双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第 49 回

2

 急ぎ足で横断歩道を渡るスーツ姿の男性、チョコレート色の被毛がカールした大型犬を優雅に散歩させるブロンドヘアの女性、接着剤でくっつけたように身体を密着させる制服姿のカップル、人待ち顔で歩道に佇む若い女性……。
 雪美は虚ろな瞳で窓の外……青山通りに行き交う人々をみつめていた。
 いつもと変わらない時が流れていた。
 雪美の心がどんな状態であろうと、一日が四十八時間になることもなく、空が緑色に染まることもなく、冬に蝉が鳴くこともない。
 天国も地獄も人の心が創り出す世界であると、有名な哲学者の本で読んだことがあった。
 それが本当ならば、雪美の住む世界は地獄ということになるのだろう。
 雪美は、アールグレイのティーカップを口もとに運んだ。
 ベルガモットの香りも柑橘系の爽やかな味も、雪美は感じなかった。
 
 ――私と、別れてほしいの。

 半開きになった口、血の気を失った顔、揺れる瞳。
 記憶のスクリーンに甦る悠太が、雪美の胸を掻き毟った。
 
 ――私、好きな人ができちゃって。菊池君よ。
 
 あのときの悠太の顔は、置いてけぼりにされた子犬のようだった。
 その決断が自分と悠太のためだとわかっていても、心にはぽっかりと穴が開いていた。
 美しい花を見ても、かわいらしい子犬を見ても、流麗なピアノ曲を聴いても、心に開いた穴から感情が漏れ出しなにも感じなかった。
 いま頃、悠太はひまわりのもとに……。
 雪美は、慌てて思考のスイッチをオフにした。
 いまさら悔やんだところで、どうしようもないことだ。
「待ちましたか?」
 菊池が、目の前に座った。
「ごめんね。忙しいのに呼び出しちゃって」
「堀越さんの呼び出しなら、北海道にいても飛んできますよ」
 菊池が白い歯を覗かせ、ボーイにアイスコーヒーを注文した。
「菊池君も、冗談を言うことあるんだね」
「堀越さんの笑顔を見たくて、頑張りました」
「口もうまくなったんじゃない?」
 雪美は、微笑み交じりに言った。
 新しい道を歩まなければならないのは、悠太だけではない。
「悠ちゃんと別れたわ」
 唐突に切り出す雪美に、菊池が口もとに運ぼうとしたアイスコーヒーのグラスを持つ手を宙で止めた。
「菊池君のことが好きだって言ったわ。ごめんなさい」
「ひどい人ですね」
 菊池が、苦笑いしながら言った。
「勝手に名前を出して……」
「そうじゃありません」
「え?」
「僕が堀越さんをひどい人だと言ったのは、勝手に名前を出されたことにたいしてではありません」
「じゃあ、なに?」
「ごめんなさい、って謝られたことにです」
 菊池が、哀しげな瞳で雪美をみつめた。
「あ、それは……」
 いまになって、自分の鈍感さに気づいた。
「先輩に嫌われるために、僕の名前を使った……そう言っているのと同じですよ」
 力なくため息を吐く菊池を見て、雪美は己の軽率な言動を後悔した。
 無意識とはいえ、菊池の心を傷つけてしまった。
 いや、すでに開いている傷口に爪を立てたようなものだ。
「ごめ……」
 雪美は言いかけて、慌てて口を噤んだ。
 バツが悪そうな雪美に、菊池が苦笑いした。
「正直な人ですね。ま、そういうところが好きなんですけどね」
 雪美はなんと言っていいかわからず、曖昧な微笑みを浮かべた。
「先輩、ショックだったでしょうね」
 さりげない菊池の言葉が、雪美の胸に突き刺さった。
「自業自得ですよ」
 続けて菊池が、吐き捨てるように言った。
「勝手に記憶を失って、勝手に堀越さんを忘れて、勝手に婚約者を作って……あんなひどい男の人と別れて正解でしたよ。そう思いませんか?」
 菊池が、雪美に窺うような眼を向けた。
「……そうね」
 雪美は、力なく微笑んだ。
「って、思えるような人ならこんなに苦しまなくても済むんですけどね」
 菊池が、深いため息を吐きながら言った。
「一番つらい思いをしているのに屈託なく明るく振舞っているから、みんな気づかないんですよ。堀越さんが、どれだけ心で泣いているかを」
 涙腺が熱を持った――奥歯を噛み締めた。
 なにかを察した菊池が眼を伏せた。
 胸が震えた――膝の上に置いた両手の甲に、滴が落ちて弾けた。
 二滴、三滴……激しくなった雨足に打たれたアスファルトのように涙が手の甲を濡らした。
「あ、なんか、菊池君が悪い人みたいに見えちゃうわね」
 雪美は、冗談めかして泣き笑いの表情で言った。
「僕だけには、自分を殺さなくてもいいんですよ」
 菊池の温かい言葉に、懸命に呑み込んでいた嗚咽が漏れ始めた。
「菊池君も……人が悪いわね……」
 しゃくり上げつつ、雪美は言った。
「……先輩が、ひまわりさんのところに戻っても哀しくありませんか?」
 菊池が、遠慮がちに訊ねてきた。
「哀しいわ」
 躊躇わずに、雪美は答えた。
「だったら、僕のことが好きだなんて嘘を……」
「でも、後悔はしてないよ」
 菊池を遮り、雪美はきっぱりと言った。
「え?」
 菊池が、怪訝な顔で雪美を見た。
「わかったの。悠ちゃんには私より、ひまわりさんのほうが相応しいってね」
「そんなことないですよ! 先輩が人生で初めて結婚してもいいと思った人は堀越さんなんですから!」
 強い口調で、菊池が否定した。
「ありがとう。菊池君は、いつだって私の味方なのね。私は、あなたにひどいことばかりしているのに」
 雪美は、眼を細めて菊池をみつめた。
「だったら、僕の願いを叶えてくださいよ」
「え……」
「もう、嫌だな。冗談ですよ。同情でつき合って貰っても、虚しいだけですから。僕、言ったじゃないですか。堀越さんが振り向いてくれるまで、いつまでも待つって」
 それまで朗らかだった菊池の瞳が暗く翳るのを見て、雪美ははっとした。
「でも……」
 なにかを言いかけた菊池が言葉を切り、眼を閉じた。
 五秒、十秒……沈黙が続いた。
 菊池の長い睫毛が小刻みに震えるのを見て、雪美は予感した。
「堀越さんを……諦めます」
 眼を開けた菊池が、うわずる声で言った。
 雪美は、無言で菊池の瞳を受け止めた。
 彼にたいして、かける言葉はなかった……いや、言葉をかける資格はなかった。
「気持ちが変わったとか、そういうわけじゃありません。堀越さんへの思いは、逆に強くなっています」
 言葉を噛み締めるように、菊池が言った。
「だけど、わかったんです。堀越さんが先輩に、僕とつき合っていると嘘を吐いたことを聞いたときに……。自分が悪者になってまで身を引いたのは、いまでも先輩を愛しているからだってね。いくら鈍感で諦めの悪い僕だって、気づきますよ。堀越さんの心に、僕の入り込む隙は少しもないということをね」
 菊池が、寂しげに笑った。
「だから、潔く身を引こうと決めたんです。僕の解釈、間違ってませんよね?」
 雪美は、眼を伏せた。
 さんざん振り回しておきながら、菊池に応えてあげることのできない自分に腹が立った。ずるくて、残酷な自分にほとほと嫌気が差した。
 不意に、菊池が右手を差し出した。
 雪美は顔を上げた。
「次に会うときは、純粋な友人として」
 菊池が、微笑んだ。
 雪美は、神妙な顔で小さく頷いた。
 
 ごめんなさい……。

 心で詫びながら雪美は、菊池の右手を握った。
(第50回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop