双葉社web文芸マガジン[カラフル]

俺達の日常にはバッセンが足りない / 三羽省吾・著

イラスト:西川真以子

第3回
 あけぼの信用金庫、通称〝ぼのしん〟多摩東部支店。
 阿久津ミナはここでテラー係、いわゆる窓口担当として働いている。
 大手金融機関ではきっちりとした役割分担があるらしいが、信用金庫の中でも規模が小さい〝ぼのしん〟では、テラー係は何でも屋だ。出納係、フロア係、渉外担当への連絡係、融資課や本店への案内係からお茶汲み係まで、二刀流でもてはやされる野球選手が羨ましいくらい携わる仕事が多い。
 ミナは一般職として入庫し、勤続十年になる。七年目からリーダーという肩書きが付いたが、これは警察における巡査長みたいなもので、給与面や待遇面はなにも変わらないまま新人の教育係やら上からのおりやら、責任ばかりが増えるポジションだ。
 更に女性テラー係は警察官と違い、名札に付く『LEADER』の文字が「ペーペーではありませんよ」であると同時に「ピチピチってほど若くはありませんよ」的な印にもなる。顔馴染みの個人商店主などは「ミナちゃんもリーダーか。いくつになった?」などと、デリカシーの欠片もない笑顔で訊いて来る。
 とにかく就業時間中は息つく暇もないくらい忙しく、上司と客からはセクハラ・パワハラ・モラハラ、なんでもありだ。
 それらの点については、ミナも「なんだかなぁ」と思わないでもないが、だからと言って辞めてしまおうとは思っていない。
 同僚は全員がいい人ではないものの、まぁマシな方だと思う。常連客の中には、毎日のようにやって来ては世間話ばかりするしんどいタイプの人もいるが、彼らのいなし方も慰め方も、軽く注意するコツも、身に付けることが出来た。
 金にまつわる悲喜こもごもを日常的に目撃出来る環境は、人生経験を積むという意味では、これほど相応しい職場はないのではないかとすら思っている。
 なにより就職氷河期の真っ只中、それほど優秀でもない短大卒で入庫出来たことを、ただただラッキーだと思っている。
 高校と短大を奨学金で出ているミナは、年間五十万円以上をあと十数年間、返済し続けなければならない。年収は三百万円余りで今後劇的に増える可能性はほぼゼロだが、とにかく安定収入を得ることが重要だった。

「満期までの期間がご心配でしたら、年金を受給されている方向けに一年満期のものがございます。こちらの金利、通常の定期預金よりは低いのですが、普通預金に比べますと……」
「ATMの使い方ですね。いまご案内します。あ、おばあちゃん、暗証番号を通帳に書いちゃ駄目ですよってこの間も……」
 その日の午前中も、ミナはテラー係リーダーとしての業務をそつなくこなしていた。
 昼休みは交替制で、この日は午後二時過ぎからになった。
 内勤者は近隣住民と必要以上に親しくなってはならないという内規があって、洒落たカフェでランチというわけにはいかない。もっとも多摩東部支店の周辺には寂れた商店街しかなく、洒落たカフェなどはないのだが。
 昼食はいつも自前かコンビニの弁当を、支店内の会議室兼休憩室で食べる。
「カエデちゃん、もう限界かもね」
 たまたま一緒になった同期のユミコが、入庫二年目の若いテラー係の話を持ち出した。
「なにかあった?」
「トイレで泣きつかれちゃってさ」
「あぁ、ノルマのこと?」
 ミナもついさっき、給湯室で西野カエデから弱音を聞かされた。今季も新規定期預金のノルマをクリア出来そうにない、どうすれば先輩のようにスラスラと説明出来るのか、そもそも人と喋ることが得意でない私にテラー係は無理だ、という内容だった。過去にも何度か聞かされており、再放送を見ている感じだった。
 テラー係に限らずどんな仕事でも、初めからそれに向いている人間など存在しない。人は多かれ少なかれ、仕事に合わせて変化しなければならない。
 そんなことを言ってやりたい気もするが、ミナはいつも言葉を呑み込む。カエデの人生に責任を持てないし、そんなことは自分で気付かなければ意味がないと思っているからだ。
「ノルマって言っても、ウチなんかゆるいもんなのにねぇ」
 コンビニの冷やし中華を食べ終えたユミコが、サクランボを口に放り込んで言った。
 確かに、銀行や大手の信用金庫に比べれば〝ぼのしん〟テラー係のノルマなどやさしいものだ。一応、個人ごとの数字は設定されているが、良くも悪くも査定には影響しない。ベテラン勢やリーダー格が頑張って預金課全体でクリアすれば、若手にも臨時ボーナスが出ることすらある。
「そもそもの部分が分かってないのかなぁ」
「あぁ、そうかも」
 信用金庫は、そもそも営利団体ではない。営業地域が限られ、地元の中小企業や個人に融資する、地域社会発展のために存在する金融機関だ。慈善団体でこそないが、目の前にいる客のことだけを真剣に考えて対応すればいい。ミナに銀行勤務の経験はないものの、それは銀行に比べれば随分と楽な大前提だと思う。
「カエデちゃんてメガネで地味系だけど、商店街のおじさん達にはけっこう人気あるんだよね。用がなくても彼女の顔を見に来る人もいるし、残って欲しいんだけどな」
「マスコット的な意味で?」
「違う違う。雑談の流れで、ゆうちょから口座移していいって人の紹介になることもあるんだよ。あの子はちょっと抜けてるから、ほとんど気が付かないんだけど」
「ふ~ん。でも、早く辞めさせた方が本人のためかもよ」
「うわ~、阿久津リーダーは本日もドライだ~」
 そんな会話でケラケラ笑い合っていると、新たなテラー係が「お疲れ~」とやって来た。昼休みに入って、既に五十分が経っていた。歯を磨き、化粧を直すのに十分は必要だ。ミナはユミコと「お先で~す」と応えて席を立った。

 ユミコとともにポーチ片手にトイレに入ると、鏡の前でカエデが泣いていた。そしてミナを見るなり、「阿久津センパ~イ」と抱きついて来た。
「おっとっと?」
 ユミコがおっさんみたいなリアクションを見せ、「あっしは給湯室で」とドロンのポーズで出て行った。
「ちょっと、ユミコ、逃げんな……なになに? ノルマのことで、誰かになにか言われた?」
「違います~、融資課長が~」
 融資課長の寺内、通称テランチョは、バブル入庫世代の五十歳過ぎ、セクハラもパワハラも当たり前で、女子職員の間では性格の悪い上司として殿堂入りしている。
 そういう人間にありがちなことで、特定の女子職員にはやけに優しかったりする。ベテラン職員の話によると、過去に何人もの女子職員に手を出しているらしい。
 窓口で融資の依頼を受けてしまった場合、テラー係は寺内と直接やり取りせざるを得ない。融資に関して、支店長よりも大きい権限を持っているのも扱い難い理由になっている。
 ある程度免疫があれば、肩に手を置かれるのも「今夜どう」と誘われるのも挨拶みたいなものだと思えるし、その時々の気分で高圧的な態度になるのも『はいはい、始まりました』と受け流すことも出来るが、カエデには無理なようだ。
「テランチョか~。セクハラ? パワハラ?」
「〝こんな決算報告書で融資なんか出来るか。俺のところに持って来る前に判断しろ〟って」
「うんうん、私も言われたことある。でも、テラー係が判断しちゃ駄目だもんね。カエデちゃんは間違ってないんだから、気にしなくていいよ」
「阿久津ゼンバ~イ」
 阿久津の発音が〝あぐづ〟になっていた。なんなら〝あ〟にも濁点が付いているような気がした。
「はいはい、化粧直して戻ろう」
 優しくそんなふうに言いながら、ミナは全力で『こいつ面倒くせぇ~!』と叫びたい気分だった。

 いつも以上に疲れた。
 早く帰ることが出来る日はジムに寄るのだが、この日のミナは早く風呂に入って眠ってしまいたくて、まっすぐ自宅コーポへ向かった。だが、
「お帰り」
 玄関前で、アキラが待っていた。
 大きなレジ袋を携えたアキラは「ごはん作っとくから、風呂に入って」と笑った。
 ここ半年ほど、アキラは突然やって来る。予め携帯電話で『行ってもいい?』と確認すれば、ミナが必ず『ダメ』と答えるのが分かっているからだ。
 正直、会う気分ではなかったのだが、アキラの笑顔を見てミナはつい「ありがと」と呟き部屋の鍵を開けた。
 キノコたっぷりの鮭のホイル焼き、ジャコと潰した梅干しを絡めた水菜のサラダ、揚げと茄子とジャガイモの味噌汁、オニオンスライスを載せてゴマ油を垂らした冷や奴。シャワーを浴びて髪を乾かし終わると、三十分弱で作り上げたとは思えないような料理が食卓に並んでいた。
「すごいね、相変わらず」
「この程度なら簡単だよ。鉄分、多めにしといた」
 二人で食事を摂り、一緒に後片付けをし、小さなソファに並んで座ってテレビを観る。その間、特に会話らしい会話はない。
 ミナがアキラと付き合い始めて二年が経つ。会話がないのは、二年も経てば互いに言葉を交わさずとも意思は通じる、ということではない。
 かなり前から、ミナは別れ話を切り出していた。アキラの方も、一応は納得してくれた。
 理由は、アキラに家庭があるからだ。息子が二人おり、上はもう大学生だ。
 スッパリと別れられなかったのは、解決すべきことがあったせいだ。アキラが手切れ金を渡そうとしており、ミナはそれを断わろうとしていた。そのことについて話し合うために、アキラは今も週に一度はミナの部屋を訪れる。
 この状態が、既に半年以上続いている。ズルズル続く関係は良くないという意見は一致しているのに、結局ズルズルだ。ミナはその状態を『しょうがないかな』と思っている。
「職場で、なにかあった?」
 たいして観たくもないバラエティー番組が終わりニュースが始まったタイミングで、アキラが訊ねた。
「なんで?」
「なんか、そんな気がしたから」
「テラー係のことなんか、分からないでしょ」
「そんなことない。ちゃんと見てるよ」
「そう……」
 ニュース番組がスポーツコーナーに入ると、アキラは「ごめん、そろそろ」と立ち上がってジャケットを羽織った。
「癖になってる。別に謝ることないよ」
 玄関先まで送りながらミナが言うと、アキラは「あぁ、うん、そっか」と扉の外で俯いた。
「ごちそうさま。美味しかった」
 ミナはそう言って、扉を閉めた。しばらく耳を澄ませていたら、十秒ほどして階段を下りる音がした。
 もう慣れたはずなのに、ミナはその足音を聞くと涙があふれそうになる。
 初めから結婚することなど望んではいないし、二人の関係が終わっていることも十二分に自覚している。
 扉から目を逸らすと、シンク脇の水切りラックに洗ったばかりの食器が並んでいた。皿も茶碗も汁椀も箸も、全部二組ある。それが、たまらない。
 たった一人残されるこの瞬間の孤独を、アキラは知らない。
 嫌いになって別れるわけではないし、手切れ金のことは半分言い訳で、二人で同じ時間をもう少し過ごしていたいと望んでいることも事実だ。
 だがこの瞬間だけは、どのようなかたちでもアキラに仕返しをしたいと思ってしまうミナだった。

 犬塚シンジからメールがあったのは、それから数日後のことだった。
『真面目な話があるから、近々会ってくれ。都合はそっちに合わせる』
 そんな内容だった。
 シンジは、中学時代の同級生だ。ただ、ミナはシンジのことをあまり知らない。当時は、女子同士でツルんでいるのがつまらなくて、なんとなく男子と遊び歩いていて、そういう仲間の後ろの方に引っ付いて歩いている奴、自分からは何がやりたいどこへ行きたいとは言わず、いつも人の後ろに引っ付いていたタイプ、くらいの印象しかない。
 数年前、昔の仲間うちでLINEのグループを作ったが、シンジのはほぼ既読スルーしている。大人になったシンジの顔は記憶にあるので、何度か呑み会で顔を合わせているような気はする。実家の土建屋で働いていることも知ってはいるが、それをどこで知ったのかは覚えていない。
 そんなシンジではあるが、LINEではなくメールで『真面目な話がある』と言われると、さすがにスルーは出来ない。
『こっちは話なんかないんだけど。私も色々あるんで、職場に来るなら会ってもいいよ。犬塚土建様もチョー小口の会員になってる〝ぼのしん〟の多摩東部支店、九時から十五時の間ね』
 思い切り嫌味を込めて返信すると、すぐに『じゃあ明後日、たぶん二時くらいになる』と返信があった。
 そして、当日。
「はい、登記簿謄本は確かに。あとは使途確認書……これは、なににいくら必要かっていう内訳ね」
 ミナは和菓子店の店主から、融資の相談を受けていた。商店街に古くからある小さな店で、過去にも何度か融資はしているのだが、七十半ばを過ぎて手続きが難しくなったらしく、既に三回もやり取りしている。この日も、前回と同じ説明に一時間近くを要していた。
 顔見知りの店主ということもあり、ミナは何度でも同じ説明をすることになるだろうと覚悟していた。
「そうか、忘れちまってたか。じゃあ出直そう。ミナちゃん、これみんなで食べて」
 見慣れた『笹の屋』の紙袋を差し出して、店主の佐々木はニッコリと笑った。
 ミナは業務モードを解除して「ね、佐々木のおじいちゃん」と優しく語り掛ける。
「この間も言ったでしょ。昔と違って、こういうの窓口じゃ受け取れないの。今度お店に行くから、その時サービスして」
 仕事帰り、ミナは月に何度か『笹の屋』に行く。最近ではコンビニでも和菓子は充実しているが、『笹の屋』のどら焼きはミナのお気に入りだ。
 だが最近の佐々木は、私服に着替えたミナに気付いてくれないことが多い。
「おじいちゃん一人じゃ難しいかもしれないから、次は息子さんと一緒に来たら?」
「あいつは、もう帰って来ない。俺と婆さんで店もしまいにするつもりだが、身体が動くうちはお得意さんのためにと思って……」
「ごめんごめん、悪いこと言っちゃったね。うん、私も融資出来るように頑張るから、おじいちゃんも頑張ろうね」
 近い将来、閉店することが分かっている店に運転資金を融資することは難しい。今の会話は、ミナの心に留めておかなければならない。
 紙袋を指先にぶら下げて帰って行く佐々木の背中を見送ると、午後二時を過ぎていた。きっちり一時間、応対していたことになる。
「はぁ……」
 周囲に聞こえないよう小さく溜息を吐くと、佐々木と入れ違いにシンジがやって来た。違う意味の溜息が出そうになったが、
「ビージ!?」
 シンジの後ろにいたもう一人の男を見て、ミナは思わず叫んでしまった。
「エージだよ」
 兼石エージは、シンジの後ろでニヤニヤ笑っていた。
 ビージとは、中学時代の担任教師がエージに付けたあだ名だ。もっとも大人になって数年に一度の飲み会で未だに使うのは、ミナだけだが。
 ミナは『他の窓口を御利用下さい』のプレートで窓口を塞ぎ、隣のカエデに「予約のお客様だから」と言って立ち上がった。
「こちらへ」
 シンジとエージを促した先は、窓口の並びではあるが客の方にも椅子が用意された『ご相談窓口』のカウンターだった。
 おいコラ、シンジ。騙すような真似してんじゃねぇぞ。エージが一緒だなんて、言ってなかっただろうが。
 座るなりそんな言葉が飛び出しそうになったが、ミナはなんとか飲み込んだ。
「あの、犬塚様、お一人でのご予約では?」
「いや、エージが一緒だって言うと、会ってくれないんじゃないかな~って思ってさ」
「当たり前でございます」
「あのな、ミナ。真面目な話ってのは本当で、そこにはエージも絡んでるんだよ」
 シンジとミナの会話を聞きながら、エージは備え付けのボールペンの柄で耳の穴をほじくり始めた。親に連れて来られた小学生でもやらない。
 ミナは無性に腹が立ったが、周りの目と耳を気にして「どういうことでございますか?」と訊ねるしかなかった。
「実は俺達……って言うかエージが商売を始めようとしてて、俺は祖父ちゃんに言われて付き合わされてて、まぁそれはどうでもいいんだけど、土地の目処は付いてるっつうか、付きそうっつうか、そんな感じで……」
 どうにも要領を得ず、何度も質問を差し挟んで話が行ったり来たりしたが、要するに二人はバッティングセンターを開業したいということのようだった。
 現在、土地を借りるための交渉中なのだが、その交渉の中で初期投資費用をどこでどう都合するかを明確にしなければならない。そこで相談に来た、らしい。
 ややこしい話だったら「仕事中だから」と追い返すことが出来ると思い職場を指定したのだが、それはどうやらこっちの失敗だったようだ。融資の相談なら、ひとまず話だけは聞かなければならない。
 と思ったが、シンジは創業計画書や許認可証といった書類はおろか、印鑑証明書すら持参していない。その初期投資にいくら必要なのか訊ねても「ケージ一つあたり五、六百万円らしいんだけど」と、ざっくりにもほどがある数字しか答えられなかった。
 ミナはさっき飲み込んだ溜息を数倍の勢いで吐いた。
 昔からそうだが、シンジはエージに利用されっ放しだ。人がいいのも行き過ぎると不憫だ。不憫も度を超すと、腹立たしい。
 両サイドの衝立に隠れるようにして、ミナは「あんたさぁ」と小声で言った。怒っていることも呆れていることも充分に伝わったらしい。シンジは慌てて「いやいや、だからさ」と先回りした。
「手続きとか分かんないから、今日のところはこういう計画があるってことだけを伝えて、そんで、融資の手続きに必要な書類とかなんとか、そういうのを教えて欲しかったんだよ」
「融資もなにも、あんた達はうちの会員じゃないでしょ」
「へ? 会員?」
「そこからなの? 信金で融資を受けるには、基本的に会員にならないと駄目なの。まぁ例外はあるんだけど、あんた達はそれに当てはまらない。もちろん会員になっても、過去にどれくらいの取引があったかが融資の可否に大きく影響するから、今日この場で会員になったとしても融資を受けられる可能性は限りなくゼロに近いってこと」
「じゃあじゃあ、うちの会社だったら? 親父の代になってからはご無沙汰だけど、祖父ちゃんの頃はけっこう取引あったらしいじゃん。犬塚土建の新規事業ってかたちにすれば?」
「〝かたちにすれば〟って、いま思い付いて適当に言ってんじゃないの?」
「それはまぁ、そうなんだけど……」
 ミナは更に声を潜め、再度「あんたさぁ」と囁いた。
「いつまでビージに振り回されてんの?」
 耳掃除を終え、振込み依頼用紙に無数のニコちゃんマークを描いていたエージが「だからエージだって」と、久々に口を開いた。
「あんたもあんただよ、ビージ。いい歳して、人を振り回すのもいい加減に……」
「偉くなったもんだなぁ、あのミナが」
「え?」
 エージは意味深な笑みを浮かべ、ミナを見詰めた。ほんの数秒だったが、いくつもの忘れかけていた思い出がミナの脳裏を過った。
「なによ」
「うん、まぁいいや。とにかくな、ミナ、俺達の日常にはバッセンが足りない」
「は?」
「金をどうにかしなければならないから、取り敢えず金融機関に勤めてるお前に相談しに来た。そんだけだ。考えといてくれや」
「考えるもなにも、私にそんな権限あるわけないでしょ」
 エージはボールペンを器用に回しながら「う~ん」と唸って天井を見上げた。シンジは不安そうな目で、ミナとエージを交互に見ていた。
「ほら、あれあるじゃん。支店長決裁っての? 俺、ドラマで観たことあるぞ。それで三千万円くらい、チャチャッと通してくれよ」
 一頻り考えてから出たエージの言葉に、ミナは『出たよ』と思った。支店長決裁、正確には専決権限と呼ばれるものは確かに存在する。けれどそれは、大きな取引になる可能性があるものの、煩雑な書類の手続きを行なっている時間がない場合、或いは過去の恩恵に報いるために通常では通らない依頼を通すのに存在する、いわば支店長だけに許された必殺技だ。
 もちろん、それが〝ぼのしん〟の不利益につながれば支店長の立場が危うくなる。いちテラー係であるミナが、どうこう出来るものではない。
 それらの事情をどう説明してやろうかと考えていると、エージが「お?」と言ってミナの背後に目をやった。
 その視線を追って振り返ると、支店長室の扉が開いて中から三人の男女が出て来たところだった。立派なスーツに身を包んだ白髪の男が「では」と頭を下げ、帰って行く。小柄な女性と大柄な男性がその後を追い、自動ドアの外で深々と頭を下げた。
 首を百八十度回して三人の様子を見ていたエージが「あのデカいのが支店長か」と呟いた。
「ミナ、あいつ色仕掛けで落とせよ。そうすりゃ、三千万くらい簡単なもんだろ」
 ミナはまた溜息を吐き、「違うよ」と言った。
「女性の方が添田支店長。男性は、寺内融資課長」
「マジか? だったら、添田のおばちゃんは俺が……」
「馬鹿じゃないの?」
 急激に、なにもかもが面倒臭くなった。
「それでは、犬塚土建様が新規事業立ち上げ資金の融資をご要望ということで、承りました。一週間ほどお時間を頂きますが、こちらからのご連絡をお待ち下さい」
 ミナはやや声を張って言い、付け足すように「バッセンが足りないって部分は、なんとなく分かった。分かったから、今日は取り敢えず帰って」と小声で言った。
 シンジとエージが帰った後も、ミナは『ご相談窓口』でぼんやりしていた。ただボーッとしているだけだと怪しまれるので、書類を精査している感じでエージが描き残したニコちゃんマークを数えていた。
「阿久津さん、どうかした?」
 いつの間にか、寺内が背後に立っていた。
「いえ、なんでもないです」
「悩み事なら言ってよ。いつでも相談にのるから」
 肩に手を置かれ、ミナは男性経験のない少女のように首をすくめて「はい」と答えた。

「バッセンかぁ……」
 久々にジムで汗を流し、帰りに銭湯に寄って湯船にゆったりつかっていたら、そんな言葉が口から漏れた。
 久し振りに会ったエージに数秒間見詰められたことで、あまり思い出したくもない中学時代の思い出がよみがえってしまった。
「あのミナが」
 あの言い方は、嫌な感じだった。「あの」が、何かのスイッチのように封印したはずの思い出をこじ開ける。
 ミナは小学生の頃から、父の勧めで空手を習っていた。小四から小六にかけては、三年連続で組手の全国大会にも出場した。
 進んだ公立中学校に空手部はなく、ミナは町の道場に通い続けた。中学生女子四十五キロ以下の部でも、しばらくは東京西部には敵がいない状態が続いた。
 小学生の頃は「元気な女の子」と呼ばれていたのが、中学生になって「男勝り」に変わった。
 そして中一の冬。突然、東京西部はおろか道場内の組手でも不覚を取ることが増え始める。
 自分ではまったく原因が分からなかったのだが、師範は「クラムジーだな」と断言した。
「過去にも何人かいたよ。成長期に入って、骨格の急な変化に体を動かす感覚がついていかないんだ」
 確かに、ミナの身長は一年で十センチ近く伸びていた。長くなった手足をこれまで通りに動かせなくなっても、当然のような気がした。
 それをきっかけに、道場から足が遠退いた。
 空手を嫌いになったわけではない。そもそも、空手という競技のことは好きでも嫌いでもなかったように思われる。
 ただ、自分よりも大きな男子を蹴ったり殴ったりすることが好きだっただけだ。それが上手に出来なくなって、組手は控えるように言われ、地道な練習ばかりになって、つまらないと感じたのだ。
 それからしばらくは、普通の女子中学生のように友達と遊び歩いた。だがこれは、地道な空手の練習よりも退屈だった。
 クラスの誰のことが気になるとか、どのアイドルが格好良いとか、そんな話が退屈でしょうがなくて、エージ達とつるむことが多くなった。ちょうど中二になった春のことだった。
 何年か前に潰れてしまった『ケンコーレジャーセンター』というバッティングセンターが、いつもの溜まり場だった。
「ミナ、クラミジアなんだって? ガキのくせに男遊びもほどほどにしろよ」
「クラムジーだ、馬鹿」
 エージとそんな下らない会話をし、みぞおちに中段突きを見舞ってやったのも『ケンコー』でのことだった。
 そしてあの出来事も、『ケンコー』で起こった。
 その頃のミナは、勝手に道場を辞めたことや男友達と遊び歩いていることについて、父から繰り返し小言を言われていた。家に帰るのが嫌で、ますますエージ達と行動を共にするようになった。
 その日もエージとシンジを含む五人で『ケンコー』に行き、うだうだ喋ったりゲームをしたり、たこ焼きを食べたりしていた。いつものように、誰もバットを握ろうとはしない。
 ケージの一つには、四人の高校生グループがいた。賭けでもしているのか「よっしゃ~、空振り~」「かすったよ、チップチップ」などと、大声で騒いでいた。
 すると、順番待ちをしていた小学五年生くらいの男の子が、恐る恐るといった様子で高校生の一人に声を掛けた。ジャージを着て、マイバットを持っている。ミナも何度か見掛けたことのある野球少年だ。
「なんだ、コラ?」
 会話の内容は聞こえなかったが、高校生達が少年を店の隅に引きずり込んだ。ミナが座っていたゲームの椅子からは、少年が震えながら財布を出そうとしているのが見えた。
 あの店では、カツアゲなどよくあることだった。だがそこには、せいぜい三学年くらい下の者までをターゲットにする、という暗黙の了解があった。
 それが気に入らなかったのに加え、父のことで苛ついていたせいもあったのかもしれない。ミナは立ち上がって高校生の中で最もデカくて体格のいい奴に「やめろよ、みっともない」と声を掛けた。
「おいおい、ガキが口出すなよ」
「そのガキよりもっと小さいガキに、あんたらはなにをしてんだよ」
 ミナは三人に囲まれ、そこにケージから出て来たもう一人も加わった。
「あんたも震えてないで、とっとと逃げろよ」
 その言葉に、少年はペコリと頭を下げて駆けて行った。
「おい、ミナ」「やめとけって」「ヤベーよ」
 少年と入れ違いにやって来た仲間達が止めようとしたが、エージだけは「やれやれ、ただし一対一だ」と煽った。
「なんだ、このガキどもが」
 さっきまで少年の襟首を摑んでいた、ひどくズボンをずり下げた超ローライズ男がうなったが、体格のいいのが「やめとけ」と止めた。
「やんのかよ、クソガキビッチ」
 その男の身長はミナより二十センチ以上高く、体重は倍くらいありそうだった。ただのデブではない。首の太さと耳のつぶれ具合から、柔道とかラグビーをやっているように見えた。
「クソガキは認めるけど」
 そう言いながら、半歩だけ男に近付く。
「誰がビッチだっ」
 男の顔を見上げたまま、ミナは「だっ」と同時にノールックで股間を蹴り上げた。グニッという感触が、スニーカー越しにも伝わった。
 男が股間を押さえて前傾した。床を蹴り、ガラ空きの顎にカウンターで膝を見舞う。だが男は、必死にミナの胴に組み付き抱え上げた。
 ミナは男の眉間目掛けて肘を打ち下ろすが、金的以外はやはり軽い攻撃らしい。男は背後にいた仲間達に「どけ!」と叫びながら、ミナを投げ飛ばそうとした。
 宙に浮いた状態で、ミナは男の額、眉間、鼻、人中じんちゅうへと肘を見舞う。更に足を絡め、なんとか投げ飛ばされないようこらえる。
「だっ!」
 何度目かの人中への肘で、男は「かっ……へっ……」と変な声を漏らし、それと同時に腕の力が緩んだ。その隙にミナは腕から逃れ、大きく仰け反って宙をまさぐりながら後ずさる男の胴へ、思い切り前蹴りを見舞った。
 男は受け身も取れずに、後ろにひっくり返って起き上がらなかった。ミナの止めの一撃というよりも、コンクリートの床で後頭部を強かに打ったことにより、気を失ったようだった。
「カッケー、瞬殺じゃん!」
 エージが盛大に拍手をし、高校生達は男に駆け寄って抱き起こそうとした。
「なんだ、騒々しい。お前ら打たないならとっとと帰れよ」
 係員の年寄りがやって来て、誰か……たぶんシンジ……が「逃げろ!」と叫び、ミナ達五人は駆け出した。
「カッケーけど、パンツ丸見えだったぞ」
 逃げながら、エージはそう言って笑っていた。
 恐らく、その時のことに尾ひれが付いて広まったのだろう。もともと少なかった女子の友達が、ガクンと減った。そしてミナはますます男子グループとツルむしかなくなり、ますます父から小言を言われるようになり、ますます家に帰りたくなくなった。
なつ~」
 壁に描かれた昔ながらの富士山を見上げて、ミナは知らず知らずのうちに微笑んでいた。
 数年振りに思い出した中学時代の思い出は、大人になってサンマの内臓を美味しいと思えるみたいな感じだった。
 心がザワつく。けれどその理由は、よく分からない。ただ、エージとの再会がきっかけであることだけは確かだ。
 のぼせる寸前まで湯船につかり、着替えて扇風機の前で缶ビールを一本。三百五十ミリリットルなら、一息で呑み干せる。これがあるから、銭湯はジムのシャワールームより数倍心地好い。
「〝俺達の日常にはバッセンが足りない〟か……」
 おっさんみたいに盛大なゲップを一発した後で、そんな言葉がミナの唇から漏れ出た。

 コーポに帰ると、アキラが階段の下に座っていた。
「お帰り、遅かったね。ジム?」
 アキラはそう言って、ミナを軽くハグした。
「あ、石鹼の匂い。銭湯、寄ってたんだ」
 そう言うアキラは、酒の臭いがした。ミナがジムと銭湯に寄っている間に、アキラは仕事絡みの食事会だったらしい。
「上がっていい?」
「うん」と答えながら、しかしミナはこれまでのように『しょうがないかな』とは思えなかった。
 部屋に上がるとすぐに、アキラは「ちょっと考えたんだけど」と、手切れ金の話を始めた。
「ただお金を渡されるってことに抵抗があるのは、無理もないと思う。だったら、奨学金の返済を立て替えるという名目で受け入れてくれない? 使途が曖昧なお金だと、一緒に過ごした時間を買われているような気がするかもしれないけど、奨学金の返済だったら……」
「ごめん、やっぱ今日は帰って」
 ミナがそう言うと、アキラは酔いが一気に冷めたみたいに、意外そうな顔をした。
「どうしたの? なにか気に障った?」
「名目とか使途とか、そんな言葉使わないで。なんだか、ビジネスライクな関係だったみたいで」
「あ、ごめん、つい習慣で。言葉の選び方が悪かった」
「謝ることないけど」
 結局、アキラはなにも分かっていないのだ。ミナはそう思った。
 残りの奨学金は、五百万円余り。一括返済すれば、四百五十万円くらいだろうか。アキラなら、ポンと出せる額なのかもしれない。
 だが、そういうことではない。
 奨学金で高校と短大を出たのは、ミナが自分で決めたことだ。だから、二十数年掛けて自らの収入から返済することは、ミナが社会に出て生きていく上での不文律だ。
 アキラは、それを分かっていない。
 同時に、『でも……』とも思う。もし数百万円の手切れ金を受け取れば、それを奨学金の返済に充てるであろうことは間違いない。
 年間五十数万円の返済は、正直言って厳しい。入庫十年も経つのに、築三十数年のボロコーポから引っ越しも出来ない。外食を控え、飲み会の誘いも三回に二回は断わり、私服もファストファッションばかりで、海外旅行はおろか国内の温泉旅行も行けない。
 最近では、ちゃんとしたところに就職したのに奨学金の返済が滞って自己破産する人が増えているという報道も目にした。
 それはないにしても、ミナもこのままのペースだと完済した時には四十歳を超えている。想像しただけで、ぞっとする。
 一刻も早く完済したい。それは偽らざる心情だ。
 ならば、今この胸の奥からふつふつと沸き上がる嫌悪感は、なんなのだろう。
「ごめん。でも、一応考えておいて」
 考え事をしていたら、アキラはそう言って帰って行った。
 食事をせず、流しに二組の食器がなかったからかもしれない。
 この日のミナは、あのどうしようもない孤独を、まったく感じなかった。
(第4回につづく)

三羽 省吾Shogo Mitsuba

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞しデビュー。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk 毒にもなれない裏通りの小悪党』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。著書に『路地裏ビルヂング』『傍らの人』『Y.M.G.A.暴動有資格者』『ヘダップ!』など。

  • 双葉社
  • 小説推理
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