻るように成郎吉には見えた。それ以外はいつも不安の荷を背負っているようだ。おひなは間違いなく何かを怖れている。
 そして見張って七日目に、成郎吉はおひなの怖れの正体を見つけた。思ったとおり、あの夜に成郎吉に組み付いてきた印半纏しるしばんてんの男。
 男はかやの木長屋のおひなの店を窺っていた。その時は火消し半纏ではなく、とびの職人姿だったが、成郎吉はひと目で分かった。
 男は質屋に行くおひなを付け、気づいたおひなから逃げられたりしていた。
 成郎吉は男をけて素性すじょうを調べた。鳶人足にんそくで火消し「を」組の六之助ろくのすけ。歳は二十二。
「を」組は浅草界隈あさくさかいわいを縄張りとする一番大きな組で、かしらはかの新門辰五郎しんもんたつごろうだ。辰五郎は侠客きょうかくとしても知られていて、配下は二千人とも言われている。
 六之助は「を」組の人足たちがいる長屋に暮らしていた。年下の人足たちからは六アニイと慕われていたが、一方で「あいつは危なくって仕方がねえ」という評判も耳にした。
 火消しは誰よりも先に火事場に駆けつけ、組の名前が記された「消札けしふだ」を掲げることを誇りとしていた。その後で組のまといが立てられ、消火活動となる。たいていが火の拡大を防ぐために、火元の隣家を壊すのだが。
 六之助は他の組に先んじられても、平気で屋根に登っていくし、燃えさかる家に飛び込んでいったりするのだとか。
 鳶の仕事には身が入らずに、親方に盛んに小言を食らっているのも見た。
 ふてくされて親方の小言をやり過ごしている六之助を窺っていると、ふいに自分を見ている気に成郎吉はなった。へっついの中で燃え切らない生木なまきみたいだ。

 その生木がまさに火を吹いた。
 おひなが質屋「ろくいち」に泊まり込んだ夜、それも新月で星しか見えない闇夜。
 成郎吉はぼや騒ぎがあった質屋の植え込みにひそみ、窺っていた。
 質屋の庭は、石灯籠いしどうろうと植木の違いも分からないくらいに闇に埋もれている。しかし、夜目に強い成郎吉には見えた。
 火元になった台所口は真新しい板戸に換えられていたが、その下に黒い固まりが、ウゴウゴと呻いている。
――すまねえな、おひな。もうちいっと我慢してくれ。
 そう、うごめいているのは手足を縛られて、猿ぐつわを噛まされたおひなだ。
 シャクリと土を踏む草鞋わらじの音がして、男の影が転がったおひなに近づき、ばらばらと何かを置いた。納屋脇なやわきに積んであったまきだ。
 質屋の使用人たちの食事が終わり、井戸端で食器を洗っていたおひなが、忍び込んでいた六之助に拉致らちされた。悲鳴を上げる間もなくおひなは、縛り上げられ、納屋に放り込まれた。六之助の手際てぎわは素早かった。
 ごていねいに六之助は、残りの食器を洗い、きれいにかごに入れ、井戸脇に置いた。しばらくして、女中が様子を見に来たが、「なんだいあの子は、帰っちまったのかい」と籠を抱えて母屋に戻ってしまった。
 それから六之助は、二刻(四時間)近くも、家人がすっかり寝静まるまで納屋に隠れていた。
 一部始終を窺っていた成郎吉も。
 六之助が何をしようとしているのか、おおよそ察せられたが、言い訳ができない時に捕まえなくていけない。もうすぐだ。
 薪を並べると、六之助は腰に下げていた竹筒たけづつを外し、中身をぶちまける。潜んでいる成郎吉の鼻先を、油の匂いがかすめていった。今度は確実に火を燃え上がらせようという魂胆こんたんだ。それも邪魔じゃまなおひなごと。
 六之助はふところから何かを取り出した。両のこぶしを胸の前で合わせる。
 ヒュンと成郎吉は植え込みから跳んだ。しのびの技“飛燕ひえん”。
 同時にシュッと風を斬る音がして、「うわっ!」と六之助が小さな悲鳴を上げた。
 その手から火打ち石が転がり落ちた。
 成郎吉の投げた棒手裏剣ぼうしゅりけんは、正確に六之助の二の腕に刺さっている。
 六之助は腕を押さえ、地面に倒れた。成郎吉は背中の忍刀しのびがたなを抜くと、二度目の跳躍ちょうやくで六之助の脇腹を目がけて繰り出した。
 が、とっさに六之助は転がっていたおひなをたてにした。成郎吉は瞬間刃先をらす。ぶちりとおひなを縛っていた縄が切れた。
 六之助はおひなを抱えたまま、二回、三回と廻ると、立ち上がった。
「てめえ!」
 忍刀を掲げた成郎吉に六之助が吐き捨てる。
 じりじりと後ろに下がる。
盗人ぬすっと! てめえが火付けだ!」
 成郎吉は無言のまま、左手で帯を探り、二本目の棒手裏剣を抜く。
 まだ鈍っちゃいねえ! 闇夜でも、正確に敵のひたいにこれを打ち込む腕は持っている。
 成郎吉は左手を挙げた。
 その時、まばゆい光が右から左へと走った。
 龕灯がんどうだ。
 白い光の輪が、二人の男の姿をくっきりと捉えた。手裏剣を掲げた成郎吉と、猿ぐつわのおひなを抱き上げた六之助を。
「やめろ!」
 低いが地面にめり込むような怒鳴り声。
 成郎吉の側からは、逆光で顔は見えないが、声の主と、もう一人龕灯を掲げた大男。
 一度も会ったこともないが、声の男が誰なのか、成郎吉にも分かった。
 新門辰五郎。
「六、おしめえだよ!」
 辰五郎のひと言に、六之助は両手をダラリと下げた。
 おひなの身体からだがすとんと地面に落ちる。その勢いのまま成郎吉のほうに走り、抱きついた。
 成郎吉は忍刀を背中のさやに戻すと、おひなの肩を抱いてやった。
「すまなかったな。いくら手柄が欲しくっても、火消しがてめえで火付けをするなんぞ、を組の恥ざらしだ。こいつの始末はこっちでつけさせてもらう。その代わり、おめえさんがどこの誰かも聞かねえし、誰にも話さねえと約束する。それで勘弁してくれねえか?」
 成郎吉はこくりと頷いた。新門辰五郎が言っているのだ、聞かないわけにはいかない。
 おひなを背負うと同時に、成郎吉は光の輪から跳んだ。そのまま塀を越えて路地を抜ける。辰五郎たちからは、一瞬で闇に溶けたとしか見えないはずだ。
「ごめんな、怖かっただろ?」
 走りながら成郎吉が尋ねた。おひなはしばらく黙ったままだったが、
「ううん、来てくれると信じてた」
 と、背中に顔をつけたままで囁いた。成郎吉は一瞬胸が熱くなった。それを悟られたくなくて告げた。
「スズだけどよ、お景ねえちゃんが飼ってくれるってさ。半吉っつぁんに承知させた。いつでも会えるぜ」
「うん、よかった、クロにも会える」
 闇に眠る三間町さんげんちょうに入った。
「お景ねえちゃんには、内緒だぜ、俺のことも、今夜のことも」
「分かってるよ。スズとあたしだけ」
 ほとけ長屋はこの先だ。成郎吉は大切なことを聞いた。
「最初の夜だけどよ、スズを抱えて降りた時、俺が何か落として行かなかったか?」
「あ、あれ」
 やっぱり!
「ごめんなさい」
「ど、どうした?」
 成郎吉は長屋の入口でおひなを降ろした。
「見つかっちゃって、取り上げられた」
「え、まさか」
「うん、岡倉さま、同心の」
 なんてこった、よりによって……。
 逆巻さかまく渦を、なんとか乗り切ったと思ったけど、甘かったようだ。
 ほとけ長屋の自分の店から、ニャオと成郎吉を呼ぶクロの鳴き声が聞こえた。


(第11回につづく)

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柏田 道夫Michio Kashiwada

1953年東京都生まれ。青山学院大学文学部日本文学科卒。脚本家、小説家、劇作家。95年、第2回歴史群像大賞、第34回オール讀物推理小説新人賞を受賞。2010年、脚本を手掛けた映画『武士の家計簿』が大ヒットを記録する。近著に『しぐれ茶漬 武士の料理帖』 (光文社時代小説文庫)、『矢立屋新平太版木帳』 (徳間文庫)。

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