双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第 50 回

3

 大飛鳥島の船着き場に座った悠太は、さざ波に揺れる係留されたボートをぼんやりとみつめていた。
 あのとき、飛鳥島に視察に行かなければいま頃、雪美との結婚式の準備に追われていたのだろうか?
 あのとき、視察の日を変えていたならばいま頃、雪美と将来の夢を語り合っていたのだろうか?

――菊池君のことが好きになっただけよ。女はね、新しく好きな人ができると驚くほどあっさりと過去を忘れるものなのよ。だから、悠ちゃんもひまわりさんと幸せになって。

 あのとき動揺した自分を、悠太は軽蔑した。
 そもそも、こうなってしまったのは自分のせいだ。
 それに、雪美にとっても一途な菊池と結ばれたほうが幸せになれるだろう。
 
 ――もう私に遠慮しないでいいから、ひまわりさんのところに戻ってあげて。

 雪美の言うように、自分は遠慮しているのだろうか?
 ひまわりと別れると決めたのも、罪悪感がそうさせたのか?
 素の気持ちは……純粋に、自分はどうしたいのか?
 自分の気持ちで、ひまわりと別れたいのか?
 悠太は、心の奥に潜む感情に問いかけた。
 思考を止めた。
 考えてどうなる?
 雪美が菊池とつき合うことになったからといって、ひまわりのもとに戻るというのは虫がよすぎはしないか?
「やっぱり、ここでしたか」
 悠太の隣に、誰かが座った。
「よく、わかったな」
 菊池だった。
 悠太は、動揺が顔に出ないように言った。
「なんか、ここにきたら会えるような気がしたんです。もう、年の瀬ですね。早いなぁ。ついこないだまで猛暑続きで熱中症になりそうだったのに、みんなコートを羽織って寒そうにしてるなんて。先輩は、それで寒くないんですか?」
 菊池が、Tシャツの上にナイロンのジャンパーという格好の悠太に顔を向けた。
「東京にきてから、上着は買ったんだよ」
「マジですか!? ずっと島で暮らしていたから、寒さに耐性がついたんですかね?」
 菊池が、驚きに眼をまん丸にした。
「なんか、話があってきたんだろう?」
 悠太は、菊池を促した。
 なぜ自分に会いにきたかの見当はついていたが、雪美とのことを気まずく思っているだろう菊池の話を聞いてあげるつもりだった。
「これから、どうするんですか?」
「『ドリームサポート』に復帰できることになったけど、どうしようか迷っているんだ」
「ひまわりさんとのことですよね?」
 菊池が、核心に切り込んできた。
 雪美とつき合うことになった彼が、それを真っ先に思い浮かべるのは自然の流れだ。 
「二人の前から消えるとか言っておきながら迷っているなんて……僕を軽蔑してもいいよ」
 悠太は、自嘲の笑いを浮かべた。
「軽蔑なんか、するわけないじゃないですか。僕はむしろ、ひまわりさんとつき合ったほうがいいと思ってます。島に戻るか、東京で暮らすかは別にしてですけど」
 菊池が、躊躇いなく言った。
「簡単に言うなよ。たしかに、雪美はお前とつき合うことになったけど、だからって、僕がそうしてもいいっていうことにはならないだろう?」
「堀越さんがどうとかじゃなくて、先輩の気持ちはどうなんですか? 先輩は、ひまわりさんのことを好きなんですよね?」
 悠太は、沈黙した。
「堀越さんのためにも、ひまわりさんと一緒になるべきです」
「もし、僕に気を遣っているなら大丈夫だと雪美に伝えてくれ。君は君で、幸せな人生を歩んでほしいってね。菊池、雪美のことをよろしく頼むな」
 悠太は、菊池の瞳をまっすぐにみつめた。
「先輩は、本当に女心に鈍感な人ですね」
 菊池が、呆れたように言った。
「なんだよ、人が真面目に……」
「僕と堀越さんは、つき合いませんよ」
「え? なに言ってるんだよ。もしかして、僕を傷つけないようにしてるのか? 雪美の口から直接聞いたんだから、ごまかしても無駄だよ」
 婚約者と後輩に気を遣われるのは、恥ずかしくもあり、虚しくもあった。
「堀越さんがそう言ったのは、先輩に罪の意識を感じさせずに心のままに決断してほしかったからですよ。つまり、僕とつき合うって嘘を吐いたのは、先輩がひまわりさんのところに行きやすいように背中を押すためです」
「ど……どうして、雪美はそんな嘘を吐いてまで僕とひまわりをつき合わせようとするんだ!?」
 悠太は、菊池を問い詰めた。
「堀越さんは、言ってました。先輩には、自分よりひまわりさんが相応しいって」
「雪美が、そんなことを……?」
 悠太は、掠れ声を絞り出した。
 菊池が頷いた。
「どうして……」
 動転して、言葉が続かなかった。
「僕にはわかりませんけど、女の直感というやつじゃないですか? 先輩も本当は、堀越さんの言葉の意味をわかっていると思います。違いますか?」
 菊池のまっすぐな視線が息苦しくなり、悠太は俯いた。
「堀越さんは、本当に先輩のことを愛しています。だからこそ嘘を……」
 菊池が涙声になり、言葉を呑み込んだ。
 沈黙が広がった。
 悠太も菊池も黙ったまま、海に視線を投げていた。
「お前は、それでいいのか?」
 沈黙を破り、悠太は菊池に顔を向けた。
「堀越さんから雪美さんって呼べる関係になる自信はあったんですけどね」
 菊池は、力なく笑った。
「振り向いてくれるまで、待つ自信がね。でも、わかったんです。堀越さんの瞳には先輩しか映ってないし、それはこれからも続くって……そういう彼女だから好きになったんですけどね」
「怖かったんだと思う」
 無意識に、悠太は口を開いた。
「自分の心の声を聞くことが……」
 そして、自分の気持ちを知ることが。
「いまでも、雪美のことを愛している。その気持ちに嘘はない。だけど、あの事故があってから、僕にはもう一人愛する女性ができてしまった」

 ――なにも思い出せなかったら、ウチらとここで暮らせばいい。野ウサギや野ネズミの狩り方、教えてやるから。カミキリムシの幼虫は、嫌なら食わなくてもいい。だから、ウチとジイジと暮らそう。

 夜の砂浜。満天の星に負けないキラキラしたひまわりの瞳を、いまでも忘れない。
「島での僕は、記憶を取り戻すのが怖かった。ひまわりへの気持ちがなくなるんじゃないかって……。違った。記憶を取り戻しても、僕の胸からひまわりが消えることはなかった」
 悠太は、独白する舞台役者のように自らの気持ちを語った。
「雪美にたいしての想いを取り戻した僕は、ひまわりに芽生えた想いを断ち切ろうとした。でも、消そうとすればするほどに、彼女の存在は僕の中で大きくなっていった」
 悠太のは続いた。 
「雪美とひまわり……正反対の二人の女性を、僕は同時に愛してしまった。それが、許されないことだと、雪美への裏切り行為だとわかっていた。日増しに罪の意識は大きくなって、自分を責めた。一途に僕を想い続け、待ち続けてくれた雪美を傷つけてしまった。雪美以外の女性を心に入れてしまったことより罪深いのは、記憶が戻ってもひまわりを心から追い出せなかったことだ。そうできなかった時点で、記憶を失っていたときのことだから仕方ない、という言い訳は通用しなくなった……」
 告解する罪人のように、悠太は胸のうちを語り続けた。
 いや、ように、ではなく自分は間違いなく罪人だ。
「先輩の……」
 それまで黙って話を聞いていた菊池が、開きかけた口を噤んだ。
 彼が呑み込んだ言葉の続きは、聞かずとも察しがついた。
「雪美とひまわり……僕の気持ちがどっちにあるのかを訊きたいんだろう?」
 悠太の問いかけに、菊池が小さく頷いた。
 悠太は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「それぞれに魅力がある女性だし、心惹かれた理由も違う。軽蔑されるかもしれないけれど、同じくらいに二人のことを想っている。ただ、こうやって誰かと比べていること自体、僕が雪美を愛する資格は……」
 悠太は、唇を噛んだ。
「なぜ、堀越さんが自分よりひまわりさんのほうが先輩に相応しいと言ったか、わかりますか?」
 菊池が、小石を海に投げながら訊ねてきた。
「さあ……」
「ひまわりさんを選んでも雪美さんを選んでも、先輩は罪の意識を感じる。かといって二人の前から去っても、先輩の性格上、それですっきり禊が済んだことにはならない。両方に罪の意識を感じながら、生きてゆかなければならなくなる。だから堀越さんは、先輩の苦しみが少しでも楽になり、同時にひまわりさんにつらい思いをさせない決断……自らが身を引く道を選んだんです」
「え……」
 言葉が見当たらなかった。
 雪美が、自分とひまわりのために……。
「先輩は、いまでも堀越さんを愛してますか?」
 唐突に、菊池が訊ねてきた。
「もちろん」
 躊躇うことなく、悠太は頷いた。
「だったら、八神島に行ってください。それが、堀越さんの先輩にたいしての最後の願いですから」
 菊池が、赤く充血した瞳で悠太をみつめた。
「雪美の……最後の……願い?」
 悠太は切れ切れの掠れ声で、菊池の言葉を繰り返した。
「はい。どんな思いで雪美さんがそれを決意したのか……」
 突然、菊池が悠太の前で跪いた。
「おい、なにを……」
「お願いしますっ。堀越さんの想いを……先輩への純粋な愛を……無駄にしないでください!」

 ――ねえ、もし、私が魔法でウサギに変えられたら、悠ちゃんはどうする? いまから言う三つの中から選んで。一、魔法を解くために魔女に魂を捧げる。二、自分も魔法をかけて貰いウサギになる。三、魔法をかけて貰い記憶をなくす。

 ある日の夜、恵比寿のダイニングレストランでディナーをしていたときに、悪戯っぽい顔で雪美が訊ねてきた。

 ――一か二だな。一は、魔法を解くために魂を渡してしまうから、君が人間に戻っても僕は人間じゃなくなっているってことだよね? 一緒に暮らせないんじゃ意味がないから、それなら二かな。
 ――でも、二は悠ちゃんもウサギにされちゃうんだよ?
 ――雪美と一緒なら、ウサギでもいいよ。雪美は、僕が一と二のどっちを選んだほうが嬉しい?
 ――私は絶対に、三を選んでほしいな。
 ――え? だって、三は記憶を消して貰うから、君のことを忘れちゃうんだぞ?
 ――うん。でも、悠ちゃんは人間のままいられるでしょう? 私の魔法を解くために、悠ちゃんが魂を渡したりウサギになるのはいや。その三つしか選択肢がないのなら、悠ちゃんには私の記憶を消して人間として幸せに生きてほしいの。

 記憶の中の雪美の微笑みに、悠太の涙腺が熱を持った。
 昔から、雪美は自らの幸せより悠太の幸せを優先する女性だった。
 どうして、もっと早く思い出さなかったのだろう。
 雪美の、自分にたいしての深い愛情を……。
 震える唇から漏れる嗚咽――微笑む雪美【微笑む雪美に傍点】が、涙の海に呑み込まれた。
「わざわざ送ってくれて、ありがとうな」
 フィッシングボートから浅瀬の海に降りた悠太は、デッキに立つ菊池を振り返った。
「今度こそ、無事に送り届けたくて」
 菊池が、真顔で言った。
 事故で悠太が記憶を失ったことに菊池は、責任を感じているのかもしれなかった。
「八神島で暮らすんですか?」
「さあ、どうかな。ひまわりやジイジと話してみてからだな」
「先輩がここで暮らすことになっても、ちょいちょい遊びにきますよ」
「ああ、待ってるよ。本当に……いろいろとありがとう。君には、迷惑かけたな」
 悠太は、ボートに向かって右手を伸ばした。
「いいえ、僕は自分がそうしたくてやったことですから。気にしないでください」
 菊池が言いながら身を屈め、悠太の右手を握った。
「じゃあ……またな」
 悠太は笑顔で言うと、菊池に背を向けた。
 背後でボートのエンジン音が鳴り響き、波が悠太の足もとに押し寄せた。
「東京にきたら、連絡くださいねー!」
 遠ざかる菊池の声に、悠太は振り返らずに右手を上げた。
 砂浜に上がると、悠太は首を巡らせた。
 ひまわりと、満天の星の下でキスをした砂浜……ふたたび、この島に戻ってくることになるとは思わなかった。
 突然のことで、ひまわりはびっくりするに違いない。
 逸る気持ちを抑え、悠太は砂浜に腰を下ろした。
 島で暮らすか東京に戻るか?
 ひまわりと老人に会う前に、考えをまとめておかなければならなかった。
 島で暮らすのなら、「ドリームサポート」を辞めなければならない。
 八神島にいるかぎり自給自足で金はかからないが、一生島から出ないわけにもいかないので、ある程度の貯えは必要だった。
 怪我をしたり病気になったり、いつまでも健康だとはかぎらない。
 年を取って無人島での生活ができなくなってから仕事を探そうにも、簡単にはみつからないだろう。
 母親のこともあった。
 あと五年もすれば、里恵も還暦を迎える。
 父親はいないので、里恵の老後は悠太が面倒を見るつもりだった。
 不安なのは、ひまわりが東京で暮らせるかだ。
 赤子の頃から無人島暮らしを送ってきたひまわりは、感覚的には野生動物と同じだ。 
 都会での生活に対応できるかどうかだけではなく、戸籍などの問題もある。
 いままでと違い、本格的に生活してゆくことを考えると問題は山積していた。
 不意に、肩を掴まれた。
 振り返った悠太の目の前には、老人がいた。
「あ、いま、伺おうと思っていたんです」
 悠太は、慌てて立ち上がった。
「ちょっと、つき合ってくれんか?」
 老人は厳しい表情で言うと、砂浜を雑木林に向かって歩き出した。
「ちゃんと挨拶もできないままいなくなって、すみませんでした」
 老人は悠太の声など聞こえないとでもいうように、無言で歩き続けた。
「ひまわりさんは、元気にしてますか?」
 悠太は、一番気になっていることを訊ねた。
 相変わらず無言のまま、老人は雑木林に足を踏み入れた。
 まだ少ししか離れていないのに、木々の香りと土の匂いを懐かしく感じた。
 無意識に、野ウサギや蛇を探している自分がいた。
「あの……すみません。話を聞いてくだ……」
「話はあとじゃ。黙ってついてこい」
 老人は歩を止めることなく、悠太を遮った。
 怒るのも、無理はない。
 ひまわりを一人にしないでほしいと懇願する老人を振り払うように、島を出てしまったのだから……。
 老人は、いままで悠太が行ったことのない雑木林の奥へと足を進めた。
「こっちに、なにかあるんですか?」
 木々が生い茂り槍が扱いづらいので、ひまわりも雑木林の奥を狩場にはしなかったのだ。
 悠太の問いかけに、老人が立ち止まった。
「お前がいなくなってから、ひまわりがどんなに哀しんだか知らないじゃろう?」
 背中を向けたまま、老人が押し殺した声で言った。
「すみませんでした……」
「あの子のあんな姿を、わしは見たことがない。狩りにも出かけんで、ろくに飯も食わんようになった。一日中、砂浜に座って海を眺めていた。お前のことが恋しくて、そうしておったんじゃろう」
 老人の肩が震えた――悠太の胸も震えた。
「本当に、すみませ……」
 物凄い形相で、老人が振り返った。
 息ができなかった。
 老人の右手が、悠太の喉を鷲掴みにしていた。
「な、なにを……」
「言ったはずじゃ! あの子を哀しませることは絶対に許さんと……ひまわりを見捨てたお前を、このまま東京に戻すわけにはいかん!」
 眼を充血させた老人が、悠太の首を絞めたまま木の幹に押しつけた。
「悪いが……死んでくれ……」
 薄れてゆく意識の中で、老人の声が鼓膜からフェードアウトした。
(第51回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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