双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第41回

7

 悠太の実家のリビングルームには、重い空気が張り詰めていた。
 L字型のソファに、悠太の母の里恵、雪美と母の真梨子、菊池と佐竹が座っていた。
 どの顔も暗く、里恵が出してくれたお茶には手をつけていなかった。
 悠太の件で話があるからと、雪美が招集をかけたのだ。
 みなが席に着いてまだ五分ほどしか経っておらず、それぞれ挨拶を交わしただけで雪美はを話してはいなかった。
 だが、悠太を取り戻すために八神島に行ったはずの雪美が一人で帰ってきたことで、みな、最悪の結果を想像しているに違いなかった。
 その証拠に、誰一人として悠太の名を口にしなかった。
 普通なら、雪美の顔を見るなりに悠太がいない理由を訊ねてくるはずだった。
 それをしないのは、雪美の決意を……悠太の決意を悟ったからにほかならない。
「このたびは、ウチの悠太が大変なご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。お詫びして済むことではないのですが……」
 里恵が立ち上がり、真梨子に向かって深々と頭を下げた。
「やめてください、里恵さん。今回の件は不幸な事故によるもので、悠太君が悪いわけではありませんから。それに、悠太君だって被害者なんですよ」
 真梨子も立ち上がり、里恵の肩に手を置いた。
 二人が会うのは、二度目だった。
 双方の母親が会うのは、婚約を決めた日の翌日に両家がレストランで顔を合わせて以来だった。
「いいえ、大事な娘さんを傷つけてしまい……本当に、申し訳ございません」
「とにかく、顔を上げてお座りください」
 真梨子が、里恵をソファに促した。
「なにが被害者だよ……」
 佐竹が、俯いたまま絞り出すような声で言った。
 みなの視線が、佐竹に集まった。
「雪美ちゃんっていう婚約者がいながらほかの女と暮らす星川の、どこが被害者なんだよっ」
 佐竹が、掌をテーブルに叩きつけた。
「佐竹君、雪美のことを思ってくれる気持ちは嬉しいけれど、悠太君のお母さんの前でそんな言いかたは失礼でしょう?」
 真梨子が、やんわりと佐竹を窘めた。
「だって、本当のことじゃないですか!? 事故で記憶を失ったといっても、雪美ちゃんは何度か会いに行ってるわけだし……二人の婚約している関係も告げているわけだし」
「だから、記憶を失っているから仕方が……」
「記憶を失っているからって、婚約者が現れて事情を話しているのに仕方がないじゃ済まされませんよ!」
 佐竹の眼は、充血し赤くなっていた。
 親しい友人であったぶん、悠太にたいしての悔しさと憤りを抑えきれないのだろう。
「悠太君にも、なにか事情があったかも……」
「いいんですよ。佐竹君の言う通りです」
 真梨子を遮り、里恵が力なく言った。
 悠太の母親として、里恵は雪美と同じくらいに傷ついているのかもしれない。
「雪美ちゃん。悠太は、戻らないと言ったのよね?」
 里恵が、真梨子から雪美に視線を移した。
 雪美は、小さく頷いた。
「今日は、そのことで話があってみなを集めたんでしょう?」
 ふたたび、雪美は顎を引いた。
 無言で頷いているのは、そうしなければ涙が溢れてしまいそうだからだ。
 悠太のことを吹っ切ったつもりでも、引き摺っていた。
 忘れようと思うほどに、心から悠太は消えてくれなかった。
 それでも、忘れなければならない……足を、踏み出さなければならない。
 雪美は眼を閉じ、深呼吸を繰り返した。
 五秒、十秒、二十秒……脳裏を駆け巡る悠太との記憶を打ち消した。
 まるで、スマートフォンの電話帳から削除するとでもいうように。
 だが、電話帳と違うのは消しても消しても消去したはずの記憶データが蘇ってくることだ。
「……私、生まれ変わると決めました」
 雪美は、眼を閉じたまま切り出した。
 場の空気が動くのを、肌で感じた。
 雪美は、ゆっくりと眼を開けた。
「悠ちゃんのことはきっぱりと忘れて、新しい人生を歩み始めようと思います」
 宙をみつめたまま、雪美は言葉を噛み締めるように言った。
 未練がないと言えば嘘になる。
 悠太とひまわりが仲睦まじくしているのを想像するだけで、身体が引き裂かれてしまいそうだった。
「雪美ちゃん、星川になんて言われたの!?」
 佐竹が、身を乗り出した。
「ひまわりさんと暮らす……悠ちゃん……いいえ、彼がそう言ったわ」
 敢えて雪美は、彼、と言い直した。
 彼とはもう、悠ちゃんと呼べる間柄ではなかった。
「そんなことを、あいつは言ったのか!? なんてひどいことを……」
 佐竹が唇を震わせた。
「息子が迷惑をかけたわね。本当に、ごめんなさい」
 里恵が、雪美に頭を下げた。
「謝るなんて、やめてください。お義母さんが悪いわけではありません。悠ちゃ……彼が悪いわけでもありません。私と彼が運命の二人だったら、どんな状況でも別れることはなかったと思います」
 雪美は、里恵にというよりも自らに言い聞かせた。
 心のバランスを取るために口にしたことでもあるが、本当にそう思っていた。
 初めてひまわりの存在を知ったときは、ショックとパニックでなにも考えられなかった。
 悠太との日々を取り戻そうと必死になっているときは、可能性があると信じていた。
 考えを、誤っていた。
 可能性がなかったという意味ではない。
 婚約者という形を取り戻すだけなら、諦めなければ可能性はあっただろう。
 しかし、それはあくまでも言葉であらわすことのできる関係性だ。
 悠太の心……記憶を失う前の彼の想いを取り戻せる自信はなかった。
 里恵に言ったように、悠太にとっての自分は運命の女性ではなかった。
「俺は納得できないな。星川にとっての雪美ちゃんは、婚約までしていた女性じゃないか!? それなのに運命の相手じゃないなんて、だったら、どんな関係なら運命の二人なんだよ?」
 気遣ってくれている……佐竹の気持ちは、嬉しかった。
 だが、たとえそれが正論であっても、いまの雪美には佐竹の言葉は拷問だった。
「ありがとう……でも、彼だけの責任じゃないの。二人がこうなったのは、私にも責任があるわ」
 雪美は、絞り出すような声で言った。
「雪美ちゃんのどこに、責任があるって言うんだよ! 悪いのは、みんな星川じゃないか! 新しい女を作って雪美ちゃんを捨てたあいつなんて庇わなくても……」
「いい加減にしてください!」
 それまで黙っていた菊池が、テーブルに両手を叩きつけて立ちあがった。
 佐竹が、びっくりしたような顔を菊池に向けた。
「いま、一番つらいのは堀越さんなんですっ」
「そんなこと、お前に言われなくてもわかってるよ!」
「いいえ、わかっていません!」
 反論する佐竹を、菊池が撥ねつけた。
「なんだと!? お前、誰に向かって……」
「星川先輩を悪者にすることで忘れられる傷なら、そうしたでしょう! だけど、堀越さんはそうしなかった。なぜだかわかりますか!? 堀越さんにとっての星川先輩が、間違いなく運命の人だからですよ! でも、運命の二人とは言えない……そんな堀越さんの気持ちが、佐竹さんにはわからないんですか!」
 瞳を潤ませ涙声で訴える菊池に、佐竹が言葉を失った。
 真梨子が、隣で啜り泣きを始めた。
「ありがとう……でも、もういいの」
 雪美が言うと、唇を噛み締めた菊池が頷きつつ腰を下ろした。
「本当に、だめなのかしら?」
 不意に、里恵が雪美に問いかけてきた。
 雪美は無言で、里恵をみつめた。
 もちろん、彼女がなにを言いたいのかわかっていた。
「私が、こんなこと言えた義理でないのはわかっているけど、もう一度、あの子の婚約者になって貰えないかしら?」
 思い詰めたような顔で、里恵が言った。
「え……」
 予期せぬ申し出に、雪美は二の句が継げなかった。
「あの子がなにを言ったとしても、本心じゃないはずよ。雪美ちゃんと別れたら、悠太は一生後悔するわ」
「……どうして、そう思うんですか?」
 そんなこと、訊いてどうなる? もしかして、縒りが戻せるとでも思っているのか?
 雪美の頭の中で、もう一人の自分の咎める声がした。
「母親だもの。あの子のことは、手に取るようにわかるわ。記憶を失って、ひまわりさんと出会って……そこに、雪美ちゃんが現れ婚約していることを告げられた。いまは、混乱しているだけよ。記憶が戻れば、あの子は雪美ちゃんのところに戻りたい……そう願うわ」
「おばさん、そんな無責任なことを言わないでくださいよっ。ただでさえ、雪美ちゃんは星川に捨てられて傷ついているんです! それに、おばさんが言うように星川が後悔したとしても、雪美ちゃんの気持ちがあるんですから!」
 佐竹が、里恵に抗議した。
「たしかに、そうね。雪美ちゃん」
 里恵が、改まった顔で雪美に向き直った。
「悠太がもう一度やり直したいと言ったら、あの子を許す気はある?」
 里恵が、雪美の瞳をまっすぐに見据えてきた。
「おばさん……」
「佐竹君は黙ってて」
 雪美は里恵に顔を向けたまま、佐竹を制した。
「お義母さん。私は彼を最初から、許しています」
「なら、悠太とまた一緒になってくれる気があるのね?」
 里恵の問いかけに、雪美はゆっくりと首を横に振った。
「許しているのなら、どうして?」
「私のところに戻ってきてくれても、ひまわりさんへの罪悪感で彼は一生悩むことでしょう。一切、ひまわりさんのことを忘れるのは不可能だと思うし、約束して貰うことでもありません。私は、ひまわりさんの面影を心に残す彼に気づかないふりをして暮らすことはできません。やきもちを焼いて……不安になって……彼を責めてしまうと思います。そんな私と暮らしても、彼は幸せにはなれません」
 雪美は、懸命に涙を堪えて言った。
「いいじゃない。嫉妬して怒っても、不安になって泣いても……好き合っている者同士が、一緒にいることに勝るものはないのよ」
 里恵が、微笑みを湛えつつ諭すように言った。
 できることなら、頷きたかった――頷けなかった。
 ひまわりなら、自分のことで悠太にわだかまりの気持ちを抱いたりはしない。
 善人も悪人も分け隔てなく照らす太陽のように大らかな気持ちで、悠太を包んでくれる。
 哀しみも苦しみも呑み込んでくれる海のように、悠太を癒してくれる。
「私……」
 声の揺れをコントロールできず、雪美は言葉を喉の奥で押し止めた。
 里恵、菊池、真梨子、佐竹……四人の視線が、雪美の唇に集まった。
 この言葉を口に出してしまえば、本当にすべてが終わってしまいそうで怖かった。
 別れると言いながら、もしかしたら、と心のどこかで期待している自分がいた。
 テレビを消すように……パソコンをシャットダウンするように、想いを簡単に消せるならどんなに楽だろう。
 チャンネルを替えるように……ネットサーフィンするように、想いを簡単に切り替えられるならどんなに楽だろう。
「急がなくていいのよ。雪美ちゃんの人生は、まだまだこれからが長いんだから」
 里恵が、優しい眼差しを向けてきた。
「そうよ、雪美。悠太君を無理に忘れようとする必要はないの。本当に運命の二人じゃなかったらどんなに頑張っても別れるでしょうし、運命の二人だったらどんなに別れようとしても別れられないものよ。お父さんのことなら、私が説得してあげるから」
 真梨子が、雪美の肩に手を置き微笑んだ。
「彼氏ができたんです」
 ぐらつきそうになる気持ちを振り払うように、雪美は禁断のセリフを口にした。
 周囲の空気が、瞬時に凍てついた。
 後悔がないと言えば嘘になる。
 これしかなかった……後戻りできない状況に追い込むしか、悠太を消す方法が……。
「え!? 彼氏って!? 誰!? いつ出会ったの!? なにしてる人!?」
 佐竹が、矢継ぎ早に訊ねてきた。
 里恵も真梨子も驚いた顔をしていた。
「最近よ。友達の紹介で出会ったの」
 雪美は、平静を装いながら言った。
「友達の紹介って……誰!? 俺の知ってる男!? 年はいくつ!?」
 佐竹の質問攻撃が続いた。
「ううん、佐竹君は知らない人よ。年は、私より十歳上」
 雪美は、でたらめを並べた。
「十歳上って……三十過ぎのおっさんじゃん!」
 佐竹が、素頓狂な声を上げた。
「雪美、あなた、それ本当なの!?」
 動転しているのは、真梨子も同じだった。
「本当よ」
「三十過ぎの人って、なにをやっている方なの? どういうおつき合いをしてるの?」
「もう、お母さんまでやめてよ。なんだか、刑事に尋問されているみたい」
「そんなこといったって、あなた、悠太君のことで悩んでいたんでしょう!? いくらなんでも、早過ぎるわよ」
「そうだよっ。雪美ちゃん、まだ、別れてから僅かな日しか経ってないだろう!? そんなの、おかしいよ!」
 真梨子に追従し、佐竹が困惑をぶつけてきた。
「なによ、佐竹君。さっきまで、別れたほうがいいって言ってたじゃない。私が次の恋をしたら責めるなんて、矛盾してるよ」
 雪美は、佐竹を軽く睨みつけてみせた。
「それはそうでしょ!? おばさんも言ってたけど、急過ぎるって! やけになってるとしか思えないよっ。星川がほかの女に走ったからって、衝動的に新しい男とつき合うなんて、雪美ちゃんらしくないって!」
「私らしい私ってなに? 婚約者に捨てられる私!?」
 皮肉が口をつくのは、悠太を引き摺っている証だった。
「そういう意味じゃ……」
「私が別の人とつき合うと、やけになっているってことになるの!?」
 雪美は、佐竹を遮り食ってかかった。
 いけない、とわかっていながらも感情の暴走を抑えきれなかった。
「雪美、佐竹君がそう思うのも仕方ないわ。悠太君とのことがあったばかりなのにもう男の人とつき合っているなんて、母さんだってあなたがやけになっていると思うわよ」
 真梨子が、厳しい口調で口を挟んだ。
「やけでつき合っていたとしても、いいじゃないですか」
 菊池が、真梨子と佐竹に交互に視線をやりながら言った。
「それ、どういうことなの?」
「そうだよ。やけでつき合ってもいいだなんて、お前、本気で言ってるのか!?」
 真梨子と佐竹が、怪訝な顔で菊池を見た。
「堀越さんは、普通の女性が一生のうちに経験しないような地獄を見たんです。心の弱い人なら、自殺しても不思議じゃないほどの地獄です。やけで男の人とつき合うくらい、それが立ち直るきっかけになるなら目を瞑ってあげるべきじゃないですか?」
 真梨子と佐竹に諭し聞かせる菊池を見て、雪美は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
 やけになりつき合おうとした相手……悠太を忘れるために利用しようとした相手。
 恨まれても仕方がないのに、庇ってくれている。
 菊池に、顔向けができなかった。
「菊池君の、言う通りかもしれないわ」
 里恵が、独り言のように呟いた。
「雪美ちゃんに付き添って、悠太を捜しに行ってくれたんだものね。ここにいる誰よりも、雪美ちゃんの哀しみを……」
 里恵が声を詰まらせた。
「私のことを心配してくれて、ありがとうございます」
 雪美は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「でも……」
 顔を上げた雪美は、力強い瞳で正面を見据えた。
「もう、私のことは構わないでください」
 雪美の言葉に、室温が何度か下がったようだった。
「雪美、なんてことを言うのっ。みんな、あなたのためを思って……」
「感謝しているわ。だけど、いまは一人でいたい……自分を見つめ直す時間が必要なの。ごめんなさい」
 もう一度頭を下げると、雪美はリビングをあとにした。
「雪美っ、待ちなさい!」
 雪美は真梨子の声から逃げるように、玄関を飛び出した。
「堀越さん」
 通りに出た雪美の背後から、声と靴音が追ってきた。
 足を止め振り返った雪美の視線の先――息を弾ませた菊池が立っていた。
「さっきは、庇ってくれてありがとう。あんなにひどいことを言った私に……」
「リリーフでもいいです」
 菊池が雪美をまっすぐにみつめながら言った。
「リリーフ?」
 雪美は、怪訝な声で菊池の言葉を繰り返した。
「堀越さんが星川先輩を忘れられるまで……本当に愛する人に出会うまでの時間を、僕にください」
 菊池の一点の曇りもない澄んだ瞳に、雪美は息を呑んだ。
「菊池君……」
「愛してくれとは言いません。僕に、堀越さんを支えさせてください」
 純粋過ぎる菊池の想いが、雪美の傷だらけの胸を貫いた。
「あなたって人は……」
 雪美は唇を噛み締め、迸りそうになる感情を胸奥に押し戻した。
(第42回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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