双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 6 回


3(承前)


 江藤の危惧を嘲笑うかのように空は澄み渡り、海面には青が広がっていた。
 20フィートのフィッシングボートの舳先が、青海原を切り裂いてゆく。
 漁船というので、昔ながらの古めかしい船を想像していたが違った。
 最近では、気軽に釣りに行けるように低価格で買える小洒落たフィッシングボートが普及しているらしい。
 舳先の手すりに掴まり、悠太は息を吸い込んだ。
 潮の香りが、懐かしさとともに胸を満たした。
 波飛沫が、心地よく頬を濡らした。
 悠太は東京生まれだが、なぜか海に触れると懐かしさを覚えてしまうから不思議だ。 
 もしかしたら、人間の祖先は海中生物だったという説は正しいのかもしれない……そんなことを、悠太は漠然と考えていた。
 悠太はスマートフォンを取り出し、飛鳥島でのスケジュールを確認した。
 まずは、危険がないかを徹底的に確認するために島を探索する必要があった。
 飛鳥島は、島の周囲が九キロ弱しかない。
 平坦な道だと仮定して、単純に一周するだけなら二、三時間もあれば十分だ。
 だが、雑木林なども調べなければならないので、ほとんど休みなしに動き回っても今日中には終わらないだろう。
 島で一夜を明かし、明日は早朝から視察を始めて午後には大飛鳥島に戻る。
 東京に着くのは、夜になってしまうだろう。

――明日、迎えにもくるから。

 今朝、七時発という早い便にも拘わらず、雪美は羽田空港に見送りにきてくれた。
 
――大丈夫だよ。海外から戻ってくるわけじゃないんだから、わざわざきてくれなくても。大学のほうも、いろいろと大変だろう?
――大学なんかより、悠ちゃんのほうが大事に決まってるじゃん。
――そりゃ嬉しいけど、大学のほうも単位を落とさないようにしないとな。
――あら、私を誰だと思ってるの? 「フェリシア女学院」に首席で合格した、才色兼備のお嬢様よ!

 腰に手を当て胸を張る雪美の姿を思い出した悠太は、口元を綻ばせた。
 不思議と、彼女が傲慢なことを言っても嫌味には聞こえない。

――猿も木から落ちる、って言うだろう? 
――猿にたとえるなんて、失礼ね! 私が猿なら、旦那さんになる悠ちゃんも猿ってことになるよ!

 雪美が、悠太を睨みつけてきた。
 悠太は、雪美の笑顔はもちろん、怒った顔も負けないくらいに好きだった。

――君の夫になれるなら、猿にでもゴリラにでも喜んでなるさ。
――悠ちゃん……。
 
 見る見る、雪美の瞳に涙が滲んだ。
 
――ってか、悠ちゃんがゴリラなら子供ができないでしょ!

 いきなり、雪美が芸人さながらに鋭いツッコミを入れ、ケタケタと笑った。
 灼熱の陽射しで照りつけていたかと思えば、激しいスコールが降ったり……雪美の表情は、南国の天気のようにくるくると変わる。
 そんな屈託のない性格も、雪美の魅力の一つだった。
 海面の鮮やかな青が、濃い青になった。
 悠太は、空を見上げた。
 雲の流れが速くなり、頬を撫でていた風が心なしか強くなったような気がした。
 不吉な予感がした。

――海の天候は変わりやすい。この青空が一瞬にして、灰色になるのは珍しくない。

 鼓膜に蘇る江藤の声が、不安を煽り立てた。
 手の甲に弾ける滴が、不吉な予感を増殖させた。
 デッキを濡らす水滴の染み――海面に、ポツポツと波紋が広がった。
 すぐに、雨足は激しくなり、散弾銃を撃ち込まれたように海面が抉れ始めた。
 悠太はキャビンに飛び込んだ。
「言わんこっちゃねえだろう?」
 くわえ煙草でハンドルを操作する江藤が、苦々しい顔で言った。
「あと、何分くらいで到着ですか?」
「十五分弱だ。逃げ切るには、少々残りラウンドが多過ぎるな」
「天気が崩れるのは、早くても三十分後くらいって言ってませんでしたっけ?」
「だから、やめとけって言ったろう? 何十年もつき合ってる友のことさえ、平気で裏切るのが海ってやつだ」
「なにも知らずに、すみま……」
 不意に、足もとが盛り上がった。
 エレベータが急下降するときのように、内臓が浮いた。
 立て続けに、足もとが盛り上がっては沈んだ。
 悠太は、手摺りに両手で掴まった。
「後悔先に立たずだ。いくら謝っても、海は耳を貸してはくれねえ」
 江藤は中腰でバランスを取りながら、ハンドルを切った。
 さすがは漁師だ。
 手摺りに掴まり立っているのが精一杯な自分に比べ、江藤はフィッシングボートを操縦し、喋る余裕さえある。
 横の揺れは耐えることができたが、縦揺れは身体が上下するたびに内臓が口から飛び出してしまいそうで嘔吐感を催した。
「これから、揺れはもっと激しくなる。手摺りを掴んだまま地べたに座ってろ」
 江藤の言葉に素直に従い、悠太は床に腰を下ろした。
 キャビンのフロントガラスには、大粒の雨と波飛沫が競うように打ちつけられていた。
 雨も風も、悠太がデッキにいた数分前より激しさを増していた。
「もし、危険なら……引き返しても構いません……」
 吐き気を堪えつつ、悠太は言った。
 企画会議には間に合わなくなってしまうが、もう、そんなことを言っている場合ではなかった。
 無理を通した自分はまだしも、船を出すことに反対していた江藤まで危険な目にあわせるわけにはいかない。
「馬鹿言ってんじゃねえ! いまさら引き返すほうが危険だっ。このまま、飛鳥島に着岸するしかねえんだよ!」
 江藤に怒鳴りつけられ、悠太は改めて己の甘さを痛感した。
「そんなことより、ライフジャケットの使いかたはわかってんのか!?」
「え!?」
「ライフジャケットだ! まさか、この期に及んで最悪の事態を想定してねえわけじゃねえだろうな!?」
「あ、いえ……はいっ、わかってます」
 悠太は、オレンジ色のライフジャケットの裾から垂れている紐状のレバーに凍てつく視線を落とした。
 そう、まさかだ。
 数分前まで、このレバーを引くかもしれないなど頭を過りもしなかった。
 揺れはおさまるどころか、大きくなる一方だった。
 たとえようもない恐怖が、悠太の心を支配した。

――たとえ船が転覆しても、泳いで東京に戻ってくるさ。

 雪美に言った冗談――あのときは笑っていたが、いまは笑えなかった。
「兄ちゃん、いまのうちに、念のためレバーを……」
 不意に、景色が縦に流れた――天井が目の前に迫った。
 甲高い破損音に続いて、身体が宙に浮いた。
 視界が回った。
 頭部に衝撃――江藤の足が、悠太の鼻先にあった。
 視界が回った。
 背中に衝撃――投げ出された勢いで、キャビンの壁に叩きつけられた。
 咄嗟に悠太は、操縦席のパイプ脚にしがみついた。
 右に左に傾く床を、スマートフォン、消火器、リュック、マグカップが何度も往復した。
 それらに交じって、江藤も転がっていた。
 だらりとした手足に閉じられた眼……江藤が意識を失っているのは、一目瞭然だった。
 ソファに乗り上げ、床に転がり落ち、またソファに乗り上げ……転がり、滑っている間に江藤は、身体のあちこちをぶつけていた。
「江藤さん!」
 助けに行こうにも、揺れが激し過ぎてパイプ脚から手が離せなかった。
 なにより、悠太自身がパニック状態に陥り、誰かを助ける精神的余裕はなかった。
 眼を閉じ、歯を食い縛った。
 眼を開けてもいないのに、視界が回っていた。
 崩壊する三半規管――食道を逆流する胃液が、口から迸った。
 口内に、熱く酸っぱい胃液の味が広がった――脳内に、恐怖と混乱が広がった。
 縦に、横に、上に、下に……風に煽られる洗濯物のように、悠太の身体はコントロールが利かなかった。
 子供の頃、自分は一生、死なないと思っていた。
 中学生の頃、自分は百歳くらいまで生きると思っていた。
 大人になって、人並みに七十歳くらいまで生きられれば十分だと思うようになった。
 まさか、二十七歳で死を意識するとは思わなかった。
 それでも、心のどこかで大丈夫だろうという気はしていた。
 甘かった。
 死は突然……。
 一際大きな揺れ――パイプ脚を掴んでいた悠太の十指が剥がれた。
 物凄いスピードで景色が回転した。

――冗談でも……言わないで。船が転覆するだなんて……冗談でも口にしないでっ。

 暗転する視界――漆黒の空間に、雪美の声がこだました。
 暗闇が広がっていた。
 電気は?
 まず最初に、頭に浮かんだ。
 停電か? それとも、夜中に眼を覚ましただけか?
 
 悠ちゃん!?
 
 悠太が思惟を巡らせていると、誰かが涙声で自分の名前を呼んだ。
 誰? と言葉を返したかったが、口が動かなかった。
 
 大丈夫!? 悠ちゃん!
 
 誰かが、身体を揺すっている。
 身を起こしたかったが、身体が金縛りにあったように動かなかった。
 
 悠ちゃんっ、死んじゃ嫌っ! 
 
 誰かが泣き叫び、悠太の身体を激しく揺さぶり続けていた。
 
 死ぬ? 自分が? なぜ? 死ぬようなことは、なにもしていない。
 
 絶対に、戻ってくるって言ったじゃない! 私を、お嫁さんにしてくれるんじゃなかったの!?
 
 お嫁さん? 誰の?
 
 嫌よ……私を……私を一人にしないで!

 君はいったい……?

「人違い……」
 ようやく、口を動かすことができた。
 ゆっくりと、眼を開けた。
 強烈な陽射しが、悠太の網膜を焼いた。
 たまらず、悠太は眼を閉じた。
 しばらくして、ふたたび瞼を開いた。
 ペンキで塗ったような碧空をバックに、人影が悠太を覗き込んでいた。
 人影の輪郭と目鼻立ちが、徐々にはっきりとしてきた。
「君は……?」
 悠太は、掠れた声を呑み込んだ。

 切れ長の鋭い瞳、褐色の肌、無造作に後ろに束ねた髪、裾と袖が裂けたシャツ、括れた腰回りに浮き出た腹筋、ボロボロのデニムの短パンからすらりと伸びた足。
「お前、誰だ?」
 女性が、サバイバルナイフを悠太の喉もとに突きつけながら訊ねてきた。

(第7回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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