双葉社web文芸マガジン[カラフル]

俺達の日常にはバッセンが足りない / 三羽省吾・著

イラスト:西川真以子

第5回
 葛城ダイキから電話があったのは、春の終わりのことだった。
『しかしアツヤがホストとはなぁ。いや、俺らの中ではダントツでモテ系だったことは認めるよ。でもさぁ、大学辞めてまで続けるような仕事か? けっこういい大学入ったのに、もったいない』
「久々に電話してきて、そんな話かよ。下らねぇから切るぞ」
 山室アツヤがそう言うと、ダイキは慌てて『いや実はさ……』と切り出した。
 兼石エージがまとまった金を借りに来た。犬塚シンジも一緒だった。お前のところにも行くのではないか。そんな話だった。
『俺はもちろん断わったよ。アツヤも相手にするんじゃねぇぞ。癖になるからな』
「エージは野良犬かよ」
『野良犬でも、もうちょっと遠慮ってものがある。あいつは馬鹿みたいに口をぱくぱくさせてる池の鯉か、ガーガーうるさいアヒルってところだ』
 ダイキのそんな言葉に「上手いことを言うな」と笑い、アツヤは電話を切った。と同時に、数日前にシンジから『近々会いたい』とメールがあったことを思い出した。
 ダイキもエージもシンジも、アツヤの古くからの友人だ。エージはトラブルメーカーで、シンジはいつもそのトラブルに巻き込まれていて、頭のいいダイキは事が大きくなる前にフッと姿を消していた。
 そしてアツヤは、もう一人の仲間である阿久津ミナと一緒に「なにやってんだか」という感じで、他校との喧嘩沙汰や教師とのいざこざなどを遠目に楽しんでいた。
 大人になってからも、この関係性は変わっていない。
 常に金欠のエージが、会う度に「金、貸しておくれ」と言うのは挨拶みたいなものだ。子供の頃は二、三百円、高校生くらいになると二、三千円、大人になってからは二、三万円と、その額は順調に(?)大きくなっている。そして、貸した金は返って来たためしがない。
 ましてや今、エージは留置所から出たばかりだ。金欠具合も相当なものだということは、アツヤも察しが付いていた。
 ただ、ダイキが言ったまとまった金とはいくらくらいなのか、その金でエージがなにをしようとしているのかが気になった。
「ま、シカトするわけにもいかねぇか……」
 アツヤはそう一人ごち、シンジに『開店前の打ち合わせが午後五時からなんで、その前なら時間が作れる』と返信した。
 そして数日後、アツヤは職場近くの喫茶店でシンジ達と落ち合った。
 ダイキのおかげで、アツヤはエージの顔を見ても驚かなかった。それに対しては、シンジの方が少し意外そうだった。
「よぉ、ディージ。お勤めご苦労さん」
 アツヤが確信犯的にそう言うと、エージは「お前もかよ。シーはどこ行った」と、片頬だけ上げて笑った。
「〝お前も〟ってことは、ミナには会ったんだ」
「あぁ、さっきな。元気そうだったよ」
 懐かしい名前に、アツヤの頬も緩んだ。
「二年振りだっけ? アツヤ、なんか雰囲気変わったな」
 シンジがそう言って、視線を上下させた。
「前はアニメのキャラみたいな髪型だったよな。服もさ、ビジュアル系バンドみたいだったのに、今はなんつうか普通のリーマンみたいじゃん、無精髭を除いて」
「ああいうのを好む人を、もう相手にしなくてよくなったからな」
「そうなの? あ、靴も尖ってない」
 たっぷりシロップを注いだアイスコーヒーを飲んでいたエージが、テーブルの下を覗き込むシンジを「うっせーな」と小突いた。
「なんだよエージ。お前もアツヤに会うの久し振りだろ。少しはイジってやれよ」
 シンジは不満そうだったが、アツヤが「時間がない。本題に入ってくれ」と促すと、エージは「だよな」と再度笑った。
「二、三千万、貸しておくれ」
 笑顔をキープさせたまま、エージはなんでもないように言った。
 アツヤは「千……?」とスプーンを回していた手を止めた。
 シンジが「あのな、実は」と説明しようとしたが、アツヤはそれを制して「ゼロ、一気に三つも増やすなよ」と笑った。引きつったような笑顔であることが、自分でも分かった。
「そんな大金、なにに使う」
 アツヤのその問いに、エージは笑みを消してこう答えた。
「俺達の日常にはバッセンが足りない」
「バッセン?」
 煙草に火を点け、ゆっくり煙を吐き出すと、エージは「一本おくれ」とねだり、ねだったくせに「今どきゴロワーズかよ。匂いキチーよ」と文句を言いながら輪っかの煙を吐き出す。
 シンジは不安そうに、アツヤとエージを交互に見ていた。
 夕暮れ時、繁華街の外れにあるその喫茶店は、遅い昼食を摂る営業マン、ルーズなジャージのチンピラ風三人組、同伴出勤の待ち合わせと思しき若い女達で、かなり繁盛していた。
 午後四時五十三分。普段からスタッフに遅刻厳禁を厳命している手前、アツヤはすぐにでも店に向かわなければならない。
 煙草一本分の沈黙の後で、アツヤの方から単刀直入に訊いた。
「強請のつもりか?」
 そこだけは、どうしても確認しておきたいところだった。
 煙草を灰皿に押し付けていたエージが「は?」と顔を上げ、シンジは「なに? 強請って、どういうこと?」と、視線を動かす速度を上げた。
 エージは思い当たったのか「あぁ」と薄く笑った。
「俺ぁ、そんなに小さくねぇよ」
 シンジが「どういうこと?」と繰り返したが、アツヤはそれを無視して答えた。
「考えさせてくれないか」
 エージは「へへへ」と笑い、アイスコーヒーの氷を口に含んでゴリゴリ音を立てながら噛み砕いた。

 それから半年が過ぎ、季節は冬を迎えようとしていた。
「レオとシュウトは同伴、ガイは二部の後でアフターが入ったので二十時入り、セツナは担当の誕生会に出るので入り時間がハッキリしませんが、新規客を三人は連れて来る予定で……」
 スタッフのスケジュール管理を任せているリュウから一通り説明を受け、アツヤは七人の男達の前に立った。
『メンズクラブ ストレイキャッツ』
 アツヤは、この店の雇われ店長をやっている。
 男性が女性をもてなす店だが、ホストクラブではない。メンズキャバクラ、略してメンキャバと呼ばれる業態だ。サービス内容はホストクラブと大差ないが、支払いシステムと営業形態が異なる。
 料金は時間制、売掛けなし、指名制度はあるが永久性ではなく入れ替えがある。また、午前〇時から六時の営業は風適法で禁じられており、その代わり『ストレイキャッツ』では午前六時から十二時まで、夜の仕事をする女性向けの、いわゆる朝キャバも行なう二部制を取っている。
「本日、予約のお客様は二十一時より春日様、二十二時より横内様と坂本様。春日様は今週末が誕生日だけど、誰も当日の来店は確認してない? じゃあ今日、花とケーキの用意を。あと、トイレは完璧だったけど、洗面台の鏡が少し曇ってた。後で誰かよろしく」
 アツヤの言葉に、全員が黙って手帳やスマホにメモを取る。ホストクラブでよくある、指名数の多かった者の表彰とか、売上げ目標の連呼とか、「絶対惚れるな惚れさせろ」的な言葉の唱和などはない。
「じゃあ以上。本日も、極上のサービスをご提供しましょう」
 普通の飲食店の朝礼のような締めの言葉と同時に、ある者は洗面所に走り、ある者は花とケーキを買いに走る。フロアの照明と音響のチェックが始まる頃、アツヤはリュウを隅のボックス席に呼んで気になる点を再確認する。
「ガイがアフターした客って、例の?」
「はい、福田様です。やはり、止めますか?」
 リュウは、アツヤより三つ上の三十三歳。指名が掛かることがほとんどないスタッフだが、アツヤにとってはとても重要な大番頭的な存在だ。若いスタッフの面倒見がよく、勘が鋭く、数字に強い。そして、人を見る目が確かだ。
 そのリュウに言わせると、最近ホストクラブを辞めて『ストレイキャッツ』に入店したガイという男は、「あまり当店には向いてないかと」ということらしい。
 福田という客はガイに入れ込んでおり、店に通いつめている。リュウが心配しているのは、ガイが「借金してでも店に来てくれたら嬉しい」などとそそのかしているのではないか、ということだ。
 かつて新宿の歌舞伎町でホストをやっていたアツヤとリュウだから分かることだが、ガイはまだメンキャバとホストクラブの違いを理解していない。
 ホストクラブでは、「太い客」を見付けたら徹底的に金を搾り取る。公務員や会社員であれば、金がなくてもツケで遊ばせ、ボーナスが出た時にまとめて払わせる。それでも追い付かなくなると、消費者金融で借りさせ、信販会社でキャッシングをさせる。どこも貸してくれなくなれば、闇金を紹介する。職場に取り立てが行って仕事を解雇されると、実家や親戚に泣きつかせ取れるだけ取った後で水商売を紹介する。若くて奇麗ならキャバクラかデートクラブ、そこそこならヘルスかデリヘル、普通以下ならソープ、どうしようもなければSMやスカトロ系の特殊風俗店、それでも駄目ならタコ部屋に詰め込んで出会い系詐欺や昏睡強盗をやらせる。
 そこまで落ちてもほとんどの女性達は、少し自由になる金が出来ると、やはりホストクラブに通う。
 飛び切りの美人が単独でAVに出演し、数千万円の借金を一年ほどで完済するという離れ業をやってのけることもあるが、そんな話は伝説に残るくらいのレアケースだ。
 たいていの場合は自己破産して姿をくらませるか、性感染症を患ってゴミのように捨てられるか、精神を病んで自殺するかだ。だから多くのホストは、最終的にそうなることを知りつつ、出来るだけ長持ちさせるべく「愛してる」だの「いつか一緒になろう」だのと囁き続ける。
 歌舞伎町時代に嫌というくらいそういう例を見て来たアツヤは、ダイヤというキラキラの究極みたいな源氏名を捨て、地元に戻った。そして商売を始める時、敢えて時間制で売掛けなしのメンキャバという業態を選んだ。
 遊び方を知らない客がドツボにハマるのを防ぐためであり、同時に、若いスタッフ達を真っ当なホスト(もてなし人)に教育するためでもある。
 最初の面接でガイにその旨は伝えているが、彼としては「所詮はホスト、やることは一緒っしょ」とでも受け止めているのかもしれない。
「一度、私から言っておきます」
「すみません。ガイの奴、自分のことは舐めちゃってて。アツヤさんから言ってもらえると助かります」
 そんな話をしているうちに、午後六時、開店の時間を迎える。
 開店直後にやって来る客は、仕事前のキャバ嬢が多い。売れっ子なら同伴出勤の客と食事の時間帯なので、あまり人気のないキャバ嬢が仕事前に軽く酒を引っかけるという感じだ。
 八時頃から仕事を終えた会社員やショップ店員などが増え、十時から閉店までの二時間は常連の年輩者が多くなる。
 リュウが言っていた通り、レオとシュウトは同伴客を連れ、セツナも新規客を予定を大幅に上回る八人も引き連れて入店した。ガイも九時過ぎにやって来て、アツヤは二言三言説教をした。ガイは唇を尖らせたまま聞いていたが、一応は「ういっす」と頷いた。
 平日にしてはそこそこの集客だったが、新規客は入店無料なのでそこは差し引いて上がりを計算しなければならない。
 接客しながらも頭の片隅でそんなことを考えつつ、アツヤは七つのボックス席を均等に回っていた。
「アツヤさん、森村様がいらっしゃいました」
 その女性がやって来たのは、午後十時半を過ぎた頃だった。
 スタッフ十三名に対して客はまだ十八人おり、アツヤは馴染み客がいるボックス席で接客をしていた。客に詫びて、アツヤは急いで店の出入口へ向かった。
「いらっしゃいませ、ハナさん」
 他の客の目に触れないルートを使い、アツヤは常連中の常連しか座ることのないカウンター席へ女性を案内した。
 森村ハナ、五十六歳。多摩地域で手広く飲食店を展開する人物を紹介してくれた恩人だ。詳しい額は教えてもらっていないが、『ストレイキャッツ』を始めるにあたっても、かなりの額をオーナーに提供してくれたという。
 要するに、この店の陰のオーナーのような人物だ。
「バーボンでいいですか? ハナさん好みの梅酒もありますけど」
「じゃあ、梅酒をロックでもらうわ」
 景気はどうか、トラブルはないか、変な具合にハマっている客はいないか。ハナは週に一度くらいの頻度で来店し、そんな質問をして三十分ほどで帰る。だがこの日は、一時間経っても席を立とうとしなかった。
「あのことですか?」
 アツヤの方から水を向けると、ハナは「それもあるけど」と、珍しく言葉を濁した。
「なんですか? なんだか、いつものハナさんらしく……」
 その時、奥のボックス席から「おいコラ、アツヤー!」と怒鳴り声が聞こえた。アツヤがさっきまで就いていたボックスだ。各ボックス席はフリンジカーテンで緩やかに視界を遮られているのだが、その客は立ち上がってカーテンの隙間から顔を出し、フロア中を見回していた。
「マキちゃん、まだ来てるんだ」
 そっと背後を振り返り、ハナが言った。
 谷口マキ。ハナに連れられてこの店に来て、アツヤに入れ上げてしまった四十代半ばの客だ。エステやネイルスタジオをいくつも展開し、金はそこそこあるようなので有り難い客ではあるが、酔っ払うと必ず絡むので扱い難い存在でもある。
「そこにいるのは分かってんだぞ! 早くこっちに来い!」
 対応していた若いスタッフが「まぁまぁ」と落ち着かせようとしたが、逆効果だった。
「おい、森村のババアといちゃついてんのか! 早く来ないとブチ殺すぞ!」
 フロアとカウンター席の間もフリンジカーテンで仕切られているが、人がいる気配は伝わる。
 ハナは「おお恐い」と笑ったが、直後に「ごめんね」とアツヤに謝った。
 仕事絡みでマキと知り合い、ほんの出来心で『ストレイキャッツ』に連れて来た。その時、アツヤは既にホスト然としたファッションではなかったのだが、それが逆にこういう店で遊び慣れていないマキの気に入ったらしい。それに対する詫びだ。
「いや、ハナさんが謝ることなんか……ちょっと行って来ます」
「じゃ、私は帰るから。家で待ってていい?」
 アツヤは「もちろん」と答え、奥のボックス席へ向かった。鍵を渡さなくても、ハナが合鍵を持っていることはアツヤも承知だ。
 アツヤが住んでいるタワーマンションも、乗り回している高級外車二台も、彼女に贈られたものだ。
「いつまで待たせるんだよ!」
 席に着くなり、マキは氷をアツヤに投げつけた。酷い時は顔に酒を浴びせられるので、この日の酔い方はレベル2といったところだ。
「また森村のババアの相手かよ!」
 こういう場合、普通のホストなら「なになにマキちゃん、機嫌悪いの?」とでも言って、肩の一つも抱けばいい。だが今のアツヤは、それをやってしまうと負けのような気がしている。
「いえ、ちょっと事務の方で手が離せなくて。失礼しました」
 マキは口紅の落ちた唇を歪ませ、低く「たかが男芸者の分際で」と呟いた。

 午前二時過ぎ。自宅の玄関を開けると、淡い出汁の匂いがアツヤの鼻をくすぐった。
「夜食、パスタやラーメンは重いと思って、お吸い物だけ作ったの。溶き卵、入れる?」
 十月中旬にしては早くも肌寒さを感じる夜で、アツヤは「うん、ありがとう」と答えた。
 森村ハナは、アツヤが歌舞伎町でホストを始めた直後から、目を掛けてくれていた。
 当時のアツヤは大学在学中の二十歳過ぎで、ハナは四十代半ばだった。江戸中期から続く菓子舗の次女で、死別した前夫は銀座の洋食店の社長。双方の家から縁は切れているが、四十半ばにして彼女の元には数十億円の金が残った。
 それを元手に始めたネットビジネスや輸入雑貨店、飲食店などもことごとく成功している。『ストレイキャッツ』もその一つだが、様々な店や商売の立ち上げに投資も行なっている。そちらでもかなりの利益が出ており、資産は減るどころかいまこうしている間にも増え続けている。
 そんな女性がいきなり、ホストとしてキャリアもスキルもないド新人の太い客になり、ほんのバイト感覚で始めたはずなのに、アツヤはトップクラスのホストに駆け上った。
 そういった過去もあり、ハナから「食べるでしょ?」と言われると、たとえリュウとともにガイを誘ってスタ丼屋でこんこんと説教をした後でも、お腹一杯とは言えない。
「明日は?」
「二部はリュウさんに頼んだ。十一時には行って、引き継ぎしないといけないけど」
 湯気を立てるお椀を手にキッチンから出て来たハナは「じゃあ少しだけ話を……」と言い掛けて、
「あら、またなの?」
 ダイニングテーブルの上にあったピザの箱に気付いた。アツヤはなにも答えなかったのだが、ハナは中を見て「ほら、一切れしか食べてない。いらないのに、買い取ったんでしょ」と指摘した。
 一年余り前から、アツヤの家には頻繁に頼んでいないピザや寿司が配達されるようになった。五回ほど続いてからは、配達地域に入っている各種デリバリー店に「うちからオーダーがあったら、お手数ですが確認の電話をお願いします」と依頼した。
 それでしばらくは落ち着いていたのだが、今日の出勤前、新たに出来たピザ店から配達があった。
 頼んでいないことを伝えると、バイトくんは「え~?」と泣きそうな顔で項垂れた。アツヤに非はないが、なんとなく可哀想になって買い取ったのだ。もちろん、今後は面倒でも本人確認をしてくれと頼んだ。
「車への悪戯もあるんでしょ? けっこう執拗ね。やっぱり警察に届けたら?」
「うん、もうちょっと続くようなら」
「迷うっていうことは、犯人の見当は付いてるってこと?」
 ハナが暗に、犯人はマキだと言っていることは分かった。なかなかなびかないアツヤに痺れを切らし、可愛さ余って的な行為に走る可能性は、充分にあり得る。
 だがアツヤは「さぁ」ととぼけた。
「確証ないし。だいたい、ウチなんて敵だらけだよ。このご時世にそこそこ繁盛してるし、近くのホストクラブから流れて来る客もスタッフも多いから」
 とぼけつつも、ハナが納得するような真実も織り交ぜた。
 メンキャバという業態がまだ珍しい地域だったこともあり、『ストレイキャッツ』は開店して間もなく人気店となった。
 同じ額を払うならホストクラブより長く遊べるし、時間制なので、とんでもない額を払うようなこともない。そしてスタッフは、教育が行き届いている。
 更にはホスト、特に太い客を持たない者達にとっても『ストレイキャッツ』は魅力的な職場だ。五千円前後の日当プラス出来高制をとるホストクラブと違い、時給プラス出来高制としていることが大きい。基本は六時間で六千円、連続で一部と二部、二部と一部に出勤した場合は、十二時間勤務で一万五千円を与えている。ここに指名料や新規客の獲得報酬が加われば、日当三万円以上になる場合もある。
 ホストクラブには月収数百万円という強者もいるが、一攫千金を狙うか安定を確保するかの二者択一となれば、後者を選ぶ者が多いのも無理はない。
 アツヤは、店を立ち上げる時を除いて、他店からのホストの引き抜きはやっていない。彼らの多くは、自らの意思で『ストレイキャッツ』にやって来たのだ。だがそれでも、周辺のホストクラブは『ストレイキャッツ』を目の敵にしている。
「まぁ確かに敵だらけねぇ」
 ハナの方もマキの名前は出さず、ちょっと面白がっている感じで悪戯っぽく笑った。アツヤは、鼻にクシャッと皺が集まるこの笑顔が好きだった。
 満腹のはずなのに、溶き卵入りの吸い物は不思議なくらいすんなりと胃袋に収まっていった。
「で、話ってのは例のバッセンのこと?」
 一息吐いて、アツヤの方から水を向けた。
「うん、途中経過くらい聞いておこうかと思って」
 アツヤは、エージの依頼を受けることにした。外車の一台と高級時計を手放して一千万円、ハナに投資の一環として二千万円を用意してもらい、三千万円を調達する目処は付いた。
 ハナは「そんな面倒なことしなくても、まるまる三千万円出してもいいのよ」と言ってくれたが、そこはアツヤにとってギリギリのプライドだった。車も時計もハナに与えられたものだが、自分もなにかを手放さなければ筋が通らない。そんな気がしたのだ。
「実は、場所の目処は付いたらしいんだけど、金はもう少し先でいいらしい」
 半年前、エージとシンジが目星を付けていた土地はなんらかの理由で手に入らず、金はすぐに必要ということではなくなった。しかし最近になって、入手の可能性がある新たな候補地を見付けたという。
「どうやら居抜きらしいんだけど」
「あら、つぶれたバッティングセンター? それなら三千万円も必要ないのかもね」
「うん、それがね、かなり老朽化が激しくて、しかもビルの屋上なもんで補強工事にかなり金が必要らしくて、やっぱり六千万……半分はもう一人の旧友が用意するんだけど……それくらいは掛かるんだって」
「ふ~ん」
 アツヤの対面で頬杖をついていたハナが、さきほどのクシャッとは違う、柔らかな笑みを浮かべていた。
「なに? その笑顔」
「なんだか楽しそうだな~って」
「そう? 別に……」
「いや、楽しそう。不安はいっぱいあるんだけど、それより、その先にある可能性の方に興奮してるって感じ」
「あぁ、うん、まぁ……」
「特別な友達? そのエージって子」
「いやぁ、別に。腐れ縁っていうか、なんていうか……」
 歯切れの悪いアツヤを見て、ハナはクシャッの方の笑顔を見せた。そして、やや唐突に「バッティングセンターって、いいよね」と呟いた。
「え? あぁ、そうだね。うん、だから俺も乗ったわけだけど」
「懐かしいね、あそこ」
 歌舞伎町に二つあるうちの一つ、あのバッティングセンターのことを言っているのだと分かった。
 ホストにはテリトリーがあって、足を踏み入れてはならないエリアがある。アツヤが勤めていたホストクラブでは、区役所通沿いではなく、ホテル街にあるバッティングセンターしか利用出来なかった。
 アツヤとハナには肉体関係があるが、それは片手に余るほどの回数だ。当時四十代後半だったハナの方から「こういうんじゃないんだよね」と、そういう関係を終えた。
「君にはさ、もっと凄い可能性を感じるんだよね。だから男女の仲はやめて、私の投資対象になってくれない?」
 当時のアツヤには意味が分からない言葉だったが、今から思えば、それが『ストレイキャッツ』開店に繋がっていたのだ。
 身体を合わせなくなってから、二人はよくバッティングセンターでデートをした。スーツやドレス、時には和装で、ハナは「おりゃ!」「くそっ!」「んなろー!」と叫びながらバットを振った。そして、だいたいいつも「爪割れたー!」と叫びながらケージから出て来て、アツヤはその様子を手を叩いて笑いながら見ていた。
 深夜ではなく、アツヤの出勤前に落ち合って食事を済ませた後に行く場合、あのバッティングセンターはある意味カオスだった。
 野球部っぽいイカつい学生ふうもいれば、サラリーマンもキャバ嬢もオネエもいる。暖をとっているホームレスがいるかと思えば、下の駐車場ではなにやら怪しげな取引をしている外国人もいる。たまに、明らかにその筋っぽい人が切ない表情で項垂れている隣で、丸坊主の中学生同士がバッティング理論について熱く討論していたりする。
「ホント、なんでもあり。ああいう場所って、貴重よね」
「うん、俺もそう思う」
「私にとってバッティングセンターといえばあそこだけど、アツヤくらいの世代だと、小中学生の頃にも思い出あるんでしょ?」
「うん、まぁ……」
 バッティングセンターにまつわる思い出は、確かにある。それについて言うべきか黙っているべきか逡巡していると、ハナはスマホを見て「もうこんな時間」と立ち上がった。もう午前三時半を過ぎていた。
「バッティングセンターの件は、進展があったら教えて。居抜きの件なら、不動産関係の知人にアドバイスをもらえるかもしれないし。お金を出すんだから、それくらい聞く権利あるでしょ?」
「あぁ、そうだね。確認しとく」
「じゃ、帰る。タクシー呼んでくれる?」
 アツヤの「泊まっていけば?」という言葉に、ハナは静かに微笑んで首を横に振る。半ば儀式化しつつあるやりとりの後で、アツヤはタクシーを呼んだ。
 帰り支度を済ませ、特になにをするでもなくタクシーを待つ数分間。この時間、アツヤは自分とハナの関係が、ホストと客ではなく、雇われ店長と陰のオーナーでもなくなるような気がする。
 息子と母親のようなものだろうか。そんなふうに感じ、ひどくどぎまぎしてしまう。
 タクシーは五分ほどで来て、ハナは玄関口で靴を履きながら、ついでのように「腹、くくりなさい」と言った。
「なにそれ。くくってるよ、とっくに」
 ハナは「だったらいいけど」と言い、柔らかい方の笑顔を残して帰って行った。
「どういう意味だよ」
 小さく独り言を呟くと、直後にこんな言葉が頭を掠めた。
 ――これほどしてもらうだけの価値が、俺にはあるんですか?
 閉じられた玄関扉を数秒見詰めていると、『ストレイキャッツ』を開店してから何度も言おうとして言えなかった言葉だったような気がした。

 五日連続で一部と二部にフルタイムで出勤していたので、この日は久々に六時間以上眠れる日だった。
 だが残念なことに、その電話は午前八時にあった。
『あぁ、この時間だと出るんだ』
 着信を受けると同時に、相手は名乗りもせずにそう言った。
「今日はたまたまだ。普段なら働いてる」
 何度か着信やLINE、メールもあったが、ずっと無視していた妹のカンナからだった。
「前にも言ったよな。時間に余裕があるのは、午後二時から五時の三時間だけだって」
『そんな時間、会社勤めが私用電話出来るわけないでしょ。LINEで伝えてるはずだけど』
 カンナはアツヤの四つ歳下だが、八歳と四歳の時点で口では敵わないことは分かっている。仰向けのまま喋っていたアツヤだったが、頭を掻きむしりながら上体を起こした。
「悪かったよ。で、なんだ? 親父が生き返ったのか?」
『笑えない』
「はいはい、悪い悪い。マジで、なんだよ」
 ベッドから這うように降りて冷蔵庫を開けたが、いつも起き抜けに飲む水が切れていた。指先を泳がせ、トマトジュースで我慢することにした。
『お母さん、倒れた』
 口元に運ぼうとしたペットボトルが止まった。
「貧血かなにかか?」
『違う。精密検査の結果待ちだけど、たぶん重い病気。お父さんが死んでから、ずっと心労が絶えなかったからね』
 自分を落ち着かせるつもりで故意に間を取り、ゆっくりとトマトジュースを飲み下すと、いつもより鉄分を強く感じるような気がした。
 アツヤとカンナの両親は共働きで、父親は大学職員、母親はフリーの絵本作家だった。家は庭付きの一戸建てで、アツヤは子供の頃から周囲の友人達を見ていて、自分達が経済的にかなり恵まれていることを分かっていた。
 ところが、アツヤが大学二年生、カンナが高校二年生の夏に父親が病に倒れ、途端に生活が苦しくなった。
 治療費は保健で賄うことが出来たが、介護のために母親は仕事がほとんど出来なくなり、日々の方便たずきも立たない事態に陥った。
 その頃のアツヤは歌舞伎町でホストを始めており、既にハナに出会い、自分でも分不相応と思うような暮らしをしていた。ただ、たまたま新宿を歩いていてスカウトされ、割りのいいアルバイト感覚でやっていることだったので、実家には黙っていた。
 とにかく金に困っている、大学は休学してもらうことになるかもしれない、カンナも進学は難しい。
 母親からそんな報せを受け、アツヤは当時持っていた高級時計やアクセサリーなどを売り払い、三百万円を実家に送った。
 当然、両親はその金の出所を気にした。
 そこでアツヤは初めて、歌舞伎町でホストをやっていることを打ち明けた。
 父親も母親も、カンナまでもが、アツヤが送った金を「不浄の金」と言った。三百万円は送り返され、アツヤは勘当された。
「人間は、良くも悪くも社会的な生き物だ。一人ではなにも出来ない。ならば食べていくためには、人は社会に貢献しなければならない。父さんは教授達の研究の手助けをすることを通じて、広く人類の未来のために働いている。母さんは未来を担う子供達に、夢や希望を与えている」
 幼い頃からそんなことを繰り返し言っていた両親にとっては、特定の人を対象としたサービス業というものは、認められないものだったのだろう。
 当時二十歳だったアツヤは、激しく反発した。
 ホストという仕事は、それほど不浄なものなのか。見もしないで決め付けるな。大学職員など、学校という閉ざされた世界しか知らない専門馬鹿ではないか。絵本作家にしても、子供の頃の平和で優しくてふわふわした世界を大の大人がなぞっているだけだろう。
 どちらも嘘っぱちではないか。それに比べればホストの世界は、嘘も裏切りも騙し合いもあるリアルな世界だ。それを不浄というのなら、現実社会はほとんどすべてが不浄だ。
 最後に顔を合わせたとき、アツヤはそんなことをまくし立てた。ホストという仕事について真剣に考えたことはなかったのだが、それらの言葉はすらすらと口から出た。
 勘当を言い渡された衝撃で思い至ったことなのか、前々から心の奥底に漠然とあった考えなのか、アツヤ本人も分からない。
 ただ、自分が父母とは違うリアルな世界の住人なのだというあの自覚は、それ以降もずっとアツヤの中に生き続けている。
 アツヤが勘当を言い渡された後、父親はいくらか持ち直したが、それから五年後に亡くなった。
 アツヤは葬儀に駆け付けたが、父に線香を上げることはおろか母とカンナに会うことも親戚によって阻まれた。
 金をどのように都合したのかアツヤには知らされなかったが、実家を売り飛ばすこともなく、カンナは四年制大学に進学し中堅証券会社に就職もした。
 それ以降、アツヤは母と会ってもいないし電話でも喋っていない。たまに、実家に住みつつ都心の会社に通うカンナと連絡を取り合うだけだ。
『ホストを辞めるなら、会ってもいいって』
「〝会ってもいい〟って、随分な言い方だな。俺の方から会いたがってるみたいじゃないか」
『お父さんのこともあったし、どちらかが折れないとしょうがないでしょ。私が説得して、なんとかそういう条件を引き出したんだからね』
 スマホ片手にブラインドを開けると、眼下を流れる川に反射した陽光が室内を満たし、アツヤは思わず目を細めた。
 ふと、五年前の葬儀のことを思い出した。
「エージは、母さんの容態が悪いこと、知ってるのか?」
『エージって……あぁ、あの兼石さん? 分かんないけど、知らないんじゃない? どうして兼石さんが出てくるの?』
「いや、分からないならいい」
 父が亡くなった時、母もカンナも親戚達も、アツヤには連絡しなかった。アツヤが葬儀に駆け付けることが出来たのは、エージが迎えに来たからだ。
 歌舞伎町の店で接客中、店長に呼ばれた。オヤジが死んだからエージという男が店の前で待っているという。なにかどこかが違っているような気がしたが、とにかく帰れという店長の言葉に支度をして店を出ると、久しぶりに見る兼石エージの顔があった。
「お前、なにやってんだよ! 早く乗れ!」
 エージは挨拶もなくいきなりそう言うと、アツヤを古いライトバンに押し込んだ。
 新宿から実家に向かう車中でエージはこうなった事情を時系列を無視して語った。
 この前夜、エージはシンジの家に泊めてもらっていた。そして今朝、新聞を読んでいたシンジの祖父が地方版の『お悔やみ』欄にアツヤの父の名があることに気付いた。シンジの祖父は、中学から高校時代にかけて孫とつるんでいた「山室くん」を覚えており、シンジに訊いた。シンジは自宅の住所や職業からアツヤの父親だとし、それを夕方になってシンジから聞いたエージが、歌舞伎町まで来たというのだ。
 車は、エージが今稼ぎの種としてやっている買物代行サービスで使っているもので、店の名前はここに来る前にアツヤの実家に寄り、カンナから無理やり聞き出したそうだ。
「なんかラメってるけど、取り敢えず上下黒だから良しとしようか。途中コンビニ寄ってやるから、黒いネクタイだけ買え。そのピョンピョン撥ね散らかった髪も、もうちょっとなんとかしろよ」
 父の容態は密かにカンナから報せを受けていたので、アツヤは死自体にはそれほど驚かなかった。だが、いつになく真っ当なことを言い、血相を変えているエージの様子には驚かされた。
『ねぇ、兼石さんがどうかしたの?』
 アツヤは「いや、なんでもない」と答え、目を閉じた。
 しかし銀色に輝く川面の光は、目蓋を通じて容赦なく眼球に届く。目蓋裏の毛細血管なのか、銀色に、うごめく赤黒いものが混じる。
『そりゃ妹としては、お兄ちゃんがホストやってるなんて自慢出来ることじゃないけど、お店は軌道に乗ってるんでしょ? 本当に辞めなくてもいいと私は思ってる。でも、辞めたふりくらいしてくれたっていいじゃない? お母さんだってきっと分かって……』
 カンナは喋り続けていたが、アツヤはほとんど聞いていなかった。
 なんでだ? なんで、俺の親父の死にそれほど血相を変えるんだ?
 あのとき訊けなかった言葉が、改めてアツヤの脳裏を過った。
(第6回につづく)

三羽 省吾Shogo Mitsuba

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞しデビュー。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk 毒にもなれない裏通りの小悪党』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。著書に『路地裏ビルヂング』『傍らの人』『Y.M.G.A.暴動有資格者』『ヘダップ!』など。

  • 双葉社
  • 小説推理
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