双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第 56 回

5(承前)

 見慣れた戸建てが遠目に見えてきた。
 まさか、もう一度、この家を訪ねることになるとは思わなかった。
 家の前に、菊池が立っていた。
「もしかして、私がくるのを待ってたの!?」
 雪美は、小走りに駆け寄りながら訊ねた。
「はい」
 菊池が小さく頷いた。
 気のせいか、元気がないように思えた。
「行くなんて言ってなかったのに?」
「きてくれると、信じてましたから」
 力ない声で、菊池が言った。
 やはり、いつもの彼よりも覇気がないように感じた。
「ひまわりさんは、どうしてここに?」
「とりあえず、中へ入りましょう」
 菊池が、雪美を玄関へと促した。
 ドアを開けると、履き古した小さめのスニーカーが視界に入った。
 ひまわりのスニーカーに違いなかった。
「お邪魔します」
 言いながら、雪美は菊池に続き廊下に上がった。
 菊池は、リビングルームのドアの前で足を止めた。
「堀越さんがきました」
 菊池が声をかけ、ドアを開けた。
 ソファには、ひまわりだけが座っていた。
「おひさしぶり……」
 雪美が声をかけると、無言で立ち上がったひまわりが歩み寄ってきた。
 島にいるときと違って真新しいTシャツとデニムのショートパンツ姿のせいか、ひまわりの雰囲気が違って見えた。
「お義母様は?」
 雪美は、菊池に訊ねた。
「ジイジと……行った」
 ひまわりが、薄く掠れた声で言った。
 ひまわりの雰囲気が違って見えるのは、服装のせいではなかった。
「ジイジって、あなたのおじいさんのこと?」
 ひまわりが頷いた。
 よく見ると、ひまわりの眼は充血し瞼が赤らんでいた。
「泣いてるの?」
 雪美の問いかけに、ひまわりは無言で雪美をみつめた。
 彼女の澄んだ瞳は、はっとするほどに暗かった。
 島にいたときの、太陽のように開放的で情熱的な瞳をしていた少女とは別人のようだった。
「なぜ、泣いてるの?」
 雪美は、胸騒ぎに促されるように訊ねた。
 相変わらずひまわりは答えることなく、赤く潤む瞳で雪美をみつめていた。
「お義母様とひまわりさんのおじいさんは、どこに行ったの?」
 雪美は菊池を振り返った。
 菊池が唇を噛み、足もとに視線を落とした。
 胸騒ぎに拍車がかかった。
 菊池もひまわりも、明らかに様子がおかしかった。
「ねえ、菊池君、いったいどうした……」
 不意に、ひまわりがスマートフォンを雪美の顔前に突きつけた。
「なに……」
 ディスプレイに映る血塗れで横たわる男性に、雪美は言葉の続きを失った。
 男性は、悠太だった。
 悠太は、里美にたいして苦しげな声で語りかけていた。
 ところどころ、ひまわりと老人の声も入っていた。
 なにがどうなっているのか、わからなかった。
 なぜ、悠太が血塗れになっている?
『狩りをしていて……猪の牙にやられて……しまった……内臓をやられていて……もう、だめだと思う……』
 切れ切れの声……悠太の言葉に、雪美は耳を疑った。
 鼓膜の中で、大音量で脈が反響した。
 狩りをしているときに猪に襲われて、負傷してしまったということなのか?
「なによ……これ……ねえ、悠ちゃんはどこ!? どこにいるの!?」
 雪美は、菊池を問い詰めた。
 唇を噛んだまま俯いて、雪美と視線を合わせようとしない菊池の態度に、不吉な予感が膨れ上がった。
「なんとか言いなさいよ! どうして、さっきから黙ってるの!?」
 思わず、感情が爆発してしまった。
「ユータ、嘘吐いている……」
 不意に、ひまわりが絞り出すような声で言った。
「悠ちゃんが嘘を吐いているって、どういうこと?」
 雪美は菊池からひまわりに視線を移して訊ねた。
「ユータは猪の牙に刺されてない……刺したのはウチだ」
 ひまわりが、涙に潤む瞳で雪美をまっすぐにみつめながら言った。
「えっ……あなたが刺した!?」
 雪美は素頓狂な声を上げた。
「そうだ……ウチの槍で、ユータを刺した……」
 ひまわりの声が、消え入りそうに震えた。
「ど、どうして、ひまわりさんが悠ちゃんを刺すのよ? もしかして、あなた達二人で、私を担ごうとしているでしょ? ほら、テレビのドッキリみたいにさ」
 無理やり微笑み、雪美は言った。
 悪い冗談であってほしかった。
 菊池とひまわりがグルになって、自分を驚かせようとしているだけ……雪美は、そう言い聞かせた。
 いや、これは悠太のアイディアに違いない。
 勤務先の社長の声色を真似して電話をかけてきたり、蛙のゴムおもちゃを雪美のバッグに忍ばせたり……昔から、悠太には子供っぽいところがあった。
 自分に、菊池と交際しているから別れてほしいと告げられ、意地悪気分で仕返しをしているのだろう。
 雪美が取り乱して泣き出したところに姿を現し、ネタバラシをするつもりなのだ。
「ユータを襲ってたジイジを止めようとして、ウチは槍を投げた。ユータはジイジを守って突き飛ばして、自分に刺さった……」
 ひまわりが、肩を震わせた。
 子供騙しのような……いいや、子供でも騙せないようなシナリオだった。
 そもそも、老人が悠太を襲う理由がない。
 だが、ひまわりも菊池も演技力はなかなかのものだった。
「ひまわりさん、わざわざそんなことのために東京まで出てきたの? あなたと菊池君の入れ知恵じゃないわね。もう、わかってるんだから出てきて! 悠ちゃん、いるんでしょ?」
 雪美は、半開きのリビングのドアに向かって呼びかけた。
「ユータはいない。ユータは死んだ……ウチが殺した」
 ひまわりが、絞り出すような声で言った。
「もう、いい加減にしないと怒るわよ。菊池君、悠ちゃんは別の部屋にいるんでしょう? 連れてきてよ」
 雪美は、ひまわりから菊池に視線を移して睨みつけた。
「堀越さん、本当なんです。僕も……おばさんから聞いていまだに信じられなくて……」
 菊池が涙声で言うと、うなだれた。
「ちょっと……やめてよ……」
 雪美は、ひまわりに顔を向けた。
「ユータが島から出ること、ジイジは怒ってた。ジイジは、ウチが一人になること、心配してた。だから、ユータに島に残れと言った。そのことで、喧嘩になった。ジイジは、ユータの首を絞めた。ユータの命が危なかった。ウチはユータを助けるためにジイジを仕留めようとした。ユータはジイジを助けた。自分が槍を受けた」
 一気に喋るひまわりの言葉が、理解できなかった――受け入れることなど、できるはずがなかった。
「あなたは……なにを言ってるの!? 私は、悠ちゃんに島に戻るように言ったのよ! ひまわりさんと暮らして……そう言ったのよ! 悠ちゃんも納得して……それなのに……そんなの……」
 動転して、思考と感情がバラバラになった。
『ひまわりが……いなかったら……僕は死んでいた……。彼女は……僕の……』
 蒼白な顔で懸命に喋っていた、ディスプレイの悠太が滲んだ。
 雪美は、リビングルームから飛び出した。
 ダイニングキッチンを覗いた。悠太はいない。
 ベッドルームを覗いた。悠太はいない。
 二階に上がった。どの部屋にも、悠太はいなかった。
 雪美は、魂が抜けたように階段の途中に座った。
「堀越さん……」
 階下では、心配そうな顔で菊池とひまわりが雪美を見上げていた。
 悠太がいない……わかっていたことだ。
 いまさら、なにを言っている?
 あの事故があってから、悠太は雪美の前から消えた。
 悠太に似た人が八神島にいたが、雪美が愛した……雪美を愛した悠太ではなかった。
 そう、悠太は死んだ。
 雪美の誕生日に約束したレストラン……あの夜に、雪美は最愛の人を失った。
 雪美は、ゆっくりと眼を閉じた。

 ――やっぱり、式はスイスの教会で挙げるの? 前に悠ちゃんが言っていた、ワイン畑に囲まれた小高い丘にある教会……メ、メリケン……なんだっけ?
 ――「メッケンホルン城」のチャペルだよ。

 悠太が柔和に眼を細め、唇に弧を描いた。
 アルプスの麓に広がるルツェルン湖を眼下に望む古城で、二人だけで挙げる式。
 互いの親族や友人を招待する披露宴は、式と新婚旅行を終えてから改めて行う予定だった。
 
 ――あ、そうそう! それ! でも、ウチのパパ、文句言ってるよ。娘の晴れ姿を親に見せない男なんて最悪だ! ってね。
 ――たしかに、それを言われちゃうと返す言葉がないな。雪美は、家族を呼べるような挙式にしたい?
 ――もちろん、理由がなければ呼んであげたいけど。でも、悠ちゃんがなぜそうしたいかを知っているから、全然平気!
 ――ありがとう。馬鹿げているかもしれないけど、伝説を信じたいんだ。
 ――「メッケンホルン城」で二人だけで式を挙げたカップルは、永遠の愛が約束される……だったよね?
 ――そんなことにこだわって、女の子みたいだろ?
 ――うん。キラキラした乙女みたい。でも、そういう悠ちゃん、大好きよ。あなたと出会えて、本当によかった。
 ――なんか、改まって言われると照れるな。
 ――そういうとこも、乙女ね!
 ――こらこら、からかうなよ。

 夢だけを見ていればよかった――幸せだけを考えていればよかった。
 夫婦喧嘩することはあるだろう、雪美が実家に帰ることもあるだろう……でも、二人が離れることはないという自信があった。
 永遠の愛が約束される……伝説は、確かめられなかった。
 雪美を残して、悠太は海に呑み込まれ帰らぬ人となった。
「……ウチがユータを殺したの、信じたか?」
 階下からひまわりが、涙声で話しかけてきた。
 雪美は、眼を開けた。
 悠太と死に別れ、こうやって彼の実家にいることが不思議だった。
 最初に悠太の実家にきたときに出されたのは、アールグレイの紅茶とアップルパイだった。
 両方とも雪美の好きなものだったが、緊張でまったく味を感じなかった記憶がある。
「なんの話?」
「さっき言ったことだ。ウチの槍でユータは死んだ……」
「違うわ」
 雪美は、階段の途中にある壁の凹みをみつめた。
 
 ――中学生のときに、カッとして殴って。理由は、なんだか忘れちゃったよ。反抗期だったんだと思う。ん? なぜ笑うんだい?
 
 穏やかで優しい悠太しか知らない雪美には、鬱屈した怒りを壁にぶつける少年のイメージが涌かなかった。
「なにが違う?」
 ひまわりの声がした。
「悠ちゃんを殺したのは、あなたじゃない」
 雪美は立ち上がり、二階に戻りふたたび悠太の部屋に入った。
「ユータを殺したのはウチだ……」
 ひまわりが言いながら、階段を上がってきた。
 悠太が使っていた勉強机に雪美は座った。
 木製の机の表面には相合傘が刻まれ、左に幼い字でゆうた、右に大人の字でゆきみ、と彫られていた。
「堀越さん。ひまわりさんは先輩を助けようとした行動が結果的に悲劇を招いてしまったことを詫びにきているんです。おじいさんはおばさんに付き添われて、警察に自首しに行きました」
 ひまわりとともに部屋に入ってきた菊池が、遠慮がちに言った。
「小学校の頃、家に遊びにきた友達が、悠ちゃんがトイレに行っている隙に眼を盗んでコンパスの針で彫ったんですって。小学生でもなきゃ、人の家の机にこんなことできないわよね」
 雪美は、をみつめつつ微笑んだ。
「堀越さん? 僕の話、聞いてます?」
「悠ちゃんがトイレから戻ってきたときに、慌てて止めたから相手の女の子の名前は彫れなかったんだって」
「堀越さん……」
「それで、大人になってから悠ちゃんが私の名前を彫ったから、字体のバランスが悪くてさ」
 ふたたび、雪美は微笑んだ。
「その悪戯っ子は、悠ちゃんが戻ってこなかったら誰の名前を書こうとしていたのかを聞いたんだけど、うまくかわされたわ。多分、悠ちゃんの初恋の人だったんじゃないのかな。大人になって、婚約までしているのに幻の小学生の女の子のことが気になっちゃって……私って、ヤキモチ焼きでしょ?」
 雪美は、朗らかに笑った……つもりだった。
 頬が、痙攣しただけだった。
「悪かった……ウチを殺してくれ……」
 ひまわりが突然、雪美の足もとで大の字に仰向けになった。
「どうして、あなたが謝るの?」
 雪美はひまわりに訊ねながら、相合傘に書かれた、ゆうた、ゆきみ、の文字をみつめた。
「ひまわりさん、堀越さんはそんなこと望んでませんよっ。さあ、起きてください」
「ユータを殺したのはウチだ……白い女を哀しませたのもウチだ……」
 ひまわりが、潤む瞳で天井をみつめつつ掠れ声で呟いた。
「あなたは無関係よ」
 惚けているのではなく、本当に意味がわからなかった。
 なぜ、彼女は悠太を殺したと言うのか……自分を殺してと頼むのか?
 一つだけわかっているのは……神は約束を守らずに悠太を連れ去ってしまった。
「悠ちゃんは、船の転覆事故で死んだの。あなたが悪いんじゃないわ」
 雪美は、力ない声で言った。
「堀越さんも、いったい、どうしたって言うんですか!? 先輩と、この前も会ったじゃないですか!?」
 菊池が、訴えかけるように言った。
「あなたこそ、なにを言ってるの?」
 雪美は、に視線を落としたまま菊池に言った。
 ひまわりだけでなく、菊池の言葉も意味がわからなかった。
「堀越さん……」
「ごめん。二人とも、出て行ってくれるかな……」
 菊池を遮って言うと、雪美はを指先でなぞった。
 虚ろな瞳の先で、寄り添う二人の名前が滲んだ。
(第57回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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