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天下普請 / 稲葉 稔・著

第11回
慶長けいちよう十二年(一六〇七)──
 譜代ふだいの大工である木原きはら一党が駿府城修築すんぷじようしゆうちくのために、江戸から移動したのは前年の暮れも押し迫った頃だった。普請作業は年明けとともに開始された。
 長次ながつぐ駿河するがに入ったのも年が明けてからであったが、任されたのは、叔父おじ吉次よしつぐとともに家康いえやすを迎え入れる準備だった。
 家康が生活し、また政務を行う本丸御殿の修築が主な仕事である。長次はときに天守を眺めたりもしたが、もはや何の感慨かんがいも湧かなかった。
 駿府城の天守は天正てんしよう十三年(一五八五)、家康が浜松はままつから移ったときに築造ちくぞうされており、まるごとの建て替えではなかった。興味が失せていたのは、そのためかもしれないし、江戸城の天守を造ることができなかったという、大きな落胆もひびいていたのかもしれない。
 家康が駿府に入ったのは三月に入ってからだった。だが、逗留とうりゆうしたのはわずか数日で、隣国の田中城たなかじように移った。理由は長次にはわからなかったが、普請作業の喧噪けんそうを嫌ってのことだったのだろう。
 再び家康が駿府城に入ったのは、長次らの修築工事が終わった七月であった。それと前後するように長次も江戸に戻ったが、わずか半年の間に城下も城も大きく様変わりしていた。
 町人地が増え、溜池ためいけから東海道とうかいどう沿いに大きく迂回うかいして城の北側(ひとばしあたり)までつづく外堀の石垣が出来ていた。そのことにはさほどの驚きはなかったものの、絶句するような光景が広がっていた。天守が上がっていたのである。
 しかも天守はひとつではなかった。小天守があり、大天守と多聞櫓たもんやぐらでつながっていたのである。長次は目の色を変えて大手門をくぐった。この門も新たな櫓門に造り替えられていたが、長次は脇目わきめもふらず天守をめざした。
 天守の下に来ると、天に高くそびえている建物を見あげた。
 石垣を含めた天守の高さは、約三十間(約五十五メートル)はあろうか。いまも壁塗りが行われており、白漆喰しろしつくいである。
 長次が考えたのは黒壁であった。そして小天守など考えもつかなかった。屋根も銅瓦葺どうがわらぶきだったが、目の前の天守はなまり瓦葺きである。さらに、長次の考えた天守の形は層塔型そうとうがただった。だが、正清まさきよ望楼型ぼうろうがたにしている。
 五層六階というのは変わらずとも、何もかもが自分の考えたものと違っていた。
「こ、これは……」
 長次は天守台の下によろめくように近づき、目をみはった。なんと天守台に地下蔵が設けられていたのである。つまり、傍目はためには五層六階だが、実際は七階ということになる。
 またしてもやられてしまった、と思わずにはいられなかった。
 長次は天守台の下で腰が抜けたようにひざをつき、両手を地面につけた。そのまま天守をあおぎ見、
(かなわぬ……かなわぬ……)
 と、両手で砂土を強くわしづかんだ。
 この瞬間、江戸城の天守を造るという長次の夢は粉々に打ち砕かれ、完全に中井なかい正清に負けたと悟った。
 もはや江戸に未練はなかった。そのまま郷里の木原村に帰りたいとさえ思った。だが、途中で仕事を投げ出すわけにもいかない。それに身籠みごもっているおえいは出産間近である。妻を、やがて生まれてくる子を、不幸にするわけにはいかない。
 屈辱くつじよくにまみれながらも、家康のはじめた天下普請が終わるまで関わりつづけるしかなかった。
 江戸城の天守は、その年の九月三日に竣工しゆんこうした。屋根に葺かれた鉛瓦は、日の光を受けて銀色に輝き、純白の白漆喰で塗り固められた壁は雪のようであった。
「まるで富士を見ているようだ」
 と、感嘆する者はひとり二人ではなく、城下から眺める天守の立ち姿はまさに富士山と形容できた。
 失意のどん底にたたき落とされ、張りあいをなくしていた長次にとって、お栄が無事に子を産んだのは救いだった。大きな男の子で、長常ながつねという名をつけた。
 天守造営の夢を絶たれたいま、唯一の楽しみは長常の顔を見ることである。勤仕ごんしのために朝早く家を出ても、一刻も早く帰って長常に会いたかった。とはいえ仕事をおろそかにはできない。
 おこたれば、これまで自分を育ててくれた叔父吉次への申しわけが立たない。まわりの木原大工衆らにも迷惑はかけられない。粗相そそうでもして八十石二十人扶持ぶちを召し上げられれば、妻子にも迷惑がかかる。だから、長次は仕事をそつなくこなしていった。
「家を移る。引っ越しだ」
 長次がお栄にそう告げたのは、長常が生まれて間もなくのことだった。お栄もいまの家を手狭と感じていたらしく、すぐさまその気になった。
「でも、どちらへ?」
 長常をあやしながらお栄は訊いた。
「よいところがある。じつは、もう町大工に頼んで造らせているのだ」
 長次はお栄の胸でむずがっている長常のほおを、やさしくつつきながらいった。
「おまえ様のそのようなところは、変わることがありませんね」
 お栄はなかばあきれ顔でいった。長次がお栄をもらい受けたときのことと重ね合わせているのだ。
 新居は品川しながわの外れにある大井村おおいむらだった。曹洞宗そうとうしゆう名刹海晏寺めいさつかいあんじのすぐ近くである。
 家移やうつりをして間もなくの頃だった。長次はうすうす勘づいてはいたが、ついに木原大工衆らの鬱憤うつぷんが爆発した。それは、中井正清率いるきよう大工らへの溜まりに溜まった不満であった。
 京大工らはかしらである正清不在のまま、城内ばかりか城外の主要な作事さくじ仕事も請け負っており、ときに人が足りぬといって木原大工らを駆り出すことがあった。
 差配さはいをするのは正清配下の棟梁とうりようらだが、木原方にも優秀な棟梁はいる。にもかかわらず、みくびった口のき方をし、態度も横柄おうへいで、大工頭の長次にさげすんだ目を向けてくる者もいた。
大和守やまとのかみ様がいるからな」
「ああ、大和守のご家来だから、それだけえらいんだろう」
 などと半ば揶揄やゆしながらも、仕事のすけをしていた木原大工衆は忍従していたが、それにも限界がある。
「なんとかしてくれ。わしらは譜代の大工ではないか。なのに、外様とざまの京大工らは高慢ちきで勘弁かんべんならねえ」
 鼻息も荒く詰め寄ってきたのは、大工棟梁の長ともいうべき桑原孫左衛門くわばらまござえもんだった。小柄だが、怒り肩をさらに怒らせると迫力がある。顔を紅潮させ、つるっ禿ぱげの頭まで赤くしていた。
「いったい何があったというのだ」
「腐るほどあるわい。そもそも大工頭の大和守は、ちっとも江戸におらぬではないか。おらぬくせに、大和守様からのお下知げちであるときやがる。この頃は、あやつらの顔を見るだけで虫酸むしずが走る。おれだけならまだ堪忍かんにんできるが、下の大工は若いし気も荒い。いつ取っ組み合いの喧嘩けんかがはじまってもおかしくないのじゃ。そうなったらことだ。長次殿、京大工らに一言もの申してくれ」
 すでに孫左衛門ら木原一党は、大工頭となった長次を敬い、以前のような呼び捨てではなく「殿」をつけるようになっていた。
「わかった。何とかしよう」
 請けあった長次は、その足で京大工の大棟梁今村五郎右衛門いまむらごろうえもんのもとにおもむいた。五郎右衛門は正清と同じ郷里の出で、法隆寺ほうりゆうじ大工として腕をふるってきた男だった。
「さようなことを……」
 話を聞いた五郎右衛門は、両眉を動かしながら、思案げに目を宙に泳がせた。
「中井大和守様は江戸におられぬことが多い。お忙しいのはわかる。しかし、それもこれも、大和守様が手綱たづなを絞れぬゆえではなかろうか」
「ふむ。相わかり申した。大工衆には、よくよくいい聞かせることにいたしましょう」
「頼んだ。して、大和守様は京におられると耳にしているが、何をなさっていらっしゃるのだ?」
仙洞せんとう御所の造営です」
「仙洞御所……」
 長次には理解できなかった。「御所」というからには、貴人の建物だと推量するしかない。
後陽成ごようぜい天皇様のご譲位後の御所ですよ」
みかど様の……」
 長次は目をみはった。正清には驚かされることが少なくないとはいえ、まさか天子様の御所まで手がけているとは。
「さすが中井大和守様であるな」
 もはや正清に対する対抗心も嫉妬も消え失せている。長次はそのまま五郎右衛門と別れた。
 京大工に対する不満や鬱憤は、木原大工衆のなかにくすぶってはいたものの、五郎右衛門への直談判じかだんぱんが効いたのか、その後、とくに大きな問題が起こることはなかった。
 あっという間に秋は深まり、寒い冬がやってきた。それでも天下普請は休むことなくつづけられており、江戸は季節のうつろいとともに変化を遂げていた。
 昨今、江戸の人口は十五万人(家康以来の家臣団約六万人を含む)ほどに膨らんでいる。家康が江戸入りした時代とは大違いである。通りのあちこちから物売りの声があがり、普請場では職人たちの差配の声、物揚場ものあげばから建築用材を運搬うんぱんする車力しやりき人夫にんぷらも、そこのけそこのけとばかりに先を急いでいる。
 くわえて、諸国大名家の真新しい屋敷が、城を囲むように建っている。
 その知らせが届いたのは、暮れも半ばを過ぎた日のことだった。
「大御所様のご隠居城いんきよじろが燃えたそうにございます」
 告げに来たのは内藤弥吉ないとうやきちという長次の手代だった。
「ご隠居城……駿府城が燃えたというのか」
「さような話でございます」
 北の丸にある田安明神社たやすみようじんしや近くで蔵屋敷の縄張りをしていた長次は、そのまま本丸御殿に駆けた。
◆慶長十三年(一六〇八)──同十七年(一六一二)
 家康の隠居城である駿府城の修築は、木原大工が中心になって行い、その出来栄えには家康も満足していた。だが、その城が燃え落ちた。
 被害は甚大だったものの、城のすべてが焼けたわけではなかった。また家康も難を逃れて無事であった。長次はすぐさま駿河に駆けつけるべきだと主張したが、江戸全体の普請を統率している秀忠ひでただの側近と藤堂高虎とうどうたかとららから、待てと止められた。
「すでに中井大和守らが駿府に向かっている。木原者の出る幕ではない」
 秀忠の側近として幕政を仕切っている本多正信ほんだまさのぶだった。眼光鋭い老人で、家康の意のままに動く男だ。
 本丸御殿納戸口なんどぐちそばにある詰所でのことである。諸役人がこれより奥に立ち入るのは、平時であれば許されない。作事と普請を統括とうかつしている大工頭や大棟梁も、この非常時だからこそ入れたのである。
 末席に座る長次は、(何故なにゆえ、わしらの出番ではないのか?)との思いがあるが、滅多な口は利けたものではない。家康の下知として聞くしかない。
 下城すると、誰もが長次と同じ疑問を口にした。
「そう決まったのなら中井大和殿にまかせるしかなかろう」
 肩を落としてなだめるのは吉次だった。少し後ろを歩く長次は、叔父上も年を取られた、と思った。まげに散っていた白髪しらがが増え、びんは真っ白になっていた。以前より体もひとまわり小さく見える。
「大御所様は、何もかも中井大和守を頼りにされておるのだな」
 長次と同じ大工頭が、嘆息たんそくしながらいう。
「駿府は中井殿にまかせておけばよいのじゃ。隠居城ではないか。ここは江戸だ。将軍様の城は、ここにあるんじゃ。わしらはここでしっかりした仕事をやればよいのじゃ。それしかあるまい」
 老齢の大工頭だった。口が過ぎるぞ、と吉次がいましめたが、
「かまうものか。わしらは譜代の大工じゃ。田舎大工は田舎で仕事をすればよいのじゃ」
 その言葉に、誰もが救われたように失笑した。
 長次も、そのとおりだと気持ちを新たにした。
 駿府城は、あくまでも大御所の隠居城である。治政の中枢ちゆうすうは江戸にある。我々には江戸が重要なのだと内心いい聞かせると、気が楽になった。
 水がぬるみ桜の花が開きはじめた頃、目出度めでたいことがあった。
 沙汰さたを受けた吉次が嬉々ききとした表情で、
「上様から直々じきじきのお下知だ」
 と、自慢そうな顔でつづけた。
本門寺ほんもんじに仏塔を造れとのお達しである。それも長次、上様はおぬしを名指しされた」
「まことでございまするか?」
「嘘偽りではない。それもただの仏塔にあらず、万世ばんせいの仏塔を造れとのことだ。おぬしの腕の見せどころではないか。早速にもかかれとのおぼし召しである」
 長次は遠くの空に浮かぶ雲を眺めた。どこからともなくうぐいすの声が聞こえてくる。
 そのさえずりが、「やれ、やれ」と、背中を押しているように聞こえた。
「叔父上、必ずや立派な塔を造ってみせまする」
 秀忠からの名指しである。断るわけにはいかない。久しぶりに己の力を存分に発揮したいと思いもした。また、自宅屋敷の大井村から池上いけがみの本門寺は江戸城よりも近い。
 すぐさま息のかかった大工衆五名を連れて、池上本門寺を訪ねた。同寺は吉次の屋敷からも離れていない。
 長次は境内につづく長い石段を上りながら、ときどき背後に付き従う大工らを振り返った。眼下には若葉を芽吹かせている木々と、青々とした野が広がっていた。
 石段は加藤清正かとうきよまさが寄進造営したもので、法華経ほけきよう維持の偈文げもんにちなみ九十六段あった。上り切って境内に上がると、眼前に仁王門におうもんがあり、その先に大堂だいどう祖師堂そしどう)があった。間口二十五間の堂々たる大建築だが、これも清正が建立こんりゆうしたものだった。
 すでに長次が来ており、すたすたと近づいてくるなり、
「長次、心してかかれ。ここは上様と縁浅からぬ寺。なんでも上様が十五のとき大病をわずらわれた折、乳母うば殿が日参し病気平癒へいゆを祈願されたそうだ。お陰で病が治り、お元気になられたという。さような仕儀があっての仏塔建立である。そうでござったな」
 と、近くにいる住職を振り返った。
「さようにございまする」
「では、早速にも取りかかりたいと思うが、さて場所は……」
 長次が境内を見まわすと、住職は仁王門の右のほうへ案内し、このあたりがよいでしょうといった。
 長次は周囲に視線をめぐらし、縄張りはまかせてくれるのかと訊いた。
「ご随意ずいいになさってくださいませ。ご覧のように、境内は広うございます。上様は幾代いくよにも残る仏塔を望まれておられると伺っております」
「承知いたしました」
 長次は、翌日には仮の縄張りをし、築造にあたる大工衆を選んだ。
 建築場の基礎普請は、青山伯耆守忠俊あおやまほうきのかみただとしに頼んだ。青山伯耆守は藤堂高虎より土木術に習熟しており、また、木原大工の郷里に近い浜松の生まれという縁もあったため、長次の頼みを快諾してくれた。
 長次は久々に目の色を変えた。毎日、大井村の屋敷から本門寺に通い、仏塔造りに熱中した。考えたのは五重塔だった。それも後世に残る建築物にしなければならない。
 江戸城の天守ほどではなくとも、日本一の五重塔を造るために、練りに練って構想を固めた。このとき鎌倉八幡宮かまくらはちまんぐうで覚えた技術を応用、駆使することにした。
 工事は着々と進み、その年の暮れ間近に五重塔は完成した。
 高さ約十八間(三十一・八メートル)、方三間の大仏塔だった。壁面は弁柄塗べんがらぬり、初層と二層の屋根は本瓦葺ほんかわらぶき、それ以上は銅瓦葺き。初層には二重平行垂木たるきと十二支彫刻付きの蟇股かえるまたなどをこしらえ、各壁面の中央を桟唐戸さんからととし、両脇間わきま格狭閒形こうざまがたの装飾を入れた。これは和様わようである。
 二層以上は唐様からよう禅宗様ぜんしゆうよう)とし、おうぎ垂木に高欄こうらん付き廻縁まわりえんなどと凝った。
 完成した五重塔をいたく気に入った秀忠は、長次をそばに呼び、め称えた。
 この功績は長次にとって大きなものになった。当人はもちろん、何より歓喜したのは叔父の吉次だった。
「でかした、でかした。上様は手放しでのお褒めだというではないか。これで譜代の大工である木原衆の株も少しは上がったというものじゃ」
 吉次は満面をしわだらけにして高笑いした。
 その吉次に、新しい男の子ができた。

 それは翌年の春──慶長十四年(一六〇九)のことだった。
 先年、吉次は継嗣けいし重次しげつぐを亡くしており、後継は次男の重義しげよしに託されていたが、常からもうひとりほしいと願っていただけに、その喜びようはことほかであった。
 吉次は三男に「義久よしひさ」と名付け、
「女房殿も、よくぞを産んでくれた。これも神仏のご加護かごであろう」
 と、顔をほころばせた。長男が死んだとき、吉次の悲嘆は大きく、そばで見ていた長次も体を悪くするのではと心配したほどだったが、新たな子をもうけた吉次は気力を充実させていた。
親爺おやじもあの年で、よく精を出されたもんだ」
「年を取っても、あっちのほうは元気なんだろう」
 仲間の大工は三男義久の誕生を聞いて、吉次を笑いながら揶揄した。
 ところがその後、吉次は体調を崩し、床に臥すようになった。

 相も変わらず忙しく動きまわっている長次だったが、吉次の容態は気になっていた。
「叔父上の見舞いに行ってまいる」
 妻のお栄に告げたのは、慶長十五年(一六一〇)の年明け早々である。
 将軍秀忠への年賀の挨拶あいさつを含めた諸々もろもろの行事をすませたあとで、少しだけ余裕のできた朝だった。
 大井村の長次の家から新井宿村あらいじゆくむらにある吉次の屋敷までは、半里ほどの距離だ。
 馬にまたがった長次に、手代の弥吉と中間ちゆうげんが付き従った。
「このまままっすぐ街道を上れば、わしの生まれ故郷だ。たまにはの地にも足をのばしてみたいものだ」
 吉次の体を案じつつ、長次はそんなことを口にした。
鈴木すずき様のご生家の近くには、大御所様のお城がございますね」
 徒歩で付き従う弥吉が応じる。長次はうむとうなずく。
「駿府城が燃えたとき、なぜ譜代の大工は使われなかったのでしょうか? いえ、いまさら蒸し返すわけではありませんが、木原方の大工らは、やはり京大工をこころよく思っておりませぬ」
「それは……」
 長次は馬上から弥吉を見下ろす。
「中井大和守様の大工衆は、城が燃えたのは木原大工衆の腕が悪かったからだ、と口をはばからぬそうでございます。そんな噂が上方かみがたより流れていると申します。いつでも京大工は譜代である木原方を見下しているのです」
 長次は黙したまま。しばし遠くに目を向けた。街道の左側につづく松林越しに、春の日射しを受けてきらめく海が広がっている。街道には潮風が満ちていた。
「あれは、大御所様のご意向だったのだ。木原衆の腕が悪いからではない」
 長次はわずかに怒気を含んだ声でいった。京大工におとしめられる腹立たしさ、悔しさを一心に噛みしめながら、言葉を継ぐ。
「わしらは負けぬ。わしらには腕のある大工がいる。噂ごときで右往左往うおうさおうすることはない。でんと構えて、目の前の仕事に精魂込めればよいだけだ。それが木原大工のあるべき姿だ。弥吉、わしは天守を造れなかった。だが、本門寺の五重塔を造りし折に、つくづく思った」
「なんでございましょう」
「人だ。わしはいい大工衆を持っていたことに気づいた。そして、大工らを育てたいと思った。そんな大工らのなかから、一廉ひとかどの人物が生まれてくるはずだ。だから、ひとりひとりの大工を大切にし、大きくしてやらねばならぬ。かくいうわしも、育てられた男だ。木原吉次というおん大工にな」
 弥吉は感心顔でうなずいた。
 吉次の屋敷に着くと、長次は早速奥の寝間ねまを訪ねた。日あたりのよい部屋で、障子しようじには縁側で遊ぶ義久の小さな影が映っていた。
「お加減はいかがです?」
 枕許に座って尋ねる長次に、吉次は半身を起こすこともできぬのに、
「大したことはない。しばらく養生しておれば、また元気にはたらくさ」
 と、強気なことをいった。
 だが、顔色はあきらかに悪く、頬はこけ、目にもにごりがある。
「城のほうはどうだ?」
 吉次はゆっくり頭を動かして、長次を見た。
「西の丸修造の支度したくにかかっております。外堀はさらに延ばされ、石垣普請も進んでおります。それから通町とおりちよう(東海道)の南に舟入堀ふないりぼりを造ることになりました」
「舟入堀を……さようか。江戸普請は何かと物入りだからな。舟入堀はあったほうがよいだろう。長次……」
「はい」
「わしにもしものことがあったならば、木原大工のまとめ役を、おぬしにまかせる。その心づもりでいてくれ」
「何をおっしゃいます。叔父上の跡を継ぐのは、重義です」
「あの者はまだ若すぎる。右も左もわからぬ若造に、あとはまかせられぬ。おぬししかおらぬのだ」
「なりませぬ。重義がきっと務めてくれましょう」
「そういうてくれると嬉しいが、わしはおぬしには頭が上がらぬ。おぬしに天守を造らせることができなんだ。わしは大法螺吹おおぼらふきだ。天守造りはおぬしの夢だった。その夢を、わしはぽきりと折ってしまった。すまぬ、まことにすまぬ。長次、そのことだけは悔しいのだ。許せ。恨むなら遠慮のう恨め」
 吉次の目から涙がこぼれた。
「恨むなど、できようはずがありませぬ。わたしは叔父上に感謝しておるのです。身の程知らずの若輩を、ここまで育ててくださったのですから……」
「長次、おぬしは……」
 またもや吉次は涙を流した。涙は目尻をつたい、深いしわに溜まり、そして頬をすべり落ちた。
「ちょうちょ……ちょうちょ……」
 表で遊んでいる幼い義久の声が聞こえてきた。長次はその影が映る障子を見た。吉次につられてか、胸が熱くなり、涙がにじんだ。
 その日の見舞いが、吉次の顔を見た最後だった。

 吉次の死をいたむ長次に、悲しみを引きずっている時間はなかった。西の丸の修造工事にかからねばならず、さらに舟入堀の建設も控えていた。
 大工頭は作事だけに専念することが許されない。土木を主に扱う普請方との折衝せつしようもあれば、材木や石垣用の石材の調達、さらには人の手配、入費と出費の監査など、やらねばならぬことは山積みだった。
 吉次の死によって仕事が増えたこともある。しかし、忙しければ忙しいほど気は紛れた。
 西の丸の修造は十四の大名家に、舟入堀の建設は安藤対馬守あんどうつしまのかみに命ぜられていた。責任はお手伝てつだい普請を命じられた大名連にあるものの、実際に現場を差配するのは普請奉行と作事奉行以下の大工頭のため、失敗は許されなかった。
 舟入堀は大小合わせて十本が計画された。場所は八丁堀はつちようぼりの西側対岸、東海道の東側。日本橋にほんばしから京橋きようばしの間である。
 この舟入堀は築城用石材や材木、そして物資揚陸ようりくのためであったが、海外進出を視野に入れていた家康の意向も含まれていた。
 舟入堀の建設は、慶長十七年(一六一二)にはじまった。また、長次が江戸で忙しくはたらいている頃、中井正清を中心とする京大工らは、名古屋城なごやじようの作事にかかっていた。主な仕事は天守造りである。
 こちらの天下普請を命じたのは家康で、九子義直よしなおのためであったが、東海道の鎮護ちんごとして大坂おおさか豊臣とよとみ氏へ備える目的も重きをなしていた。
 動員されたのは西国の諸大名で、天守台の石垣を加藤清正、作事奉行を小堀遠州こぼりえんしゆう政一まさかず)、大工頭に安土城あづちじよう天守を手がけた岡部又右衛門おかべまたえもんを配し、中井正清が総指揮を執った。
 天守は五層五階、地下一階の層塔型で、同時に造営された小天守と連結されていた。天守の大屋根には、青銅せいどう鋳物いものに薄い金板を貼った鯱鉾しやちほこが載せられた。
 この功績で中井正清は従五位下じゆごいげから従四位下じゆしいげに昇進した。またもや大名的な扱いを受けたのである。ねたみやそねみを抱いたのは、譜代の木原大工たちだけではなかった。大名や旗本らもおもしろくないと、正清への敵愾心てきがいしんにも似た嫌悪を隠そうともしなかった。
 だが、長次はなんの痛痒つうようも感じなくなっていた。
(大和守殿は大和守だ。わしはわしだ。己の道を歩むのみ)
 もはや追いつけるような存在ではない正清に対して、そう達観するようになっていた。
 そんな長次に声をかけてくる意外な人物がいた。なんと将軍職にある秀忠だった。
 長次からすれば、秀忠は雲上人うんじようびとである。死ぬまで口など利けぬ人物である。にもかかわらず、「鈴木長次」あるいは「長次」と気安く声をかけてきたのだ。
 最初は、舟入堀の普請場を見廻っているときだった。
「そなたが鈴木長次であるか」
 現場の差配を受けながら桟橋さんばし工事に励む職人の仕事ぶりを見ていると、背後から呼び止められた。振り返って驚いたのはいうまでもない。
「こ、これは……」
 つぎに出すべき言葉も忘れて、長次はその場に平伏したが、
おもてを上げよ」
 と、秀忠はにこやかにいう。後ろには二十人ほどの家来衆が控えていた。
「そなたの五重塔は、まことによい出来映えであった」
「ありがたきお言葉、かたじけのうございまする」
「まことによいものを造ってくれた。礼を申す。じつはかつて、予はそなたの雛形ひながたを見たのだ」
「雛形……」
 長次は本門寺五重塔のことだと思ったが、秀忠は城のほうを扇子せんすで指し、
「あの天守だ。そなたの雛形はよく出来ておった。予は気に入っておったのだが、残念なことであった」
 そういって秀忠は去って行った。
 それ以降、たびたび声をかけられるようになった。あるときは西の丸のそばで、あるときは紅葉山もみじやまの入り口で、そしてまたあるときは城下の普請場であった。
 会うたびに秀忠は親しみを込めた顔で、「長次、長次」と呼ぶ。
「覚えが目出度いですな」
 下の大工棟梁らが感心すれば、
「鈴木様は出世されますよ」
 と、手代の弥吉は大真面目にいう。
「まあ、顔を覚えられて損はせぬだろう」
 長次はそういって受け流していた。
(第12回へつづく)

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稲葉 稔Minoru Inaba

1955年熊本県生まれ。脚本家などを経て、94年に作家デビュー。冒険小説、ハードボイルドを皮切りに、近年は時代小説に力を注いでいる。近著に『浪人奉行 四ノ巻』(双葉文庫)、『永代橋の乱 剣客船頭(十九)』(光文社時代小説文庫)、『喜連川の風 切腹覚悟』(角川文庫)、『すわ切腹 幕府役人事情 浜野徳右衛門』 (文春文庫)などがある。

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