双葉社web文芸マガジン[カラフル]

俺達の日常にはバッセンが足りない / 三羽省吾・著

イラスト:西川真以子

最終回
 日曜日、午前九時。シンジはエージと共に例のキャップと揃いのウィンドブレーカーを身に着け、開店一時間前から駐車場で最初の客を待ち構えていた。
 フードコートでは、たこ焼き、今川焼き、おにぎり、スムージーの各屋台が仕込み作業をしている。商店街の車四台も、ミニミニスーパーと呼んでも差し支えない品揃えで開店準備を進めていた。その商品の中には、エージの「あれは売れる」の一言で『笹の屋』のどら焼きも並んでいる。
 建家の入口には『久保寺倉庫』から届いた開店祝いの花輪があった。ロビーにも花台が五つ飾られており、二つは『あけぼの信用金庫 多摩東部支店』と『メンズクラブ ストレイキャッツ』からのもの、残り三つは市内のバッティングセンターからのものだ。
 市内バッセン巡りの企画はかなり気に入られたようで、ライバルとなるはずの三つの施設が「競い合い協力し合い、業界を盛り上げましょう」とのメッセージ付きで新規参入を歓迎してくれている。これは想定外の嬉しいサプライズだった。
 とはいえ『久保寺バッティング工場』の経営が成り立たないことには、競い合うも協力し合うもない。
 通りには相変わらず人通りがない。たまに通り掛かる車も、工場や倉庫の関係車両ばかりだ。
 シンジは三軒のバッセン、草野球場、スポーツ用品店にチラシを置かせてもらったほか、エージの入院中には一人で最寄り駅の周りや商店街、市内の大学、専門学校でチラシを手配りした。そのチラシには、希少価値のある自販機やゲーム機を揃えている旨を大きく記載していた。
 開店前とはいえ「やっぱり立地が悪過ぎたのか」「レトロな自販機やゲームも、それほど求心力があるわけじゃないよな」などと、マイナスのことばかりがシンジの頭を過る。
「行列が出来るとは思ってなかったけど、それにしても一人も来ねぇな」
 シンジのマイナス思考に拍車をかけるように、エージが言った。上唇の左側には腫れが残り「なに喰っても血の味がする」とぼやくものの、喋る方はもうすっかり元通りだ。
「しょうがないんじゃないスか? 学生は春休みに入ったところだし、レトロな自販機やゲームが目当ての奴らは夜型が多そうですしね」
 アルバイトの大学生、通称ダイガク……エージが面接時に名付けた……が的確なことを言った。このダイガク、ゲーム好きが高じて昭和のテーブルゲームにもハマっているというオタクだが、以前は短期間ながら都心のアミューズメント施設で働いたことがあるとかで、マシンの調整などはエージやシンジよりも巧みな頼れるアルバイトだ。
「冷静かつ大胆に苛つかせることを言うんじゃねぇよ」
「ポンポン叩かないで下さいよ~」
 エージの雑過ぎるコミュニケーション方法への対応力も、オタクの割りには一応備わっている。
 開店まで三十分を切った頃、一台のライトバンが駐車場に入って来た。ダイガクを小突き回していたエージは一瞬「お!」と喜んだが、運転席を覗き込んで「う~ん」と複雑な表情になった。
「ようよう、開店おめでとうさん!」
 大きな身体を屈めて運転席から降りてきたのは久保寺だった。熨斗の掛かった角樽を携えている。
「すみません、立派な花輪を頂いたうえに、こんなものまで」
 角樽を受け取り頭を下げるシンジの隣で、エージが「客の第一号、身内かよ~」と顔をしかめた。
「悪かったな、兄ちゃん。地権者の特権てことで、会員第一号にしてくれや!」
 久保寺は身体を揺らしてガハガハ笑い、エージの背中を分厚い手で叩いた。数歩つんのめったエージが「いってぇな、おっさん。俺は退院直後……」と文句を言い掛けたそのとき、ダイガクが「あれ?」となにかに気付いて遠くを指差した。注視していた最寄り駅ともバス停とも違う方角だ。
 つられて指の先を目で追うと、ゾロゾロとやって来る人々が見えた。団地のある方角からだった。
 二十人程度かと思われたその数は、通りの奥の方から続々と増えていく。もう群衆と言ってもいいほどの数だ。杖をついている人、買物カートを押している人も多い。そのせいか歩みは恐ろしく遅く、先頭がここに辿り着くまでまだ十分ほど掛かりそうだった。
「なんか、ゾンビ映画みてぇだな」
 エージがボソリと呟いた。
「ブハハハ! やべ、笑っちまった。兄ちゃん、せっかく来てくれるお客様をゾンビ呼ばわりはないだろう」
 窘めながらも笑いがおさまらない久保寺は、ゆっくり押し寄せる群衆を見ながら「上手いこと言うもんだ」と呟いた。
 バッセンも自販機もゲームも、開店前から人々を引き寄せるほどの魅力はなかったようだが、ミニミニスーパーの方は本当に待望だったらしい。
 開店十分前には、先頭の集団が敷地を取り囲む金網の前に群がり始めた。フードコート側の入口も開いているのだが『本日午前十時開店!』と書かれた貼り紙を見て、時間がくるまで待っているようだった。ゾンビにしては礼儀正しい。
 エージが「結界かよ」とこぼし、久保寺がまた「だから兄ちゃん、そういう……グハハハッ!」と笑った。
 フードコートの店舗は、いずれも準備万端だった。エージに「行け、ミラ・ジョボビッチ」と指示され、ダイガクが入口まで駆けて行き「どうぞ入っちゃって下さぁい」と群衆を招き入れた。
 低めに見積もっても平均年齢七十歳くらいの群衆が、ゾロゾロとフードコートに入って来た。ターゲットはやはりミニミニスーパーで、全員がわらわらと四台のミニバンとワゴン車を取り囲んだ。
 パンと牛乳はあっと言う間に売り切れてしまい、惣菜や弁当も昼までもちそうにない勢いで減っていく。ミニミニスーパーの店員は車一台につき一人ずつしかいないので、補充のために商店街に戻るわけにもいかず慌てて電話を掛けていた。
 客の多くは買物を終えて帰って行くが、三分の一くらいは留まってフードコートのテーブルで談笑を始める。その中の数人は、おにぎりや今川焼きを購入してくれた。今川焼きとバッティングするかと思われた『笹の屋』のどら焼きも、そこそこの売れ行きだ。
 数人が物珍しげに建家の中に入って行くが、トイレを使うか自販機でお茶を買うくらいで、誰もバットを握ろうとはしない。
 団地の客はバッセンの客にならないということは想定内だったものの、正式な開店時間を一時間過ぎてもバッセンの客は久保寺だけだった。
 会員番号0001番の会員証兼ICカードをゲットした久保寺は、バッセンらしい音がなければ寂しいだろうという思いでもあるのか、休憩を挟みながら一時間で八ゲームもプレイした。硬式経験者に軟球は捕らえ所が難しいようで、最初はポップフライばかり打ち上げていたが、二ゲーム目には物凄い音を立ててライナー性の当たりを連発し始めた。最終的には計二百スイングして、ホームランボード直撃も七本あった。
「フードコートは大繁盛だけど、こっちはさっぱりだな」
 オープン記念で配られるロゴ入りタオルで汗を拭いながら久保寺は無遠慮にそう言って笑ったが、エージがあからさまにムッとした表情をすると「いやいや」と手を横に振り、真顔に戻った。
「日曜の朝からバットを振ろうなんて奴、そうそういない。この立地じゃ、たまたま通り掛かって立ち寄るなんてパターンもなさそうだしな」
 慰められると、更に辛い。シンジがそう思っていると、久保寺は「逆に言えばだ」と続けた。
「ここに来る客は、全員わざわざ来てくれるわけだ。特に今日来てくれる客は、太い客になる。勝負は昼過ぎからだぞ」
 結局、会員第一号である久保寺は想定していた客単価の三人分、三千数百円を使って「また来る、頑張れよ」と帰って行った。
 その後、十一時台になってカップルが一組、男同士の若者グループが二組やって来た。昼過ぎには日曜出勤している近所の工場や倉庫の管理員が五名ほど自販機のうどんやおにぎりでランチを摂り、その中の二人が一ゲームだけ打って帰った。彼らの中には「この辺りはコンビニも遠いんで、こういう店は助かる。またちょくちょく来るよ」と言って帰る者もいたが、誰も会員にはならなかった。
 たいしてやることもなく、エージとシンジは手持ち無沙汰だった。ダイガクも暇だったのだろう、命じられなくても一組の客が帰る度に、たいして溜っていない灰皿を交換してトイレを掃除した。
 対照的にフードコートは、後から後から団地の住人がやって来て開店直後よりも更に賑わっている。その賑わいも嬉しいことではあるのだが、焦りは禁じ得なかった。
 だがその焦りは、すぐに杞憂に終わる。久保寺の予言は当たっていたのだ。
 午後一時を過ぎた頃から、車やバスで客が訪れ始めた。半数はバッティング目当て、半数はレトロな自販機とゲームが目当てのようだった。
 自販機とゲームの方は放っておいてもいいが、バッティングの方はオープン記念の粗品を渡したり、会員の特典を説明したり、五人に一人くらいは登録手続きをしたりで、とにかく手間が掛かる。最初は問題なく回していたが、二時くらいになると駐車場が満車になり、スタッフ三人ではとても追い付かない忙しさになってしまった。
「いつまで待たせるんだよ」「会員登録はいいや」「オープン初日にスタッフ三人って、ちょっと仕事を舐めてねぇか?」
 そんなクレームが出始めてペコペコ謝ったり、「いっぺんに来るんじゃねぇよ」と悪態を吐くエージの口を塞いだり、少年野球チームのチャリンコ軍団がやって来て九人で一枚の会員証を作りたいなどとややこしいことを言ってきたり、その間ケージはフル稼働なので「球が詰まった」「マシン止まった」「ホームラン当たった」などなど対応しなければならないことも山ほどあり、さっきまでの暇な時間が懐かしく思われるほどの修羅場になってしまった。
「なんなんだよ、これ……」
 午後五時。新たにやって来る客が落ち着いてから、恐らく過去最高に労働したエージが深い溜め息とともにそう呟いた。
「まぁ初日で日曜だから、たまたまだと思っておきましょうよ」
 おしぼりを目に当てながら答えたダイガクは「球、詰まってるよー!」という客の声に「はーい!」と応え、マシンの方へ駆けて行った。
 ゲーム目当ての客は馬鹿みたいに何時間もやっているが、バッティングと自販機目当ての客は回転が早い。いまケージに入っているのは、河川敷で試合があったと思しき大人の草野球チームの一群だ。そこに三人ほど近所の工員も混じっているが、彼らはバッティングの方はそこそこに、たこ焼きをつまみに持ち込んだビールを呑んでいる。レトロ自販機の方はホットサンドが少し残っているだけで、うどんとラーメンは四時の時点ですべて完売していた。
「よう、開店おめでとう」
 受付カウンターに突っ伏していたシンジが顔を上げると、アツヤがスムージーを片手に立っていた。隣のミナも、ピンク色のスムージーをチューチューしながら「よっ」という感じで手を挙げた。
「四時頃来たんだけど、なんか忙しそうだったからさ、外で待ってたんだよ」
 同じように受付カウンターで突っ伏していたエージの「見てねぇで手伝えよ」という文句に、ミナが「当方としては致しかねます~」と切り返している間、アツヤがシンジに「良かったな」と囁いた。
「え、なにが?」
「思ったより盛況みたいで、良かったじゃないか。目標の二十三人は余裕でクリアだろ?」
 シンジは答える代わりに、レジ脇のパソコンを覗き込んだ。
 会員登録した人以外の来店者数はカウントされていないが、バッティングとストラックアウトのプレイ数は一目で分かる。
 開店から七時間で、その数は二百五十を超えていた。一人平均三ゲームプレイしたとすれば、現時点で八十人以上が来店していることになる。客単価を千円として導き出した一日二十三人という目標の、三日から四日分だ。
 だが、オープン初日の日曜日ではあまり参考にならない。
「お前も雇われ店長やってるなら、今日の数字は例外だって分かるだろう。それに、もっと大きな問題に気付いたんだが……」
 シンジが説明を続けようとしたそのとき、新たな客がやって来た。
「あの、会員登録いいですか?」
 ミナとアツヤをクレームでも言っている客と勘違いしたのか、その客は恐る恐るという感じで言った。
 身長は百七十五センチくらいだが、幅と厚みのある体格をした男だった。浅黒く日焼けしたその顔を見て、シンジはどこかで会ったことがあるような気がした。
「あー!」
 先に気付いたのは、エージだった。
 急に指をさされた男は「え?」とたじろいだが、数秒後に「あ!」とエージを指さした。すると今度は、男の背後にいた息子と思しき十歳くらいの少年が「え?」と、指を指し合っている二人の大人を交互に見た。ミナとアツヤも「ん?」という顔で、エージと男を見た。
「知り合い?」
 ミナに訊かれたが、シンジはまだ「どこかで会ったような気がするけど」としか答えられない。するとミナも「私もなんとなく」と呟いた。ということは古い知人、例えばかつて『ケンコーレジャーセンター』で頻繁に顔を合わせていた人かもしれない。そう思い古い記憶を辿ったが、どうもピンと来なかった。
「よぉ、おっさん……じゃない。ようこそいらっしゃいませ!」
 エージが深々と頭を下げ、会員登録の用紙を二枚、差し出した。
 そこでやっとシンジも気付いた。古い知人ではない。彼は一年ほど前、駅前で『ケンコー』の場所を訊いてきた男だ。
 たまたま道を訊かれ、既に潰れていることを知らずに『ケンコー』の場所を教えただけ。だがそもそもあれがなければ、エージから「俺達の日常にはバッセンが足りない」という発言はなかっただろう。今日こうして『久保寺バッティング工場』がオープンを迎えることもなかったはずだ。
「あんときは申し訳ない。ケンコーが潰れてるの、知らなかったもんだから」
 会員登録に必要な個人情報を記入する男に、エージはそんなことを話し掛けていた。一通り書き終えてから、男は「じゃあ」と質問した。
「その店が潰れてることを後で知って、それでこのバッセンを立ち上げたんですか?」
「そう、そゆこと」
 なんでもないように答えるエージに、男は『まさか』という表情を浮かべながら用紙を渡した。
「はいはい、狩屋コウヘイさんとケントくんね。すぐに会員証を……え! 俺らと三つしか歳、違わねーの? おっさんとか言って、マジすんません」
 狩屋は「はぁ、まぁ」と曖昧に流し、主客転倒を画に描いたような状況にミナとアツヤは苦笑していた。
 エージは二人を特別会員にしたいと言ったが、そういう枠は特に設けていない。シンジが「一ゲームサービスくらいなら」と言うと、エージは「ショボッ!」と言って二人の会員証にマジックでなにやら書き付けた。
「じゃーん」
 二枚の会員証の裏に、ヨレヨレの文字で『AFK』と書かれていた。シンジもミナもエージも、狩屋親子まで黙っていると、エージは「鈍いなぁ。〝永久不滅カード〟だよ!」と叫んだ。
 鈍いどころかどこをどういうふうに間違えているのかまで手に取るように分かったのだが、面倒臭いのでシンジは黙っていた。ミナとアツヤと狩屋父も、恐らく同じ理由で黙っていた。狩屋息子は、ただただ怯えたような目でエージを見ていた。
「あの、これは、どういうサービスを?」
「ん~、来店ごとにドリンク一本……それじゃあショボいな……うどん一杯……これもたかだかって感じか……え~い面倒くせぇ! フードコート食べ放題でどうだ!」
「いえいえ、それはさすがに」
「遠慮すんなよ。おっさ……じゃない、狩屋さんがいなけりゃ、このバッセンはないんだからさ。なぁケントくん、お前のお父さんはスゲーんだぞ。道を訊いただけで、バッセン一つ作っちゃうんだから」
「いや、作ってないです」
 そんなやり取りが、十分近く続いた。
 ミナとアツヤは、その様子をクスクス笑いながら眺めていた。
「元通りを通り越して、馬鹿に拍車が掛かってる」
「ホント。一瞬とはいえ、心配して損した気分」
 病院を見舞って以来初めてエージと会う二人から同意を求められ、シンジは「そうだな」と答えた。
 ミナとアツヤは別々にエージを見舞った。そのどちらにもシンジは同席していない。エージの怪我の経緯をシンジから聞いていたミナは「お灸を据える意味でも警察沙汰にすべきだよ」と主張し、アツヤは「二人とも捜し出して詫びを入れさせてやる」と息巻いたという。
 エージはその両方を『めんどい』と平仮名四文字で却下したらしい。
 それでも二人は、エージに内緒でユキチカとルリを捜している。目的は一言詫びを入れさせる、出来れば治療費を一部でも負担させるためだ。二人に協力を求められたシンジは「情報があれば伝える」と答えたものの、実際にはなにもやっていない。
「よし決まった。おいシンジ、ケント少年が来たらバッティング以外、建家内の飲食は全部タダな。一緒に連れて来たツレもだ。ダイガクにも言っといてくれよ」
 狩屋父の方が折れる格好で、AFKカードの天下御免的な効用は決まったらしい。
 狩屋親子はペコペコしながら時速九十キロのバッティングケージに向かい、大きなヘルメットを冠ったケント少年がプレイを始めた。バットの持ち方を見ただけで下手くそだと分かった。父コウヘイは、金網の外からあれこれと指示を出していた。
 最終的にこのオープン初日は、日が暮れてから再度二時間ほど忙しい時間が続き、午後九時に閉店した際にはプレイ数は三百を超えた。ホットサンドも売り切れ、飲み物も水とスポーツドリンク系はすべて売り切れた。

 ダイガクは実家住まいの大学生で、原付を持っている。
 つまり長期休暇でも帰省せず、駅から離れた場所への通勤も苦ではない。更には、毎週土曜と日曜、都合が合えば祝日も、八時間から十時間も働いてくれる。こういうアルバイトは希少だ。
 オープン初日のスタッフ不足を鑑み、友人に似たような環境の人間がいたら紹介してくれと言ったのだが、ダイガク曰く「探してみますけど、バッセンにもレトロゲームにも興味なければ難しいっすね。居酒屋とかコンビニで、もっと好条件のバイトありますし」と、尤もな意見で返された。
 そして新たなスタッフが見付からないまま、オープンから一ヵ月が過ぎた。
 この一ヵ月、エージとシンジは一日も休まず、朝十時から夜九時までの営業時間はもちろん、掃除、メンテナンス、チラシ配りなどのために早朝から日付が変わる頃まで働き続けている。
 最低でもあと二人ほどスタッフを増やさなければ、身体が潰れてしまいそうだ。バッセンが出来ればすぐにでも『犬塚土建』に戻るつもりだったが、このままではそれも無理だ。
「第一、経営状態の方もこれじゃあな」
 五度目の日曜の営業を終えた午後九時半、シンジは中二階で事務処理を行なっていた。
「結果的には、急いでアルバイトを増やさなくて良かったって感じ」
 パソコンのディスプレイを見詰めて自嘲気味に呟いてみたが、余計に空しくなるばかりだった。
 フードコートは開店日以降も連日大盛況で、ミニミニスーパーは客からの要望もあり品数と量を大幅に増やした。それにより急いで買物をする必要がなくなり、団地の老人の多くがフードコートを集いの場として利用するようになった。その数が増えるに従い、たこ焼きや今川焼きの売上げも順調に伸びていった。
 フードコートから『久保寺バッティング工場』に入る収入は、車一台につき月極駐車場の相場、月額二万円プラス売上げの一〇パーセントという契約になっている。但しミニミニスーパーだけは複数の店舗が絡んでいてややこしいので、どれだけ売上げがあっても車四台で月額十万円。水道とコンセントが使い放題にしては、かなり格安の設定だ。
 トータルで月額二十数万円から三十万円が見込まれる。決して小さな額ではないものの、シンジは「こんなに繁盛するなら、もうちょっと乗っけるんだったな」と軽く後悔していた。
 と言うのも、肝心のバッセンの方が週末以外はさっぱりなのだ。
 オープン初日、アツヤに言い掛けた「もっと大きな問題」とはそのことで、あのときの予感は完全に当たっていた。
 久保寺は「わざわざ来てくれる」という言葉を良い意味で使ったようだが、要するにその逆だ。ここは、ついでに立ち寄るような場所ではない。三日に一度くらい、ランニングの途中に汗だくで立ち寄って一打席だけ打って帰るストイックな野球少年が一人いるが、ついでと呼べそうなのは彼くらいだ。
 平日の昼間に来るのは、近隣で働く工員か外回りの営業マンくらい。自転車に乗った小中学生もたまに来たが、それも春休みが終わってパッタリ途絶えた。
 自販機とレトロゲームが目的の客も、週末に集中している。狩屋親子は母親も一緒に来るようになったが、毎週日曜だけだ。久保寺は平日もちょくちょく来ては小一時間も遊んでくれるものの、それで売上げが劇的に良くなるわけでもない。
 この一ヵ月、月曜から金曜の平均来客数は十人。最もひどい日はストイック少年と久保寺を含め五人しかいなかった。目安である一日に二十三人という数字は、週末に貯めた貯金を平日に吐き出している感じで、なんとかクリア出来ている状態だ。
「SNSの口コミも、パッとしねぇか……」
 なにかを解析するでも善後策を検討するでもなく、シンジはディスプレイを見詰めながら溜息を吐いた。
 このまま数ヵ月も経てば、週末の繁盛も落ち着いて赤字に転落する。マーケティング調査だけでもプロに任せていればと後悔したところで、もう遅い。
「ようセンム様、お疲れ。床用洗剤のストックはあったっけ?」
 モップの柄にもたれ掛かるように、エージが事務所の入口に立っていた。唇の腫れは引いたが、その顔にはさすがに疲れの色が浮かんでいる。
 事務所奥の備品倉庫で洗剤を探しながら、エージは「掃除終わったら、久々に呑みに行こうや」とシンジを誘った。
「俺は車だ。それに、掃除が終わる頃には十一時近くになってるだろう。明日も早いんだから缶ビールくらいで我慢しろ」
 エージはオープン一週間後に『犬塚土建』の寮を出て、事務所で寝起きするようになった。食事は自販機とフードコートで済ませ、たまにコンビニで酒と煙草を買い溜めし、風呂は近所の工場のシャワー室を借りている。
「機嫌わりぃな。代行呼べばいいじゃねぇか。それに俺は、どんだけ寝不足でも二日酔いでも、無遅刻無欠勤だろ?」
 それは確かにそうだった。この一ヵ月、エージの働きぶりには正直なところ驚かされている。
 シンジは話の矛先を変え、「これを見ろ」とエージをパソコンの近くに呼んだ。そこには、プレイ数の日毎の推移が折線グラフで表示されていた。縦軸のプレイ数は百までしかない。月曜から金曜までは三十前後で横這いを続け、土曜と日曜と祝日だけグラフにおさまらず飛び出している。
「あはは、スゲー不整脈。土日の売上げ、半端ねーな」
「本当にそう思うか?」
「なんだよ、怒るなよ」
「じゃあ次は、これを見ろ」
 シンジはマウスとキーボードを操作し、縦軸の数値を最大四百に設定した。すると平日の横這いは横軸と並ぶ直線のようになり、週末の山の頂点も見えるようになった。
 オープン初日の日曜日が三百十二と突出して高く、二百八十六、二百十三……と、祝日を含み六つある山の頂点が確実に低くなっていく。この土曜と日曜は二百を切っていた。
「意地の悪い見せ方をするもんだね。土日の集客がちょっとずつ減ってることは分かってるよ、働いてんだから」
「いや、分かってない。分かってたら、呑みに行こうなんて発想はないはずだ」
「だから怒るなって、シンジ。お前、ここがオープンしてからちょっと変だぞ」
「別に怒ってねぇよ」
 ここがオープンしてからではない。シンジが自分でも自分がおかしくなったと感じるのは、オープン二週間前のあの夜以降だ。
 両親を見付け出してエージに詫びを入れさせたいというミナとアツヤの思いは、とても健全であるとシンジは思う。
 だがミナとアツヤは、エージの涙も丸めた背中も、シンジとのLINEのやり取りも見ていない。
 だからその健全さは、きっとエージをいまよりも苦しめる。
 退院以来、エージがふざければふざけるほど、冗談を言えば言うほど、シンジはそれらがひどく空回りしているように感じている。無理をして、以前と変わらない兼石エージを演じているように思われるのだ。
 だがすぐに、エージ自身はなんら変わらず、変わったのは彼のおふざけや冗談を受け取るシンジ側だと気付いた。
 そしてその思いは、中学一年生のときに出会ってからエージはずっとそうだったのかもしれない、という疑念に繋がった。
 兼石エージは昔からふざけてばかりいて、授業などまともに受けず、友達を利用して、ときには裏切り、約束を簡単に破り、借りた金を返さず、弱いくせに喧嘩っ早く、どんな仕事をやっても長続きせず、女にだらしがない。
 それらすべてが、芝居だったような気すらする。自分を無頼漢に見せるために。同情されることを避けるために。
「お前と兼石くんの関係が、これまでとは変わってしまう」
 祖父のそんな言葉が、思い起こされる。あれは雇用関係になることで人間関係が変わるという意味で、涙とか背中とかLINEは関係ない。だが結果的には、祖父の言う通りになっているような気もする。
 その原因は、すべてシンジの感じ方によるものだ。
「なぁ、シンジ」
 長いモップの柄に体をあずけ、エージが改めてという感じで言った。
「大丈夫。頑張ってりゃ、なんとかなる。なにもかもな」
 以前なら「へー、そんなもんかねぇ」と笑って聞いていられた、いかにもエージが言いそうな台詞だ。
 だがいまは、なんの根拠もなくそんなことを言うエージに、無性に腹が立つ。近くに駅が出来るとか、大学の新キャンパスが誘致されるとか、そんなことでも起こらない限り「なんとかなる」ことなどあり得ない。
「頑張ってる奴なら、なんとかなる。そんな世の中じゃねぇんだよ、いまは。馬鹿野郎が」
 自分で吐いた言葉にハッとし、同時に、またもや祖父の言葉が思い起こされる。
「彼は、足掻いているだろう」
 こういう親の下に生まれたから、こういう育ち方をしたから、お前は親と同等かそれ以下の人生しか送ることが出来ない。誰もそんなことは言っていないが、いまの世の中には残念ながらそういう風潮が蔓延している。それに対して、兼石エージは「そんなワケねぇだろ!」と足掻き続けている。
 短い祖父の言葉の意味が、いまになってやっと分かったような気がした。
「しゃーねぇなぁ」
 エージは唇を尖らせ、スマートフォンを取り出した。
「アツヤがせっかく誘ってくれたのにな。お前はセンズリコキたいから欠席って連絡しとくよ」
「え! アツヤから誘いがあったのか?」
「おぅ。きっと遅ればせながらの開店祝いで、スゲーいい店でおごってくれるんじゃねえか。しょーがないから、シンジの分までご馳走になって来てやるよ」
「ちょ、ちょっと待て」
「なんだよ、センズリ中止か?」
「いや、違う。お前も行くな」
 スマホを操作する親指を止め、エージは「はぁ?」と半笑いでシンジを見た。
 金の相談で再会した一年ほど前から、アツヤから『ちょっと呑もうや』とメールやLINEで誘われることは度々あった。だがそういうのはいつも、シンジを通じて『エージにも声掛けてくれ』というパターンだった。
 直接エージに誘いが来たということは、恐らくユキチカとルリが見付かったということだ。
「なんで俺も行っちゃ駄目なんだよ。アツヤも忙しいし、朝まで呑むようなことはねぇよ」
「いや、それは分かってるけど」
 ミナとアツヤでは、あの両親の所在を突き止めるのは無理だとシンジは高を括っていた。建築土木関係に携わっていれば、ユキチカの携帯番号を知っている人間と会う機会もあるだろうが、信用金庫とメンズクラブでは、そっちの世界の人間と交わることなどないはずだと。
「なんだよ。やたらと機嫌悪いと思ったら、呑みに行くのまで止めやがって。そりゃ俺は、お前んチにはさんざん世話になってるよ。けどなぁ、仕事の後の時間をどう使うかまで、あれこれ言われる筋合いはねぇぞ」
「すまん、そういう意味じゃないんだ。つまり……うん、よし、分かった、俺も行こう」
「なんだよ、行きてぇんじゃん。素直じゃねぇなぁ。じゃ、二人でとっとと掃除を済ませようぜ」
 エージが一階フロアに降りようとしたそのとき、駐車場に車が入って来る音が聞こえた。
「あれ、アツヤの車の音だな。迎えに来てくれたんかな?」
 シンジは思わず階段を駆け下りるエージを止めようとしたが、いまここで止めたところで無駄だと気付いてやめた。
 階下から、アツヤとエージの会話が微かに聞こえる。
「悪ぃな、迎えに来てもらって」
「いや、こっちこそ悪い」
「へ? なにが?」
「ちょっとトラブッてな、ここまで連れて来ることにしたんだ」
「トラブッて連れて来たって、あぁ、ミナか。また喧嘩でもしたのか? 別にいたって構わねぇよ、俺は。あいつは怒ってる状態がノーマルだろ?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
 永遠に噛み合いそうにない会話が、そこから急に小声になった。
 会話の続きが気になると同時に、隠れているも同然の自分の状態がいたたまれなくなり、シンジは事務所を出た。一階フロアに繋がる階段から見下ろすと、エージが出入口の方を黙って見詰めていた。
 その視線の先には、ミナに促されて出入口前に立つユキチカとルリがいた。
「この二人……ご両親が、お前に言いたいことがあるそうだ」
 アツヤはエージにそう言うと、ノールックでシンジに手招きした。早く下りて来いということらしい。
「取りあえず、俺達は出ていよう」
 そう言われ、シンジは黙って従った。
 エージの横を通り過ぎるとき「ったく、余計なことを……」という消え入りそうな声が聞こえた。
 ユキチカとルリの脇を通るときには、前回と違い酒の匂いがしないことに気付いた。
 外に出てガラス張りの扉を閉めると、アツヤは「悪かったな。お前に言うと反対されそうだったから」と早口で言った。
 この一ヵ月余り、ミナとアツヤはユキチカたちの所在を捜し回ったが、手掛かりすら掴めなかった。ところが数日前、意外なところからルリの連絡先を掴むことが出来た。
 アツヤが常連客と会話する中で、兼石ルリという名前が出たのだ。いくらか立て替えてやっているのだが、何年もシカトされ続けているという話だった。詳しく聞くと、ルリは数年前までホストクラブにハマっていたとのことだった。
 アツヤが教えてもらった番号に電話して「この着信履歴を見せて頂ければ、初回入店のお客様は二千円で無制限飲み放題です」と留守電を残すと、その翌日にルリは『ストレイキャッツ』にやって来た。
 さんざん呑ませた後で、ルリに気に入られたスタッフに「兼石ルリさんって、ひょっとしてユキチカさんの奥さんですか? 俺、若い頃に飯場でユキチカさんに世話になったんですよ。連絡先、教えて貰えませんか」と訊かせ、すんなりユキチカの携帯番号も手に入れた。
「それで今日、二人を同時に呼び出して会ったんだが、ちょっと気が抜けちまった」
 夕方、繁華街の喫茶店で会ったユキチカとルリは、アツヤがイメージしていたキャラクターとは真逆と言っていいほど大人しく、息子と同世代のアツヤにペコペコする、人畜無害な社会的弱者に見えた。
 それが酒が抜けているせいだと気付くまで、それほど時間は掛からなかった。聞けば二人とも、面倒を見てもらっていた愛人や知人の家を追い出され、いまは知り合いに借りたままになっている車検の切れた軽四自動車の中で寝起きを共にしているという。ほとんどホームレスだ。
 アツヤが「酒以外なら、ここはおごります」と言うと、ルリは飲み物の他にカレーライスとサンドウィッチを注文した。ユキチカはコーヒーしか頼まなかったが、やたらと水をお代わりして飲み続けていた。
「治療費は無理だとしても、一言でいいからエージに詫びを入れてくれませんか」
 アツヤが自分とエージの関係を明かしそう言うと、二人は揃って「そりゃあ、もちろん」と答えた。二人ともアツヤに目を向けず、コーヒーフロートのアイスを食べ、水をがぶ飲みしていたという。
「それで夜になって、駅の近くの小料理屋に個室を借りてエージを呼び出したんだが、一滴も酒を呑まずに待ってたら急に〝やっぱり嫌だ〟〝会わせる顔がない〟なんて言い始めてな。しょうがなく、店はキャンセルしてここまで引っ張って来たんだ」
 アツヤの話にシンジがなにも答えられずにいると、
「間違ってた?」
 ミナが言った。
 そうだな、とシンジは思った。二人の行為が間違っていると思ったわけではない。
 自分ばかりがエージの詳しい事情を知っているわけではない。たぶんミナもアツヤも、エージの涙や丸めた背中を見たことがあるのだ。ただそれぞれ、それを見る角度とタイミングが違っただけだ。
「私達、間違ってた?」
 もう一度ミナに訊かれ、シンジは「いや、そんなことはないよ」と答えた。
 ガラスの向こうで、兼石親子が向かい合っていた。
 ルリは軽く頭を下げ、ユキチカは普通の父と息子のようにエージの肩を叩いた。二人とも、薄く笑みを浮かべていた。嫌な笑みだった。
 その直後、ユキチカの口が「ところで」と動いたようにシンジには見えた。
 ユキチカの横顔が、はっきりと笑顔になっている。エージの眼前に広げられた五本の指が、三本に、続いて一本になった。言葉は聞こえないが、治療費の話でないことは明らかだ。逆に、金を要求している。
「クソが」
 アツヤが吐き捨てるように言い、扉に手を掛けようとしたが、シンジはその手首を掴んだ。
 エージは気だるそうに、モップの柄にもたれるように立っていた。その表情も、暗く沈んで見える。
 ユキチカの顔からは笑みが消えていた。ルリはまだ、微かに笑っている。
 どう出る、エージ。
 息を飲み成り行きを見守っていると、エージがモップを杖のように突きながら受付カウンターへ向かった。
「まさか、店のお金を?」
 ミナが訊ねたが、シンジはなにも答えられなかった。
 カウンターの向こう側にレジがあるが、そこにたいした金は入っていない。売上げのほとんどがコイン交換機とICカード販売機によるもので、そこから取り出した紙幣と硬貨は帆布の巾着袋に詰められ足下の金庫に収められている。
 あれに手をつけようとするなら、止めなければならない。
 今回だけは、好きにさせればいい。
 異なる二つの思いが、シンジの脳裏を過る。
 だがエージはレジと金庫の横を素通りし、カウンターの更に奥、シンジ達からは死角になる方へと向かった。突き当たりには、スタッフの私物を入れるロッカーと掃除道具入れが並んでいる。
 乱暴に扉を開ける音がして、姿を現したエージの手には二本のモップと掃除用のバケツがあった。
 両親の前に戻ると、エージは無言でモップの一本を父親に、バケツを母親に差し出した。
 二人は躊躇っていたが、胸に押し付けられると渋々受け取った。
 それからエージはフロアのあちこちを指差してなにやら説明し、二人をトイレに連れて行った。
「悪いな、シンジ。掃除させるから時給千円ずつ渡してやってくれるか?」
 一人で外に出て来たエージは、困ったような笑顔を見せて言った。
 シンジが返事に窮していると、エージは続いてアツヤに向かって言った。
「飯、喰わせて貰ったらしいな。いつか返すわ」
 アツヤがなんとか「いや、たいした額じゃないし」と答えている途中で、エージは店内へ戻ってしまった。
 それから小一時間、シンジとミナとアツヤはガラス越しに兼石親子が掃除するのを見詰めていた。
「エージの人生には家族が足りない」
 まごまごするユキチカとルリに指示を出すエージを見ていると、ふと、以前アツヤが言った言葉が思い起こされた。
『そんなことはないのかもしれない』
 続いてそんな思いが頭を過ったが、シンジは慌てて『馬鹿か』と自分を否定した。
 どんな形であれ家族は家族、親子は親子。そんな考え方は確かにあるのかもしれないが、あの両親を人の親として認めては駄目だ。
 だがなぜか『そんなことはないのかもしれない』という思いは消えない。
 エージが大人になってしまい、今さら児童相談所や警察に駆け込んだところでどうにもならないからか。過去は忘れ、これから始まるなにかに期待すべきだということか……。
「間違ってたかな」
 あれこれ考えるシンジの隣で、アツヤが呟いた。
「かもね」
 ミナも、ガラスの向こうを見詰めたまま言った。
 こんなろくでもない親なのだから、別れを悲しむ必要などない。むしろ怒れ。怒りをぶつけろ。お前には、それをやる権利がある。
 そんなふうに思うことは、間違っている。他者に怒りを強要する権利など、誰にもない。
 会話は交わさずとも、ミナとアツヤがそういうことを言っているのだとシンジには分かった。
 泣くことと笑うことは教わらなくても赤ん坊の頃から出来るが、怒りの感情はコントロールすることを覚えながら身につけなればならない、と誰かが言っていたような気がする。
 それが出来ずに大人になったのが、ユキチカとルリだ。
 思い通りにならない現状に怒り、弱者を力で従わせようとし、善意は利用し尽くす。残念ながらその資質は、幼いエージにも受け継がれていた。
 だがエージは他者との交わりの中で、怒りをコントロールする術を身につけようと努力し始めた。そしていまや、ミナやアツヤやシンジよりもずっと、その術に長けているのだ。たぶん。
 ミナとアツヤに強く同意しながら、しかしシンジはあえて言った。
「いや、ナイスおせっかいだと思うよ、俺は」
 ミナとアツヤから、返事はなかった。
 掃除が終わり、シンジはポケットマネーから一万円ずつをユキチカとルリに渡した。エージは千円でいいと言ったが、今日を含み一週間、閉店後の掃除に来る日当と交通費の前払いだと説明した。
 ユキチカは、前回「土建屋のガキ」と呼んだシンジにペコペコ頭を下げた。その背後でルリは、ニコニコ笑っていた。
 まだ電車は走っているからと、二人は歩いて駅へ向かった。
 改めて呑みに行く気分でもなく、アツヤはミナを連れて車で帰って行った。シンジも「じゃ」と『久保寺バッティング工場』を後にした。
 エージはいつものテンションに戻り、「お疲れさ~ん」と手を振っていた。

 小さなきっかけで人生とか親子関係が劇的に好転するなどということは、非常に稀だ。稀だからこそ、フィクションの世界で描かれがちなのだ。
 そんなことを痛切に実感させられながら、シンジはその後の四ヵ月を過ごした。
 ユキチカとルリが一週間も掃除に通わないことは分かっていたし、事実、翌日から二人とも来なくなった。
 一ヵ月ほど経ってルリが一人で「また掃除させて」とやって来たが、エージは掃除させた上で千円だけ渡して帰らせた。
 その数日後、酔っ払ったユキチカが「儲けの半分をよこせ」とやって来たが、これはシンジが追い返した。
 そして、二人とも姿を見せなくなった。
 スタッフ不足の件は、ダイガクが二人の若者を紹介してくれたおかげでかなり改善された。二人ともフリーターというのが大きかった。ダイガクが出勤出来ない平日に日替わりで来てもらい、週末も入って貰える。
 これにより平日は二人から三人、週末と祝日は四人から五人体制を敷くことが可能となり、エージとシンジは週に一日は休めるようになった。
 二人のフリーターは、アゴヒゲとメガネと命名された。もちろん名付け親はエージだ。
 フードコートは相変わらず連日の大盛況。スムージー屋だけが振るわず、代わってどら焼きが好評だった『笹の屋』が商品を充実させて出店した。店主の息子が考案したという、白玉、栗、イチゴ、生クリームなどを入れたどら焼きも大好評で、これらを『久保寺バッティング工場』フードコート限定商品としたことで、タウン誌にも取り上げられた。
 バッセンの方は、オープン一ヵ月でシンジが予測した通り週末の集客が減り続けている。その一方で、意外にも平日の集客は少しずつ増えていた。
 週末の減り方を補うほどの数ではないものの、自転車でやって来る子供達、日が暮れてからランニングの途中で立ち寄るストイック少年達が目に見えて増えているのだ。
『ガラの悪いスタッフのおっさん、たまにうどんおごってくれる』
『名札見た。Kさんね。でもたまにスゲー機嫌悪い(笑)』
『小学生の中に、自販機のもの全部タダってヤツがいるらしいよ』
『AFKカードってのが超レアな会員証らしいぞ』
 ネット上にも、そんな書き込みが散見されるようになった。
「どら焼きとかレアな会員証とかばっか。もうちょっと、バッセンとして素晴らしいみたいな意見はないもんかね」
 パソコンを見ながらそんな文句が口を突いて出るシンジだったが、その口元は自然に綻んでいた。
「一人でサボってんじゃねぇぞ、シンジ」
 店のロゴ入りポロシャツのボタンを全開にし、汗を拭きながらエージが中二階の事務所にやって来た。
 季節は八月になっていた。
 小中学生の客が増えたのは、恐らくエージの手柄だ。
 エージは小中学生を見掛けると、よほど忙しいときを除いて必ずと言っていいほど「腹、減ってないか?」「友達も連れて来い」「一ゲームくらいサービスしてやるよ」などと話し掛ける。
 小さなことだが、これがオープン半年足らずで効果を表わし始めているのだ。
「別にサボってねぇよ。夏休みつっても平日だし、どうせ下は暇だろ?」
「ところがそうじゃねぇ。新たな問題が発生した」
 エージが言うには、記録的な猛暑続きもあり、フードコートでお喋りをしていた団地の老人達が、涼を求めて建家内に入って来るようになったという。
「自販機コーナーもゲームコーナーも、ゾンビに占拠されてんだよ」
「恐っ」
「笑いごとじゃねぇよ。打ちに来てる客は休めねぇし、自販機とゲーム目当てに来る客も取りこぼしちゃうだろうが」
 それはそうだが、追い出すわけにもいかない。フードコートで倒れる人が出る方が恐い。
「兼石のおじさーん! ホームラン当たったー!」
 自動的に流れるファンファーレと同時に、甲高い子供の声が階下から聞こえた。エージはもう多くの子供達に名前と顔を覚えられ、慕われている。
「うっせぇな! いま下りるから待ってろ!」
 慕われている兼石おじさんは、ちっとも喜んでいる素振りを見せずに「面倒くせぇ~」と言いながら階段を下りていく。
 自分の居場所が欲しいだけ、とミナは言った。
 かつての自分のような子供達のため、とアツヤは言った。
 あの頃の仲間に戻って来て欲しいから、とシンジは思っていた。
 エージがバッセン立ち上げにこだわる理由について、その三つの考えは少しずつ外れていて、けれども同時に、すべてが当たっていたのかもしれない。
 すべてを欲しがる。
 なんとなく、エージらしいとシンジは思う。
 オープン二週間前のあの夜、シンジは自分のエージに対する思いが変わってしまったと思い込んでいた。だがこの半年弱で、いつの間にか元に戻っている。
 近くに駅が出来るとか、大学の新キャンパスが出来るとか、そんな劇的なことはたぶん起こらない。
 けれどこのバッセン、と言うか、このバッセンを取り囲む、エージ曰く「ゴチャッとした空間」は、守っていこう……。
「えー! マジか、おっさん!」
 なんとなく感慨にふけっていると、階下からエージの大声が聞こえた。
 誰か倒れでもしたのかと思い、シンジは慌てて事務所から出た。だが、そんな様子はない。エージは受付カウンターの中で腕組みをして「マジか~」と唸っている。
「どうした、エージ」
 シンジが階段を駆け下りてカウンターに入ると、正面に久保寺がいた。流れ落ちる汗を拭おうともせず、驚いたような顔をしている。
「兄ちゃん、知らなかったのか?」
 久保寺はシンジに目礼してから、改めてエージに訊ねた。
「くそ~、巨大資本め。俺達の成功を見て、乗っかって来やがったな」
「いやいや、悔しがるとこじゃねぇだろ。だいたい、ここは成功してねぇ」
 二人は会話を続けるが、シンジはなんのことやら分からない。
 ケージが空くのを待っていた小中学生も、巨体の男と兼石おじさんを交互に見ている。
「なんのことですか?」
 シンジが訊ねると、久保寺は「こっちの兄ちゃんも知らないのか?」と呆れた表情で言った。
「だから、なんの話ですか?」
「アウトレットモールだよ!」
「え?」
 久保寺はひどく興奮していて話がまとまらなかったが、どうやら旧財閥系の不動産会社がこの近辺の廃工場と空き倉庫をまとめて買い取り、一年後にアウトレットモールをオープンさせることが決定したと言う。
「マジっすか」
「おう、マジだ。スットコだかドッコイだか、あれも凄いがアウトレットモールとなると規模が違う。日本最大のところだと、年間三千万人以上の集客力がある」
「三千万?」
 最大規模の店舗は千葉や静岡にあり、都心に近いここでは恐らく半分ほどの規模になる。しかし少なく見積もっても年間一千万人以上の集客は見込まれる。久保寺は興奮して、そんなふうにまくし立てた。
「考えてみな。一千万人だぞ。〝お、バッセンだ。ちょっと寄ってみよう〟て人間が五パーセントでもいてみろ。え~と、五十万人か」
「五パーで、年間五十万人……」
 新たな人の流れが生まれる。しかも、駅や新キャンパスどころではないかもしれない。
「マジか」
 再度呟くシンジの隣で、エージはまだ「くそ~、巨大資本め~」と筋違いの恨み節を唸っている。
「大丈夫。頑張ってりゃ、なんとかなる。なにもかもな」
 以前、全否定したエージの言葉がよみがえる。
「引きつえぇなぁ……」
 悔しがるエージを見て、シンジは一年以上前に祖父が言ったのと同じ感想を呟いた。
 これから一年、現状を維持しつつアウトレットモールのオープンに備えなければならない。スタッフを大幅に増員し、どこかに駐車場も確保しなければならないだろう。『犬塚土建』に戻るのは、少し先の話になりそうだ。
「なぁ、ホントは裏でこの話が進んでたの、知ってたんじゃねぇのか?」
 久保寺の問い掛けを無視して、エージはバッティングケージの方へ向かった。
 そこには、狩屋ケントがいた。彼は日曜日以外でも、たまに友達を連れて来るようになっている。
「こら、ケント。オータニの真似なんかするな。お前の打ち方でいいんだよ。どれだけ笑われたっていいから、自分の打ち方をモノにしろ」
 ケントは「え~」と言いつつも、以前のままのへっぴり腰フォームに戻った。どちらにしても、空振りばかりなのだが。
「ん~、いいね~。いいぞ、ケント。どんどん空振れ」
 そうだな、エージ。
 両手で金網を掴んで食い入るようにケントのバッティングを見詰めるエージの背中を見て、シンジはそう思った。
(了)

三羽 省吾Shogo Mitsuba

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞しデビュー。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk 毒にもなれない裏通りの小悪党』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。著書に『路地裏ビルヂング』『傍らの人』『Y.M.G.A.暴動有資格者』『ヘダップ!』など。

  • 双葉社
  • 小説推理
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