双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第 52 回

3(承前)

 眼を開けた。
 絵具を零したような鮮やかな碧空が、視界に広がった。
 悠太は、弾かれたように上体を起こした。
 視線を下腹にやった。
 槍はなかった。
 血も出ていなかった。
 あたりに首を巡らせた。
「ひまわり……」
 悠太は思わず口にした。
 ひまわりの姿は、どこにもなかった。
 なにより、悠太のいる場所は八神島の雑木林のはずがベンチの上だった。
 周囲には、緑の芝生が広がっていた。
 様々な種類の犬を散歩させている人や子連れの母親で、園内は賑わっていた。
 芝生の上を、クリーム色のゴールデンレトリーバーとボーダーコリーがじゃれ合いながら駆けていた。
 隣のベンチでは、幼い少女が父親らしき男性の膝の上でソフトクリームを舐めていた。
 十メートルほど先の木陰では、長身のブロンドヘアの女性がカメラを構える男性の前でポーズを作っていた。
 見覚えのある公園……よくきていた代官山の公園。
 そんなはずはなかった。
 自分は船の転覆事故で記憶を失い、八神島に流れ着いた。
 そしてひまわりに救われ……。
 そうだ。ひまわりはどこに……。
「お寝坊さん、起きた?」
 悠太は顔を上げた。缶コーヒーとミネラルウォーターのペットボトルを両手に持った雪美が、呆れた顔で言った。
「雪美……」
「ほら、眼が覚めるわよ」
 雪美がブラックの缶コーヒーを差し出しながら、悠太の隣に座った。
「海外だったら、身ぐるみ剥がされていたわよ。ツアーコンダクターのくせに、脇が甘いんだから」
 雪美が笑いながら、ペットボトルのキャップを開けた。
「あのさ……僕は、どうしてここに?」
 悠太は、率直な疑問を口にした。
「ひさしぶりに公園に行きたいって言うから、映画の予定を変えてきたんでしょ?」
「僕が、そう言ったの?」
「そうよ。つき合い始めの頃によくデートしていた公園が懐かしいって……忘れたの?」
 雪美が、怪訝そうに悠太の顔をみつめた。
「あ、いや……その、君は菊池とつき合うことにしたんじゃないの?」
 状況が掴めずに、悠太は恐る恐る訊ねた。
「菊池君? 菊池君って、悠ちゃんの後輩の!?」
 眼を見開いた雪美が、素頓狂な声で訊ね返してきた。
 雪美の瞳に浮かぶ疑問符が、からかわれているわけではないことを証明していた。
 悠太は頷いた。
 束の間の沈黙のあと、雪美が大笑いした。
「もう、悠ちゃんったら、私をからかってるの? どうして私が、あの人とつき合うのよ!? 冗談なら、もっとましなのにしてよ」
 雪美の目尻からは、笑い過ぎて涙が零れていた。
「いや……冗談じゃなくてさ……」
 言いかけたが、言葉の先が続かなかった。
 もし、雪美と菊池のことが夢なら頭がどうかしたと思われてしまう。
「そもそも、菊池君とは悠ちゃんの会社に仕事できていたときに会っただけよ」
「菊池と一緒に、八神島に僕を何度か捜しにきてくれただろ?」
 思い切って、質問した。
 やはり、訊かずにはいられなかった。
 あのリアリティが夢であるはずがない。
「悠ちゃん……それ、真剣に言ってる?」
 訝しげに訊ねる雪美に、悠太は恐る恐る顎を引いた。
「明日さ、ひさしぶりに病院に行こう」
 不意に、雪美が言った。
「え? 病院?」
「そう。あの事故以来、行ってないでしょ?」
「あの事故って、船の転覆事故?」
 質問を質問で返す悠太に、雪美が頷いた。
「ツアー地の視察に行っていた悠ちゃんが私の誕生日に戻ってきたときに、一時的に記憶を失っていたのは覚えてる? 本当は私の誕生日を素敵なレストランで祝うはずだったけど、まさか病院で会うことになるなんて思わなかったわ。先生には、一時的に悠ちゃんの記憶は失われるけど、じょじょに戻るって言われたの。でも、記憶が戻ってからも体調や心理状態によっては、記憶が錯綜したりすっぽり抜け落ちるときがあると言ってたから……いま、そうなっちゃってるんだと思う。もしかして、事故のあと八神島って無人島に住んでいた記憶になってるの?」
 心配そうに雪美が、悠太の顔を覗き込んできた。
 ひまわりや老人は、自分の妄想……思い込みで作り上げた想像の人物だというのか?
 いや、それはありえない。
 悠太が記憶しているひまわりとの狩りや彼女の表情が、現実でないとは思えなかった。
 だが、雪美が嘘を吐くわけはない。
 それに、現に悠太は雪美とともにいる。
 雪美の言う通り、事故が原因で記憶が錯綜、あるいは喪失しているのだろうか?
「いや……ごめんごめん。僕の勘違いだったみたいだ」
「そう。でも、念のため明日、病院に行こうよ。来年、婚前旅行するんだから。あ~愉しみ! 早く来年にならないかな~」
 雪美が、胸前で掌を重ね合わせ満面の笑みで言った。
 婚前旅行……記憶を失う以前に雪美と交わした約束は覚えていた。
 だが、記憶を失い八神島から戻ってきたあとに雪美と婚前旅行の話をした覚えは……。
 悠太は思考を止め、頭を小さく横に振った。
 まだ、記憶が錯綜しているようだ。
 雪美の話では、そもそも自分は八神島に住んではいない。
 単純に、雪美と交わした約束の記憶を喪失してしまったに違いない。
 自分は、この先、どうなってしまうのか?
 現実と空想の区別がつかずに、雪美との結婚生活を送れるのだろうか?
 いや、その前に、日常生活さえ大丈夫なのかわからない。
 だが、わかっているのは、雪美との婚約は解消されておらず、自分とひまわりの関係も彼女と菊池の関係も、すべてはということだ。
「一時はどうなることかと思ったけど……ようやく、一緒になれるんだね」
 雪美が、悠太の手に手を重ねてきた。
 彼女の瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「うん。これからも迷惑をかけるかもしれないけど……」
 悠太は言葉を切った。
 雪美の肩越し――険しい表情で歩いてくる女性……ひまわり!
 だが、ひまわりは想像上の人物のはずだ。
 ひまわりの右手には、ナイフが握られていた。
「ユータを返せ!」
 ひまわりが叫び、駆け寄ってきた。
「危ない!」
 咄嗟に悠太は、雪美と身体を入れ替えた。
 脇腹に熱い感触が広がった。
「悠ちゃん!」
 悠太は、ベンチから崩れ落ちた。
「悠ちゃん! 悠ちゃん!」
 雪美の涙顔が、霞む視界に現れた。
 悠太は、手を宙に伸ばした。
「泣かないで……」
 悠太は、雪美の頬を掌で包み指先で涙を拭った。
「いや……いやよ……」
 雪美が、激しく頭を振った。
「雪美、もう……泣かない……」
 あたりが、薄暗くなってゆく。
「いや……いやーっ、私を一人にしないで!」
 雪美の叫喚が、鼓膜からフェードアウトした。
 悠ちゃん! 悠ちゃん!
 
 雪美の悲痛な声が、微かに聞こえる。

 ユータ! ユータ!

 雪美の声に、別の女性の声が重なった。
 身体が揺れた。頬を叩かれた。
 暗い視界に、人影が現れた。
「ユータ! 起きろ! ユータ! ユータ!」
 人影――必死に、ひまわりが自分の名を呼び身体を揺すり続けていた。
 夢……。
 潜在意識が、見せたのかもしれない。
 たとえ夢でも、満足だった。
 最期に、雪美に会えたのだから……。
「ユータ……起きたか!?」
「ひまわり……」
 掠れた声が、唇を割って出た。
「ごめん! ウチがユータを仕留めた……ウチがユータを……」
 ひまわりが、涙に濡れた顔をクシャクシャにした。
「君は……悪くない……僕が……やった……ことだよ……」
 悠太は薄れゆく意識に抗い、懸命に微笑んだ。
「どうしてだ!? ジイジは、ユータを仕留めようとしたのに……どうしてだ!」
「き、君に……おじいさんを……殺させたくなかった……」
「ジイジはユータを仕留めようとした! だから、ウチがユータを守ろうとした! ジイジが悪い!」
 ひまわりが、憤然として言った。
「ありがとう……でも、だめだ……おじいさんは……君の……親みたいな……ものだから……」
 悠太は、激しく咳き込んだ。
 咳をするたびに、内臓がぶすぶすと破れてゆく感触があった。
 鼓動が弱まってゆくのが……命の灯が消える時間が近づいているのが、自分でもわかった。
「もう喋るな。槍は抜いて薬草を塗ってるから、すぐに元気になる。いまは動かないほうがいい。ウチがついててやるから、少し休め」
 ひまわりが、悠太の傍らに腰を下ろしながら言った。
「ありがとう……」
 悠太には、限られた時間しか残されていないことがわかっていた。
「おじいさんは……いますか?」
 悠太は、切れ切れの声で言った。
「ここじゃ! 謝って済むことじゃないが……本当に、すまんことをした」
 老人の顔が、ぼんやりと輪郭だけ見えた。
 どんな表情をしているかは、わからなかった。
「ズボンのお尻のポケットに……メモが入ってます……。僕の……東京の……実家の住所……です。母さんを……訪ねてください……。ひまわりさん……を預かってくれます……」
 悠太は、切れ切れの声で言った。
「母さん? お前の母親のことか?」
 老人が訊ねてきた。
「はい……」
「じゃが……わしらは……お前をこんな目にあわせたんじゃぞ? 母親が、ひまわりを許すはずはないじゃろう?」
 老人の声が、遠くから聞こえたような気がした。
「母さんなら……大丈夫です……。僕が信頼する人を……同じように信頼してくれます……」
「わしは……お前を殺そうとしたのに……ひまわりのことを考えてくれるのか?」
 悠太は、小さく顎を引いた。
 それだけで、ひどく疲れた。
「け……携帯電話……貸して……くだ……さい……」
「携帯電話!?」
 老人が、素頓狂な声で繰り返した。
「そうです……」
 こうして会話している間にも、確実にタイムリミットは近づいていた。
「いま取ってくるから、ちょっと、待っておれ!」
 老人が立ち上がる気配があった。
「ひまわり……最後まで守れなくて……ごめんな……」
 悠太はありったけの気力を振り絞り、ひまわりに懸命に微笑んで見せた。
 うまく、笑えていてほしかった。
 ひまわりのことを、もう、これ以上、一ミリも哀しませたくなかった。
「ユータ、なに言う! ユータはウチが守る! ユータより、ウチが強いからな。これから、いっぱい、ウサギの獲りかたを教えてやる! もっと早く走れるように教えてやる! 早く、元気になれ!」
 ひまわり、笑って……。
 君には、笑顔が似合う。
 太陽のように大らかで、大地のように逞しい君に涙は似合わない。
「……わか……った……」
 悠太は、口もとを綻ばせた。
 自分は、幸せ者だ。
 雪美とひまわり……短い人生だったが、純粋な心を持つ二人の女性に出会うことができた。
 許されぬ罪を犯した自分の、最後の瞬間を見守ってくれている。
「ほれ! 持ってきたぞ!」
 老人が、息を弾ませ戻ってきた。
「電源は……入って……ますか?」
「ああ、入っておる」
 老人が、スマートフォンを悠太の顔の前に差し出した。
 視界がぼやけアイコンは判別できなかったが、ライトで電源が入っていることはわかった。
「じゃが、ここは繋がらんぞ?」
「カメラの……マーク……わかり……ますか?」
「カメラじゃと? おお……これかのう?」
「押して……みて……ください」
 しばらくすると、アイコンをタップする音が聞こえた。
「赤い丸い……マーク……ありますか?」
「あるぞ!」
「赤い丸の……画面を……おじいさんのほうに向けて……反対側を……僕のほうに……向けて……ください……。僕が……写ってますか……?」
 気を抜けば、眠ってしまいそうだった。
 永遠に覚めない眠りに……。
 まだだ。まだ、眠れない。
「ああ、写っておる! どうすればいいんじゃ?」
「赤い丸を……押して……ください……。僕が……合図をしたら……もう一度……押して……くだ……さい……」
「わかった。押してもいいのか?」
「はい……お願い……します……」
 一秒も、無駄にできなかった。
 迷惑をかけ通しの人生……ひまわりのために、最期くらい役に立ちたかった。
「押すぞ」
 老人の声に続き、ふたたびタップ音が聞こえた。 
「母さん……いきなり……こんな姿で……驚かないで……。時間……ないから……用件だけ……言うね……」
 もう、笑顔を作る余裕はなかった。
「ユータの母さん、どこにいるんだ?」
 ひまわりの声が聞こえた。
 彼女らしい……心で、悠太は微笑んだ。
「狩りをしていて……猪の牙にやられて……しまった……」
 嘘を吐くのは心が痛むが、本当のことを言うわけにはいかない。
「ユータ、猪って……」
「お前は黙っておれ」
 ひまわりの声を、老人が遮った。
「内臓をやられていて……もう、だめだと思う……」
「なに言ってる! だめじゃない! ユータは元気になる!」
「いまユータは母親と喋っておる。邪魔をするんじゃない」
 老人がひまわりを窘めた。
「ユータの母さんはどこにいる? ユータは一人で喋ってるぞ? 喋ると傷が開く。喋ると血が出る。だから、もう、喋るな!」
「突然のお願い……だけど……ひまわりとおじい……さんが訪ねて……行ったら……力になって……ほしい……」
 悠太は激しく咳き込んだ。
 口内に、鉄の味がする生温い液体が広がった。
「ユータ! 大丈夫か!」
 ひまわりが、背中を擦っている。
「僕が……記憶を失った……数ヵ月……」
 ふたたび咳き込み、背中が大きく波打った。
 鼻の奥に、生臭い液体が入った。
「ユータ! 喋るな! 喋ったら怒るぞ!」
 ひまわりの、涙声が聞こえた。
「ひまわりが……いなかったら……僕は死んでいた……。彼女は……僕の……命の恩人……だから……力になって……あげてね……。親不孝で……ごめん……。最後に、雪美に……」
 まるで風船のように、身体が軽くなった。
 ふわふわと、浮いているような気がした。
 意識が、曖昧になってきた。
 ここはどこで、自分はなにをしているのだろう?
 女性の泣き叫ぶ声が聞こえる。
 男性の大声も聞こえる。
 なぜ、女性は泣いているのか?
「ユータ! 起きないと怒るぞ!」
 身体が揺れた。
「起きろ! 眼を開けろ!」
 身体が揺れた。
「ひまわり……もう、逝かせてやるんじゃ」
 男性の声がした。
 
 ひまわり……。
 
 不意に、褐色の肌をしたエキゾチックな顔立ちの女性が脳裏に浮かんだ。
 
 悠ちゃん。
 
 今度は、雪のような白い肌をした女性が微笑みかけてきた。
 心が温かくなってゆく。
 いつの間にか、痛みも苦しさも感じなくなっていた。
 とても、いい気分だった。
「ユータ、ウチを置いて行くのか!」
 
 泣かないで。
 どこにも行かないから。
 いつも、そばで君達を見守るから……。
(第53回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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