双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第 47 回

 

第4章

1


 見覚えのある路地、見覚えのあるコンビニエンスストア、見覚えのあるクリーム色の外壁の戸建て……約四ヵ月ぶりに帰ってきた実家の前で、悠太は足を止めた。
 本当なら記憶が戻り喜ばしいことのはずが、悠太の気持ちは晴れなかった。
 
 ――どうすれば、あの憐れな子を見捨てないでくれるんじゃ!

 老人の悲痛な声が、悠太の罪悪感に爪を立てた。
 
 ――ユータは、ウチにひどいことなんかしてないぞ。ユータといると愉しかった。たくさん笑った。ウチは、ユータと会えてよかった。

 ひまわりの明るく振舞う姿が、悠太の心を掻き毟った。
 記憶を失っている間に、自分はもう一つの人生を送った。
 かけがえのない人達と出会い、死と紙一重の環境で力を合わせ生き抜いた。
 過ごした時間は長いとは言えなかったが、悠太にとっては忘れようのない濃密なひとときだった。
 玄関のドアの前に立った悠太は、深呼吸を繰り返した。
 島での生活で薄汚れていたデニムとTシャツを海水で洗ったものを着ていたが、クリスマスの足音が近づく東京では人々の注目を集めた。
 だが、いまの悠太には好奇の視線を気にしている余裕はなかった。
 母に帰ることは伝えていなかったので、留守かもしれなかった。
 スマートフォンはなかったが、その気になれば公衆電話から連絡を入れることもできた。
 だが、電話での第一声がどうしても思い浮かばず、直接帰ることにしたのだ。

 ――お前……幽霊じゃないよな!?

 羽田空港に着いて真っ先に顔を出した「ドリームサポート」の店内に入った瞬間、佐竹が驚きに眼をまんまるにしていた。
 佐竹とは昼ご飯を食べに行くことを約束し、悠太は社長を訪ね詫びを入れた。

 ――俺が事情を話して繋いでおいてやったからな。復帰して落ち着いたら、お礼にかわいい子紹介しろよ……って、お前、浦島太郎だから無理か!
 
 佐竹から、生存しているが記憶を失っているという事情説明を受けていた社長は、悠太のデスクをそのままにしておいてくれた。
 尤も、社長の立場からすれば勤務中の事故なので悠太の出方一つで使用者として責任を問われる可能性もあり、解雇を躊躇っていたという事情もあるのだろう。
 ツアー地の視察に行く際のフィッシングボートの転覆事故なので、悠太がその気になれば労災の適用を申し出ることもできるのだ。
 だが、悠太にはその気はなかった。
 以前通りに仕事ができれば、それだけで満足だった。
 悠太がインターホンを押そうとしたときに、突然、ドアが開いた。
「お帰り」
 なにごともなかったように、里恵が笑顔で出迎えた。
「雰囲気、変わらないね」
 悠太はリビングのソファに腰を下ろしながら、室内に首を巡らせた。
「たった数ヵ月で、なに言ってるの。何年も経っているわけでもないでしょうに。お腹減ってる?」
 里恵は久しぶりの再会とは思えない自然な感じで、悠太に訊ねてきた。
 まるで、昨日も会ったとでもいうように。
「いや、ここにくる前に会社に顔を出して佐竹と昼ご飯を食べてきたから」
「そう、じゃあ、飲み物を持ってくるから」
 里恵は言い残し、リビングを出た。

 ――それにしても、ひとりで夏してるな。

「ドリームサポート」の近くのカフェに入ったときに、デニムにTシャツという場違いな姿の悠太に、客のサラリーマンやOLが好奇の視線を向けてくるのを見た佐竹がからかうように言った。

 ――質問攻めにしたいところだけど、まずは、記憶は完全に戻ったのか?
 ――うん。君にも、迷惑かけたな。
 ――俺はどうってことないけど……。
 ――この後、実家に寄ってから雪美と会おうと思っている。

 言い淀む佐竹の心中を察し、悠太は切り出した。

 ――縒りを戻すのか?

「アイスコーヒーでいい?」
 記憶の中の佐竹の声に、里恵の声が重なった。
「ありがとう」
「前より、逞しくなったんじゃない? 色も黒くなったし」
 里恵が、悠太の前にアイスコーヒーのグラスを置きながら言った。
「うん。ウサギとかカラスとか、食事のための獲物は自分達で狩っていたような生活をしてたからさ。信じられないだろう? 蛇とか蛙とかも食べてたんだよ」
 悠太は甦りそうになるひまわりの記憶を打ち消すように、努めて明るく語った。 
「島の人に、お礼を言わなきゃね」
 里恵が、悠太の顔をまじまじとみつめながら言った。
 瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
「島には、もう、行かないつもりだよ」
 悠太は眼を逸らして言うと、アイスコーヒーのグラスを傾けた。
「会社には、また行くことにしたの?」
 里恵が、話題を変えた。
 昔から里恵は、デリケートな問題であればあるほど、悠太が切り出さないかぎり根掘り葉掘り訊いてこない女性だった。
 連絡する方法はなかったの? どうやって暮らしてたの? 一緒にいた女性はどんな人なの? なぜ、無人島で暮らしていたの? 二人は、どこまでの関係なの? 彼女を好きなの? 雪美ちゃんとは、どうするつもり?
 突然、フィッシングボートが転覆して行方不明になり、数ヵ月ぶりに会ったのだ。
 母親として、知りたいことは山とあるはずだった。
 なにも訊いてこない里恵の思いやりに、悠太の胸は締めつけられた。
「ああ。東京で暮らすなら、働かなきゃね。ここは無人島じゃないんだからさ」
 悠太は、引き続き明るく振舞いながら本題を切り出すタイミングを窺った。
「そうね。まあ、一時はどうなるかと肝を冷やしたけれど、いい経験になったんじゃないの? 人が一生かけてもできないような体験をしたんだから」
 里恵の口調は相変わらずあっけらかんとしていたが、悠太をみつめる瞳は潤んでいた。
「心配かけて、ごめん」
 素直に、詫びの言葉が口を衝いて出た。 
「一番大変な思いをしたのはあなただから、謝ることはないわ。ただ、雪美ちゃんにだけはきちんと向き合って話し合わなければだめよ」
 里恵が、悠太の心を見透かしたように言った。
 悠太は小さく頷き、アイスコーヒーで喉を潤した。
 それからしばらくの間、重苦しい沈黙が広がった。
 胸の中のしこりのような思いが、喉もとまで込み上がってくるたびに呑み下すことを繰り返した。
「……二人と、別れるつもりだよ」
 薄く掠れた声を、悠太は絞り出した。
「そう」
 里恵は、口もとに笑みを湛えただけだった。
「理由は、訊かないの?」
「私が聞いて、どうにかなる理由なの?」
 真っすぐにみつめてくる里恵から逃げるように、悠太は眼を伏せた。
 もしかしたら、胸奥で揺れ動く思いを見抜かれているのかもしれなかった。
 アイスコーヒーのグラスを持つ手が震えた。
「あなたが体験した特殊な状況なら、雪美ちゃん以外の女性を好きになっても仕方がないと思うわ。パソコンじゃないんだから、記憶が甦ったからといって芽生えた感情を簡単に消すこともできないでしょうし」
 里恵の言葉に、テーブルに滴が落ちて弾けた。
「大事なのは、真実から逃げずに自分の本当の気持ちに向き合ってみて、今後どうするかを決めることよ」
「僕は……罪人だ……」
 悠太は俯いたまま、声を絞り出した。
「どうして、悠太が罪人なの?」
 穏やかな口調で、里恵が促した。
「どんな理由があっても、雪美を裏切ったことに変わりはない」
「記憶を失っていたときの出来事だから……」
「記憶が戻ってからも、ひまわりを忘れられないんだ」
 悠太は、己への侮蔑の籠った悲痛な声で里恵を遮った。
「それが、罪なの?」
 里恵の問いかけに、悠太は頷いた。
「記憶を失っているときに好きになった人にたいして、記憶が戻ったからといってその感情がなくなるほうが不自然じゃないかしら?」
 どこまでも優しく受け止めてくれる里恵の心遣いが、いまの悠太には拷問のように苦しかった。
「もし……」
 悠太は言い淀んだ。
 言葉に続く感情からは、ずっと眼を逸らし続けていた。
 悠太は沈黙した。
 きつく眼を閉じた。
 沈黙が、さらに続いた。
 きつく唇を噛み締めた。
 里恵は、根気強く悠太が口を開くのを待っていた。
 悠太は顔を上げ、ゆっくりと眼を開き里恵を直視した。
「雪美にたいしてよりひまわりへの気持ちが強かったら……それは罪だと思う」
 封印してきた感情を、悠太は初めて口にした。
 こんなにも、自分が軽薄な人間だと感じたのは……こんなにも、自分が醜い人間だと感じたのは初めてだった。
 里恵は、表情を変えずにじっと悠太をみつめていた。
「軽蔑しただろう? 遠慮なく、言っていいよ。自分でも、最低の人間だと思っているから」
 人間失格――悠太は、自嘲的に笑うことさえできなかった。
「息子だからとか、同情心からじゃなくて、母さんは罪だと思わないな」
「やめてくれよ! 別に、慰めてほしくて言ってるわけじゃないんだっ。婚約までしている雪美よりひまわりへの想いが強いかもしれないなんて……人として最低だよ!」
 抑圧した感情が、一気に爆発した。
 雪美よりひまわりへの想いが強いと、はっきりと認識したわけではなかった。
 しかし、そうかもしれない、という可能性があるだけでも自分が許せなかった。
「人だから、そういうこともあるんじゃない? 機械みたいに、二人に同じエネルギーだけ愛情を注ぐというのは無理な話よ。あなたと同じ状況になったら、誰だってそうなるわ。母親だって、二人の子供がいたらまったく同じエネルギーでは愛せないものだから。たまたまあなたの想いの強さが、少しだけひまわりさんにたいして上回っただけ。それが罪だというのなら、世界中の親達も罪人になるわ」
 里恵が、諭し聞かせるように言った。
 たしかに、里恵の言う通りなのかもしれない。
 だが、もしそうだとしても、雪美にたいしての免罪符になりはしない。
「ありがとう。でも、僕は僕を許せない」
「だったら、二人と別れるなんて言うんじゃありません!」
 それまでと一転した強い口調で、里恵が悠太を一喝した。
「え……?」
 悠太は、里恵の真意が読めなかった。
「ひまわりさんへの想いがより強いのなら、雪美さんと別れるべきでしょう!?」
「そんなこと、できるわけないじゃないかっ」
「もし、雪美さんに悪いと思っているのなら、それは逆に失礼なことよ!」
「どうして、二人と別れることが雪美に失礼なのさ!?」
 相変わらず、悠太には里恵の言わんとしていることが理解できなかった。
「あなたが、こんなに鈍感な子だとは思わなかったわ。ひまわりさんに気が向いているのに雪美さんへの同情心で二人と別れるなんて、そのほうがよほど屈辱よ!」
「誰も同情なんて……」
「そう言ってるのと同じよっ。逆の立場で考えてみるといいわ。もし、雪美ちゃんがあなたが死んだと思って菊池君とつき合ったとする。そこへ、あなたが生きていることがわかった。雪美ちゃんはもちろん悠太のことを好きだけど、それ以上に菊池君への想いが強くなっていることに薄々気づく。雪美ちゃんが、あなたに申し訳ないからって菊池君とも別れたら嬉しい?」
 雪美が菊池を……。
 里恵のたとえ話を聞いただけで、傷口に爪を立てられたように胸に疼痛が走った。
 雪美の場合はたとえではなく現実……。
 胸が張り裂けてしまいそうだった。
 悠太は答える代わりに、うなだれた。
「たとえあなたがひまわりさんを選んでも、雪美ちゃんは恨んだりしないわ。彼女は悠太が思っているよりも、ずっと大人よ。そして、誰よりもあなたのことを考えているわ」
 肩が震えた――背中が波打ち、唇から嗚咽が漏れ出した。
 ふたたび、テーブルに雨が降り始めたアスファルトのように滴が落ちた。
 背中に、里恵の掌の温かみが広がった。
「雪美ちゃんのためにも、逃げちゃだめ」
 悠太の嗚咽が激しさを増した。
「彼女達を愛した責任を取るのは、二人と別れることじゃない。つらくてもどちらか一人を選ぶことが、残された人に誠実に向き合うということになるのよ」
「……わかった。もう一度……自分の心に向き合ってみるよ」
 悠太は、手の甲で涙を拭いつつ言った。
「私も本当のことを言うと、雪美ちゃんを選んでほしいって気持ちがあったわ。ひまわりさんを想う気持ちのほうが強いかもしれないって聞いたときは、胸が痛んだ。どうして、雪美ちゃんじゃなくてひまわりさんなの……ってね」
「ごめん……」
「母さんが正直な気持ちを話したのは、なぜだと思う?」
 悠太は、首を傾げ気味に里恵をみつめた。 
「あなたを見習ったの」
「僕を見習った?」
「そうよ。普通なら、わざわざ雪美さんよりひまわりさんへの想いが強いなんて言わないものよ。そんなことを言ったら、悪者になるのはわかりきっていることだから。だけど、あなたは自分の気持ちに嘘を吐かなかった。周囲の人に非難されることを覚悟の上で、自分の気持ちから眼を逸らさなかった。だからこそ、雪美ちゃんに情けをかけるような選択をしてほしくないの」
 里恵が、訴えかける瞳で悠太をみつめた。
「あなたがひまわりさんとつき合わなかったとしても、雪美ちゃんの心の傷は浅くならないのよ。厳しいことを言うけど、あなたの心にひまわりさんが住み始めた時点で、雪美ちゃんは長い時間をかけなければ癒えない傷を負ってしまったの。中途半端な優しさは、余計に雪美ちゃんを傷つけることになるわ。それに、雪美ちゃんは悠太の幸せを切に願っている。たとえそれが、ほかの女性との間で育む幸せであってもね。なぜだかわかる? 彼女があなたを想う愛が、本物だからよ」
 里恵の顔がみるみる滲み、ぼやけた。
 とめどなく溢れる涙が、悠太の頬を伝いテーブルの上で握り締めていた拳を濡らした。
 奥歯を噛み締め、嗚咽を殺した。

 ――私達って、最悪の出会いだったでしょう? 悠ちゃんは、私のどんなところを好きになってくれたの?

 ある日の夜……ディナーの席で、グラス半分のワインで頬を赤らめた雪美の姿が記憶に甦った。

 ――うん、なんて高飛車で自己中心的でわがままな女の子かと思ったよ。
 ――まあ、それは言い過ぎなんじゃない?

 雪美が、軽く睨みつけてきた。

 ――それから、正直で、まっすぐで、明るくて、前向きで、おっちょこちょいで、情にもろくて、お人好しで、純粋で……一つ残らず、どんな雪美も好きになったんだよ。
 ――悠ちゃん……。

 悠太を睨みつけていた雪美がはにかみ、俯いた。

 ――ま、当然だけどね! 実家は資産家で才色兼備で……こんな素敵な女性を逃したら、一生後悔するわよ。

 茶目っ気たっぷりに言うと、雪美が朗らかに笑った。

 ――資産家の娘でなくても、才色兼備でなくても、雪美を逃してしまったら一生後悔するよ。
 ――ありがとう。これで、勘当されても安心ね。

 雪美は、悪戯っぽい表情で舌を出した。
 
 ――今度は、僕の番だよ。資産家で才色兼備な君が、どうして僕を好きになってくれたの? 僕の印象も、最悪だったよね?

 悠太も、冗談めかして訊ねた。
 
 ――うん! 最悪! だって、私が悠ちゃんのスマホを拾ってあげたのに、勝手に電源を入れるのはマナーがどうのこうのとか文句を言うなんて、なんて素直じゃない人かしらって思ったわ。でもね、すぐにわかったの。その逆だって。悠ちゃんは、誰よりも素直で正直な人よ。ただ、不器用で嘘が吐けないから人に誤解されるようなことを言うんだってね。自分が嫌われたくないから、相手を傷つけたくないから……普通の人は、嘘を吐く理由をいくつか持っているものよ。だけど、悠ちゃんは、自分が嫌われたとしても、相手を傷つけることになったとしても、自分の心に嘘を吐かない人……こんなに誠実で実直な人を好きにならない理由なんてないでしょう?

 悠太をみつめる雪美の顔が、昨日のことのように悠太の脳裏に甦った。
 震える膝を鷲掴みにして押さえた。
 雪美の信頼しきった瞳が、悠太の心を掻き毟った。
 限界だった。
 唇を割って出る嗚咽――悠太は、声を上げて泣いた。
 あのときの自分には、雪美以外の女性は視界に入らなかった。
 生涯、愛するのは雪美だけ……信じて疑わなかった。
 記憶を失ったから。
 たしかに、記憶を失わなければひまわりを愛することはなかっただろう。
 だが、だからといって、雪美を裏切ったことへの免罪符になりはしない。
「いつまで泣いているつもり? 雪美ちゃんに、会いに行くんでしょう?」
 里恵が、優しく訊ねてきた。
 悠太は涙を拭きながら頷いた。
「雪美ちゃんを愛しているなら、あなたの気持ちを正直に告げてきなさい。それが、雪美ちゃんにたいして唯一できる罪滅ぼしよ」
 里恵が、悠太に力強い口調で促した。
「……ありがとう、母さん」
 悠太は、泣き笑いの表情で言うと席を立った。
 
(第48回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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