双葉社web文芸マガジン[カラフル]

俺達の日常にはバッセンが足りない / 三羽省吾・著

イラスト:西川真以子

第11回
 シンジが見たことのない小学生時代のエージが、夜の町を歩いている。
 暗い町をあてもなく歩き回りながら、ふと明るい場所を見付ける。『ケンコーレジャーセンター』だ。エージは引き付けられるように近付き、金網を掴んで施設の中を見詰める。
 肘と膝には生々しい擦り傷があり、唇も少し切れている。頬は粉を吹いたように白く、その上に涙の跡が残っている。
 エージの視線の先で、軟球が行き交う。ピッチングマシンの〝ガシャン〟という発射音、軟球が金属バットに当たる〝パカーン〟という音が重なり合いながら耳に届く。
 バッティングケージの奥からは、楽しげなゲーム機の電子音が微かに聞こえる。うどんの出汁の匂いと、たこ焼きのソースの匂いが、水しか入っていない胃袋を激しく刺激する。
 そして場面が変わり、再びエージの横顔が見える。
 いつの間にか、エージは成長している。シンジの記憶にもある、中学生になったエージだ。
 金網を掴み施設の中を見詰める目は、もう捨てられた犬のように怯えてはない。すっかり、猟犬の目になって……。
 また同じ夢で目が覚めた。『兼石 日報』と題されたあの大学ノートに目を通してから一ヵ月余り、シンジは繰り返し同じ夢を見ていた。
 改めて考えれば、父がエージとその両親のことを古くから知っていたとしても不思議ではない。
 シンジの母は民生委員を長く務め、祖父は前科前歴者に仕事を斡旋していた時期がある。父はそれらの活動に無関係だったが、地域内の問題がある家庭のことは耳に入っていたことだろう。
 シンジが中学生になってエージと出会い、家に連れて来るようになった頃には、祖父も母も父もエージのことを知っていたのかもしれない。いや、たぶん知っていたのだ。
「もう遅いから、風呂に入って泊まっていけ」
「遠慮しないで、いっぱい食べてね」
 そんな祖父と母の言葉をよく覚えている。これもいまから思えばだが、普通は「ご両親に電話しろ」「夕食を作って待ってるお母さんには悪いけど」といった言葉があって然るべきだ。しかしそんなことは、二人とも一度も口にしなかった。
 父がエージに日報を書かせるようになったのは、恐らく祖父が言うような「優しさ」ではない。エージの日頃の言動が本当に腹立たしくて、我慢ならなくなったからだ。
 だが父は父で、往復書簡のような日報のやり取りをする中で、祖父も母も知らない恐ろしい可能性に気付いた。そして黙っていられなくなり……。
「おいコラ、居眠りコイてんじゃねぇぞ、シンジ!」
 目覚めた後もぼんやりと考え事をしていたら、地鎮祭のときにそっとしておいてやったことを後悔するくらいの勢いでエージに怒鳴られてしまった。
「おぉ、悪い悪い……」
 着工から三週間、オープンまで六十日を切っていた。
 この日は舟形をした七つの基礎部分が固まり、いよいよピッチングマシンを搬入する日だった。ペンディングだった事務所と倉庫は、古い基礎と鉄骨の強度検査をクリアし、エージの要望通り中二階にプレハブを増設中でもあった。
 シンジは連日寝不足の中、建家内の二つの工事に立ち会わなければならなかった。朝からずっと打ち合わせや確認作業が続き、やっと身体が空いた数分間、駐車場の片隅でパイプ椅子に座って眠り込んでしまっていたのだ。
「ったく、しっかりしろよな、専務様よぉ!」
 そう叱りつけるエージはというと、フードコートへの出店を検討している移動販売店の現地見学に付き添っていた。今川焼きとたこ焼きは既に決まっていて、別業態の店をあと二、三店舗入れる予定だと言う。この日は、ケバブ屋、トッポギ屋、クレープ屋、おにぎり屋、スムージー屋が見学に来ていた。
 現地を見た各店舗の代表は、当然「一日当たり何人くらい来るんですか?」と質問する。それに対してエージは、さも当たり前のように「百人前後っすかね」と答えている。
「それはちょっと、希望的観測が過ぎるんじゃないでしょうか。失礼ですけど、立地条件は最悪ですよね?」
「やだなぁ~、お姉さん。俺のこと信じてよ~」
 エージは代表が女性であるケバブ屋とおにぎり屋にターゲットを絞り、かまってもらいたくてたまらない犬のように尻尾を振っている。夢の中とはいえ、シンジは彼を猟犬などと思ってしまった自分を激しく罵った。
 と同時に、真新しいアスファルトが敷き詰められ、白いラインが引かれた二百坪ほどのスペースを見詰めていて、気付いたことがあった。
 半分の百坪は、普通車十五台分の駐車スペースになっている。建家脇にも、車椅子使用者用のものも含め五台分が確保されている。計二十台分。フードコートがあることを考慮しても、ケージ七つのバッティングセンターにしては多過ぎはしないだろうか。
 残りの百坪、フードコート側に出店予定なのは四から五店舗。出店の条件は、軽トラックか軽ワゴン車による移動販売店だ。それほど場所はとらない。中央は椅子とテーブルを設置し、少しくらいの雨ならしのぐことの出来るパラソルも設置する。こちらは逆に、飲食スペースに対して出店数が少ないように見える。
「なぁ、エージ」
 帰って行くケバブ屋のお姉さんに大きく手を振っているエージを捕まえ、シンジは出展数の少なさについて訊いてみた。
「あぁ、言ってなかったか。ほかに生鮮食料品とか日用雑貨品の移動販売車が数台入る予定なんだ。まぁ、移動スーパーみたいなもんかな」
「スーパー? みたいなもの?」
 シンジの知らない間に、エージはスーパーマーケットを回って移動販売の話を持ち掛けていた。だが、急に言われても冷蔵冷凍機能を備えた車や人員を確保出来ないとかで、どこも首を縦に振ってくれなかった。そこでエージは知人に譲ったカフェを通じて、シャッター通りとなった商店街に話を持って行った。こちらは待っていても客が来ない状態が長年続いていることもあって、小さな保冷車を所持している肉屋と魚屋がすぐに手を挙げてくれた。更には八百屋、パン屋、惣菜屋も合同で出店してくれると言う。ドラッグストアも、薬以外のトイレットペーパーやシャンプーなどの日用品を出すだけなら協力したいと言ってくれた。
「なるほど、三台から四台の車でちょっとしたスーパー……そうか、団地に目を付けたんだな」
「へへ、そういうこと」
 かつて工場と倉庫の労働者向けに作られた巨大な団地は、このバッティングセンターから徒歩十分ほどの場所にある。主たる役割を終え、空き部屋が目立ち独居老人ばかりになったとはいえ、住民の数は三百人を下らない。しかもそのほとんどが車を持たない買物難民だとシンジの耳にも届いている。さっき一日当たりの来客数を「百人前後っすかね」と言っていたのも、まんざら口から出任せではないらしい。
 パンや牛乳を買ったついでに、今川焼きやたこ焼きを買う人は少なくないだろう。家に帰っても一人なら、フードコートでずっとお喋りする人だっているに違いない。
 年金暮らしの高齢者ではほとんどバッティングセンターの客にはならず、つまり一日二十三人強の集客目標にはカウント出来ない。だが取り敢えず、フードコートの方はまとまった数の見込み客がいるということだ。
 あの夜以降、シンジは『兼石 日報』を開いていない。だがこのことは父の助言ではないと思った。たぶん、これまで立ち上げては他人に権利を譲ってきた事業を経て掴んだ、エージの感覚的な発想だ。移動販売の弁当屋はランチ難民、カフェはシャッター通り商店街の復興、買物代行は買物難民のためで、人の弱味に付け込んでいると言えばその通りだが、同時に「なんとかしてやりたい」という思いも嘘ではなかったということか……。
「そういうわけでさ、そろそろ告知活動の準備に入ってくれ」
 喉元まで出ていた「たいしたもんだな」という言葉をグッと飲み込み「分かった」と頷いたシンジだったが、肝心なことが決まっていないことを思い出した。
「名前、どうする。工事の申請は仮称で『ケンコーレジャーセンター2』にしたけど、正式名称を決めないと告知出来ない」
「いいんじゃねえの? 『ケンコー2』でも『新ケンコー』でも『ケンコー・ザ・ムービー』でも」
「いや、潰れた施設とはいえ、それはさすがに……」
 そのときふと、シンジは確認出来るかもしれないと思った。
 建家の中からは、ドリルでナットを締める〝ガガガガ! キンキンキン!〟という音が響いていた。
 シンジはその音に負けないよう、いつもよりハッキリとした発音で言った。
「じゃあ『兼石バッティングセンター』でいいか?」
 エージは一瞬、目を見開いてシンジを見た。だがすぐに顔を伏せて「そうだなぁ……」と考えた。
「俺は名前を出したくない。また気が変わって辞めちゃうかもしれねぇし」
「おいおい」
「いや、今回は続ける気はあるよ。ただ、この飽きっぽい性格を我ながら信じられないっつーかさ」
「名前は出したくないか」
「うん……あぁ、ミナんとこで借りてる金は『犬塚土建』名義だし、『犬塚土建バッティングセンター』なんてどう? ガテン系御用達みたいだけど」
 冗談めかしてそんなことを言うエージに、シンジはもう一度「名前は出したくないんだな」と訊ねた。
「何回も訊くな、出したくないね。俺って人間は奥ゆかしく出来てるから」
 シンジは「そうか」と頷いて、一つ小さく息を吐いた。少しだけ、安心した。
 父の言う通り、今回のバッセン立ち上げが両親をおびき寄せるための撒き餌であったなら、店名には必ず『兼石』の文字を使おうとするはずだ。
 父も、そして自分も、考え過ぎだった。金の匂いを嗅ぎ付ける特殊能力を持っているというのも、型枠大工の親方の思い込みに違いない。エージの両親が姿を現さなければ、なにも起こりはしない。
 そんなふうに自分に言い聞かせていると、エージが「なぁんだよ」と肩を小突いてきた。
「そんなに俺の名前を使いたいのかよ」
「いや、別に。じゃあ名前の件は、改めて相談するよ」
 エージはまだなにか言いたそうだったが、今度はシンジが逆に「奥ゆかしい人間が人の家に転がり込んで、タダ飯喰うかね」とおどけて言った。
「それもかれこれ一年近く経つだろ。早いとこ儲けて、ウチに恩返ししろよ」
 痛いところを突かれたらしい。エージは肩をすくめ、「優先順位で言うとミナとアツヤの次だな」と笑った。

 地権者である久保寺の会社は、シンジ達が借りた場所以外にも多くの空き倉庫と廃工場を抱えている。そのうちのいくつかは、クラブイベントやライブ、映画やプロモーションビデオの撮影、美術大学のギャラリーなどに貸し出されている。
 そんなこともあって『久保寺◯◯倉庫』『久保寺××工場』という名前は、特定の若者の間では、ある程度浸透している。
 そんな事情もあり、シンジはバッティングセンターの名前を『久保寺バッティング工場』に決めた。元の施設は倉庫だが、アスリートの養成所が『□□ファクトリー』などと表現されていることに倣ったネーミングだ。
 久保寺は「なんか照れ臭ぇけど、嬉しいや」と了承してくれ、エージも「いいじゃん。イカつくて、客層が限られそうだけど」と笑って賛成した。
 アツヤの店にグラフィックデザインの専門学校を出ているホストがおり、シンジはその男に焼肉食べ放題を条件にチラシとウェブのデザインを依頼。ホームページを立ち上げ、印刷業者にチラシを発注した。
 チラシは二種類。一つは市内にある三軒のバッティングセンター、草野球場の管理室、スポーツ用品店などに配布するもの。これには三軒に来店したことを証明出来る自撮り写真を提示すれば『久保寺バッティング工場』で一ゲーム無料となる旨、及び九人以上の団体で会員登録すれば一人一ゲーム無料となる旨を大きく表記した。
 あの屋上の施設を含め三軒のバッセンは、市内バッセン巡りについて「これは面白い」「ウチが四軒目でも一ゲーム無料でいい」「期限なしのスタンプラリーにしたらどうだ」と、好反応だった。
 もう一つのチラシは、団地にポスティングするもの。こちらはバッティングセンターに関することはほとんど明記せず、フードコートで生鮮食料品と日用雑貨を販売する旨を大々的に表記した。
 オープンまで二週間を切り、施設は内装と外装の仕上げ段階に入った。まだ布を掛けられた状態ではあるが、建家の正面には『久保寺バッティング倉庫』の看板も掲げられた。中古のゲームと自販機も、すべて納入された。
「ケチ臭ぇこと言うなよ、シンジ」
「ケチで言ってるわけじゃないって」
 そしてこの日、内装業者が帰った後の現場でシンジはエージと軽い口論をしていた。会員登録した客に対するサービス内容についてのことだった。
 一般客は一ゲーム三百円でコインを購入するか、三千円で十一ゲーム分のICカードを購入してプレイする。これに対して会員には利用履歴が残るICカードが発行され、十ゲームごとに自動的に一ゲーム無料となる。エージはこのシステムを「一般客と変わらねぇじゃねぇか。せめて五ゲームで一ゲームサービスしろ」と怒っているのだ。
「こっちは利益率とか計算してるんだ。その代わり会員には、一ゲーム一ポイントの累積と、ホームランの数に応じて、オリジナルのタオルとかTシャツをプレゼントするじゃないか」
「あのダッせぇグッズのことか?」
「そんなこと言うなよ。アツヤんとこの兄ちゃんに、焼肉一回で何種類もデザインしてもらったのに。だいたい、なにを頭に載せてそんなこと言ってんだ」
 シンジが指差したエージの頭には『久保寺バッティング工場』と三行で書かれた、黄色いベースボールキャップがあった。五百ポイントで進呈するオリジナルグッズで、シンジもちょっと「ダッせぇ」と思っている代物なのだが、エージは納品直後に「いいねぇ、一個もらうよ」と冠った。
「こ、これは告知活動の一環として冠ってやってるんだ。そもそもなぁ、登録料だの年会費だのが気に入らねぇ。あんなICカード、原価は数十円だろうが」
「データを管理しなきゃならないし、誕生日の招待券だとかイベント告知だとか送るし、年会費五百円なんか安いもんじゃないか」
「いーや、金額の問題じゃない。自動的に支払い義務が発生するなんて、ヤクザとNHKのやりくちじゃねぇか」
「あのなぁ、エージ……」
 そんなふうに言い合っていると、開け放しだった出入口で「お待たせぇ」と声がした。振り返ると、ミナとアツヤが入って来た。アツヤはいつものタイトなスーツ姿だが、ミナはどこかで着替えたらしく上下ジャージにスニーカーという万全の格好だった。
「悪いな。店、大丈夫か?」
「おう、一応は店長だしな。これくらいの自由は……なに、この臭い?」
 シンジとエージはすっかり慣れていたが、床一面に塗ったグリーンの塗料の臭いがまだ残っているようだった。
「もう乾いてるんだけどな。気になるなら排気用のファンを回すよ」
 アツヤとシンジがそんな会話をしていると、ミナがエージを指差して「なにそのダッさいキャップ」と笑っていた。
「私にもちょうだい」
「欲しいのかよ。素直じゃねぇな」
 キャップは黄色の他に、青と赤と黒があった。ミナが「ちょうど四色なんだ。みんなでダッさくなろう」と黒に手を伸ばした。続いてアツヤが青を手に取り、シンジはしょうがなく残った赤を冠った。
 ピッチングマシンを据えた後、動作確認の試運転は業者が何度も繰り返している。だが床の塗装のこともあり、まだ誰もケージに入って打ってはいない。
 そこでシンジは塗装業者からゴーサインが出たこの日、ミナとアツヤを招いて打ち初め式を行なうことにしたのだった。
「カンゴウ? カンゲイ? なんかそういうのが深いね」
 エージが新品の金属バットを選びながらそんなことを言い、アツヤは「たぶん感慨のことだな」と笑ってバッティンググローブをはめた。シンジはみんなにコインを三枚ずつ配ると、照明をすべて点灯し、マシンを稼動させた。ミナはその間、少し離れた場所で黙々と素振りを繰り返した。
 ボールを運ぶベルトコンベアが、〝ゴゥゥン……〟と低い音と共に動き出す。アーム式はバネが伸びる〝キンキン……〟という音、ローター式はモーターが回る〝ウゥゥ……〟という音で、息を吹き込まれたことを伝えてくる。
 四色のキャップが四つのケージに入り、「よし、じゃあ」「うん、せーの」と同時にコインを投入した。
〝ウィーン〟〝ガシャン〟〝パカーン〟〝カキーン〟
 記念すべき第一球、ミナの鋭い当たりがピッチングマシンの真上をきれいに越えて行った。センター前ヒットだ。アツヤはいい当たりだったがセカンド正面のゴロ、シンジは擦ったような当たりでサードファールフライという感じだった。
 エージの当たりは、ミナよりも高い軌道で最深部のネットにライナーで突き刺さった。
 一ゲーム二十五球、約四分間。シンジは楽しみながらも、高低コントロールを試したりネットの張り具合を確認したりしながら、ゲームを終えた。そして他の三人が引き続き二ゲーム目に入る中、気付いたことをメモに書き付けた。
 顔を上げると、隣のケージでアツヤがライナー性の当たりを打ち返していた。細い身体の割りに、パワフルなスイングだ。そういえば、小学生の頃は軟式野球をやっていたと聞いたことがあった。たまに力んで空振りもしているが、半分くらいはヒット性だ。
 その奥のミナはいかにも女子っぽいフォームながら、まったく空振りをしない。しかも彼女が選んだケージは、シンジとアツヤより速い百二十キロだ。
 だがシンジが最も驚かされたのは、あの『ケンコー』でも見たことがないエージのバッティングだった。彼は最速百四十キロのケージで、めちゃくちゃなフォームでバットを振り回していた。空振りが一球もない。しかもミナのようにバットに当てるだけではなく、ほとんどの当たりがマシン室の金網に激しい音を立ててぶち当たるか、奥のネットにダイレクトで届いている。
「うりゃあ!」「こんにゃろ!」「どうだ!」
 そして、インパクトの度にいちいちうるさい。本物の野球だったら、絶対に審判から注意を受ける。
 二ゲーム目を終えると、ミナとアツヤもエージに目を向け驚いていた。
「スゲーな、お前」
「知らなかったよ、こんな特技があるなんて」
「やってた? ワケないか、そんな不格好なフォーム」
 すぐに三ゲーム目に入ったエージのケージの後ろに、三人が集まった。
「へへ~、今年のドラフト掛かるかなぁ~。困っちゃうな~、ボク」
 調子に乗ったエージは、疲れも見せずますます鋭い当たりを打ち返す。
「でもそのフォーム、さすがに変だ。お前ひょっとして左打ちなんじゃないか?」
 アツヤが言うと、エージは「そうかな?」と言ってホームベースを跳び越えて左打席に入った。
 そして次の一球。フォームは尚更めちゃくちゃになったが、これまたショートの頭上を越えて左中間を破るようなツーベースコースへの当りとなった。
「隠れた才能ってやつ?」
 ミナが小声で囁き、シンジは「ナチュラル・ボーン・スイッチ・ヒッター」と言って笑った。
「おい、今度は真ん中に立って打ってみろよ」
 左打席でも打ちまくるエージに、アツヤが言った。
「おう、そうか?」
 完全に冗談だったのだが、エージはそう答えてホームベースを跨ぐように立った。バットは、剣道で言う上段の構えになっていた。
「おい馬鹿、やめろ」
「ちょっと、危ないって」
「軟球とはいえ、百四十キロだぞ」
 三人同時に止めようとしたが、
「うっせぇ、黙ってろ! 名付けて、良い子は真似しないでね打法! うりゃ!」
 正面から迫る時速百四十キロのボールに対して、エージはバットを縦に振り下ろした。
 そしてバットが捉えた打球は、さすがにライナー性ではなかったものの、大きく弾んでピッチャーの頭を越えるセンター前か内野安打性の当たりだった。
「ガハハハハ! 見たか、凡人ども! この俺様に打ち返せない球など……イッデェ!」
 振り返って高笑いするエージの腰に、最後の百四十キロがめり込んだ。
「やっぱ馬鹿だ」
「ドラフト掛かりたいなら、まずルール覚えな」
「ほら、ゲームオーバーだ。早く出て来い」
 腰をさすりながらケージを出たエージに肩を貸し、シンジは自販機コーナーのテーブルに座らせた。ミナは「これ、おしぼりにするよ」と、カウンター上の段ボールからタオルを四枚取ってトイレに向かった。アツヤは「もう入ってるんだな」と、自販機でスポーツドリンクを四本買ってくれた。
 一息吐いて各人のバッティングについてあれこれ感想を言い合い、その後自販機の動作確認のために試作品を入れていたうどんとラーメン、ハムエッグサンドとハムチーズサンドを食べて「わー、チープな味」「けど懐かしいよ」「つまりマズウマい」「ねーよ、そんな表現」などと盛り上がった。
 酒は一滴も入っていないのに、そんなこんなでわいわい騒ぎ、気付いたら午後九時を過ぎていた。
「俺はそろそろ店に戻らないと。ミナ、途中まで送ってやろうか?」
「お、ラッキー。ありがと」
 そして黒と青のキャップは、「オープンしたらまた来る」と言い置いて帰って行った。
 残された黄色と赤は、急に静かになったせいか妙にしんみりとしてしまった。
「ビールでも買ってくるか」
 そう言って席を立ったのはエージだった。
「あぁ、いいな」
 二人揃って酒を呑んでしまえば、ここに泊まるしかない。中二階の事務所には、折り畳みの簡易ベッドとソファが既に納入されている。無理をすれば二人で寝られないこともない。
 オープンを目前にして、二人で呑みながらじっくり話をするのも悪くない。会員へのサービスの件もあるが、掃除やメンテナンス、アルバイトの教育、AEDの講習への参加等々、エージに伝えておかなければならない現実的なことが山ほどある。
 シンジがそんなふうに考えていると、表で車が停まる音が聞こえた。ミナとアツヤが忘れ物でもしたのかと思ったが、違った。
「よぉ」
 先に立ち上がって出入り口に向かおうとしていたエージの眼前に、上下黒のジャージでくわえ煙草の男が立ち塞がった。背後には、女性の姿もあった。
 兼石ユキチカとルリだ。
 シンジはエージの両親と会ったことはないが、即座に分かった。
 両親が現れなければ、何事も起こらない。自分が勝手にそう思い込もうとしていただけなのに、それでなんとなく安心してしまっていた。
 完全に油断していた。
「ほぼ完成か。立派なもんじゃねぇか」
 ユキチカは数歩だけ建家内に入ってエージの正面で止まり、自販機コーナーから受付カウンター、バッティングケージへと視線を動かした。
「なにしに来た」
 自販機コーナーにいるシンジからは、そう言うエージの顔は見えない。微かに震えるその声色は、シンジが聞いたことのないものだった。きっと、怒りに震えているのだ。その表情も、シンジに見せたことがないほど憎しみに満ちたものに違いない。
 そんなことを考えると同時に、シンジは自分に『冷静になれ』と言い聞かせた。エージが度を超した行為に及ぶ前に、力尽くででも止めなければならない。
「あんたが新しい商売を始めるって聞いたから、一言お祝いにと思って」
 ルリがユキチカの背後から顔を出し、作り笑いを浮かべながら言った。彼女は続けて「ホントに、おめで……」と言い掛けたが、ユキチカがニヤリと笑い「心にもないことを言うな」と止めた。
 ユキチカもルリも、明らかに酒が入っていた。恐らく、飲酒運転など全く気にしない輩なのだ。
 そして二人とも、ひどく年老いて見える。
 エージが生まれたのは、この夫婦がまだ十代だった頃のことだとアツヤから聞いたことがある。つまり二人とも、まだ四十代後半だ。だがユキチカは顔色が悪く、手足は元肉体労働者とは思えないほど痩せ細り、そのくせ腹だけが大きく出っ張っている。ミナの方も、派手な化粧と金髪で若作りはしているものの、十メートルほど離れているシンジから見ても肌がカサついている。どちらも、不摂生の標本のような歳の重ね方をしてきたのだろう。
「もうちょっと早く気付くんだったなぁ。ここまで出来上がると、さすがに店を畳むのもおおごとだ」
 ユキチカはそう言うと、なんの躊躇いもなく煙草を床に落として踏みつけた。染み一つない白黒ツートンの塩ビシートに、くっきりと焦げ跡が付いた。
「ちょっと、あんた」
 たまらずシンジは口を出した。
「なにしに来た。〝畳むのもおおごと〟って、どういう意味だ」
 ユキチカはシンジに目も向けず、その言葉を完全に無視した。そして、より高圧的にエージに向かって言った。
「どこの銀行を騙したのか知らないが、かなりの金を借りてるだろう。それを全部使ってるわけじゃないよな。残ってる現金、あるだけ出せよ」
「おいあんた、さっきからなに言って……」
 シンジは一歩前に出たが、エージが手を挙げて制した。エージは両親の方を向いたままで、やはりシンジから彼の表情は窺えない。
「そんな大金じゃなくていいんだよ」
 ルリはユキチカとは逆に、妙に優しい声色を使う。
「私達、いま生活に困っててね。三十……十万でもいいから、助けてくれないかな」
 すかさずユキチカが「ぬるいこと言ってんじゃねぇよ」と半笑いで言った。二人で申し合わせてここに来たようだが、目標額や方法は一致していないらしい。
「親が困ってるんだよ。成人した子供は助けるのが当然だろうが」
「そうだよ、エージ。私達、あちこち身体も悪くてね」
 初めて意見が一致した。共通しているのは、金を得るという一点のみだ。
「まともに育ててねぇくせに、いっぱしの親みたいな台詞を吐いてんじゃねぇ」
 エージが初めて、震える声で言い返した。
 そうだ、もっと言ってやれ。
 シンジはそんなふうに思いながら、いつの間にか拳を堅く握りしめていた。
 いけ、エージ。二、三発……いや五、六発殴るくらいなら、黙って見ていてやる。
 だが、エージの拳は握られてはいなかった。
「てめぇ、親に向かってなんだ、その言い草は!」
 拳を握っていたのは、ユキチカの方だった。
 右の拳が左顎をとらえたが、エージは痛がることもよろめくこともなかった。逆に殴ったユキチカの方が、たたらを踏むように後退した。力の差は歴然だった。
「このクソガキが!」
 普通なら己の脆弱さに嫌気が差しそうなものだが、ユキチカはそれどころか怒りを倍増させ、それをエージに向けた。
 両手で肩を押され、これにはさすがにエージも二、三歩後退した。そしてテーブルゲーム機にぶつかり、そのまま仰向けに転がった。
 まったくの無抵抗だった。
 エージに馬乗りになり、ユキチカは両拳を交互に振り下ろした。ゲーム機が邪魔で、シンジにはエージの上半身が見えない。
「子供は、親の言うことを、黙って、聞いてれば、いいんだ」
 一発毎に、ユキチカが悪態を吐く。だがパンチとともに、言葉も力を失っていく。
 ルリは両手を口元にもっていき、ただ黙って見ている。
 シンジは、エージが故意に殴らせているのだと思っていた。二、三発殴る前の交換条件として。ならば、いまユキチカを止めに入るべきではない。
 だが、あまりにも無抵抗の時間が長い。
 そう感じ始めたとき、ユキチカが息を切らしながら立ち上がった。拳が痛くなったのだろう。
 終わった。さぁ、反撃だ、エージ。
 だが立ち上がったユキチカは、もう一度「クソガキが!」と叫び、右足でエージの顔面辺りを踏みつけた。シンジからは死角だったが、〝ゴン〟と響いた鈍い音がエージの後頭部が床に叩き付けられたものであることは分かった。
「やめろぉ!」
 更に踏みつけようと右足を上げたユキチカに、シンジが組み付いた。軽く引き剥がしただけで、ユキチカは簡単にバッティングケージの金網まで下がった。
「なんだよ、てめぇ。土建屋のガキか」
 足下をフラつかせながら、初めてシンジの存在に気付いたようにユキチカが言った。
「お前んとこのジジィのおかげで、こっちはどこに行っても仕事を貰えねぇんだぞ。どうしてくれるんだよ」
「うるさい! いい加減にしないと、警察を呼ぶぞ!」
 シンジがそう叫ぶと、ルリが「あんた」とユキチカのジャージを引っ張った。
「帰れ!」
「あぁ、帰ってやるよ。二度と来るか、馬鹿野郎!」
 ユキチカは捨て台詞のようにそう言い、ルリとともに出入り口に向かったが、途中で振り返って「エージ!」と叫んだ。
「てめぇとは、もう縁切りだ。勝手に生きて勝手に死ね!」
 エージは仰向けのままで、なにも言い返さなかった。
 シンジは駐車場まで出て、ボロボロの軽四自動車のテールランプが見えなくなるまで目を離さなかった。
「大丈夫か、エージ」
 建家に戻ると、エージはまだ床の上に横たわっていた。
 両腕で顔の上半分を覆っている。見えている口元は、血だらけだった。
 そっと手首を取り両腕を広げて、シンジはハッとした。
 エージは泣いていた。ヒックヒックと、肩をわななかせながら。声は出さないようにしているようだったが、それはもう、泣きじゃくっていると言っていいような感じだった。
 まるで繰り返し見たあの夢の中の、捨てられた犬のような、小学生時代のエージそのものだった。
 声が震えていたのは、怒りからではない。
「頭、打っただろう。大丈夫か?」
 とんでもないことに気付いてしまったような気がしたが、シンジは泣いていることには一切触れず、ゆっくりとエージの上体を助け起こした。
「終わっ……」
 そう言い掛けたエージの口から、大量の血が流れ出た。
「お、おい、しゃべるな。口の中、切ってるんだな。取り敢えず、病院に行こう」
「いや、おで保険証ほげんじょう、ないがら……」
「そんなこと、後からどうとでもなる。いいから車に乗れ」
 シンジはカウンター上の段ボールから新しいタオルを三枚取り出し、それを「口元、押さえてろ」とエージに渡した。
「ゆっくりでいいからな」
 そして肩を貸してエージを立たせ、駐車場へ向かった。
(第12回につづく)

三羽 省吾Shogo Mitsuba

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞しデビュー。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk 毒にもなれない裏通りの小悪党』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。著書に『路地裏ビルヂング』『傍らの人』『Y.M.G.A.暴動有資格者』『ヘダップ!』など。

  • 双葉社
  • 小説推理
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