双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第43回

9

 プードルを散歩させる若い女性、ベンチに座りスマートフォンをイジるサラリーマンふうの男性、砂場で戯れる二人の幼児、幼児達を見守る母親……ブランコに座った雪美は、虚ろな視線を昼下がりの園内に巡らせた。
 悠太の実家の近くに児童公園があることは知っていたが、足を踏み入れたのは初めてだった。
 園内に流れる時間が足踏みするようなゆったりとした空気とは裏腹に、雪美の心は落ち着かなかった。

 ――私が、こんなこと言えた義理でないのはわかっているけど、もう一度、あの子の婚約者になって貰えないかしら?

 悠太の実家のリビングルームで、思い詰めた表情で雪美に懇願する里恵の顔が脳裏に甦った。
 だから、なんだというのだ?
 子を持つ母親が願いを口にしただけに過ぎない。
 そう、里恵の思いであり悠太がそう願っているのでは……。
 雪美はブランコを大きく漕ぎ、記憶の中の里恵の声を振り払った。
 たとえ、悠太がそう願ったとしても雪美の気持ちは変わらない……変わるわけにはいかない。
 雪美は、自分に言い聞かせた。
「ママ、あのお姉ちゃん、大きいのにブランコに乗ってるよ!」
「大人なのに、子供みたい!」
 幼子二人が、雪美を指差し無邪気に笑った。
「そんなこと言っちゃだめよ。大人だって、ブランコに乗りたいときもあるのよ」
 母親の窘める声が、遠くなり、近くなり、また、遠くなった。
 ブランコに乗ったのは、いつ以来だろうか?
 あまりに記憶が遠過ぎて、覚えていなかった。
 できるなら、その頃に戻りたかった。
 悠太を知らない幼き自分……悠太と出会う前の、ずっとずっと昔の自分に。
「あら、大きなお嬢さんね」
 公園の入り口に現れた女性……里恵が笑みを湛えながら歩み寄ってきた。
「あ、すみません」
 雪美は、慌ててブランコを止めた。
「いいのよ。急に私が呼び出したんだから」 
 立ち上がろうとする雪美を片手で制し、里恵は隣のブランコに腰を下ろした。
 今朝、里恵から電話がかかってきて、唐突に話があるから会ってほしいと言われたのだった。
 昨日、悠太との関係を今後どうするのかについて話し合ったばかりなので、里恵に呼び出されること自体は不思議ではない。
 ただ、なぜ実家ではなく児童公園なのかがわからなかった。
「周りは新しいマンションやお店ができてどんどん雰囲気が変わったけど、この公園だけは昔のままね」
 里恵が、園内を見渡しつつ懐かしそうに言った。
「よく、くるんですか?」
「中に入ったのは、二十数年ぶりかしら」
「え……そんなにですか?」 
「悠太が幼い頃は、毎日のようにきてたのよ。三歳の頃に、このブランコに乗りたいって駄々をこねてね。あの子は昔から、一度言い出したら聞かない頑固者だったわ」
 里恵が苦笑いを浮かべた。
「結局、私の眼を盗んで勝手にブランコに乗って、あの子、落っこちて膝を三針縫ったのよ」
 里恵が、唇をへの字に曲げた。
「で、普通なら、それで懲りるでしょう? でも、あの子、次に公園にきたときもブランコに乗って、また落ちてね」
 呆れたように言うと、ふたたび苦笑した。
 悠太らしい、と雪美は思った。
 
 ――悠ちゃん、もう、いいよ。
 
 ある日、映画を観た帰りに、ふらりと入ったゲームセンターで雪美はクレーンゲームの商品……アニメキャラクターのぬいぐるみを悠太にねだったことを後悔していた。

 ――待って。もう少しで取れるから。
 
 悠太は、コイン投入口に三枚目の五百円玉を入れた。
 一枚あたり五回のチャレンジは、すぐに終わった。

 ――もう、諦めよう。買ったほうが安いって。
 ――本当に、もう少しだから。

 六枚、七枚、八枚と五百円玉を入れ続けた悠太は、十枚目のチャレンジでようやくぬいぐるみを取れた。

 ――五千円も使ったじゃない。三つは買えたよ。
 ――ごめん。でも、諦めるのが死ぬほど嫌いな性格をしててさ。
 
 言葉とは裏腹に悠太は、達成感に満ちた顔で屈託なく笑った。
 雪美はため息を吐いてみせたが、悠太のそんなところも好きだった。

 悠ちゃん、私はあなたみたいに頑張れないよ。
 だから、ごめんね。
 私は……星川悠太を諦めるわ。
「これ」
 不意に、里恵がスマートフォンを雪美の前に差し出した。
「え?」
 雪美は、里恵に疑問符の浮かぶ顔を向けた。
「読んでみて」
 里恵に促され、雪美はスマートフォンを受け取りディスプレイに視線を落とした。

 母さんにメールを送るの、初めてだよね?
 でも、電話じゃ恥ずかしいから。
 いきなりだけど、いま、結婚を考えてつき合っている人がいる。
 僕より五つ下で、大学生の女の子なんだ。
 僕が落としたスマホを拾ってくれたことが出会いのきっかけだけど、最初の印象は最悪だった。(笑)
 上から目線で、自己主張が強くて……でも、彼女を知るほどに、わかったことがあるんだ。
 本当は誰よりも気遣いができて、自分のことよりも僕のことを第一に考えてくれる女性だってね。
 初めて、生涯をともにしたいと思える人に出会えた。
 母さんとも、きっと気が合うと思うよ。
 名前は、堀越雪美さんというんだ。
 美しい名前でしょ。(笑)
 僕は、雪美さんのためなら将来を捧げることができる。
 母さんは、知ってるだろう?
 僕が子供の頃から、一度口にしたら絶対に最後までやり遂げる性格だって。
 これからの人生、いろんな試練があるだろうけど、僕にはわかるんだ。
 どんなことがあっても、僕は彼女の手を放さないって。
 メールだからって、調子に乗っていろんなことを書き過ぎたね。
 近いうち、雪美さんを連れて行くよ。
 また、連絡する。

 胸奥で蠢く感情――無視した。
 甦りそうになる感情――無視した。 
 記憶を失う前の悠太の言葉……記憶を失ってからの悠太の言葉ではない。
 雪美は、口もとに力ない微笑みを浮かべながらスマートフォンを里恵に返した。
「あっさりと、放しちゃったわね」
 里恵が、ブランコに揺られながら呟いた。
 雪美は、無言で里恵に顔を向けた。
「おばちゃんとお姉ちゃんがブランコに乗ってる!」
 さっきの幼子のうちの一人が、雪美と里恵を指差した。
「もう、失礼だから人を指差しちゃだめよ」
 すかさず、母親が幼子を窘めた。
「見失ったのね。人込みで母親の手を放してしまった迷子みたいに」
 里恵が、独り言を続けた。
「迷子はね、必ず戻ってくるの。一度はぐれてしまったからって、戻ってこようとする子供に背を向ける母親はいないでしょう?」
 里恵は言いながら、雪美をみつめた。
「こんなことを頼むのは、新しい道に踏み出そうとしているあなたに申し訳ないと思うわ。でも、昨日もお願いしたけれど、もう一度だけ、あの子にチャンスを与えてくれないかしら? 誤解してほしくないのは、私が母親だからそう言っているんじゃないってこと。悠太が自ら進んであなたの手を放したなら、私もこんなことを言わないわ。あの子の心では、雪美ちゃんの手を握ったままなのよ」
 里恵の瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。 
「考えさせて……ください」
 雪美は、絞り出すような声で言った。
「もう、あの子のことを……?」
 里恵が、遠慮がちに訊ねてきた。
 雪美は唇を引き結び、眼を閉じた。
 頭を空っぽにし、心を無にした。
 少しでも悠太に意識のフォーカスを当ててしまうと、断腸の思いで閉めた心の扉を開けてしまいそうだった。
「そうよね。記憶を失ったからって、別の女性とつき合っている悠太をいまでも好きでいてほしいと願うのは親のエゴね。ごめんなさいね、雪美……」
「愛しています……いまでも」
 雪美はおもむろに眼を開け、里恵をみつめた。
「雪美ちゃん……」
「でも、彼女……ひまわりさんだって、それは同じだと思います」
 雪美は、胸が引き裂かれる思いで口にした。
「彼女は、私と婚約している悠ちゃんと出会ったんじゃありません。ひまわりさんが好きになったのは、私の存在を知らない悠ちゃんです」
「雪美ちゃんは、身を引くと決めたのね?」
 念を押すように、里恵が訊ねてきた。
「昔の悠ちゃんを……何度か、迎えに行きました」
 絞り出すような声で雪美は言うと、すべての感情を置き去りにするように大きくブランコを漕ぎ始めた。
「そうよね。そうだったわね……」
 里恵が哀しげに呟いた。
「もし……」
「昔の悠太が……」
「戻ってきたら……」
「最後に一度だけ……」
「迎えてあげてほしいの」
 里恵の声が、小さくなり大きくなった。
 
 最後に一度だけ……。
 
 雪美は、遠のいては近づく空をみつめながら、自らに言い聞かせた。
(第44回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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