双葉社web文芸マガジン[カラフル]

キャンパー探偵 / 香納諒一・著

イラスト:チカツタケオ

第4回

見知らぬ町で

 小川のせせらぎを聞きながら空を見ていた。ゴールデン・ウィークが終わって一週間、まだ梅雨が始まるには間がある五月の空には、色と輪郭のしっかりとした白い雲がゆっくりと流れていた。
 なんとなく愛着を覚えた形の雲が、最初はかるく首を右に傾けて眺める辺りにあったのに、風に流され、今では風下に並ぶ里山の向こうへと流れ去ろうとしていた。
 里山の新緑がきらきらしている。
 田植えを終えたばかりの田んぼの表面を、やはり若い緑色をした苗をなびかせながら風が吹いている。空を映した水面に、風の渡る道が見えた。狭い舗装道路の先の木陰に、古びた鳥居が見え隠れしている。森の中に神社があるのだろう。
 コンクリートで固められた小川の土手から引き抜いたタンポポの綿毛を吹いて飛ばした。ゆらゆらと舞い上がり、一番うまく風に乗った綿毛の行方を目で追っていると、車の近づいて来る音がしたが、私はほとんど注意を払わなかった。
 滅多に車が通らない道だった。最初のうちは、エンジン音が聞こえるたびに振り向いていたのだが、そのどれもがただ素通りするだけだった。
「エンジンがやられちまったってのは、あんたかい」
 背後から声をかけられて振り返ると、路肩に停めた軽トラックから降りてきた、痩身で筋肉質の男がにこにこしていた。短く刈った頭髪に大分白いものが交じってはいるが、五十代の半ばか前半ぐらいだろう。白いTシャツの上に、おそらくは作業着代わりにしているらしい油染みだらけのデニムのオーバーオールを着ていた。
 私は尻をはたいて立ち上がった。
「そうです」
「待ったか? 待ったよな。申し訳ない。ひとりでやってるもんでね。時間までに仕上げにゃならない車があって、手が離せなかったんだ」
「いえ、のんびりしてましたから」
 私はまだ手にしたままだったタンポポに気づいて捨て、土手を上った。
「こいつだね」
 と、男は私のワーゲンバスを指して確かめ、
「ちょっと待っててくれ。そこでUターンしてくるから」
 と言うと、ちょっと先で舗装道路と交わっている田んぼのあぜ道に軽の鼻づらを突っ込み、切り返して戻って来た。
「じゃ、行こうかね。引っ張っていくから。もうちょっと待っててな」
 男は言って自分の軽をワーゲンバスの前方に回した。車を降り、ロープで二台をつなぎ始める。
「前に牽引されたことはあるのかい?」
 手を動かしながら、ちらっと私を振り返って訊いた。
「ええ、一度」
 それもこのワーゲンバスに乗り換えてからのことだった。その前の愛車であるチェロキーと比べると、故障する確率が断トツに高い車だった。このワーゲンバスを譲ってくれた友人からも、こう言われたものだった。
 ――気まぐれな女を扱うように扱えよ。
 と。
「そんならわかると思うが、牽引のロープがたるまないように気をつけていてくれ。後ろからおかまを掘られちまったら、かなわんからな」
 私は了解したと答え、ワーゲンバスの運転席に乗り込んだ。
 作業を終えた男が、私のほうに寄って来た。
「俺は亀崎だ。亀崎敏郎。よろしくな」
「辰巳です。辰巳翔一。よろしくお願いします」
 つられてフルネームを名乗る私に、亀崎は爪や細かい皺が黒く染まったごつい右手を差し出した。
 軽トラックに戻り、運転席から手を突き出して親指を立てた。
 私はサイドブレーキを解いてギアをニュートラルに入れた。

 修理工場まで、時速三、四十キロで牽引されて進んだ。私のワーゲンバスにはヒーターはあるが、冷房といった気の利いたものはついていない。真夏の太陽がかんかんと照りつける時刻の移動にはかなりの覚悟が必要だが、五月の今、窓を全開にし、しかもこうして引かれていると、風に包まれる感覚がこの上なく心地よかった。
 遠くの山並みが車窓をゆっくりと流れ、峰筋を変化させていた。いくつかの頂は、今なお雪を抱いていた。途中、小さな公民館と、それよりもさらに小さな図書館を見た。小学校の校庭は広かった。そこで少人数の児童たちが体育をしていた。音楽教室からのものと思われる歌声が、五月の風に乗って聞こえてきた。
 国道に出た。バイパスが別にあるためだろう、午後の中途半端な時間の今、走行車は少なかった。何軒かのシャッターを下ろした商店と出くわしたあと、都会では考えられないほどに広い駐車場を持つコンビニエンスストアを通りすぎた。
 その少し先で、やはり大きな駐車場を従えたドラッグストアを見かけた。ラーメン屋、牛丼屋、それに回転ずしといった系列店の店舗がとびとびで現れたが、それらの間をつなぐのは、昔ながらの民家と田んぼの田園風景だった。
 信号に引っかかり、亀崎の軽トラックが停車するのに合わせて私もブレーキを踏んだ。進行方向左側にJRの線路が並行して延びていて、右側には田んぼの大分先に、この国道よりもかなり多くの車が通過する道が見えた。
 この交差点が駅への進入路であることに気づいて左を見ると、五、六十メートル先の道のどんツキに、小さな木造の駅舎があった。
 私はふと、鮮やかな赤に目を惹かれた。駅舎から線路伝いに延びた道の先に廃屋らしき建物があり、その裏手に真っ赤な車が停まっていた。ポルシェらしい。巨木の木陰に休む車体の表面で、木漏れ日がキラキラ跳ねていた。
 信号が変わった。軽トラが動き出し、ロープがピンと張り、私は微かな反動を体に感じた。
 信号につかまって停まった時に気づいた通行量の多い右手の道は、思った通りバイパスだった。
 それがこの国道とX状に交わる付近に、今度は巨大なショッピングセンターが現れた。野球場やサッカー場二、三個分はある広さの駐車場の向こうに、スーパーマーケット、ホームセンター、ドラッグストア、それに飲食店や千円床屋などが、それぞれ目立つ看板を掲げて並んでいた。
 その先はまた民家と田んぼばかり。国道は徐々に線路に接近し、やがて踏切で反対側へと渡った。踏切の向こうには、距離からして、さっきの駅から数えておそらくはふたつか三つめぐらいに思える駅の駅舎があった。
 亀崎が運転する軽トラックは、その駅へと近づいていった。駅舎はコンクリート二階建てだった。ターミナルもさっきちらっと見えた駅よりもかなり広く、バス停で数人の老人たちがバスを待っていた。タクシー乗り場には、客待ちのタクシーが一台だけあった。
 ターミナルを囲んで数軒の店があり、そのいくつかはビルだった。駅舎を背にして真っ直ぐ伸びる道が、この町のメインストリートだろう。綺麗に整備された道だった。
 軽トラックはそちらには曲がらず、ターミナルを回り込んで線路沿いの道を直進した。駅から徒歩で数分ぐらいの距離のところに、片側一車線の道路に面して、ガソリンスタンドが立っていた。
 亀崎はウインカーを出してそこに入った。その途中で私は、ガソリンスタンドと整備工場が隣接していることに気がついた。事務所風の建物の隣に、車が横に二台、縦にも二台ぐらいは入りそうな広さの整備工場が立っていた。車が一台、その入り口脇に停まっていた。
 牽引されて整備工場の中へと入り、陽光の下で縮まっていた瞳孔が広がった。私はサイドブレーキを引いてワーゲンバスから降りた。薄暗く、油の匂いの強い場所だった。
 牽引されて、二十分ほどのドライブだった。これでも車がエンコした場所から最寄りの修理工場が対応してくれたはずだった。
 
「待たせちゃって悪かったな」
 亀崎は丁寧にもう一度詫びを述べ、名刺を私に差し出した。
「これに氏名と住所を書いてくれ。エンジンが動かなくなっちゃったんだよな」
「ええ、セルは回ってるんですけれど、エンジンがかからないんです」
「プラグかな。ま、とにかく、まずは開けて見てみるよ。そこに坐って、書いててくれ」
 ワーゲンバスに近づき、ぐるりと周囲を見回った。ワーゲンバスは、リアエンジンだ。
「このサンババスは、カリフォルニアってやつか?」
 訊かれた意味を理解するのに、わずかに時間が必要だった。フォルクスワーゲンのタイプ2、正確にはトランスポルターの第一世代と第二世代のことを、日本では「ワーゲンバス」と呼ぶことが多いが、「サンババス」と呼ぶ時もある。それは知識として知っていたが、実際にそう呼ぶ人間に会うのは初めてだった。
 また、「カリフォルニア」とは、ドイツのビルダーがワーゲンバスをベースに作ったキャンピングカーの名称だった。
「いえ、これは友人が手作りしたんですが、その手本にしたのはアメリカのメーカーが作ったサンダイヤルというキャンパーです」
「ほお、そうかい」
 亀崎はうなずきながらワーゲンバスの後部に回った。どうするか見ていると、ナンバープレートの下についているリリースキーを自分で見つけてエンジン扉を開けた。
「キーを貸してくれ。いや、あんたがちょっとエンジンをかけてみてくれるか?」
 私は求めに応じてドライバーズシートに坐り、エンジンをかけた。鈍いエンジン音が始まるのだが、ぐずり、そして、黙り込んでしまう。
「もう一回」
 と言われて同じことを繰り返し、車を降りた。
「じゃ、開けて見てみるから。表の事務所に椅子があるんだ、そこでのんびりしててくれ」
 私はよろしくと応じて表に歩いた。
 事務所はガラス壁越しに射す光で温室状態になっていた。エアコンのスイッチはわかったが、表は五月の気持ちのいい風が吹いている。そこにあった自動販売機でコーラを買うと、日よけの下にある長椅子に坐ってタブを開けた。缶を口に傾け、炭酸の刺激を楽しんだ。
 通りをぼんやり眺めながらコーラを飲んだ。時折、車が通過した。人は全然通らなかった。
 川のせせらぎが聞こえる気がして視線をめぐらせ、ガソリンスタンドと整備工場が並ぶ裏手に川が流れているのを見つけた。修理の車を呼んだ川の上流か下流かもしれなかった。
 コーラが空になりかけた頃、道の向こう側に延びる線路を電車が通過した。二両しかなかった。制服姿の高校生が乗っていた。すかすかの車窓に、向こう側の空が見えていた。
 やがて、人通りのない通りに制服姿の高校生が数人、歩いて来た。さっき電車に乗っていた連中らしかった。
 その高校生のあとから歩いて来た男が、ここの駐車場に入って来た。私と同じ歳くらいの、なかなかのハンサムだった。すらっとした痩身で、少し茶色がかった長めの髪がそよ風になびいていた。手に、スポーツジムのロゴが入ったバッグを提げていた。
 男は私に軽く会釈をした。バッグを持っていないほうの手で髪をかき上げつつ、無人の事務所に視線をやった。
「ああ、もう終わってるぜ」
 整備工場の中から亀崎の声がし、本人が表に出て来た。
「車検なんだ」と、私に告げてから、「書類にサインして貰わにゃならんから、ちょっと先に事務所に入っててくれ」と男に言った。
 私に向き直り、
「エンジンプラグにゃ異状がねえな。プラグだったら、付け替えればそれで済んだんだが、電気系統もふくめて一通り見てみる必要がある。人間でいう、精密検査ってやつさ」
「どれぐらい時間がかかりそうですか?」
「暇してるんだ。すぐに取りかかれるが、まだ原因がわからねえから、それは何ともな……」
「今日のことにはならないと――?」
「そう思って貰ったほうがいいと思うぜ。うちじゃなくっても、車を預けて貰うケースだ。どこの整備工場でもそうなると思う。保険屋にいえば、一応、代車を用立ててはくれるだろうが……」
 中途半端に言葉を切ったのは、ワーゲンバスの後部に載せた生活道具一式を、頭に思い浮かべたからだろう。
「旅行の途中なんだろ? どっかへ急ぐ必要があるのかい?」
 私は、自分がこのワーゲンバスで日本中を転々としながら暮らしていることを説明した。
「ふうん、面白そうだけど。車がこうなると不便だな」
 ごもっとも。
「じゃ、家はないのかい?」
「一応、物置代わりにしてるようなアパートが千葉にありますが」
「千葉か。遠いな。ま、どうするか、少し考えてみたらどうだい」
 亀崎は言い置き、事務所の中へと入った。
 私は考えた。代車を用立てて貰っても、普通の乗用車では、ワーゲンバスに載った生活用品の一式を移すことなどできないだろう。そもそも、移したところで、それでどうなる? 千葉の自宅へ帰る予定は、元々なかった。来週、撮影の仕事が入ってはいるが、それまでは、ただふらふらして過ごすつもりでいた。
 東京でライターをしていた友人が、去年、地元に戻り、実家の旅館を継いでいた。その友人を訪ねる約束があったが、元々大まかに予定を告げてあるだけなので、一日二日ずれたところで支障はないはずだ。
 しかし、ここで足止めを食ったら、どうすればいい? 何もなさそうな、いや、確実にないだろうと感じさせる田舎町だ。
 やがて事務所のドアが開き、亀崎とさっきの男とが連れ立って出て来た。
「困るよ、亀さん。来て貰えないと。もう、春祭りまで時間がないんだから」
「だけどな、館だって忙しいんじゃないのか」
「館さんは、来るって言ってたよ。俺からまた連絡しとくから。だから、寄合のあと、一緒に来てくれよな。約束だぜ」
 そんな会話をしながら、男は整備工場の入り口脇に停まっていた車に歩いた。車に乗り込み、エンジンをかけてからわざわざサイドウインドウを開けると、もう一度亀崎に念押しした。私に軽く会釈をして、走り出した。
 苦笑を浮かべた亀崎が、私のところに戻って来た。
「さて、どうするね。代車を頼むかい? それとも、思ったんだけれど、もう少し大きな町の修理屋に行きたいなら、こっからもう一回、保険屋に電話したらどうだい? そういうとこなら、宿泊場所も色々あるだろうし」
 と、商売っ気のないことを言う。
「この町には、泊まれるところは?」
「ここにはないな。もう少し山のほうへ行けば、温泉旅館とかキャンプ場があるんだけれど」
「こっから、どれぐらいです?」
「三十分ぐらいかな。あと、隣町に走れば、ビジネスホテルがあるが、そっちにも車で三十分以上はかかる」
 話している亀崎の視線が動き、顔の向きが私の後方へとずれた。
 振り向くと、表の通りを、釣竿とクーラーボックスを持った老人が歩いていた。
「おおう、斎藤さん。どうだね、釣れたかね」
「あたりまえだろ。だけど、メインは夜だよ、夜。この季節は、夜釣りがメインだ」
 老人はにこりともせずに答え、早々に顔を前方に戻した。歩調を緩めようとはせずに、歩き去る。亀崎がくすくすと笑った。
「あれはボウズだな。釣れた時には、たとえちっこい魚だって、わざわざ寄って来て見せるのさ。だいいち、あの顔つきを見れば、わかるだろ」
 私は、「ええ」と同意を示した。
「なあ、そうしたら、こういうのはどうだい? 実をいうと、今日は来週の祭りの打ち合わせがあって、小一時間もしないうちに出なけりゃならねえんだ。明日、詳しく見てみれば、もっとはっきりした目処が立つだろうさ。あんた、あの車で寝泊まりしてるんだろ。うちの庭でいいなら、今夜はそこに泊まったらどうだい。裏手を川が流れてて、気持ちがいいぜ。トイレはうちのを使えばいいし、なんならシャワーだって使ってもいい。息子はふたりとも独立して、かみさんはもう死んじまった。気楽な独り暮らしだから、遠慮は要らねえよ。あんた次第だが、どうするね?」
 
 町の名前を告げたが、友人は知らなかった。友人が暮らす町とは、県が違った。もう少し詳しく所在地を告げると、なんとなくは場所を思い描けたらしい。
「何にもないところだろ」
 と、感想を漏らした。
「今日が金曜でなかったら、俺が車でそっちまで迎えに行ってやれるんだが。悪いな、泊まりがけの宴会の予約が入っちまってるんだ」
 私は明日、改めて細かく点検をして貰う約束になっているので、その結果がはっきりしたらまた連絡をすると言って電話を切った。
 ガソリンスタンドと整備工場の裏手にある、亀崎の家の庭にいた。さっきその存在に気づいた川が、裏手を流れていた。日本の多くの場所と同様に、コンクリートで護岸がきちんとされてしまっていたが、その両側には傾斜の穏やかな土手があり、野花が咲いていた。
 亀崎は、ワーゲンバスをもう一度牽引してここに移動させてくれたのち、身支度を整え、それじゃあちょっと出て来ると言い置いて出かけて行ったところだった。
 亀崎の家は二階家で、子供たちが独立したあとの独り暮らしには大分広そうだった。 元々鍵をかける習慣はないから、トイレもシャワーも自由に使ってくれていいと言われていた。
 時刻は五時をちょっと回ったところで、まだ日はかなり高かった。車が故障して動かなくなった時、サブバッテリーを節約するために小型冷蔵庫の電源を切っていたが、開けるとまだ結構冷えていた。
 缶ビールを出して飲み出そうとした時、
「おおい、亀さん。いないのお? なんで閉めちゃってるのよお?」
 表から、そう呼びかける女の声が聞こえた。
 若い声に聞こえたが、思った通り、ティーンエイジャーの女の子が、ガソリンスタンドと整備工場の間を通って現れた。
「あなた、誰? 亀崎さんは?」
 目の大きな娘だった。よく日に灼けているために、白目が目立つ。そんな両目をまたたかせながら、覗き込むようにして私の顔を見つめてきた。
 私が事情を話す途中で、彼女の後ろから、やはり同年代の男の子が現れた。
「そっか、今日は寄合だったのか。じゃ、しょうがないよ。ほかに回ろうよ」
 十七、八ぐらいに見える青年は、「寄合」といった古臭い言葉を自然に口にした。
「だけど、ガソリンは持つの?」
「大丈夫さ。国道のセルフまで行こうぜ」
 そんな会話をして私に背中を向けたふたりだったが、
「あらやだ」
 表へ出る通路を戻ろうとして、娘のほうが声を上げた。
 私のところからも、表の道路を走って来てガソリンスタンドの正面に停まる真っ赤な車体が見えた。そのすぐ手前には、四〇〇㏄のバイクが停まっていた。
 若い男女は歩みをゆるめ、どうすべきか思い悩むように顔を見つめ合った。娘が決断を下すほうが早かった。
「行こう、タカシ」
 青年の腕を取り、先に立って通路を抜けた。
 なんとなく関心を覚えた私がついて行くと、真っ赤なポルシェの運転席から女が、助手席からは男が降り立ったところだった。
 男のほうの動きが不自然なことに、私はすぐに気がついた。体の左半分だけを使い、不自由そうにしていたのだ。女は亀崎が出て行く時にかけた駐車場のチェーンをまたいでガソリンスタンドの敷地に入って来たが、男はチェーンの手前で立ち止まった。
 女のほうは三十代の後半ぐらいで、男は五十過ぎ。女は顔つきのみならず体つきまでが、異性の目を惹く華やかさの持ち主だった。濃いブルーのサングラスをしていた。男は太めの体型にこじゃれたジャケットを着ていたが、似合っていなかった。わかりやすい理解としては、金や地位に飽かせて綺麗な女を我が物にした類に見えた。
「アカネ、ここで何をしてる。そんな男とどこかへ行くなど、許さんぞ」
 男はチェーンの支柱に左手をつき、娘に向かって呼びかけた。そうして口を動かすことではっきりしたが、脳梗塞をやったにちがいない。顔の左右の動きにギャップがあり、言葉がいくらかもたついていた。
「伯父さんこそ、ここで何をしてるのよ。私のことを尾け回してたの。サイテー」
「尾け回してなどいない。買い物に行こうとしたら、バイクで走るおまえらが見えたんだ。こんな時間から、どこへ行くつもりだ」
「どこへ行こうと私の勝手でしょ。さ、行こう、タカシ」
 青年のほうは、彼女ほどには大胆になれないらしい。遠慮し、ためらう。そんな若者の背中を追い立てるようにして、娘はバイクのほうへと移動した。
「言うことを聞きなさい。あんな男の息子とつきあっても、何もいいことなんかないぞ」
 ぎくしゃくとした動きで行く手をさえぎろうとする男を、娘は睨みつけた。
「何言ってるのよ。バカみたい。私はママみたいに、あなたの言いなりになんかならないからね。どいてちょうだい」
 男が娘の二の腕を掴み、彼女が悲鳴を上げた。
「ちょっと痛いでしょ。やめてよ」
「許さないと言ってるんだ。なんだ、その態度は!」
「痛いったら、もう。タカシ」
 タカシという青年の顔が、怒りで赤くなる。
「放せよ。痛がってるだろ!」
 青年に押しのけられた男が、後ろによろけた。
「何をするんだ。この若造め」
 男がタカシという青年に殴りかかりそうな気配を感じ、私はあわてて走り寄った。青年が男の体を労って動くにしろ、逆に遠慮なく反撃するにしろ、どちらか一方が怪我を負う可能性がある。
「やめてください、相手はまだ子供じゃないか」
「何なんだね、あんたは!? 部外者は口出しをせんでくれ」
「相手はまだ子供でしょ、と言ってるんです」
 私と男が言い争う間に、娘がタカシを誘ってバイクに走った。飛び乗り、ヘルメットをかぶる。
「待て。まだ話は終わってないぞ」
 男があわててとめようとするが、間に合わない。背中にアカネという娘を乗せ、タカシはバイクで走り去った。
 苦々しい顔の男も、連れの女に労られながら車に戻り、私はひとり残された。
 遠ざかる真っ赤なポルシェを眺めやりながら、ふと思った。あれは亀崎に牽引されていた時、いくつか先の駅の傍で、木陰に身を隠すように停まっていた車だろうか。

 ブログを始めたのは、キャンパーで日本をあちこち回るようになってからのことだった。写真と日記風の文章をセットにしてアップすると、思ったよりも反響があった。中には「近くに来た時には立ち寄ってください」といった類のお誘いをくれる読者もいて、知らない土地での新たな出会いをもたらしてくれたりもした。
 夕暮れまでのひと時、私はゆっくりと缶ビールを飲みながらブログを書いた。腹が減ったので、ノートパソコンを持って駅前へ歩き、食事ができるところを探した。
 候補は定食屋とラーメン屋が一軒ずつ、それに、駅舎に入った喫茶店だったが、ここはじきに閉店時間だとわかってすぐに候補から外れた。
 亀崎に牽引されてさっきここを通った時には気づかなかったが、ロータリーから斜めに入る路地があり、ここがかつて小さいながらも商店街だったことを示す看板が掲げられていた。文字ははげ、商店街の名前はよくわからなかった。
 今ではシャッターを下ろした店舗と、かつては店舗だった部分を普通の家屋に改装した民家とが見えた。全体に暗い道の先に、赤ちょうちんがひとつだけ灯っていた。これで、もうひとつ候補が増えた。
 裏道を引き返し、今度はロータリーから真っ直ぐ伸びる道を進んだ。駅前以外には店舗らしいものは何もなかったが、散歩のつもりでしばらく行ってみると、田んぼと住宅が混在する中に、田舎町にしてはずいぶんあか抜けたたたずまいのイタリアンを見つけた。建ってまだ間もないように見える二階家の下が店舗で、駐車場と西洋芝を敷いた前庭の奥に、店内が見渡せる大きな窓があった。
 客は誰もおらず、店の人間と思しき三十代ぐらいの女がひとり、レジカウンター付近に置かれた椅子に坐ってぼんやり表を見ていた。
 目が合い、「どうぞ」というように微笑んでくるのに、私はあいまいに会釈を返して歩み去ろうとしたが、気まぐれを起こして寄ってみることにした。
 女は「いらっしゃいませ」と丁寧に私を迎えた。温かみのある声だった。
 窓辺のテーブルに坐って生ビールを頼んだ。メニューを眺め、ピザを頼んだ。サラダと食後のコーヒーをセットでつけた。
 私はノートパソコンをつけ、ブログの続きを書き始めた。生ビールを飲み、サラダとピザが運ばれて来ると、店の女性に写真を撮る許可を得て撮影した。
「お仕事ですか?」
「いいえ、趣味で、ブログを。ここは、おひとりで?」
「いえ、主人と。今夜は、春祭りの相談とか、色々あって出てるんです」
 といった会話をし、私は、キャンピングカーで日本全国をあちこち回っていることを説明した。カメラを仕事にしていることと、探偵を仕事にしていることのほうは、必要が生じない限り、自分からは言わないのが習慣だった。
「日本全国をなんて、うらやましいな。名前を聞いてもいいですか」
 彼女が言い、私たちはしばらく雑談をした。彼女は長居をし過ぎることはなく調理場に戻り、ひとり静かにそこに坐った。調理場は、キッチンカウンターの奥だった。
 食事が終わる頃になって、女の三人連れが店に入って来た。喧しい会話と笑い声とともにやって来た中のひとりが、さっき、真っ赤なポルシェを運転していた女だった。きちんと着飾っていると華やかな印象が増し、美しい顔立ちが引き立って見えた。昼間よりも薄い色のサングラスをしていた。
「予約はしてないのだけれど、いいですか?」
 出迎えた彼女に、その女が言い、
「大丈夫です。どうぞ、お好きなところにお坐りになってください」
 と、招き入れられた。
 テーブルへと向かう途中で、ポルシェの女が私に気づき、私たちは軽く会釈を交わした。彼女は店に入っても、サングラスは外さないままだった。
 私は彼女たちがお喋りに興じながら料理を選び、それぞれの好きな飲み物を頼み、乾杯する頃にコーヒーを飲み終えた。
 パソコンをしまってレジに立った。三人連れの注文が終わるのを待って立ったのだが、追加の注文があったために、レジのところでしばらく待つことになった。
「ブログ、読みます。ぜひ、うちのことも宣伝してくださいね」
 待たせてしまったことを詫びた店の女性はレジを打ちながら言い、名刺を差し出した。塩谷欣一とさゆりという名が、仲良く並んで印刷してあった。
 私は表に出たあと、窓の奥に見える店内をなんとなく振り向いた。さっき、ポルシェの女が店に現れた瞬間に、塩谷さゆりがさっと顔色を変えたように見えたのだ。
 店内では、三人連れが楽しげに歓談を続けており、さゆりはキッチンカウンターの奥の調理場で忙しそうに動き回っていた。

 もうしばらく付近を散策してから、ワーゲンバスへと引き返した。ガソリンスタンドと整備工場の建物が見えた頃から、ギターとドラムの音が聞こえてきた。
 上手い、と手放しで絶賛はできないが、それなりに心地よく聴いていられる。つまりは素人の達者な演奏というやつだった。
 どこから聞こえてくるのか考えながら進むと、いよいよ音が大きくなり、ついには正に亀崎の整備工場から聞こえているのだと気がついた。
 整備工場の建物は、表はシャッターを閉めている。だが、裏手は違った。ガソリンスタンドとの間の通路を通って裏庭に出た私が覗くと、灯りのついた建物の中で演奏する男たちが見えた。ドラムを叩いているのは、さっき亀崎を呼びに来た男だった。初めて見る若い男がエレキ・ギターを弾きながらヴォーカルを取っており、亀崎はリードギターを務めていた。
 演奏曲は、「ホテル・カリフォルニア」。
 素人のギターが太刀打ちするのは難しい曲に思えたが、亀崎のリードはなかなか健闘していた。それに、一度入ったら出て来られないようなホテルの得体の知れない雰囲気をかもすには、この小さな自動車整備工場は絶好の場所ではないか。
 私は建物の出入り口付近に立って演奏を聴いた。やがて私に気づいた亀崎が、照れ臭そうな笑みを浮かべて会釈した。それで他の連中も私に気づき、それぞれ演奏の手をとめないまま会釈してくる。
「騒がしくしちまって、悪いな」亀崎が言った。「町営のカラオケルームでやることになってたんだが、担当の人間が間違って、婦人会のカラオケを入れてやがって。多勢に無勢で追い出されちまった」
「聴いてますから、気にせずにやっててください。俺も好きな曲ですよ」
「そうかい。そう言ってくれると、嬉しいな。あんたは、楽器は?」
「いや、俺はもっぱら聴くだけですけど」
「メンバーを紹介しとくよ。こっちがドラムの塩ちゃん、塩谷欣一。さっき会ってるな。駅前にある、トスカーナってイタリアンの主人だよ」
「ああ、ロータリーを真っ直ぐ行ったところの」
 私がそこで食事をしたことを告げると、
「それはまた奇特な。他には客は、いなかったろ」
 と亀崎が茶々を入れた。
「ほんとはこんなことをしてる場合じゃないんだろうけどな。ま、もうすぐ潰れるだろ」
「ひどいなあ」と、塩谷がハンサムな顔をゆがめる。
「塩谷夫婦は、移住組なんだ。五年前だったっけ。夫婦でここに越してきて、あのレストランを始めた。脱サラをした塩ちゃんの夢だったらしい。さゆりさんは、それにつきあったのさ。だが、仕事そっちのけでバンドの練習に明け暮れてる亭主に、今夜はすっかりおかんむりみたいでね。家に愛用のスティックを忘れてきたのに、かみさんが怖くて取りにも行けないんだと。な、そうだろ」
「そんなことはないですけれど……。取りに戻って、また小言を色々言われるのも面倒臭いし。それに、練習は、今度のお祭りまでですから」
 後半は、私に向けて言ったものだった。
「それから、こっちがヴォーカルのタッちゃんこと田澤臣吾。公務員だ」
 亀崎が紹介を続け、「よろしくお願いします」と、田澤は礼儀正しく頭を下げた。よく日に灼けた、筋肉質の男だった。
「ベースはいないんですか?」
「いや、館ってやつがじきに来ると思うんだけれど、仕事の関係で遅れてるのさ。昼間、大きなショッピングセンターの前を通ったろ。あそこの紳士服の売り場主任をしてるんだ」
 亀崎は壁際に歩き、そこに置いてあるクーラーボックスを開けた。
「ビール、飲むかい? たくさん冷えてるから、遠慮しないでやってくれ」
 礼を言って受け取った時、携帯電話の鳴る音がした。塩谷がポケットから取り出し、
「噂をすれば、だ」
 と言いながら耳元へ運ぶ。
 だが、やりとりを始めてすぐに顔を曇らせた。
「――そんな、困るよ、館さん。みんな、もう集まって、やってるんだぜ。いいよ、練習しながら来るのを待ってるからさ。そうだよ、カラオケルームは使えなかったんで、亀さんの整備工場にいる。ほんとだぜ。頼むよ。来てくれよな」
 塩谷は、何度もしつこく念を押してから電話を切った。
 
 ベース担当は、館勤という男だった。私が本人と直接話したのは、翌朝のことだった。
 バンドの演奏を見学しているうちに酔っぱらった私は、ワーゲンバスに引き上げて寝ころんだ。うとうとしていると、鼓膜に気持ちのいい低音が聞こえてきた。バンドに、ベースが加わったのだ。
 私は寝ぼけ眼をこすり、車の天井をぼんやりと眺めながら演奏を聴いた。ベースが参加することで、演奏がぴりっと引き締まったのは間違いなかった。起き出して挨拶ぐらいしておきたいと思いつつも、睡魔に勝てずに眠ってしまったのだった。
 普段は宵っ張りの人間が、たまたま早く眠ってしまったために早朝に目覚め、亀崎の家の裏手を流れる川に沿って散歩を始めた。
 そうしてしばらく歩いた頃、
「キャンピングカーの人ですか?」
 と声をかけられた。
「亀さんの家の庭から出て来るのが見えたもんですから。昨夜は、うるさくしちゃって、申し訳ありません。私が仕事で遅れたので、予定よりもずっと遅い時間までやってしまった」
 そう話すのを聞き、私は相手の正体を知った。
 年齢は、亀崎と同じぐらい。全体を短く刈り上げた頭髪の前だけをわずかに伸ばし、早朝のこんな時間だというのに、整髪料で几帳面に立てていた。痩身で、姿勢のいい男だった。
「館さんですか?」
「館です。ええと、お名前をお聞きしても?」
「辰巳といいます。エンジンがいかれちゃいまして、亀崎さんには、すっかりお世話になってます」
「いやあ、あいつのことだ。どうせ、修理もそっちのけで、バンドの練習をしてたんじゃないですか?」
「いや、昨日はお祭りの話し合いがあるとかで」
「あ、そうか。寄合だったか。あれでも一応、幹事ですからね。来週末が、春祭りなんです。バンドも、それに向けて練習中なんですよ。コンテストがあるんです」
「なかなかの演奏でしたよ。酔いつぶれちゃって起きられなかったんですが、車の中で聴いてました」
「お粗末で、お恥ずかしい。亀崎とは同じ高校の軽音仲間だったんです。ふたりとも、長いこと楽器から離れてたんだけれど、若い連中に誘われて、急にやることになりまして。今日はもう、腕がぱんぱんですよ」
 館は左右の腕をぶらぶらさせたり、胸の前で交差させて交互に伸ばしたりした。
 川の先に、小さな橋が架かっていた。辺りは民家が途絶え、ひたすらに田んぼが拡がる場所だった。その中を、細い舗装道路が延びている。橋は、その道が川を渡るためのものだった。
 その橋に三人ほどの老人が立って、川を見下ろしているのが注意を引いた。やがて、散歩の途中らしい老人がもうひとり加わり、四人になった。
「どうかしたんですかね……」
 館がつぶやくように言う。私は無言で首をひねり、ふたりしてそこへと近づいた。
 橋のたもとに着くと、老人たちが皆、川の中の同じ場所を凝視しているのに気がついた。どうしたんですか? とかけかけた言葉が、私の喉元で立ち往生した。皆が見下ろす川の中――正確にいえば中州をなす川床の上に、人が仰向けに倒れていた。太身の男だった。見覚えがある。そう思った時、
「椋原……」
 隣の館が、低い声でつぶやいた。昨日、赤いポルシェの助手席に乗っていた男だった。バイクの若い男女を無理やり引き止めようとして、喧嘩になりかけていたあの男だ。アカネという女の子の伯父だったはずだ。
「ああ、そんな、どういうことだ……」
 館がうめくように言って、頭を抱えた。
 私たちに気づいた老人たちが、一斉にこちらを振り向いた。誰ひとり、何も言おうとはしないまま、事問いたげな表情を浮かべている。
「警察に連絡は――?」
 私が訊くと、それぞれが右に左にと顔を向けて、互いの様子を窺い合った。
「いえ、まだですけれど……。どうしましょう、あの人、死んでるんでしょうか――。救急車を呼んだほうが……」
 ひとりが、やけに緩慢な口調で言った。
「いや、おそらく、亡くなっているようです」
 私はわざとあいまいに応じ、自分の携帯を出して通報した。
(第6回へつづく)

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香納 諒一Ryouichi Kanou

1963年横浜生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務の傍ら、91年「ハミングで二番まで」で第13回小説推理新人賞を受賞し、92年『時よ夜の海に瞑れ』で長編デビュー。99年『幻の女』で第52回日本推理作家協会賞長編賞を受賞する。他に、『梟の拳』『贄の夜会』『ステップ』『幸』『無縁旅人』『心に雹の降りしきる』など著書多数。

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