双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 7 回


4


 約五十メートル先……巨大な犬が、唸り声を上げながら駆けてきた。
 悠太は、全速力で逃げた。
 山道なので、足を取られて思うように走れなかった。
 四十メートル、三十メートル……巨大な犬との差が、どんどん縮まってきた。
 深く切れ込んだ口角、鋭角に尖った口吻、金色の瞳……。
 犬だと思っていたが、狼だった。
 なぜ、日本に狼が?
 考えている暇などなかった。
 二十メートル、十メートル……。
 狼は、もう、すぐそばに迫っていた。
 目の前は断崖絶壁――絶体絶命。
 もう、終わりだ。
 悠太は観念した。
 物凄い勢いで襲いかかってくる狼に、悠太は飛び下りることを決意した。
 どの道、このままでは殺されてしまう。
 ならば、一か八かの賭けに出たほうがましだ。
 悠太は眼を閉じ、ジャンプした。
 痛みが走った。
 身体が揺れた。
 痛みが走った。
 身体が揺れた。

 日差しが眩しかった。
 抜けるような青空が広がっていた。
 腹を棒で突かれた。
 悠太は、首を擡げた。
 腹部と袖が裂けたシャツ、ボロボロのデニムの短パン、無造作に後ろに束ねられた髪……若い女が、棒で悠太の脇腹や太腿を突いていた。
「やめ……ろ……」
 棒を避けようとしたが、身体が動かなかった。
 少女の顔は彫りが深く褐色の肌をしていたが、日本人のようだった。
 裂けた裾から覗く腹筋は、アスリートさながらに割れていた。
 短パンから伸びた足は細いが筋肉質で、全身から野生動物のようにしなやかで力強い印象を受けた。
 この少女は誰だ?
 そしてここは……。
 悠太は、首を巡らせた。
 見渡すかぎりの白砂に、荒波が打ち寄せる海……。
 どこかの島のようだ。
 だが、なぜ島にいる?
 なぜ、波打ち際に……。
 思い出した。
 狼に追われて、断崖絶壁から飛び下りたのだ。
 そのまま溺れて、この島に流れ着いたに違いない。
「あっ……」
 脇腹を、棒で突かれた。
「やめろ……」
 腹に力が入らず、声が薄く掠れていた。
「お前、誰だ?」
 少女が、悠太に訊ねてきた。
 不思議と、彼女が使う男言葉に違和感はなかった……というより、似合っていた。
「僕は……」
 言葉が、続かなかった。
「お前、誰だ?」
 少女が、悠太の喉もとに棒を突きつけ繰り返し訊ねてきた。
「僕は……」
 悠太の言葉が、ふたたび途切れた。
 自分が誰なのか、思い出せなかった。
「……棒で突くのは……やめてくれ……」
 悠太は、少女に訴えかけた。
 険しい表情をしていたが、少女の顔にはあどけなさが残っていた。
 もしかしたら、十代なのかもしれない。
 自分はいま……。
 名前だけでなく、悠太は年も思い出せなかった。
 少女は突っつくことはやめたが、棒を構え、厳しい眼で悠太を見下ろしていた。
 とりあえず、この場から離れなければ、少女になにをされるかわからない。
 上体を起こそうとしたとき、悠太は激しい眩暈に襲われた。
 頭から血の気が引き、視界が闇に覆われた。
 眼を開けた。
 見たこともないような星空が広がっていた。
 悠太は、首を巡らせた。
 すぐそばには、丸太を組み合わせた土壁の家が建っていた。
 歴史の教科書で見た弥生時代の住居のように、大きな葉や樹皮の屋根で高床の造りになっていた。
 高床の住居の前では、火が焚かれていた。
 悠太は、タイムスリップしたような気分に襲われた。
 ここは、日本なのか?
 そういえば、さっきの少女は……。
 悠太は身を起こした。
 身体から、なにかが落ちた。
 大きな樹皮だった。
「え……」
 悠太は、自分が全裸であることに気づいた。
 炎のそばに、悠太のスーツや下着が干されていた。
 不意に、高床の住居から少女が現れた。
 手には、缶を持っていた。
 悠太は、慌てて樹皮で下半身を隠した。
 無言で歩み寄ってきた少女が、樹皮を取り上げた。
「あっ……ちょっと……」
 悠太は、両手で股間を覆った。
 少女は表情を変えずに、缶から掬い取った緑色をしたペースト状のなにかを悠太の右の太腿に擦りつけた。
「痛っ……」
 激痛に、悠太は太腿を怪我していることを初めて知った。
「なにを塗ったんだ?」
「ヨモギ。血が止まる」
 少女が、ぶっきら棒に答えた。
「僕を、助けてくれたのか?」
「死んだら困るからな」
 少女は素っ気なく言うと、紺の布を悠太の太腿に巻きつけた。
「これ……あ! 僕のスーツじゃないか!?」
「ついてこい」
 少女は悠太の声をスルーし、背を向け歩き始めた。
「どこに行くんだ?」
 悠太は樹皮で股間を隠しながら、少女のあとを追った。
 急に歩いたので頭がクラクラとし、足を踏み出すたびに傷口が痛んだ。
 足腰に力が入らず、羽毛布団の上を歩いているようにふわふわとしていた。
 自分の身に、なにが起きたのか?
 なぜ、この島で倒れていたのか?
 なにより……自分は、誰だ?
 悠太の脳内に、疑問符が渦巻いた。
 焚火の前で、少女が屈んだ。
 悠太は、干してあったトランクスとズボンを手早く穿き、ワイシャツと、片腕のない上着を羽織った。
 生乾きなので、冷たく不快だった。
「僕は、どうしてあそこに倒れてたんだ?」
 悠太は、炎に両手を翳しながら訊ねた。
 体温が下がっているのか、身体が凍えていた。
「溺れたんだろう」
 素っ気なく、少女が言った。
「溺れた!? なんで!?」
 悠太は、矢継ぎ早に訊ねていた。
「ごめん……」
 すぐに、少女が知るわけないと気づき謝った。
「今夜は肉がないから、これを食ってろ」
 少女が、火床のそばに置いていた空き缶を悠太に差し出した。
「なっ……」
 缶の中を覗き込んだ悠太は、絶句した。
 クリーム色をしたなにかの幼虫が、五、六匹転がっていた。
「これは……なに!?」
「カミキリムシの幼虫だ。栄養たっぷりだ」
「カ、カミキリムシ……」
 悠太の腕には、鳥肌が立っていた。
「そうだ。肉の代わりになる。食え」
 当然、といった顔で少女が言った。
「食えって言われても……」
 悠太は、蒼褪めた顔で缶の中に視線を落とした。
「食うぞ」
 少女は幼虫を摘まみ上げ、なんの躊躇いもなく口に放り込んだ。
「き……君……平気なのか?」
「うん、うまい。お前も食え」
 少女が二つ目の幼虫を摘まみ、悠太の口もとに差し出した。
「い、いや……僕は、遠慮しておくよ」
「なんでだ? うまいぞ?」
 少女が、眼をまんまるにして悠太をみつめた。
「僕には、無理だよ」
「生じゃないぞ?」
「そういう問題じゃなくてさ……」
 見ているだけで、吐き気がした。
「変な奴だな。待ってろ」
 少女は首を傾げながら立ち上がり、木の枝にかかっている網袋を見上げた。
「ジイジが戻ってこないと、なんにもないな」
 ぶつぶつと呟いていた少女が、突然、垂直にジャンプした。
 一メートルは跳んだだろうか?
 ネコ科の動物のような、物凄い跳躍力だ。
 少女は網袋の中身を、切り株の上に空けた。
 切り株の上に落ちた麻の袋が蠢くのを見て、悠太は嫌な予感に襲われた。
 いつの間にか、少女の手にはナイフが握られていた。
 少女が慣れた手つきで麻の袋の口紐を解くと、中から錆色の蛇が飛び出してきた。
 二メートルはありそうな、大型の蛇だった。
「うわっ……」
 悠太は情けない声を上げ、飛び退った。
「咬まれても毒はないから」
 平然と言いながら、少女は素早く蛇の首を押さえ切り株に固定すると、ナイフで頭を切り落とした。
 少女は頭を失った蛇を左手で宙にぶら下げ、首回りの皮に刃先で切れ目を入れると指で摘まみ、一気に引き剥がした。
 皮を剥がされた首なしの蛇は、まだくねくねと動いていた。
 少女は先を尖らせた棒でS字状に蛇を串刺しにし、火床の脇に突き刺した。
「五分待て」
「いや、蛇もちょっと……」
「蛇は栄養満点だ。パワーもスタミナもつく」
「でも、無理だって……」
「わがまま言うな。お前は体力を失ってるから食わなきゃだめだ」
「この島は、どこ?」
 悠太は、話題を変えた。
 いまは、食べ物のことよりも自分の置かれている状況が気になった。
「八神島だ」
 少女が、蛇の串刺しを回転させながら答えた。
「八神島? それは、東京?」
「ジイジが、東京ってところだって言ってたな」
 少女が、他人事のように言った。
「お前、東京ってところに住んでるのか?」
 物言いからして、どうやら少女は東京を知らないらしい。
 東京も知らないで、無人島と思しき島で暮らし、カミキリムシの幼虫や蛇を食べる少女は、何者だろうか?
 だが、いまは、少女のことを考えている場合ではない。
 自分が東京に住んでいるかどうかさえ、思い出せないのだ。
 悠太は、上着とズボンのポケットをまさぐった。
 身もとがわかる、免許証か携帯電話が入っているかもしれないと思ったのだ。
 悠太の望みも虚しく、ポケットにはなにも入っていなかった。
「僕のポケットに、なにも入ってなかった?」
「ポケットなんか、見てないぞ」
「困ったな……」
 悠太は腰を上げた。
「どこに行く?」
 怪訝な顔で、少女が訊ねてきた。
「僕が倒れていたところを見てこようと思ってさ……なにか、自分のことがわかるものが落ちてるんじゃないかと思って……」
「ウチも一緒に行ってやるから、先に食え」
 少女が、焼き上がった蛇の串刺しを差し出してきた。

(第8回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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