第45回
12
空が白み始めていた。悠太は調理場の火床に腰を屈め、薪の煤を指先で掬った。
ここでの食事は、忘れようにも忘れられなかった。
初めてカミキリムシの幼虫を出されたときは、驚きに声も出なかった。
おかげで、カラスの肉程度は普通に食べられるようになった。
狩りも覚えた。
ひまわりほどではないが、数十回に一度は野ウサギを槍で仕留められるようになった。
記憶を取り戻したいま、以前の自分とは別人になったことがわかる。
別人としての人生を歩もうと、頭を過ったこともあった。
ひまわりと、この島で生涯をともにする……そう決意しかけたこともあった。
だが、もう一人の自分がそれを許さなかった。
もう一人の自分……雪美を愛した自分。
悠太は立ち上がり、高床の住居を見上げた。
ひまわりは、まだ寝ているだろう。
会わずに行くつもりだった――あの混じり気のない野生動物のような瞳を見れば、気持ちが揺らぎそうで怖かった。
――白い女だ。ウチより、槍を遠くに投げられるのか?
――いや……彼女は都会で育ったから、ひまわりには勝てないよ。
――足が遅い女になりたかったな。そしたら、白い女よりウチを好きになっただろ?
脳裏に甦るひまわりの無邪気さが、悠太の胸を締めつけた。
――本当は、離れるのは嫌だ……ウチは、ユータと離れたくない。
初めて見た弱々しいひまわりの姿に、胸を掻き毟られる思いだった。
感傷を振り切るように、悠太は海辺に向かって歩き出した。
老人は既に、岩場に仕掛けていた蟹を捕まえる罠の回収に出かけていた。
本当に、後悔はないのか?
声がした。
後悔して誰も傷つかないのなら、いくらでも後悔する。
二人の前から消えることが、自分にできる最善の解決策だ。
岩場の合間を覗き込む老人の姿が、遠くに見えた。
悠太は、重い足取りで岩場に向かった。
正直、気が重かった。
――あの子は天涯孤独じゃ。わしが死んだら、誰も頼るものがおらん。お前だけが頼りなんじゃよ。頼む。ひまわりを一人にせんでくれ。じゃなければ、死んでも死に切れん……。
老人の声が甦り、罪悪感に爪を立てた。
ひまわりなら、一人でも逞しく生きてゆける。
たしかに、飢え死にしないという意味ではそうだろう。
だが、彼女の心はどうなる?
話し相手もいない無人島で、生涯、一人きりで暮らせというのか?
ふたたび聞こえてくる自責の声を、罪悪感とともに頭から打ち消した。
そんなことは、わかっていた。
わかっていたが、自分にはどうすることもできない以上、仕方がなかった。
「何匹いますか?」
悠太は、ブリキの缶を回収する老人の背中に声をかけた。
老人は返事をせず、次の罠場に移動した。
「謝って済むことでないのは、わかっています。でも、約束を守れなくてすみません……」
老人の背中に、悠太は頭を下げた。
「明日は、お前が回収してくれ。わしは、ひさしぶりに沖で魚を獲ってくるからのう」
老人が、悠太の話を聞いていなかったとでもいうように背中越しに言った。
「あの、僕は今日、この島を……」
「あ、それから、ひまわりに漢字を教えてやってくれんか? あの子も、字の読み書きくらいはできんとな」
老人が笑顔で振り返り、悠太の言葉を遮った。
怯みかける心を、悠太は奮い立たせた。
「僕、いまから島を出ます」
意を決して、悠太は切り出した。
「漢字の前に平仮名からだな。大変じゃが、頼んだぞ」
老人は悠太の言葉を受け流し、ポン、と肩を叩いた。
「聞いてくださいっ。僕はもう、ひまわりさんと一緒にいることは……」
「黙れ! 聞かなかったことにする」
老人が、悠太を一喝した。
「申し訳ありません」
唐突に、悠太は跪いた。
「やめんか! お前にそんなことされる覚えはない!」
「ひまわりさんを守るという約束を果たすことができずに、僕も残念です……」
悠太は唇を噛み、うなだれた。
「なにを言っておるんだ!? お前は約束を破っていないから、謝らんでもいい。さあ、早く立たんかっ」
老人は、あくまでも悠太の決意を受け入れないつもりのようだった。
「僕を……許してください」
悠太は、声を絞り出した。
「だから、なんで謝るんじゃ! 立てと言っておるだろう!」
老人が、悠太の胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「すみません……」
涙に潤む眼で、悠太は老人をみつめた。
「お前……本気なのか? 本気で、島を出るつもりか?」
老人の眼も、潤んでいた。
悠太は、悲痛な顔で頷いた。
「白い女と、結婚するのか?」
押し殺した声で、老人が訊ねてきた。
「いいえ、別れを告げてきます」
「なんじゃ? 戻ってくるのか!?」
瞳を輝かせる老人に、悠太はゆっくりと首を横に振った。
「二人と別れて、一人で生きます」
「白い女と結婚しないのなら、ひまわりと一緒になればいいじゃろう?」
「どちらか一人と一緒になれば、残された人を傷つけてしまいます……わかってください」
「白い女には、家族がおるだろう? 慰めてくれる、友達もおるだろう? じゃが、ひまわりにはわしだけじゃ。なあ、頼む。この通りじゃ」
今度は、いきなり老人が跪いた。
「ちょっと……そんなこと、やめてください!」
悠太は老人の腕を取り、立ち上がらせようとしたが物凄い力で振り払われた。
「お前がひまわりと一緒に暮らすと約束するまで、わしはここから一歩も動かんぞ!」
「困ります……もう、決めたことなんです」
悠太は、甦りそうになるひまわりへの想いを打ち消した。
記憶を取り戻してからは、その想いを感じるたびに罪悪感に打ちひしがれた。
「じゃあ、どうすれば、あの憐れな子を見捨てないでくれるんじゃ!」
老人の悲痛な叫びに、悠太はきつく眼を閉じた。
たしかに、老人の言う通りだった。
奥歯を噛み締め、拳をきつく握り締めた。
本音を言えば、そう遠くないだろう日に天涯孤独になるひまわりを残して島を出ることが、心配でならなかった。
もし、犯罪者が逃げ込んできたら?
もし、どこかの資産家が島を所有したら?
もし、病院に行かなければならないような大怪我をしたり病気になったりしたら?
なにより、毎晩、ひまわりは闇を孤独に過ごさなければならなくなる。
嬉しいこと、哀しいこと、悩み事があっても、それを話す相手がいない。
一、 二週間の話ではない……生涯、六十年も七十年も、孤独の日々は死ぬまで続くのだ。
二人を傷つけたくないから姿を消すというのは、都合がよすぎはしないか?
自分がいなくなったところで、雪美とひまわりの心の傷は癒えはしない。
単なる自己満足……罪の意識から逃げようとしているだけだ。
それに、そもそも雪美とひまわりは置かれている状況が違う。
ひまわりには恋愛感情云々の傷だけではなく、孤独に生きていかなければならないという別の問題がある。
婚約者としてではなく、ひまわりにたいしては人間としての責任があるのではないか?
悠太の中で、決意が揺らぎ始めていた。
だが、雪美はどうなる?
ひまわりの置かれている状況を説明し、理解して貰えというのか?
しかも、知らなかったこととはいえ、ひまわりは自分の婚約者を奪った相手なのだ。
雪美の気持ちは……。
自分の気持ちは?
不意に、疑問が浮かんだ。
もし、雪美が受け入れたなら、それでいいのか?
ひまわりにたいしての想いのほうが強いというわけではない。
しかし、雪美よりも頼る相手がいないということを考えると……。
「もし、片腕を差し出すことでひまわりが孤独にならないというのなら、喜んで差し出そう。両足を差し出せというのなら、喜んで差し出そう。老い先短い老人の頼みを、聞いてはくれんか?」
老人が、哀願する顔で悠太を見上げた。
動きかける心を、悠太は懸命に引き戻した。
雪美への気持ちを思い出していないときであれば……婚約者がいたという情報を頭の中で知っているだけのときであれば、そうしただろう。
彼女と過ごした日々の感情が甦った以上、それは無理だ。
「すみません……」
悠太も跪き、力なくうなだれた。
「義務か?」
老人が、赤く充血した眼で悠太を見据えた。
「え?」
「それとも、同情か? ひまわりと暮らすと、白い女に悪いと思っておるだけじゃないのか? そうであれば、それは白い女にも失礼なことじゃ」
老人の言葉が鋭い矢じりのように、悠太の良心を突き刺した。
もちろん、雪美への義務や同情で島を出る決意をしたわけではない。
雪美を愛している。
ただ、昔と違い、ひまわりへの想いがあるのも事実だ。
自分は、以前のように雪美を愛しているのだろうか?
以前と同じくらいに、雪美を想っていると言えるのだろうか?
ずっと眼を逸らし続けていた疑問を、悠太は打ち消した。
考えても、仕方のないことだ。
雪美だけを愛していたときの想いとひまわりと出会ってからの想いは、比べようがないのだから。
「僕は……雪美さんを愛しています」
嘘ではない。
「ひまわりのことは、遊びだったというのか!」
老人のもともと赤らんだ顔が、さらに紅潮した。
「違いますっ、遊びなんかじゃありません!」
嘘ではない。
二人の女性を同時に愛しているという事実と向き合うたびに、激しい自己嫌悪に苛まれてしまう。
「これほどまでに頼んでも、だめなのか?」
老人が、絞り出すようなしわがれ声で言った。
悠太は無言で立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おい……やめろ、なにをやっておる」
老人の声は、怒りに震えているようだった。
十秒、二十秒……。
悠太は、頭を下げ続けた。
「なぜ黙っておる!? なんとか言わんか!」
三十秒、四十秒……。
悠太は、頭を下げ続けた。
「お前の気持ちは、よくわかった。本土でもどこへでも行ってしまえ!」
老人は吐き捨てると、その場から立ち去った。
それでも、悠太は頭を下げ続けた。
「本当に、すみません……」
悠太は、震える声で詫びた。
老人に、雪美に、ひまわりに……傷つけたすべての人に。
スニーカーの爪先に、涙が落ちて弾けた。
(第46回につづく)
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