双葉社web文芸マガジン[カラフル]

キャンパー探偵 / 香納諒一・著

イラスト:チカツタケオ

第7回

見知らぬ町で

「ああ、覚えてますよ。このふたりなら、確かに昨夜、来ましたね」
 肉づきのいい店長は、房子が差し出すタカシたちの写真を見てすぐにうなずいた。ダブついた肉の中に、顔の骨格が埋まってしまっている男で、うなずくと下顎の周囲で肉が躍った。
「ほんとですか? 間違いありませんか?」
 驚きの中に喜びも込めて訊き返す房子の声には、かすかに疲労がにじんでいた。
 水森が作ってくれた店のリストは十軒前後で、その中には喫茶店や、高校の校門前にある定食屋なども交じっていたが、六軒めまではどれもが外れだった。初対面の人間に時間を取って貰い、事情を話して写真を見せ、質問を発する。そうした繰り返しは、ましてや初めて行う人間にとっては、非常に体力を奪う作業なのだ。
 七つ目に回った先が、この全国展開をする有名なファミリーレストランだった。ラッキー・セブンだ。
「ええ、間違いありませんよ。それに、その時間はちょっとした騒ぎがありましたので、よく覚えてます」
「騒ぎとは、どんな?」
「男のふたり連れのお客様が、周囲をはばからないような大声で喧嘩を始めたんですよ。私があわててとめに入ったんですけれど、収まらないで、一方のお客さんは、そのまま席を立って帰ってしまいました。その時、このおふたりは、すぐ近くのテーブルにいたんです。騒ぎが収まったあと、お騒がせして申し訳ありませんでしたと、御挨拶にうかがったのでよく覚えてます」
 私はひらめきを覚えて、房子に訊いた。「亡くなった椋原さんの写真はありますか?」
「ちょっと待ってください」
 房子がスマホを出して操作し、じきに写真を見つけた。どこかの家の庭先に数家族がつどい、バーベキューをしているところだった。椋原と房子、それに何人かが同じテーブルを囲み、椋原は酒が回った顔でレンズに笑いかけていた。
「ああ、この人ですよ。真ん中の人でしょ。昨夜、お連れと喧嘩してたのは、この人です」
 店長は、どれが椋原伴久かをこちらから指摘する前に、自分で指差した。
「なぜ喧嘩になったのかは、わかりますか?」
 私が訊いた。
「さあ、さすがにそれは……」
「およそどんな話をしていたのか、何か耳に入らなかったでしょうか?」
 店長は、迷った様子のまま、房子の顔にちらっと目を走らせた。母親は、懇願の目を浮かべていた。
「お客さんのプライバシーですから、私から聞いたなんて誰にも言わないでくださいね。――土地がどうした、とか、何かそんな話をしていたらしいのは、お茶を持って行ったウエイトレスが耳にしたみたいです」
「土地取引の話……?」房子がつぶやく。
「何か心当たりがありますか?」
 私は房子に訊いてみた。椋原は、房子の亡くなった亭主の兄なのだ。
「いいえ……、何も……」
「椋原さんが言い争いをしていた相手というのは、どんな男だったんですか?」
 ひとつ間を置くと、私は店長に問いかけた。
「きちんとした背広姿の人でしたよ。六十前後ぐらいでしょうか――。どこかの重役とか、何かそういった偉い方に見えましたけれど」
 私はもう一度、今度は少しためらったように見える間を置いてから、切り出した。
「防犯カメラを見れば、きっと写ってますよね」
「いや、しかし、それは……。お客様のプライバシーに関わりますので……」
「ちらっと見せていただくだけでいいんです」
「しかし……」
「お願いします。娘たちを助けていただけませんか」
 房子が懇願すると、店長は有り余る肉を垂らしてうつむき、しばらく思案顔をしていたが、どうやら母親の懇願が功を奏したらしかった。
「――ほんとに、この椋原さんという方は、昨夜、亡くなったんですか?」
「本当です。ニュースを見ていただけば、わかります。しかも、殺人の可能性があると言われて、娘たちが今、警察に事情を聴かれているところなんです」
「ちょっと待っててください。とにかく、防犯カメラの映像をチェックして来ますので」
 店長はそう言い置き、私たちを残して奥へと向かった。
 私たちは店の出入りに邪魔にならないようにと、壁際に移動した。午後のいわば中途半端な時間で、店は比較的、空いていた。幼子を連れた母親たちのグループが数組と、もっと年配の女たちのグループ、老人のカップル、それに仕事の休憩中、もしくはパソコンで仕事を片づけているふうのサラリーマン。
 すでに学校の就業時間はすぎていた。高校の制服を着たティーンエイジャーのグループが数組、テーブルの上に顔を寄せあうようにしてお喋りに興じるのが目についた。
「あれって、アカネたちの学校の制服です。うちの子たちも、時々、学校帰りに、あんなことをしてるんでしょうね」
 房子が声をひそめるようにして言った。
 それほど待たされることもなく、さっきの店長が戻って来た。
「それじゃあ、ちょっと事務所に来てください。でも、ほんとに、ちらっとお見せするだけですよ」
 顔を寄せ、辺りをはばかる小声で告げ、私たちを事務所へと案内してくれた。
 事務机に置かれたパソコンに、店のレジ付近を撮影した映像が、一時停止で表示されていた。
「この人ですよ。椋原さんという方が怒って帰ってしまったあと、お勘定をしている時の映像です」
「これは……」映像を目にして、房子がつぶやく。「もう少し、大きくなりますか?」
「そんなにはなりませんけれど、ちょっとだけならズームできますが」
 店長は椅子に坐り、キーボードを操作した。ズームし、マウスで顔が映像の中心に来るように調整する。房子が、それを凝視する。
「知っている人ですか?」
 尋ねる私のほうに向けた顔には、半信半疑の表情があった。
「ええ……、でも、どうしてこの人が……。これは、館さんの叔父に当たる西岡さんです」
 今朝、亀崎から聞いた名前だった。
「西岡悦也、ですか?」
「ええ、そう。西岡悦也……。でも、どうしてこの人が……」
 房子は、同じ言葉を繰り返した。「だって、もう四年や五年もの間ずっと、どこで何をしてるのかわからなかったんですよ」
 私は店長に対し、この防犯カメラの映像を警察に提出して欲しいと頼んで了承を得た上で、館勤と巡査の田澤に順番に連絡を取った。
 小一時間後、私と館、それに房子の三人は駐在所の前に立ち、田澤の到着を待っていた。ファミリーレストランから電話をし、防犯カメラの映像の件を告げ、昨夜の出来事を説明して聞かせたところ、折り返し田澤から連絡があった。そして、捜査員がファミレスに向かう一方、田澤自身は、アカネを連れて帰ると言われたのだった。
 やっと仕事が片づき、少し前に合流してきた館は、さっきから何度も腕時計を気にしていた。
「タカシが昨夜、椋原さんのことを待ち受けていたのは、たぶん私のためだと思います」
 またもや腕時計を覗きつつ、ぼそっと言った。
「どういうことです?」私が訊いた。
「――あいつはきっと、椋原さんの口から、西岡の居所を聞き出そうとしたんじゃないでしょうか。前の市長がリコールされ、その後、自殺した話は知っていますか?」
 館は、ちらっと私を見た。
「ええ、今朝、亀崎さんから」
「そうでしたか。やつがどこまで話したのかわからないが、あの一件に責任があるのは、市長本人ではなく、西岡悦也だった。私は、今でもそう思っています。大型のショッピングセンターができる時、藤尾という市長の親族が顧問を務めるデベロッパーが建設予定地の周辺を買いあさっている事実が判明し、市長は窮地に立たされました。そして、最終的にはリコールにまで発展した。しかし、そういった土地取引をすべて仕切っていたのは、西岡なんです」
「市長の藤尾は、何も知らないことだったと?」
「何も、とは言いません。しかし、少なくとも、一連の土地取引は、決して藤尾の指示などではありませんでした。西岡は市長の妹の亭主なので、テレビ局も、新聞も、当然、両者が関係しているものとして書きたてました。だが、藤尾の家というのは複雑で、長男である藤尾の下には、後妻の子がふたりに、藤尾の父が外で生ませたことが発覚した妹がひとりいたんです。西岡の妻になった女というのは、この妹でして、市長の藤尾とはまったく交流はありませんでした。西岡が、市長の遠縁に当たることを一方的に吹聴して回り、その立場を利用して土地を買いあさったんですよ」
「――しかし、ショッピングセンターの敷地自体が、市長の縁者のものだったとも聞きましたが」
「それも、亀崎から?」
「ええ」
「やつでさえ、そんなふうに理解してるんですね。確かに、あそこは市長の親類の土地でした。しかし、はとこですよ。ここいらじゃ、誰と誰が親戚だなんて話は、ざらにあります。その土地を売ったからといって、市長の藤尾に、ビタ一文入ったわけではありません。むしろ建設予定地として格好な場所をあれこれ探し回ったが、なかなか見つからない中、やっとのことであの場所に出会ったんです」
「――」
「市長の決断は正しかったと、私は今でも思ってます。あのショッピングセンターができたから、この駅前の商店街が全滅したと言う人がいますが、それは、残念ながら間違いですよ。ショッピングセンターができなくたって、商店街はすでにじわじわと死に始めていたんです。こんな田舎町でも、うちのような洋品店が成り立っていたのは、かつてはもっと大勢の家族がいたからです。肉屋だって、八百屋だって、魚屋だってそうです。ショッピングセンターができたから、店を閉めざるを得なくなったわけじゃない。元々、青息吐息だったんです。私はね、辰巳さん。今の店で職にありつけたことに感謝してるんです。あのまま、駅前の商店街で洋品店をやってたところで、もう先はなかったでしょう。私ももう五十を越えましたが、せめてタカシが成人するまでは働いていたい。新たな職を得たことで、やつを大学に行かせられるメドも立ちました」
「――」
 黙って私たちのやりとりを聞いていた房子の視線が道の先へと動き、パトカーが一台、こちらに近づいて来るのが目についた。
 駐在所のすぐ隣が、駐車場になっている。田澤はそこにパトカーをバックで入れた。後部シートに、アカネがひとりで坐っていた。
 アカネは最初、房子の視線を避けるようにうつむいていたが、運転席から降りて後部へと向かった田澤がドアを開けてやると、母親の胸を目指して飛び込んできた。
「ごめんなさい、お母さん」
 房子は体を伸びあがるようにして、自分よりも背が高い娘の耳元で何かささやきながら頭を撫でた。
「――田澤君、タカシのほうはどうなってるんでしょう?」
 館が訊く。小さな、怯えた声だった。
 田澤は、苦し気に顔をしかめた。
「残念ですが……、タカシ君の取調べはまだずっと継続したままです。ライダーグラブについていた血が、問題になってるんです。鑑識の結果、やはり椋原さんの血だとはっきりしました」
「――しかし、それは言い合いになり、つい手が出てしまっただけで橋から突き落としていないと、本人がそう主張しているのではないんですか?」
「客観的に、まだその事実を確認できないんですよ。タカシ君と椋原さんが、あの橋の上で言い争いをしていたのは、十時前後でした。その点は、夜釣りをしてた斎藤さんの証言からもはっきりしています。その後、生きている椋原さんを見た人間が誰か現れるとかすれば、タカシ君への嫌疑も一応は晴れるのですが……。でも、奈美さんも昨夜は、友人たちと一緒に食事をしてからカラオケに回ったそうで、御主人に会っていません。一時ぐらいに帰宅した時も、椋原さんは家にいなかったと言ってるんです」
 母親の腕の中で傷を癒すようにおとなしくしていたアカネが、田澤の話を聞いて目を三角にした。
「だから言ってるでしょ。奈美おばさんが怪しいって。きっとあの人は、嘘をついてるのよ」
「やめなさい」
 房子がとめたが、娘は聞かなかった。
「事件になったのだから、田澤さんだってよく知ってるでしょ。私、あのことを取調べの刑事さんにも話したわ」
「何のことです?」
 私が訊くと、田澤は困惑した様子で口を開いた。
「先月、椋原さんが暴力をふるって、奈美さんが顔や上半身にいくつも大きな痣を作ったことがあるんです。外に逃げ出した奈美さんを、椋原さんが追いかけ、大騒動になって、通報を受けて駆けつけました。椋原さんも、元々はあんな人じゃなかったんですが、市議会議員を落選したあと、脳梗塞で体が思うように動かなくなって、鬱屈がたまってたんじゃないでしょうか」
「暴力をふるうことが、何度かあったんですか?」
「ええ……。最近は、かっとして何度かあったようです」
「だけど、それは奈美おばさんにだって原因があるのよ。ネイルサロンのお客さんたちとつるんで、飲み歩いてばかりいたって、有名よ。奈美おばさん、本当はもう椋原の伯父さんと別れたがってたんだわ。ね、そうでしょ、ママ。でも、伯父さんは奈美おばさんとは別れられない。だから、おばさんが伯父さんを殺したのよ」
「やめなさい。子供が口を出すようなことじゃないわ」
 房子がぴしゃりと制し、
「あなたは、車に乗っててちょうだい」
 自分の車を指して命じた。
 アカネは母親を睨んだが、案外と素直に従った。たぶん、これがこの母子のいつものやり方なのだろう。
「聞かれて困るような話は、なるべくあの子のいるところじゃあしないように気をつけてたんですけれど……。もう、子供扱いもできないですね……」
 房子は溜息混じりに、誰に言うでもなく言ってから、芯の強さがわかる顔つきに変わった。彼女の亡くなった亭主は、椋原伴久の弟だった。何か、知っている話があるらしい。
「奈美さんの父親で、亡くなった藤尾市長は、あちこちに不動産を持っていて、それを娘の奈美さんに残しました。椋原さんは、奈美さんのその財産を必要としてたんです。選挙に落選してから、一応は党の職員として働いていましたが、大した収入にはなりません。離婚したくたって、夫は絶対に受け入れてくれない。選挙に出て、もう一度市議会議員になるのが、死んだ市長への手向けなんだと、そんな理屈をもう何度も聞かされてうんざりしてると、奈美さんがこぼすのを聞いたことがあります。――だけど、だからといって、それで御主人を殺したりなんて……、私には信じられませんけれど……」
「――しかし、隣町のファミレスで、西岡悦也と椋原さんが会っていたというのが気になるんです」
 田澤が言い、館を向いた。
「館さんは、西岡さんの近況については、何か?」
「いいや。市長の藤尾さんが自殺した頃に姿を消して以来、何の音沙汰もないままですよ」
「気になるというのは、なぜです?」
 私がうながしてみると、田澤は言葉を選ぶような間を置いた。
「西岡悦也ですが、どうも東京で詐欺を働いていた疑いが持ち上がってるそうなんです。半年ほど前に、ある地面師グループが検挙されたんですが、そのグループが土地を転がす過程で、西岡悦也も介在していたんです。善意の第三者を装いつつ、詐欺に関わっていた可能性があるとして、一時期は捜査対象だったんですが、結局、その時は立件できずに見送られたと聞きました」
「地面師というのは――?」
 房子が訊く。
「わかりやすく言うと、他人の土地を自分のものであるかのように装ってお金を騙し取る詐欺師のことです」
「じゃあ、椋原さんがファミレスで西岡と言い争いをしてたというのも……?」
「何か土地絡みで騙されていたとか、騙されそうになっているのが発覚して、怒り出した。そういうことかもしれません」
「西岡悦也の行方について、何か手がかりは?」
 館が訊いた。
「いいえ、今のところはないようです」
 私は房子に頼み、車に大人しく坐っているアカネを外に呼んで貰うことにした。
「昨日のことを、もう少し詳しく話して欲しいんだ。きみとタカシ君は、夕食を摂りに立ち寄ったファミレスで、偶然、西岡と言い争いをする椋原さんを目撃した。そうなのか?」
「それは、ちょっとだけ違うわ。奈美おばさんがやってたネイルサロンが、この間、潰れたのよ。ショッピングセンターの、すぐ近く。バイクでその前を通ったら、椋原さんと西岡さんが、店舗の前の駐車場で何か話してたの。私たち、驚いて、それでそっとあとを尾けたのね。そしたら、あのファミレスで、椋原さんが突然、怒り出したのよ」
「なぜ怒ったのか、何かやりとりは聞こえたか?」
「いいえ、それほど近くまでは寄れなかったから。でも、言い争いっていうより、椋原さんが一方的に怒ってるみたいだった」
「で、そのあとはどうしたんだ?」
「そのあとは、二手に分かれることにしたわ。タカシは椋原さんのあとを追って店を出たけれど、私はそこにもうしばらくいて、西岡のあとを尾けた。でも、駅前で見失っちゃった。タカシは椋原さんが電車に乗ったので、バイクで先回りしてここの駅で待ってたのよ」
 私は、黙って頭を整理した。
「どうしました? 何か思いついたことがあるんですか?」
 房子が訊いた。黙って私を見つめる田澤や館たちも、私の考えを聞きたがっているのが感じられた。
「いいえ。ただ、ちょっと確かめたいことがあるんです。椋原さんの、自宅の場所を教えて貰えますか」
 私は言葉を濁し、そう尋ねた。
10
 椋原伴久と奈美がふたりで暮らしていた家は、大きかった。四方を囲んだ塀も、その向こうにそびえる甍と二階家の外壁も、どれもが見栄えと丈夫さに長けた新建材だった。こういう家を田園風景の中で目にするたび、周囲の自然とアンバランスに感じるのは、私の勝手な好みにすぎないだろう。いくら土地の値段が安い地域とはいっても、土地と家屋で軽く億を超える値段なのは確かだった。
 インターフォンを押してしばらく待ったが、返事はなかった。もう一度押して待ってみると、「はい……」と、うつろな声がした。
 私は身分を名乗り、昨日、亀崎のガソリンスタンド兼整備工場の表で会い、さらには椋原の遺体が発見された現場にも居合わせたことを説明した。
「このたびは、御愁傷さまでした。こんな時に申し訳ないのですが、少しお話を聞かせていただけないでしょうか?」
「探偵って、どういうこと? あなた、探偵だったの……? なぜ、そんな人が、うちの人のことを調べてるんですか?」
 声に、あきらかな警戒がにじんでいた。
「館さんから頼まれて、椋原さんが亡くなった時のことを調べているのですが、ほんのちょっとでけっこうなんです。『殺してやる』とタカシ君が大声を上げた時、奥さんも椋原さんと御一緒だったんですよね」
「ええ、まあ……、そうですけれど……。必要なことは、全部、警察に話してあります。私、疲れてるので、帰ってください」
「長居はしませんので、お願いします」
「――そんなことを言って、どうせあなただって、私が主人を殺したと思ってるんでしょ」
 まるで世界中を敵に回しているかのような頑なさが伝わってきて、私は戸惑いをおぼえた。
「いいえ、思っていません」
 向こうからは、レンズ越しに私の顔が見えていることを意識しつつ、私は答えた。
「嘘よ。うちの夫婦仲のことでみんなが噂してるのは、私だって知ってるのよ。ついさっきまで、警察がここにいて、根掘り葉掘りとそのことを訊いていったし。あなただって、私が主人を殺し、事故に見せかけるために川に運んで捨てたと思ってるんでしょ」
「いいえ、違います」
「――だけど、うちの夫婦仲の話は聞いたでしょ」
「聞きましたが、しかし、私は奥さんを疑ってはいません。今朝、あなたは川に横たわる椋原さんの死体を御覧になった時、真っ先にタカシ君が『殺してやる』と喚いていた話をしました。事故を装って殺したのならば、そんなことを言うはずがない」
「――自分が殺したので、警察の目をそらすために言ったのかもしれないわ」
「警察が事故と断定すれば、それで終わりですが、事件性があると判断すれば、結論が出るまで、延々と捜査が続けられます。事故を偽装した犯人が、みずから事件だと騒ぎ立てた例は、私が知る限りではありません」
「――」
「お願いします。ちょっとの時間でいいので、会って話を聞かせて貰えませんか?」
 重ねて頼むと、椋原奈美は渋々、時間を取ってくれることに同意した。ガレージのシャッターと門が並んでいた。その門の電動ロックがはずれ、私は敷地の中へと入った。
 玄関へのアプローチに添って、右側と正面は西洋芝の施された前庭になっており、左側は二台は駐められる駐車場だった。
 そこには今、真っ赤なポルシェが駐まっていた。
 玄関が開き、椋原奈美が姿を見せた。急ぎ足でこちらに近づいて来た。白いブラウスに、茶のマルチストライプのワイドパンツをはいていた。今もまたブルーの大きなサングラスをしているため、近づいて来てもなお、目の表情は窺いにくかった。
「悪いけれど、人を中に上げる気にはなれないの。ここでいいでしょ。確かにタカシは、『殺してやる』って喚いたわよ。体が大きな高校生だから、傍で聞いていて、私も恐ろしくなりました」
 早口で、いくらかまくし立てるように言った。
「その時のことなんですが、ふたりが言い争いになった原因は、タカシ君がアカネさんを連れ歩いていたこと以外にも、何か理由があったのではないですか?」
 私は、用意していた質問を口にした。
「――どういうこと。わからないけれど?」
「椋原さんの遺体が見つかった場所の橋の上で、昨夜、椋原さんとタカシ君が言い争うのを聞いてた人がいるんです。その人の話によると、椋原さんはタカシ君に向かって、『おまえの親父に訊いてみろ』とか、『おまえの親父だって同罪だ』とか、そんなふうにののしっていたらしい」
「それでうちのは橋から押されて、下に落ちたってことなんでしょ……」
「いいえ、それはまだわかりません。ただ、私はこの話を聞いて、ふたりが言い争っていた原因は、アカネさんのことではなく、椋原さんとタカシ君の父親である館さんの間のごたごたにあるのではないかと思ったのですが」
「そんなことを言われたって、わからないわ、私には――」
 奈美は少し斜めを向き、半ば吐き捨てるように言った。オートロックを外して中に入れてしまったことを、悔やみ出しているらしい。
「奥さんも、西岡悦也という男を御存じですね。館さんの叔父に当たる男です」
 私は、ぶつけた。
「もちろん、知ってはいますよ。叔母の亭主だった男だもの……」
 と、奈美は返した。この事件に絡んだ多くの人間が、婚姻関係でつながっている。たぶん、それが人間同士の感情を複雑にしている一因なのだ。
「でも、どうして……?」
「昨夜、御主人は寄合に行くと言って御自宅をお出になったそうですが、実際には行っていなかった。隣町のファミレスで、西岡さんと会っていたんです。椋原さんは西岡さんに激しく怒り、最後には先に店を出たそうです。知っていましたか?」
 奈美は、戸惑いを露わにした。
「――いいえ。そんなことは、初めて聞いた」
「それを、偶然、タカシ君とアカネさんのふたりが目撃していました。タカシ君は、それで椋原さんを追った。駅に入ったので、電車でこの町へ戻ると踏み、バイクで先回りして椋原さんを待っていた」
「何のために、よ――?」
「椋原さんと西岡さんが、何をしていたのかを確かめるためです。だが、おそらくは機嫌が悪かった椋原さんは、『おまえの親父に訊いてみろ』と取り合わず、『おまえの親父だって同罪だ』とののしり、タカシ君をはねつけた。喧嘩になり、タカシ君は咄嗟に椋原さんを殴ってしまった。橋の上で起こったのは、そういうことだと私は思っています」
「ちょっと待ってよ……。だから何なの? 私、別にそんな説明を聞きたくないのだけれど。いったい、何のためにここに来たの?」
「椋原さんと西岡さんがどんな話をし、そして、椋原さんがなぜ西岡さんに激怒したのかを確かめるためです。西岡悦也は御主人に、土地取引の話を持ちかけていたのではないかと思うのですが、何か御存じではありませんか?」
「土地の取引……? そんなの、あり得ない……。何かそんな話があれば、主人から聞いてるはずだもの……」
「最近、西岡悦也からお宅に連絡があったことは?」
「いいえ、ありません。そもそも、あんな男が連絡をしてきたって、取り合わないわ。父は、あの男のせいで死んだようなものなのよ……」
「あなたが経営なさってたネイルサロンが、大型ショッピングセンターのすぐ傍にありましたね。タカシ君たちは、昨日、御主人と西岡悦也のふたりが、そこの駐車場で何か話すのを目撃したそうなんです。この話を聞いて、何か思い当たることはありませんか?」
「――」
「もしかして、あそこはあなたの土地ですか?」
「――そうだけれど」
「今でも?」
「ええ」
「その土地を手放すといったような話は?」
「いいえ、ありません。ほんとよ。主人から、そんな話なんか何も聞いてないわ……」
「他にも、あなた名義の土地がある?」
「ええ、そう……。だけれど、大きいのはあそこだけ。あそこは、父が私に残してくれたものなのよ……」
 私は、言葉を選んだ。
「椋原さんは脳梗塞の後遺症で、車の運転ができなかった。それで、昨日、私が亀崎さんのところであなたたち御夫婦に出会った時も、あなたが御主人をポルシェの助手席に乗せておいでだった」
「ええ、そうよ」
「しかし、昨夜は、寄合に行くと嘘をつき、電車でひとりで出かけて行った。そして、ネイルサロンがあった場所で西岡悦也と会った。あなたには知られたくない話をするつもりだったと思うんです。土地関係の登記簿を、最近、確認したことは?」
「――いいえ、ないけれど」
「確かめてみていただけませんか?」
 椋原奈美の顔が、不安で曇った。左の二の腕を掴んだ右手の指先を躍らせていた。そうしながら、嫌な想像が大きくなるのを抑え込もうとしている。
「わかった。ちょっと待っててください」
 いったんそう言ったものの、すぐに言い直した。
「いえ、一緒に来てちょうだい」
 
 リビングに通され、待たされた。長くはかからなかった。だが、その間に、部屋の片隅に、私は気になるものを見つけていた。
 椋原奈美は、サングラスを外して真っ青になって現れた。
「こんなことが、あるわけがない……。あそこは、私の最後の城なんだもの。あそこはね、父が残してくれたものなのよ」
 私を見ているのに見ていないような落ち着きのない目をし、さっきしたのと同じ主張を、もっとずっと激しい口調でまくし立てた。
 私はソファから立ち、彼女のもとへと駆けつけた。
「落ち着いてください。どうだったのか、落ち着いて話してください」
 彼女は私の顔を見上げたが、それでもなお視線を向けられている実感がなかった。ぽっかりとした空洞が、目の前の女の顔にふたつ空いている。
「私の土地が、担保になってるのよ……。ネイルサロンだった場所も、この家もよ。私の土地を担保にして、合計で一億近い金額をあちこちから借りてるの。私、何がなんだかわからない……」
 私は、彼女をソファに連れて行った。坐らせてやり、
「何か飲みますか?」
 と尋ねたが、耳に入っているようには見えなかった。
「ねえ、どういうことか、説明して……。探偵なんだもの……。あなたなら、何か見当がつくんじゃないの……?」
 私は、口にするのをためらった。目の前の女にとっては、残酷極まりない話になる。
「――西岡悦也は、東京で地面師のグループとつながりがあったらしい」
 低い声で、告げた。女は私の顔を見つめた。サングラスをはずした顔を見るのは、初めてだった。美しい女性だった。気の強さが感じられる顔だちをしていた。だが、芯の強さとは違う。幸福を感じるのに、自分以外の様々なものの支えを必要とする人間の顔だった。
「だけど、よくわからない。なんで私の土地が担保に入ってるの……? 西岡がやったと……?」
「いいや、おそらくは御主人があなたに内緒で」
「――なぜ、そんなことを?」
「西岡にたぶらかされたんだと思います。西岡は、五年前、巨大なショッピングセンターが造られた時、その周辺の土地を買いあさっていたんでしたね。そして、それを転売して利益を得た。たぶん、同じことができるといった話を、御主人に持ちかけたんでしょう。舞台になったのは、あなたがやっていらしたネイルサロンの周辺の土地だと思います」
「――だから、昨日も、そこで主人と西岡が立ち話を?」
「あの辺りに新たな土地利用の計画が持ち上がっている。これはまだ誰も知らない話だが、今のうちに周辺の土地まで買いあさっておけば、ネイルサロンの土地と合わせて莫大な儲けになる。――これは推測にすぎませんが、たとえばそんなふうに持ちかけ、土地を担保に借金をさせたのではないでしょうか」
「だけど、そうしたら、そのお金は……?」
「西岡に渡ったんでしょう。しかし、御主人はたぶん、やつのイカサマに気づいたんです。あるいは、疑いを抱いて問いつめたのかもしれない。いずれにしろ、それでファミリーレストランで西岡を怒鳴りつけて、席を立った。詳しいことは、警察が調べてくれます。すぐに連絡したら、どうでしょう」
「でも、西岡が主人を騙したんだとしたら、そのお金は……?」
 彼女の切羽詰まった表情に気圧され、私は言葉に詰まった。大概の詐欺事件の場合、騙し取られた金は返らない。慣れた詐欺師は、すぐに手を打ってしまうのだ。
「とにかく、一刻も早く警察に西岡の身柄を取り押さえて貰うことです」
「そうか……、そうね……。そうよね……」
 奈美は虚ろな表情で電話に向かい、受話器を取り上げた。ふっと動きをとめていったん戻し、バッグから札入れを出し、その中にしまってあった名刺の番号へとかけた。
 電話に出た相手に、本人を頼むと告げ、いないと言われたらしく別の人間が話を聞き始めた。彼女は、自分の土地が知らない間に担保になっていたことの説明を始めた。
 段々と説明する口調に落ち着きを取り戻したのは、相手が質問をして話を引き出すことに長けた玄人だからだ。しかし、それ以上の力にはなれないのだ。
「じきに、誰かが話を聞きに来てくれるそうよ」
 受話器を戻してこちらを振り向いた奈美は、力なく言った。
「ねえ、あなた、探偵なんだもの。西岡悦也を捜してくれないかしら。もちろん、ちゃんと謝礼は払うわ」
「捜して、どうするんです?」
 簡単な質問をひとつすると、黙り込み、ソファにすとんと腰を落とした。
 彼女の顔が苦痛にゆがんだ。財産を失って生きねばならない未来への恐れと、そんな未来を自分にもたらした人間への恨みが渦巻き、のしかかり、見る見るうちに疲弊していった。
「父は、町のために奔走してた……」
 か細い声が、唇から漏れた。
 そして、堰を切ったように言葉があふれてきた。
「市長の職に就く前も、就いてからだって、ただの一度だって私腹を肥やすために動いたことなんかなかった……。いつでも、あの人は、この市全体のことを考えていたのよ。郊外型の大型ショッピングセンターを造った時だって、考えていたのはみんなが便利で幸せな生活を送ることだけだった……。反対する人たちは、地域のコミュニティーを壊すのかと言って父を罵倒したわ。賛成する人たちは、何もかも父におんぶに抱っこで、自分たちでは何ひとつ動かないまま、甘い未来を夢見てた。西岡が裏で勝手におかしなことをして、父が私腹を肥やしてるような噂が立った時、そういう人間の誰も彼もが束になって、一斉に父を非難し出したの……。誰ひとり、父がする説明に耳を傾けようとはせず、ヒステリックに糾弾した。そして、父は市長の座を追われて自殺した。――だけど、どうなの。見てよ。大型のショッピングセンターが完成したら、誰もが大喜びで利用してるじゃないの。それなのに、誰も父のことなど思い出しやしない」
「――」
「椋原と相談して、同じ国道沿いの土地にネイルサロンを開けることにした時、内心ではためらいもあったわ。同じやるなら、ショッピングセンターに来るお客さんが、買い物のついでに立ち寄れるような場所がいいと言われて決断したけれど、何か納得できないままだった……。でも、そのネイルサロンを、この間、閉めたの。ショッピング・センターの中に同じような店ができて、元々、頭打ちだったお客さんがよけい減ってしまったためよ……。惨めだった……。みんな、何て言ってるか、なんとなく予想がついた……。こんな町じゃ、ネイルサロンなんか、元々無理だったの……。お客さんが来ない日、店の窓から、ぼんやりと国道を眺めてた……。時々、店の前を知ってる車が通ったわ。ちらっとこっちを窺うのがわかる。夫婦で乗ってる時も、家族連れの時もあった。でも、お店に寄ってくれる人は、誰もいない……。だから、表なんか見なければいいのに、気がつくと、ついまた見ちゃってるの……」
 奈美は言葉に詰まって黙り込んだ。他人の前で涙を流すのは、彼女のプライドが許さないのだ。
 やがて、私のほうに向けた顔に、ぽっと灯りがともっていた。
「ねえ、もしかして、西岡悦也が、主人を殺したの? あなたは、そう思ってるんじゃないの?」
 深刻そうな顔と口調で訊いてきたが、そうであればいいとの期待が見え隠れしていた。本当にそうなら、いくらかでも溜飲が下がるのだろうか。
「いいえ、思っていません」
「それなら、誰がいったい……?」
「それを確かめるために、もう少し教えて欲しいことがあるんです。あそこにあるのは、スポーツジムのバッグですね」
 私は、リビングの端っこに置かれたバッグを指差した。
(第8回へつづく)

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香納 諒一Ryouichi Kanou

1963年横浜生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務の傍ら、91年「ハミングで二番まで」で第13回小説推理新人賞を受賞し、92年『時よ夜の海に瞑れ』で長編デビュー。99年『幻の女』で第52回日本推理作家協会賞長編賞を受賞する。他に、『梟の拳』『贄の夜会』『ステップ』『幸』『無縁旅人』『心に雹の降りしきる』など著書多数。

香納諒一の好評既刊

  • 双葉社
  • 小説推理
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