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天下普請 / 稲葉 稔・著

第5回
慶長けいちよう十年(一六〇五)──
 長次ながつぐ鎌倉かまくらから戻ってくると、江戸の様相ようそうはさらに変わっていた。
 日比谷入江ひびやいりえは半分ほど埋め立てられ、町屋が増え、士衆さむらいしゆうの武家地も広がり、諸国大名の屋敷まで建てられていた。
 長次が初めて江戸に来た頃、そこはただの片田舎だった。ところがわずか数年で、城下じようか町らしき姿になったのだ。当然人も増えた。武士、商人、職人は雲霞うんかのごとしで、通りには人波ができるほどだった。
 さほど変わらぬのが江戸城である。西の丸の拡張修築はつづけられているが、他の殿舎でんしや天守てんしゆには手がつけられていない。主に行われているのは、城下の整備と神田山かんだやまを切り崩しての湿地や小河川、そして日比谷入江の埋め立てである。
 長次はこれまでと変わらず、吉次よしつぐにつき、手代てだい仕事に追われていた。
 年が明け、大手門おおてもん前の常普請小屋に出勤すると、吉次にしたがって各普請場を見廻り、各々おのおのの建築物や道普請、川普請などにかかる経費の算出と調達、上の役所への上申や取次とりつぎなどの仕事をこなしていた。
叔父上おじうえ、いつになったら城普請にかかれるのです?」
 若い長次の心はいていた。
「わしにもわからなくなってきた。だが、上様は考えておられるはずだし、城ができなければ幕府としての体裁ていさいも取れぬ。諸国大名家には石船築造の触れも出されている。城普請に欠かせぬからだ」
「だとしても、もう何年になります? それに上様はまたもやきようにお上りです。天下の城造りがあるというのに……」
 たしかに家康いえやすは江戸を留守にすることが多かった。昨年も九月まで京住まいで、江戸に戻って来たと思ったら、年明け早々にまたも京に上っていた。
「わしにかれてもわからぬ」
 吉次は普請場を歩きながら吐き捨てるようにいう。
「上様がおられぬから、城造りが遅くなっているのではありませぬか」
「いちいち文句の多いやつだ。文句があるならご家老にでも申すがよい」
「では、ご家老に会わせてくだされ」
「なに」
 吉次は足を止めて長次を振り返った。
「わたしがじかに掛け合いまする」
「たわけ。そんなことができるか」
「叔父上、わたしは本気です」
 長次は吉次を真剣な顔で見つめる。
「呆れたやつだ。身のほど知らずが。一おん大工が家老に会えるはずがなかろう。まして掛け合うなどもつてのほかだ。話にならん」
「わたしは上様の住まいを、天守を先に造るべきだと思うから申し上げるのです。上様は天下を治めておられる将軍様です。その天下人てんかびとの住む城が、あのような有様では情けなさすぎます」
 長次は江戸城を指さして迫る。
「黙れッ。もうよい。おぬしの気持ちはわからぬではないが、物事には順序というものがある。城下の町造りも士衆の屋敷造りも、手順のひとつだ」
「では、いつまで叔父上についておればよいのです? わたしは手代仕事をしに江戸に来たのではありませぬ。江戸城を造りに参ったのです。叔父上もそういってわたしを誘ったのではありませぬか……」
「長次」
 吉次がさとすように呼びかけ、静かに眺めてきた。
「上様は諸国に石船を造るように申しつけられた。なんのためか? 城の石垣いしがきを運ぶためではないか。材木の調達もしておる最中だ。すべて城造りに欠かせぬものだ。すべてがそろわねば、城は造れぬ。そうではないか」
「…………」
「おぬしがいくらわめこうが騒ごうが、城を造る支度したく調ととのえられておるのだ。慌てず、騒がずだ。そのときは必ずやってくる。それまで、おぬしは築造の腕を磨けばよい。いまのままでは天守など、とてもまかせられぬ」
「お言葉ではありますが、叔父上の手代をやっていては、築造の腕は磨きたくとも磨けませぬ」
 吉次はピクッと片眉かたまゆを動かして目を細めた。
「ちょこざいな。ならば丁場ちようば仕事に戻るか?」
「そうさせてくだされ」
 吉次は大きく息を吸って吐くと、初春の空をあおぎ見た。遠くに雪化粧をほどこした富士ふじが見える。空からはとんびが声を降らし、ふたりのそばを、もっこをかついだ人足にんそくや木材を積んだ荷車が行き交っていた。
「よかろう」
 ずいぶんたってから吉次はいった。
 長次はその場で吉次と別れると、常普請小屋に足を向けた。小屋に行けば仲間がどこで仕事をしているかわかる。
 早く皆に交じって汗を流したいと思った。吉次についての役人仕事には飽きがきていたし、もっと大工としての技量を磨き、知識を広げたかった。そんな思いに火をつけたのは、吉次にもらった木割書きわりしよがあったためかもしれない。
 木割書を読めば読むほど、建築に対する情熱が燃え、また見識を広めたい、自分の知らない技術を身につけたいという欲がわいてくるのだった。難解でわからぬ箇所を教えてくれる人にも会いたかった。
 その日を境に長次は、仲間とともに普請場に出るようになった。現場で差配さはいをし、みずからも墨引すみびきをし、材木を切り、組み立てた。その多くが諸国大名家の屋敷造りだった。

 梅の花が散り、桜が咲きはじめた頃、
「あの坂の上に、いつも立っている娘がいる」
「なかなかの別嬪べつぴんだ」
「男を待っておるのではないか」
 そんなうわさが普請場に広がっていた。長次も一度拝んでやろうと思い立ち、仕事帰りに女がいるという坂へ行ってみた。
 そこは溜池ためいけの東にある汐見坂しおみざかであった。付近には大名家の武家屋敷がつぎつぎと建てられ、昼間は大工・左官さかん屋根葺やねふき職人・畳師たたみしなどの職人が行き交うところだ。
 西の空はしゆに染まり、人の影が長くなっていた。
 坂下に立った長次は女をさがして目を凝らしたが、それらしき影はない。坂のところどころに粗末そまつな茶屋があり、表の床几しようぎに腰かけているさむらいや人足がいた。
 ゆっくり坂を上っていくと、途中の脇道から出てきた若い女とぶつかりそうになった。
「あッ……」
 小さな悲鳴をあげてころびかけた女の腕を、長次は反射的につかんで支えた。
「大丈夫か?」
「いえ……、申しわけございません」
 女は慌てて頭を下げ、つかまれた腕に気づいてさっと後ずさった。ほおが夕日のためか、羞恥のためか、赤くなっていた。
「大事ないならよい」
「本当に申しわけありません」
 長次は頭を下げる女をまじまじと見た。また目が合い、胸が高鳴った。
「おれは鈴木すずき長次、江戸の城普請に来ている者だ。こんな汗臭いなりをしているのは、被官ひかんの大工だからだ。そなた、名はなんと申す?」
 自らを名乗ったのは、間が持たなくなったのと、すぐにこの女と別れたくなかったからだった。女は戸惑いながらも、
えいと申します」
 と、の鳴くような声で答えた。
「お栄殿か。江戸の女性によしようではないようだが……」
 長次はお栄の身なりをあらためてながめ、聞いた。柿色かきいろ小袖こそでに黒っぽい幅広帯はばひろおびを締めていた。地味だが清楚なよそおいは、若いお栄をかえって引き立てていた。
「父とともに江戸に来ているのです」
「どこから来た?」
桑名くわなです」
 すると本多忠勝ほんだただかつの家来の娘であろう。吉次の手代をやっていたため、すぐに察しはついた。
「さようか。おれは遠江とおとうみの出だ。お互い田舎の出であるな」
 長次が照れ笑いをすると、お栄も小さくんで、もう一度あやまり、いとまを告げた。
「悪いのはこちらだ。ぼうっと歩いておったからな。すまなかった」
 お栄は驚いて目を見開き、「いえ」とまた頭を下げ、先を急ぐように歩き去った。
「お栄……」
 長次はお栄の後ろ姿を眺めながらつぶやきを漏らし、だらしなく頬をゆるませた。  
   お栄に出会ってからというもの、仕事が手につかなくなった。時折、見かねた棟梁とうりよう孫左衛門まござえもんに、
「長次、何をしておるのだ。気の抜けたような顔をしおって。手が空いているなら片づけを手伝てつだえ」
 と注意を受ける。
「この頃おめえさんおかしいんじゃないか。材木の手配りがなっておらぬだろう」
 木挽こびき棟梁の内藤七左右衛門ないとうしちざえもんにも苦言を呈される。
 家に戻って開く木割書も、以前のように頭に入ってこなかった。とこに入って目をつむればお栄の顔がちらつき、昼間若い女の姿を見ればハッとなって立ち止まり、お栄ではないかと胸を高鳴らせる。人違いだとわかれば、肩を落としてがっかりした。
 そして、毎日のように汐見坂の下に立ち、お栄の姿を捜した。ようやくお栄を見つけたのは、初めて会ってから十日ほどたった夕暮れだった。
 お栄が坂の途中で、人待ち風情ふぜいでたたずんでいたのだ。
「お栄殿」
 坂下から上ってくる長次に気づくと、ぱあっと顔を輝かせ、黒い瞳に喜色きしよくを浮かべた。
「また会ったな」
 長次は内心ドギマギしながらいった。
「先だっては失礼いたしました」
 お栄はまた詫びを入れた。
「気にするでない。それより、誰か待っておられるのか?」
「父上の帰りを……」
「それは感心な。──のどが渇いた。そこの茶屋で茶などいかがか」
「あ、いえ、はい」
 お栄はあいまいな返事をするものの、いやがってはいなかった。長次はなかば強引に誘い、茶屋の床几に並んで腰かけた。隣に座るお栄の体から、若葉のような初々ういういしい匂いが立つ。いざ距離を縮めると決まりが悪く、手持ち無沙汰ぶさたでもあった。
父御ちちごはなにをされておられるのだ?」
「道普請です。同心なので力仕事ばかりのようで、毎日疲れて帰ってきます」
 同心なら、駆り出された人足と同じようにもっこを担いだり、くわで地ならしをしているのだろう。江戸にはお手伝普請に来た大名家の家来が大勢いる。お栄の父親はそのひとりというわけだ。
「いずこの大名家も大変だな」
「鈴木様も大変でございましょう」
 長次が横を向くと、お栄は恥ずかしそうにうつむく。
「おれには夢がある」
「夢……」
 お栄は顔をあげて、小鳥のように小首こくびをかしげた。
「おれは江戸城の天守を造る。天下に名をとどろかせる大天守だ。そのために江戸に来た」
「はあ……」
うそではない。いまは気の進まぬ仕事をけ負っておるが、朝から晩まで天守のことを考えておる。そうだ、お栄殿は桑名からまいったのだったな。の地に城はあるか?」
「もちろんございます」
「天守も……」
「はい」
 お栄は少し自慢そうにうなずいた。長次は身を乗り出した。
「どのような天守だ。教えてくれぬか」
「どのような、とおっしゃっても……たくさんのやぐら多聞たもん(石垣上にある長屋造ながやづくりの建物)がありまして、天守はひときわたこうございます」
「なるほど。で、天守は何層になっておる?」
 お栄は少しずつ思いだすように答えた。
「四層です。高い石垣の上に建っております」
「いまの江戸城と比べて、桑名の城はどうだ? 包み隠さず教えてくれぬか」
 長次は目を輝かせてたずねる。
 お栄は少し戸惑いつつも、ささやくような声で答えた。
「江戸城より立派だと存じます。されど、これから新しいお城が造られるのですね。立派なお城ができれば、桑名のお城は見劣みおとりするかと」
「桑名の城を造ったのは誰か知っておるか?」
 お栄は知らないと首を振る。
「桑名から大工は来ているのだろうか?」
 大工が来ているなら詳しいことが聞ける。長次は期待したが、お栄はわからないと繰り返した。
「お栄殿、桑名城を誰が造ったか、国許くにもとから大工が来ているかどうか調べてくれぬか」
「では、父上に聞いておきましょうか……」
「是非とも頼む」
 真剣そのものの長次を見て、お栄はくすっと笑った。
「ご熱心なのですね」
「天下に誇れる天守を造らねばならぬからな。いや、これはよい人と知りおうた」
「でも、わたしでお役に立てるかしら……」
「先程のことを聞いてくれればよい。頼まれてくれるか」
「父上に聞けばよろしいのですね。もしわからなかったら、他の人にもあたってみます」
「かたじけない。では明日の夕刻、またここでということでどうだろう」
 またお栄に会えるという下心があったのはもちろんだったが、それ以上に天守造りに一歩近づいた思いで長次の心は沸き立った。
 翌日、約束どおり、お栄は同じ茶屋の床几に座って長次を待っていた。
 会えただけでもうれしく、長次の顔はどうしても緩んでしまう。お栄も好意のあふれた笑みを向けてきた。
「お城をお造りになったのはいまの殿様ですが、国許の大工は江戸には来ておらぬそうです」
「殿様とは、本多忠勝様のことだな」
「はい」
 長次は遠くの空を見た。本多忠勝がどのような大名なのかはわからぬが、会って話がしたくなった。無理ならば、城に詳しい家臣に会いたい。
「あの、お役に立てなかったでしょうか……」
 お栄が心細げにつぶやく。
「いや、助かった。面倒をかけてすまなんだ」
「面倒だなんて、そのようなこと──。お気になさらないでくださいませ」
殊勝しゆしようだな」
 長次がめると、お栄は笑みを浮かべて首をすくめた。二人の仲が急速に近づいた瞬間だった。  
 
寛永かんえい十三年(一六三六)──大井村おおいむら
 長次は書院部屋で静かに茶をてていた。茶筅ちやせんの音が、台所で立ちはたらくお栄の耳にこそばゆい。
「奥様、買ってまいりました」
 勝手口から女中のおしばの声がしたと同時に、寒風が屋内に吹き込んでくる。
「ご苦労様。今日はもうお客人はみえないでしょうから、帰っていいわ」
 お栄はおしばが買ってきた塩を受け取っていった。
「よろしゅうございますか」
「かまいませぬ。寒気が強くなったゆえ雪が降るかもしれない。降られないうちにお帰りなさいな」
「では、お言葉に甘えます。たしかに雲が低くなって、風が強くなっております」
「だったらなおさらだわ。これを持ってお行き……」
 お栄は用意していた饅頭まんじゆうをおしばにわたした。夫の見舞いに来た客の土産みやげだった。
「よろしいのですか」
 おしばは小さな目をまたたかせ、遠慮がちな声で尋ねる。
「どのみち食べきれませぬ。おまえ様の家には若い清作せいさくがいるから、喜ぶでしょう」
「ありがとうございます」
 おしばはちょこんと辞儀をすると勝手口に向かい、もう一度振り返って頭を下げた。お栄は小さな笑みを返して、かまどの前に腰をおろして火にあたった。
 おしばには清作という十五の子供がいた。夫に早くに死なれて苦労していたが、清作が大工見習いになって少しは楽になったようだ。
 このところ、夫の体を心配して訪れる客があとを絶たない。皆、口づてに聞いて会いに来ているようだが、夫を心配する人の多さに、少し驚いていた。
 今日は昔世話になったという大工が六人もやってきた。そのなかに内藤安兵衛やすべえという棟梁がいた。いまも普請場に出ている元気者だが、帰り際に懐かしい話を口にした。
 ──お栄さん、わしはときどき思いだすんだ。あんたが若かったときのことを。来る日も来る日も汐見坂の上に立っておったな。わしらは“坂の上の女”と呼んでおったが、まさか長次に添うとは思いもせなんだ。あの坂に行くと、若い娘の姿が瞼に浮かぶんだ。もちろん、それはあんただ。こうやって見ると、若い頃とあんまり変わっておらぬな。
 最後の一言はお世辞だろうが、安兵衛はふしくれだった手で、ひび割れたような頬をさすった。
「あの人も、ずいぶん年を取られました」
 お栄は安兵衛の老けた顔を思いだしながら独り言をつぶやき、竈にまきをくべた。そのまま千変万化せんぺんばんかする炎を見つめると、長次と出会った頃のことが、ふわっと脳裏のうりに浮かんだ。
法螺吹ほらふき)
 出会った当初、長次に抱いたのはその一言に尽きた。しかし嫌悪はなかったし、むしろ魅力に感じた。キリッとした眉に、ときに岩をも穿うがつような真剣な目を持ち、無鉄砲で身の程知らずだった。
 上様に話をすると息巻いたり、城造りの名人といわれた藤堂佐渡守とうどうさどのかみ様に弟子入りをすると宣言したりして、まわりの者たちを翻弄ほんろうした。
 一番驚いたのは、汐見坂で初めて会ってからひと月もせずに、長次が家に押しかけてきて、いきなり父にお栄を嫁にもらいたいと申し出たことだ。

 まったく思いがけぬことに、お栄も父も呆気あつけに取られた。
「無礼の段は重々承知しておりまする。されど、今夜は返事をもらうまで帰りませぬ」
 長次はかたくなな態度で父をまっすぐ見た。
やぶから棒にそんなことを申されても、それがしはお手前のことをよく知らぬ」
 父が戸惑い顔をお栄に向けると、
「わたしは存じております。小松こまつ様は……いえ、お義父上ちちうえのことを」
 と、長次は早くも父小松成貞さだしげを「義父上」と呼んだ。お栄も父も目をまるくするしかなかった。
「お義父上は徳川とくがわ四天王のひとり、いや徳川三傑さんけつに数えられる本多忠勝様のご家来。お手伝普請で江戸にまいられておるのはよく存じております。かく申すわたしは、作事方の大工ですが、これより江戸城の天守を造る男です。天下一の天守です。よってわたしは天下一の大工棟梁になります」
「鈴木殿はお被官でござるか?」
「さようです。先年父を亡くしましたが、家督を継いでおります。わたしの後見こうけんは、作事方下奉行さくじかたしたぶぎよう木原きはら吉次様です。身にあやしいこともなければ、素性すじようもはっきりしております。なにとぞ、お栄殿をわたしにくださりませ」
 父は深々と頭を下げる長次に、お栄のどこがよいのだと聞いた。
「初めて会った折、嫁にするならこの女だと決めました。理屈など何もございませぬ」
「娘のことを、よく知りもせずに……」
「天のひらめきです」
 父はその一言に大笑いした。思わず身構えた長次はこわばった顔で強引なことを口にした。
「お断りされるのですか? ならば、お栄殿の首に縄つけてでもさらっていきまする。その覚悟でまかりこしたのです」
 笑っていた父は急に真顔になって、長次をひたと見据えた。
「気に入った。そこまでいうなら、くれてやろう」
 今度は父のいさぎよさにお栄が驚いた。
 出会って二月ふたつき目に、お栄と長次は結ばれた。

 パチッと竈の薪がぜたことで、お栄は現実に立ち返った。
 あれからゆうに三十年はたつと、頭のなかで数えた。考えてみればあっという間のことだったけれど、夫もわたしも年を取ったとしみじみと思った。
 夫長次の足腰は弱り、胸が苦しくて痛いと訴えて倒れたのは、ついひと月前のことだった。医者は・心の臓を患っているゆえ、今度発作が起きればそれが最後になるかもしれぬ・と、お栄に伝えていた。
 長次は己の体の変調をうすうす感じているのか、時折、いつ迎えが来てもよいと口にする。そのせいか、よく昔のことを話すようになった。見舞いに来る人たちと昔話に花を咲かせるときも、本当に楽しそうである。
「お栄」
 長次の呼ぶ声がした。お栄は返事をして立ちあがると、書院部屋を訪ねた。
「なんでございましょう」
権現ごんげん様が隠居されたのは、そなたと夫婦めおとになった年だったかな」
「さようです」
「やはり、そうだったか」
 長次は納得したようにうなずくと、目やにをつけたままの双眸そうぼうを、午後の光を受ける障子に向けた。
(第6回へつづく)

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稲葉 稔Minoru Inaba

1955年熊本県生まれ。脚本家などを経て、94年に作家デビュー。冒険小説、ハードボイルドを皮切りに、近年は時代小説に力を注いでいる。近著に『浪人奉行 四ノ巻』(双葉文庫)、『永代橋の乱 剣客船頭(十九)』(光文社時代小説文庫)、『喜連川の風 切腹覚悟』(角川文庫)、『すわ切腹 幕府役人事情 浜野徳右衛門』 (文春文庫)などがある。

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