双葉社web文芸マガジン[カラフル]

俺達の日常にはバッセンが足りない / 三羽省吾・著

イラスト:西川真以子

第1回
 家族経営で土建業を営む犬塚家の朝は早い。
 事務所の正式な始業時間は工事現場と同じ午前八時だが、事務所の電話には、その一時間ほど前から現場に向かう作業員から各種問い合わせがある。したがって朝食と身支度は、七時までに済ませなければならない。
 専務である犬塚シンジはその日も六時に起床し、十分後には神棚の前で柏手を打っていた。隣には社長を務める父、前には会長である祖父がいる。
 朝食を摂りながら、祖父は難しい顔をして新聞に目を通す。建設業界の気になる記事や取引先の人事異動などを見付けると、目を新聞に向けたまま父にあれこれ質問する。代替わりをして三年、まだお前にすべてを任せるのは心もとないという姿勢を示す、朝のルーティンだ。
 一方の父はテレビの経済ニュースから目を逸らさず、分かっているよという態度で言葉を返す。こちらも難しい顔だが、これは主に二日酔いが原因。父はほぼ毎晩、取引先や同業者と遅くまで呑み歩いている。朝食はいつも濃いブラックコーヒー。固形物といえば、たまに果物を数切れ食べる程度だ。
「目の前の数字に振り回されるな。過去を振り返り、現在の足下を見下ろし、それから未来を見るんだ。物事は大局的に……」
「はいはい。そうやって大局的に見てたから、このどん詰まりなんだよな」
 そんなふうに軽い口論が始まるが、これは二人の「おはよう」「天気いいね」みたいなもの。
「兼石くんはどうした」
 口論が落ち着いた頃、スマートフォンで芸能ニュースを見ていたシンジに祖父が訊ねた。シンジはトーストを頬張ったまま「知らないよ」と即答。
「起きてこないってことは、朝飯いらないってことだろ」
「いいから起こしてこい。腹が減ったままじゃ、午前中の仕事に差し障る」
 無視しようとしたが、母まで「そうよ、シンジ。用意してるの無駄になっちゃうし」と祖父に加勢するものだから、シンジは手のパン屑を払い落として無言で立ち上がった。

 母屋の南側には大きな庭があり、その西側にガレージと倉庫、東側に事務所と単身者用の寮がある。
 寮は木造モルタル二階建てで、全二十七戸。全室六畳一間でエアコンはなくトイレも共用だが、大浴場が備えられている。シンジが子供だった頃は常に満室で、若い労働者達によく遊んでもらったものだ。入浴も家族の中でシンジだけ、母屋ではなく寮の大浴場を使っていた。泳げるくらい広かったし、身体中に絵が描いてあるお兄さん達は少し乱暴だが面白かったからだ。
 しかし長引く不況と若者の肉体労働離れもあり、現在の入寮者はわずか六人。水道代とガス代が馬鹿にならないし、交替制だった掃除も大変なので、大浴場はだだっ広いシャワー室になった。
「いくら空き部屋があるからって、あんな奴を住まわせてやることないんだけどなぁ」
 ぶつぶつ独り言をこぼしながら階段を上り、シンジは角部屋の戸を乱暴に叩いた。返事はない。引き戸を何度か揺すると鍵……というかただの留め金……は、簡単に外れた。
「起きろ、エージ」
 布団をはぎ取り尻を蹴ると、俯せで眠っていた男は「ん~」と反転して眩しそうにシンジを見上げた。見事に勃起した一物がトランクスを持ち上げている。
「朝飯いらないなら、あと三十分寝てていい」
「喰う、喰うよ、けどあと五分だけ、立ちバックでやってる夢の続きを……」
「くだらねぇよ、馬鹿。おら、食欲か性欲か今すぐ決めろ。五、四、三、二、一!」
「はいはい、起きますよぉ」
 ぐずぐずと起き上がった男の名は、兼石エージ。シンジの中学時代の同級生だ。
 高校を中退してフリーターになったが「人に使われるのは向いてねぇ」などと言って、なにをやっても長続きしなかった。それから方々で金を借りて移動販売の弁当屋とか、団地のおつかい屋とかを始めたかと思ったら、さびれたシャッター商店街の一角でカフェを開いたりで、とにかく思い付くままという感じで様々な商売を立ち上げては「飽きた」と放り出している。
 それでもなぜか女にだけはモテるので、ヒモみたいな暮らしで喰い繋ぎながら三十歳を迎えた。
 要するに、馬鹿で短絡的ですくいようのないロクデナシだ。
 そのロクデナシが半年ほど前に街中で喧嘩をして、暴行致傷の容疑で逮捕された。その情報は一人の呟きによって即日旧友達に広まったが、心配するリツイートなど一つもなく「いつかやると思った」「出てくんな」「いやいや、その前に貸した金返せよ」「お前も? 俺も貸してる」「ふざけんな」という反応ばかりで、誰かのシンプルな「死ね」には、たくさんの「いいネ」が付いた。
 幸いにもというか残念ながらというか、送検は見送られてエージは二十日後に娑婆に出て来た。しかし、愛想を尽かされたのだろう。彼を喰わせていた女は姿を消し、エージは帰る場所を失った。
「だからって、なんでウチに……」
 母屋に向かいながらシンジが溜息混じりに呟くと、エージは他人事みたいに「どうした、心配事か? 大変だな、専務ってのも」と言って笑った。
 取り敢えず寝る場所を確保したいエージは、犬塚土建にやって来た。が、労働者として額に汗して働く気などない。寮が空き部屋だらけだということを知っていたのだ。
 シンジは追い返そうとしたのだが、事情を聞いた祖父と母が「それは大変だな」「どうせ空いてるんだから、どうぞ」と住まわせることを決めた。おまけに祖父は「現場仕事は経験がないとキツいだろうから」と、やってもやらなくてもいいような倉庫の片付けとか自分の運転手などをやらせ、日当まで与えた。母は母で「エージくん、夜はなに食べたい?」などと、シンジが聞いたことのない声色で訊ねる。
 中学生の頃からだが、どういうわけか犬塚家の祖父と母はエージのことがシンジより好きなようだ。
「おはよう、エージくん。今朝はどうする?」
「おはようっす。ん~と、爺さんは鮭と納豆で、シンジはトーストとベーコンエッグか……じゃお母さん、Aセット生卵付きで」
「あはは、エージくん、ウチ食堂じゃないんだから」
 そんな気持ち悪い会話を聞きながら、シンジは作業員から届いていた二件のメールを確認した。『届いているはずの資材が届いていない』『事故渋滞で三十分ほど遅れそうなので監督に連絡を』という内容だった。資材会社に問い合わせ、現場監督に連絡している間、エージは寝起きとは思えない勢いで朝飯をがっつき、祖父と話している。
 父は、エージと入れ違いに事務所へ向かった。
「今日から古いコンパネをケレン棒で……」「いや爺ちゃん、悪いんだけど……」「そうか、やりたいことがあるならしょうがない……」「悪いね、ちょっとワケありでさ……」
 電話をしながらだったので、詳細までは分からない。だがどうやらエージは、倉庫の片付けという楽な仕事からも逃げようとしているらしい。
「資材置き場にしてるあの土地、売るかもしれないって言ってたじゃん。マジで売るの?」
「あぁ、売ってもいいと息子には言っている。だが値段交渉で揉めているらしく、決定には時間が掛かりそうだ」
「あ、そう」
「ウチも苦しい経営状態でな、まとまった金が必要なんだよ」
 電話を終えると、二人の話はシンジも知らない犬塚土建の内情にまで至っていた。
「そんなワケで、出掛けます。夕方には帰るんで、お母さん、晩飯ヨロシクです」
 そう言うと、生卵付き焼き鮭定食をきれいに平らげたエージは出て行った。
 お情けで与えてやっている仕事を堂々とサボってどこへ行くのか、追い掛けて問い質したいところだったが、シンジもそろそろ仕事にかからなければならない。
 断りもなく住み込み従業員共用の自転車にまたがって出て行くエージの背中を苦々しく見送り、シンジは事務所へ向かった。

 肩書きは専務だが、シンジの主な仕事は実質、事務所の電話番だ。
 十年前、ビジネス系の専門学校を出て住宅設備メーカーの下請け会社に営業職で就職したものの、二年でケツをまくった。しばらくブラブラしていたら母が「いい加減に働きなさい」と言うものだから、犬塚土建で事務員として働くことにした。
 祖父は「やっと腹を括ったか、三代目」と歓迎してくれたが、父には「高い学費を出してやったのに経理も出来ねぇのか」と嫌味を言われた。
 それから八年、不景気でお抱えの労働者は減り続け、祖父は八十を迎え経営の最前線から退いた。新社長となった父はIT業界とか再生可能エネルギー業界とか介護業界とか、とにかく新しめの業界に共同経営者として名を連ねてみたり、いっちょかみで出資してみたり、土建屋本来の仕事以外に活路を見出そうと躍起になっていたが、どれも上手く行っていない。
 祖父は楽隠居など出来ず、旧知の取引先や地元の有力者、地方銀行などを回って仕事と金の工面をしている。父は父で、凝りもせず土建屋とは関係のない業種の企業を回っている。前者は現状維持のためで、後者は一発逆転を狙ってのものだ。
 そんなわけで、昼間の事務所にはシンジと経理担当のおばちゃんしかいない。
「あの馬鹿、今日はいないんですね」
 業績の傾きとともに解雇されていった事務系社員の中で唯一の生き残りである野津は、そんなことを言いながら薄い番茶をシンジの前に置いた。賞味期限が近付いた来客用のおかきも添えられていた。
「あ、いただきます。エージの奴、今日は用があるとかで」
「へ~、劇的に経営状態が良くなる仕事でも取って来てくれるのかしらね」
 シンジが子供の頃からいるベテラン経理の野津は、祖父や母とは逆で、エージのことが大嫌いだ。
 無理もない、とシンジは思う。倉庫の片付けを言い渡された場合、エージはほとんど事務所でサボっている。シンジに軽口を叩いたり、電卓を叩く野津の後ろで「一、六、三、七……スゲー、全然間違えねぇ!」と騒いだり、静かにしているかと思ったら応接室のソファで眠りこけていたり、パソコンでエロサイトを見ていたり。
「あんな役立たず、いつまで置いてやるつもりなんでしょうね、先代は」
「えぇ、まったく……」
 野津は頷くが、野津のエージに対する当てこすりは、遠回しにシンジにも向けられている。彼女にいわせれば、シンジも立派な「役立たず」だ。
 電話を取っても、自分で判断して対応は出来ない。祖父か父の携帯電話に掛けて、指示を仰ぎ折り返すのが精一杯だ。酷い場合には「時間がないんだよ。じゃあ、野津さんに代われ」と言われることもある。つまり八年も経って、実質、電話番にもなっていない。
「じゃ、お昼行って来ますね」
 十二時七分。野津が事務所を出て行って、シンジは「ふぅ~」と深く息を吐いた。

「お疲れ~っす。あ、おばちゃん、これお土産」
 十六時五十六分。エージが勤続二十年の社員みたいな顔をして事務所にやって来て、野津のデスクに小さな包みを置いた。
 訝し気に包みを見ている野津に、エージは「今川焼き。まだ温かいよ」と言い足した。
 月末以外は五時きっかりで事務所を出る野津は、若干の不本意さが混じった感じで「ありがと」と呟き、包みを持って帰って行った。
「お前、こんな時間までなにやってたんだよ。今朝、祖父じいちゃんとなに喋ってた。やりたいことって、なんなんだ?」
 エージは「そんな矢継ぎ早に訊かれてもよぉ」と言いながら、父のデスクのノートパソコンを立ち上げた。
「詳しいことは後で説明してやるから、ちょっと待ってろ」
「親父のパソコンでエロサイトなんか見るなよ。前も変な請求が大量に来たの、俺が誤魔化してやったんだから」
「今日は違うよ。ほら、電話鳴ってるぞ」
 現場の終業時間前後にいくつかの報告電話、それから一時間ほどは明日の確認と予定変更の電話があり、この時間帯、シンジはけっこう忙しい。
 野津に渡した今川焼きは、最寄駅の北口にある古い店のものだった。パチンコなら、南口の再開発エリアの店に行くはずだ。ここ数年ですっかりさびれてしまった北口になど、なんの用事があったのだろう。
「ケージ一つに付き五、六百万が相場か……」
 シンジが電話応対しながらあれこれ考えていると、エージが大きく伸びをしながら呟いた。
「なんなんだよ、ケージって。五、六百万て、どういうことだ」
 エージは社長の椅子にふんぞり返って足を組み、パソコンからシンジに視線を向けた。嫌な予感がした。中三の冬、「卒業式をぶっ潰す」と言った時と同じ目だ。
「俺達の日常にはバッセンが足りない」
「バッセン?」
「バッティングセンターだ」
「それは分かる。そいつが日常に足りないって、どういう意味……あ、お前まさか」
「へへ~、そのまさか」
 先週の日曜日、シンジは夕方のまだ明るい時間にエージから「どうせ暇だろ、飲みに行こう」と誘われた。休日までエージと顔を付き合わせるのは嫌だったが、悲しいことに事実暇で、断わるほどの用事も思い付かなかった。
 その時、駅の南口で見知らぬ中年男に道を訊かれた。「この辺にバッティングセンターがあるはずなんだけど」というその質問に二人は「そういえば、あったな」「確か北口だよ」と答えた。
 いかにも「元高校球児です」という感じの、四角い身体の上に浅黒い顔を乗せた中年男は「ありがとう」と言って北口に向かった。
 再開発で南口に大型商業施設やシネコンが出来る前、シンジ達が高校生の頃までは、北口の方が賑わっていた。古い商店街と市場があり、パチンコ屋、映画館、ゲームセンター、入り組んだ飲屋街などが、二キロ四方ほどのエリアにぎゅっと詰め込まれていた。
 その中に『ケンコーレジャーセンター』という名のバッティングセンターもあった。シンジも小中学生の頃はよく通ったものだ。エージとも、しょっちゅう一緒に行った。もっともエージと行くと、もっぱら古いテーブル型ゲームに針金を突っ込んでタダで遊んでいるだけだったが。
「今日行ってみたら、あのバッセンなくなって味も素っ気もねぇコンビニになってた。なんか、道を訊いたあのおっさんに悪い気がしたし、そう言えば最近バッセンが軒並み潰れてるって聞いたことあるし、だったら作ろうかってな」
「またいつもの思い付きかよ……」
 シンジは溜息を吐き、軽く頭を振った。
 ちなみに、卒業式は滞りなく執り行われた。何人かが壇上に上って消火器をぶちまけようと計画したが、学校中の消火器が無くなっていることに教師達が気付き、体育館の裏に溜っているところを体育会系教師総動員で取り押さえられた。そこにシンジもいたが、言い出しっぺのエージはいなかった。
 昼過ぎに欠伸しながら学校に来たエージは、職員室で絞られた後、更に仲間達にも小突き回された。恐らくシンジは、仲間達の中で最も堅く拳を握っていた。
 あの時と同じ気持ちが、シンジの心中にむくむく湧き上がった。
「いい加減にしろ。弁当屋とかおつかい屋の時と同じじゃねぇか。これ以上、思い付きで行動して回りに迷惑を……」
「シンジ、街にバッセンがないのだぞ。これは憂うべき事態だ。そうは思わないか?」
 それからエージは、立ち上がって両手を振り、なぜかたまに今川焼きを頬張りながら、南口で再開発が始まった頃から嫌な予感はしていたのだと一席った。
 ごちゃごちゃしたエリアを一掃し、ペデストリアンデッキで人車分離の動線を確保、そこを取り囲むようにショッピングモールとシネコンと家電量販店を誘致、はい、どこにでもある街の一丁出来上がり。北口への人の流れは途絶え、我らが懐かしのラーメン屋もメンチの美味い肉屋も『ケンコーレジャーセンター』も消えてしまった。
「こんなことで良いのか?」
 シンジは何度か口を挟もうとしたが、無駄だった。演説口調で喋り始めると、エージは人の話をまったく聞かない。
「あのな、エージ」
 一区切り付いたのを見計らって口を開いたが、今度は突っ込みどころが満載過ぎて、なにから言えばいいのか分からない。
 どこにでもあるような街だとしても、大半の人は再開発を歓迎しているし、古い街は淘汰されて当然だ。利益とか生産性とかを考えれば、チェーン店ばかりになるのも当然。バッティングセンターなどというものは、野球人口の減少や少子化といった要因もあってもう役割を終えた施設だ。それにあの『ケンコー』の場合、お前がタダで遊び続けていたことも潰れた一因に違いない。だいたい、確認に行くまで潰れた事実に気付かないのなら、お前の日常にバッティングセンターは必要なかったということではないか。
 それらはひとまず置いておいて、シンジは最も大事だと思うことを指摘した。
「弁当屋やおつかい屋と違って、今回の思い付きにはまとまった土地が必要じゃないか。カフェだって、遊んでた空き店舗を借りただけだろうが。さっき言ってたケージ一つに付き五、六百万ってのは、土地があっての話だろ? いったいどこにそんな土地……」
 言い掛けて、シンジは「あ」と気付いた。
「お前、朝飯んとき、祖父ちゃんに資材置き場のこと訊いてたな」
 エージは社長の椅子に戻って両足をデスクの上に置き、「さすが専務、察しがいい」と笑った。
「ふざけんな。なんでウチの会社が持ってる土地を、居候の思い付きに使わなきゃならねぇんだよ!」
「シンジの土地じゃねぇだろ。お前が怒ってどうするよ」
「エージよぉ……」
 さっきの数万倍、突っ込みどころ満載でどこから訊けばいいのか分からない。
 再びパソコンに向き直ったエージは「なるほど~、重要なのは回転率ね」と、自分が針金一本で遊んでいたことを忘れたかのように呟いた。

「俺達の日常にはバッセンが足りない」
 その夜、シンジはベッドの上で天井を見上げて考えた。
 もう何年も思い出すことのなかった、あの『ケンコーレジャーセンター』のことだった。小学四年生くらいから通い始め、中学生になると悪い仲間達との溜まり場になった所だ。
 武蔵野の外れにあるこの街には、都心とは別の時間が流れている。シンジが小中学生だった頃は、今で言う昭和レトロな雰囲気が至るところに残っていた。そんな中でもあの施設は、当時としてもかなり古臭い、ちょっと不思議な空間だった。
 バッティングケージは七つか八つ、左打席は一つしかなかった。ゲームコーナーには一ゲーム五十円のテーブル型ゲームと、骨董品みたいな十円玉を転がすタイプのゲームがあった。カップヌードルとホットサンドの自販機もあったが、シンジ達はもっぱら隣の小さなタコヤキ屋で六個入りを買い、みんなで分け合って食べていた。
 小学四年生の頃、初めてカツアゲをされたのは自販機の脇でだった。中一で初めて女子に告白してフラれたのは、パックマンの席だった。エージと殴り合いの喧嘩になったのは中三の夏で、あいつは凹んだ金属バットを握って駐車場まで追い掛けてきた。
 ろくな思い出がない。けれどなぜだろう、酷く懐かしい。
 内容は思い出せないが、あの場所では色々なことを語り合ったような気がする。同級生ばかりでなく、小学生から高校生まで、たまには仕事をサボった営業マンや正体不明のおっさんなどもいて、様々な世代の様々な人間が入り混じっていた。
 家庭とも学校とも関係のない、教師からも親からも隔絶した世界だった。中学生が小学生をカツアゲし、高校生が中学生をカツアゲし、成長して被害者が加害者になる。知らない大人が止めに入ったり、管理員に「出禁だ」と言い渡されたり、「二度と来るか」と言っておきながらこっそり戻ったり。決して褒められたことではないが、ゆるやかに世代交替しながら、家庭でも学校でも教えてくれないことをたくさん学んだような気がする。
 具体的に思い出されるのは、悔しい思いと恥ずかしい思いばかりだ。だがなぜか、楽しかった、面白かったという印象が勝る。
「くだらねぇ」
 自分の考えを打ち消すように起き上がったが、口元には笑みが浮かんでいた。
 枕元の時計は、午前二時になろうとしている。もう三時間近く、あの『ケンコーレジャーセンター』のことを考えていたことになる。
 カーテンを閉めていない窓の外に目を向けたら、寮の窓に一つ明かりが点いていた。
 エージの部屋だった。

 エージがまた資材置き場のことを祖父に訊ねたのは、それから一週間後のことだった。
 当たり前のように祖父たちと一緒に夕食を摂っていたエージは、それでも日本人かと問いたいくらい不器用な箸使いで煮魚の身をほぐしながら「あの資材置き場がなくなると、資材はどこいくんだ?」と訊ねた。
「仕事も減ったし、ここの敷地に置けるだけ置いて残りは処分する。そもそもあの土地は、儂の知り合いが工場をやってた場所で、工員に渡す退職金を立て替える担保としてもらった土地だから」
「そんじゃ、あの土地どうすんの? もしアレだったら……」
 その時、珍しく夕食時に帰宅していた父が「おい」と口を挟んだ。事務の野津ほど露骨ではないが、父もエージのことを快く思っていない。
「あの土地をどうするかは、すべて俺が決める。居候が気にするようなことじゃない」
「じゃあさ、おっさ……ゴメン、親父さん。改めて訊くけど、あの土地、どうすんの?」
 父がパシリと箸を置き、隣の母が「あなた」と肘で小突いた。父は小声で「黙ってろ」と言い、エージの問いに答えた。
「デベロッパーがマンション用地として、あの土地を欲しがってる。公示価格から言って三億は堅いはずだが、向こうは工場跡地だからって足下見やがって、二億でどうだと言ってきてる。それで少々もめてはいるが、売ることは決定的だ」
 エージは爪楊枝をくわえて「なるほどねぇ」と呟く。シンジの経験から言うと、彼の「なるほどねぇ」は相手の言っていることがほとんど分からない時に出る台詞だ。
「お前、なんだその態度は! シーシーやめろ!」
 父とエージが同席するとだいたいこんな感じなので、誰も驚いたり止めたりはしない。母は「はい始まった」と洗い物に立ち、シンジは溜息を吐き、祖父は近所で犬が吠えたくらいの反応しか見せなかった。当事者に至っては、父の怒鳴り声など聞こえないかのように「ところで爺さん」と祖父に話し掛けた。
「俺はさ、あそこをバッセンにしたいと思ってる。あ、バッセンてのは、バッティングセンターね」
 手酌で呑んでいた祖父は、猪口をくいと空けて「面白いな」と薄く笑った。
「昔はみんな野球好きだったからな、ウチでも従業員を連れてよく行ったもんだ」
 シンジもなんとなく覚えている。何ヵ月かに一度、仕事上がりの汗臭いバンに乗せられて『ケンコーレジャーセンター』より大きなバッティングセンターに大勢で行っていたものだ。『ホームラン』のボードに命中させた者には、中元とか歳暮でもらった酒や高級ハムなどが賞品として贈呈された。労働者達はそれとは別に、一ゲーム中に何本ヒット性の当たりを打つかで賭けをしていた。
「あれはいいレクリエーションだった」
「だろ~。マンション用地なんて、売ったらそれっきりだ。バッセンなら延々と利益が出る。それよりなにより、我らが街にバッセンがないということは憂うべき状況であって……」
「だが、面白いだけじゃ駄目だ」
「え?」
「こうしようじゃないか」
 バッティングセンターを経営して、成功する根拠。そして、最低でも二億で売れる土地をエージに貸したとして、犬塚土建にどんなメリットがあるのか。加えて、土地があったとしても初期投資費はどう調達するのか。
 それらを、デベロッパーとの最終打ち合わせがある前、つまり九日以内にプレゼンせよ。相手は祖父、そして実権を握る父。つまり祖父だけが納得する内容では駄目、父をも納得させるプレゼンでなければ通らない。
「シンジ、お前も明日から兼石くんを手伝え。仕事は休んでいい」
「え~?」
 全力で『通常業務より面倒臭ぇ!』と叫ぼうとしたシンジだったが、それより早くエージが「いいよ、分かった」と不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「お母さん、ご馳走さん。そんじゃ、明日から準備に取り掛かるわ」
 そう言ってエージが食卓を後にすると、父も「なんであいつにだけ、そう甘いんだ」と捨て台詞を吐いて出て行った。
「すまんが、もう一本」
「駄目です。一日に三合までって約束でしょう」
 祖父は母とそんなやり取りをし、シンジに小声で「お前のお袋は婆さんより厳しい」と囁いてから、自室に向かった。
「今回は珍しく、親父の意見に賛成」
 一人食卓に残ったシンジがそう言うと、キッチンで洗い物をしていた母が「なんだって?」と訊ねた。水流でよく聞こえないらしい。
「祖父ちゃん、なんであんなにエージに優しいんだろ」
 やや声を張って言うと、母は水を止めて手を拭き「そうねぇ」と腕組みした。
「そう言えば、あんた達が中学生の頃からそうだったわね。可愛いんじゃない? エージくんのことが」
「息子や孫よりかよ」
 母は「そりゃあ」と言って洗い物を再開し、こんなことを話し始めた。父は次々と新しい事業に手を出して失敗続きで、祖父の築き上げた財産を食いつぶしているようなもの。孫は孫で「土建屋は継がないし世話になる気もない」と啖呵を切っておきながら、結局は戻って来た。自分が築き上げたものに頼り切って、我が息子と孫ながら二人とも情けない。だから、少々無鉄砲なところがあるものの一人であれこれやろうとしているエージのことが、若い頃の自分を見ているようで可愛いのではないか。
「俺は別に、祖父ちゃんに頼ってるつもりはない。そりゃ、資格もなにも持ってないけど、ちゃんと働いて……」
「はいはい、そうね。お父さんに比べればマシかもしれない。けど、焦れったいと思ってるはずよ」
「なにが」
「だってあんた、朝から晩まで電話番してるだけじゃない。いい歳して実家住まいで、上げ膳据え膳で、掃除も洗濯もしないで、彼女の一人も連れて来ないでさ」
「女のことは関係ねぇだろ。とにかく俺は俺で、誰にも迷惑を掛けずに真面目に……」
 言い返しながら、またいつもの口論になってしまったと思っていたら、玄関の方から「おーい、シンジー」とエージの声が聞こえた。
「ほら、呼んでるわよ。相談でもあるんじゃない?」
 母に促され、シンジは「なんだよまったく」と立ち上がった。
「ちょっと呑もうや、俺の部屋で」
「俺の部屋って言うな。ってか、さすがに不安になったか? 俺から祖父ちゃんに断わってやろうか?」
 寮に向かいながら、エージは顔も向けずに「ちげーよ」と笑った。
「自信はある。売るほどある。ただ、一つ問題がある」
「だったらなんだよ。お前らしくもねぇ、はっきり言え」
 エージは振り返り、柄にもなく照れ臭そうに「ん~」と頬をかき、言った。
「プレゼンて、なんだ?」
 妙案とか奇策はないにしても、珍しく気弱な台詞でも聞けるのかと思っていたシンジは、膝の力が抜けそうになってしまった。
「最初は、爺さんが俺にあの土地をプレゼントしてくれるって話かと思ったら、どうもそうじゃないみたいじゃん?」
「お前、そこからなの? 野球やろうぜって言って、打ったらどっちに走るの? みたいな質問だな」
「う~ん、野球とバッセンがカブってて、あんま上手い喩えじゃねぇな。いいから俺の部屋で一杯やりながら、プレゼンてのを教えろ」
「だから、俺の部屋って言うな」
 エージはケラケラ笑い、シンジは深く溜息を吐いた。

 その翌日からシンジとエージは、朝早くから夜遅くまで、営業中のバッティングセンターを訪ねて回ることにした。
 都心ではあまり参考にならないので、JRと私鉄沿線の武蔵野以西に絞ると、五箇所しかなかった。予感はあったものの、記憶にある施設が軒並み潰れていることは、シンジにとって少なからずショックだった。
 更にショックだったのは、残っている施設の中に瀕死のバッティングセンターがあったことだ。ケージが六つしかなく、そのうち二つは故障中、しかも貼り紙の色褪せ具合から察するに、修理する気はないようだった。そこの管理員はヨボヨボの爺さんで、こちらの質問の半分は聞き取れていないみたいだった。
 その他、そこそこ繁盛していそうなところでも、月々の売り上げや設備のメンテナンス料などについては、詳しいことを教えてもらえなかった。
 ただ、ホームラン競争や野球教室などのイベント、近隣の少年野球チーム所属選手への優遇、常連客へのサービスなど、参考になる話はいくらか聞けた。モニターでピッチャーの映像を映す設備を備えているところでは「近隣に競合店がないなら、バーチャルピッチャーなんかいらない。その金をストラックアウトやスピードガンコーナーに使うべきだ」という助言ももらえた。
 帰宅後は事務所のパソコンで、バッティングセンターに限らずスポーツ系レジャー施設の全国的な動向を調べた。
「よし、現状は一通り把握出来た。あとは金だな」
 バッティングセンターを回り終えた四日目の夜、三本目の缶ビールを飲み干したエージが大きく伸びをした。
 プレゼンの締め切りまで四日。情報をまとめるのに最低でも一日は掛かるとして、動き回れるのは残り三日しかない。
 エージは、旧友の中から力になってくれそうな三名の名前を挙げ、シンジにアポを取るように言った。エージからの連絡では無視されることを、本人も分かっているらしい。
 一人は山室アツヤ。現在の職業はホスト。田舎ホストではあるが地域ナンバーワンで、二十代半ばから二台の高級外車を所有し、家賃二十数万円の高層マンションに住んでいる。靴も時計もスーツも、エージ曰く「チョーだっせぇ」のだが、常に二、三百万円を身にまとっているらしい。
 二人目は葛城ダイキ。かつての悪友の中では最も成績がよく、大学を出て会社員となり、ベンチャーキャピタルだか経営コンサルタントだか、そんなのをやっている。シンジも何度か仕事の内容を聞いたのだが、正直言うとよく分からない。ただ「店でも始めるなら相談してくれ」と言っていた、ような気がする。
 三人目は阿久津ミナ。現在は地元の信用金庫でシレッと窓口担当をやっているが、中学時代は最強のヤンキーだった。中二までは女子最強と呼ばれていたが、倍以上体重がある男子高校生を五秒で昏倒させた瞬間、称号から「女子」が取れた。一時期、エージと付き合っているという噂が流れたが、シンジも確かなことは知らない。
「こういう時に頼れるのは友だよ、やっぱ」
 事務所内を歩き回り、自信満々で四本目のプルタブを開けるエージだったが、シンジは不安を隠せなかった。
 エージが留置場に入れられている間、アツヤとダイキとはLINEのやりとりをした。二人とも別の誰かの「死ね」ツイートに「いいネ」を返していた。聞けば、アツヤは十数万円、ダイキは「思い出したくもない」くらいの額を、エージに貸していると言う。
「あの馬鹿が連絡してきたら、ぜってーシカトしようぜ」
 二人のその言葉にシンジも「リョーカイ」と答えたのだが、実家に直接やって来られてはシカトのしようがない。
 ミナには何年も会っていないし、LINEも既読スルーされ続けている。だが、もしも元カレ・元カノの話が本当なのだとしたら、アツヤとダイキ以上にエージを避けることは間違いない。
「あの三人も『ケンコー』にはかなり思い出があるからな。ぜってー乗って来るって」
 お前のその自信はどこで売ってるんだ。頼むから教えてくれ。
 そんな台詞をビールで飲み込み、シンジは命じられるがまま三人に「ちょっと真面目な話がある。二、三日以内に会ってくれ。日時は任せる」と、メールを送った。
 その後、シンジはプレゼンのために情報の整理を続けた。エージは事務所内を歩き回りながらビールを飲み続けていたが、三十分ほど経ち、今晩中にメールの返信はないと判断したのだろう、「ほんじゃ、お疲れ」と事務所を出て行った。

「シンジ、ちょっといいか」
 エージが寮に戻り一時間ほど経った頃、祖父がやって来た。一升瓶を抱え、湯飲みを二つ指先で挟むように持っていた。
「ごめん、こんな時間まで。電気代も馬鹿にならないよな」
「いや、それくらい構わんよ」
 壁の時計は、午前一時を指そうとしていた。
 シンジの隣のデスクに座り、祖父は「母さんには内緒な」と、二つの湯飲みに酒を注いだ。
「それでどうだ、あっちの調子は」
「うん、まぁ、厳しいよ。祖父ちゃんの言った課題はクリア出来そうにないかな」
「そうか」
 目の前に置かれた湯飲みを手に取り、シンジは祖父と同じように目の高さに掲げた。苦手なので少ししか口に含まなかったのだが、重い日本酒はズシンと胃の腑に落ちた。
「あいつは、面白い奴だなぁ」
 背もたれを抱くように座った祖父は、寮の方を振り返って笑った。
「祖父ちゃん、昔からエージのこと好きだよね」
 シンジは中学校でエージと出会った。遅刻や授業妨害は当たり前、喧嘩も盗みも日常茶飯事、補導も年に数回。それでもいつも笑っているエージのことを、思春期ならではの鋭敏な感性が「こいつ面白ぇ」と思わないはずはなかった。
 それで家にも呼ぶようになり、一緒に夕食を食べたり、そのまま泊まって行くようにもなった。祖父は時折、そんなエージに声をかけて二人で楽しそうに笑っていた。
「あぁ、見てて飽きない」
「昔の自分と、重なるから?」
「儂とか? いや、それはないな」
 祖父はゆっくりと酒を呑み下し、熱い息を一つ吐いてから「シンジ」と、やや改まった口調で言った。
「今まで、お前には言っていなかったが……」
 祖父はそう前置きをして、こんな話を始めた。
 当時の母は民生委員をやっており、祖父は刑期を終えた者を大勢雇い入れ、保護司も請け負っていた。
 そういった関係で、シンジには言えないエージの生育環境を、祖父と母だけは密かに調べて知っていた。
 エージの家庭は、今で言うネグレクトだった。父親は遊び人で定職に就かず、母親はスナックで働いていたが金はすべて自分のギャンブルと男遊びに使い果たしていた。
 エージは小学校低学年の頃からスーパーやコンビニで食べ物を盗み、飢えをしのいでいた。何度も捕まったものの、当時は警察も学校も児童相談所も事を荒立てたくないからか、何事もなかったかのように両親の元に戻した。
「けど、エージみたいな家庭環境の奴、他にもけっこういたよ。なんであいつだけ面倒見るの? たまたま俺のツレだったから?」
 シンジのその問いに、祖父は「それもあるかもしれんが」と答え、続きの言葉を探す間を作るように湯飲みを口に運んだ。
「彼は、なにがあっても凹まないだろう。つい懐かしくなってな、応援したくなる」
「懐かしい? やっぱ、祖父ちゃんの若い頃と重なるってこと?」
「いや、そうじゃない。儂とは違う。なんて言えばいいのか……」
 祖父はそこでまたじっくり間を置いて、話を続けた。
 自分が土建屋の社長に納まったのは、成り行きだった。昭和三十年代初頭、祖父は東北から出て来たいち労働者だった。本格的な高度経済成長前夜、仕事は腐るほどあった。最初は労働者の集団でしかなかった仲間達が、会社を興した方が効率がいいし収入も増えると言い始めた。仲間のうち、リーダー的な存在だった奴は、良くも悪くも熱くなりやすい自分の質を分かっており、みんなに付いて行くタイプだった祖父に社長になることを勧めた。
 仕事は増え続け、気付けば従業員百数十人を抱える土建屋の長になっていた。
 高度経済成長が落ち着き、二度の戦争特需もなくなり、オイルショックがあり、これからは安定路線だと思い始めて十年ほど経った頃、あのバブル景気が始まった。あらゆる業界が浮かれ騒いだが、中でも不動産業界は異常なトランス状態となった。
 古くからの仲間達と祖父は冷静だったが、若い世代は「なに守りに入ってるんですか」と、その異常な波に乗ろうとした。土地の転売ならまだ分かるが、土建業とは無関係のゴルフ会員権の売買、美術品・骨董品の売買など、本業以外のことに疎い祖父らを言いくるめて手を出し始めたのだ。当時働き始めたばかりのシンジの父も、その一人だった。
「親父、変わってねぇんだ。未だにやってるもんな」
 重い日本酒が美味しく感じられ始めた頃、シンジが苦笑しながら口を挟んだ。祖父に同意したつもりだった。だが、
「いや、あいつはあいつで、儂と同じなんだよ」
「え?」
「儂が成り行きで社長に納まったのと同じ。つまりな、儂も始まりがバブル期だったなら、同じようなことをやっていたと思う。高度経済成長期は、幸か不幸か他分野には手を出さないのが普通だったから、やらなかっただけだ」
「普通……」
 俯いてそう呟くと、祖父も「そう、普通だ」と繰り返した。そして「いいか?」と確認するように言った。
「これは息子には言えない、孫にだから言える、ジジイの弱音だ。一度しか言わないぞ」
 シンジは「うん」と、湯飲みをデスクに置いた。
「儂が今の時代にお前の年齢なら、やはりお前と同じように、うずくまったままだと思う」
「俺は別に、うずくまってなんか……」
「いいから聞け。儂から見れば、お前はうずくまっているよ。失敗ばかりでも、取り敢えず動き続けるお前の親父の方がマシだ」
 シンジから即答がないのを待ってから、祖父は自分の湯飲みに酒を注ぎ足そうとした。シンジは一升瓶を取り、両手で注ぎ足した。ついでに、自分の湯飲みにもなみなみと注いだ。
「説教をするつもりはない。情報が多過ぎて身動きが取れないことは分かってる。選択肢が多過ぎると、そうなる。そしてこれは、お前個人の問題じゃない。時代に合わせながら、周りの声に答えながら行動する、犬塚家の血だ」
 それからしばらく、無言のまま二人で酒を呑んだ。空いた湯飲みに二度ずつ酌み交わす間、壁掛け時計の秒針の音が聞こえるくらい静かだった。
「エージを見てて懐かしいってのは?」
 沈黙を破ったのは、シンジの方だった。
「あぁ、そうだったな。話が逸れた。彼は、なんて言うか……」
 祖父はまた間を置いてから「足掻いてる」と言った。
 祖父が言うには、昔はそういう人間がいくらでもいた。国民全員がそうだったとも言える。誰もが、今よりも良い生活を目指して足掻くのが「普通」だった。祖父の目から見たシンジのように、うずくまって身動き取れないことが「普通」の現在では、足掻くように生きることは難しい。
 ではなぜ、あのエージだけが足掻くことが出来るのか。
「そこには恐らく、彼の生まれと育ちが関係している」
 貧しい家庭に生まれた子は貧しいまま、教育を受けられなかった親の元に生まれればそれなりの教育しか受けられない、日常的に暴力を受けたり目撃していれば自分も暴力的になる。そういった「普通」を覆したい。だからエージは、足掻き続けている。
「そんなはずはない、ふざけるな、変えてやる。そんなふうに足掻き続けているように見えるんだよ、儂にはあいつが」
 祖父の言い分に、シンジも納得出来る部分はあった。だが、祖父よりもずっと近くでエージを見て来た身としては、「だからって」と反論せざるを得ない。
「みんなを巻き込んだり迷惑を掛けたりしていいってことにはならないよ。俺はうずくまってるのかもしれないけど、少なくともここで真面目に働いてる。誰にも迷惑は掛けてない。それが社会人として最低限の在り方だろ」
 祖父は「ああ、そうだな」と答えて立ち上がった。
「ただ、今回のことは最後まで付き合ってやれ。結果はどうあれ、お前にとって学ぶことは少なくないはずだから」
 シンジは祖父の真意がわからなかった。一応、自分の意見は肯定されたのに、心はちっとも晴れなかった。
 事務所を出て行こうとする祖父になにか言わなければと思ったが、口から出たのは「おやすみ」だった。

 葛城ダイキからの返信はそれから三日後、「三十分くらいなら時間を作ってやる。夕方四時に会社へ来い」という恐ろしく上からな感じで、会社のURLが添付されていた。
 ダイキの会社がいわゆるインテリジェントビルの中にあることは、シンジも話には聞いていた。だが実際に足を踏み入れてみて、かなりビビった。
 一階の受付であれこれ記入させられ、オフィスへの問い合わせを待たされ、首からぶら下げるパスを渡され、駅の改札みたいなのを通れと言われ、テナントフロアとオフィスフロアに分かれたエレベーターにちょっと迷い、しかも上層階のオフィスまで一回乗り換えがあり、着いたら着いたでエレベーターホールから薄汚い北口エリアを見下ろすことが出来、その間シンジは、驚き半分呆れ半分で複雑な気持ちだった。
 エージはと言えば、「こういうとこのBGMって、だいたいジョビンかゲッツだよな」「う~、耳キーンてする」「どんだけ遠いんだよ」「うひょー、北口きったねー。ゲットーだゲットー」と、受付嬢に「業者さんでしたら裏口へ」と言われたことなど意に介さず、ずっとはしゃいでいた。
「おいコラ、シンジ!」
 シンジが受付で「犬塚土建の……」とアポを取っている旨を告げていると、ガラス張りのフロアの奥の方でダイキが叫んだ。
 ヅカヅカ近付いて来る彼の視線は、シンジではなく受付嬢に「何時に終わんの?」と訊いているエージに向けられていた。
「この馬鹿が来るとは聞いてねぇぞ。お前が真面目な話だって言うから、貴重な時間を作ってやったのに」
 エージは馬鹿呼ばわりされたことに憤慨するどころか、ゲラゲラ笑いながら「変わんねぇな、この野郎」と、ダイキの肩を何度も叩いた。
「いや、悪い。エージも込みで、真面目な話なんだ」
 シンジのその言葉に、ダイキは「んなこと俺に関係……」と言い返そうとしたが、途中で飲み込んだ。
 普段は見せない態度だったのだろう。受付嬢もガラスの向こうの社員も面喰らっていることに気付き、ダイキは「こっちだ」とシンジ達を応接室に招き入れた。扉を閉める直前、ダイキが近くの女子社員に「十分で終わるから、お茶はいらん」と言っているのが、シンジの耳に届いた。
「申し訳ありません。私、ただいま名刺を切らしておりまして」
 会議室に入るなりエージが慇懃に言い、ダイキの名刺を催促した。
 ダイキは「ハナから持ってねえだろうが」と言いながら、トランプでも配るように二枚の名刺をテーブルの上にすべらせた。
「ほぉ、アナリストを」
 中小企業診断士・公認会計士・起業コンサルタント・経営アナリスト等々、肩書きが多過ぎるダイキの名刺を見詰めていたエージが、ニヤニヤしながら訊いた。
「下ネタじゃねぇからな」
 ダイキは先回りして答えたが、その顔は仏頂面のままだ。
「そういや臨海学校のとき、スケジュール表のビーチクリーン活動ってのを見た時も、お前は一人で〝楽しみー!〟とか騒いでたな。アナリストもビーチクリーン活動も下ネタじゃねぇから」
 エージは「懐かしいな、うひひひ」と笑ったが、シンジは内心『駄目だこりゃ』と覚悟した。
(第2回につづく)

三羽 省吾Shogo Mitsuba

1968年岡山県生まれ。2002年『太陽がイッパイいっぱい』で小説新潮長編新人賞を受賞しデビュー。06年『厭世フレーバー』、12年『Junk 毒にもなれない裏通りの小悪党』でそれぞれ吉川英治文学新人賞候補。著書に『路地裏ビルヂング』『傍らの人』『Y.M.G.A.暴動有資格者』『ヘダップ!』など。

  • 双葉社
  • 小説推理
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