双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第39回

5(承前)

「……冗談でも、そんなこと言ったらだめですよ」
 表情を失っていた菊池が我に返り、強張った笑み交じりに雪美を窘めた。
「本気よ。菊池君、私のこと好きでしょう? だから、エッチしてもいいよ」
 ふたたび、菊池が絶句した。
「悠ちゃんのことなら気にしなくても……」
「いい加減にしてください!」
 雪美の言葉を、菊池の声が掻き消した。
「……いきなり、どうしたの?」
「そんなふうに言われて、僕が喜ぶと思うんですか!? 自棄になって自分を大事にしない堀越さんなんて、見たくないですよっ」
 雪美をみつめる菊池の眼は、涙に潤んでいた。
 なにかが、心の扉をノックした。
 執拗に、何度も、何度も……無視した。
 いまの自分は、どんなに哀しい物語を聞いても涙することはない。
 いまの自分は、どんなに感動的な映画を観ても胸が震えることはない。
 感情は、悠太の思い出とともに削除した。
「先輩と別れたからって、それがなんなんですか!? 堀越さんの人生が終わったわけじゃないんですよ!? これからの人生のほうが、ずっと、ずっと長いんですよ!?」
 菊池が、熱い口調で訴えてきた――雪美の心の扉を、諦めずに力強くノックし続けた。
「そんなこと、わかってるわよ。だから、菊池君にエッチしようと言ったんじゃない」
 雪美は、あっけらかんとした口調で言った。
 悠太のことなど、一ミリも引き摺っていないとでもいうように。
「わかっていません! 先輩のことを忘れるために、好きでもない相手と関係を持とうとするなんて……そんなの、間違ってますっ」
「いつからなの?」
 自然に、雪美の唇は動いていた。
「なにがです?」
 菊池が、訝しげに訊ね返した。
「好きになったときって、いつからなの? いつ、どんな状態になったら、その人を好きになったっていうことがわかるの?」
 雪美は、矢継ぎ早に質問を重ねた。
「その人のことを考えたら胸がときめいたり、苦しくなったり……思い浮かべたらそういう気持ちになる相手のことだと僕は思います」
「証拠は?」
「え?」
「胸がときめいたり苦しくなったりしたらその人のことが好きだっていう証拠よ。胸をメスで開いたら、あなたが好きです、ってどこかに書いてあるの?」
 雪美は幼子がそうするように、無垢な瞳で菊池をみつめた。
「堀越さん……」
 菊池が、異星人でも見るような顔で息を呑んだ。
「悠ちゃんは、私と婚約していた。それは、私を好きだからでしょう?」
「もちろんです」
 菊池が大きく頷いた。
「でも、ほかの女の人と暮らすことを選んで私を捨てた。どうして?」
 雪美は、抑揚のない声音で訊ねた。
「それは……」
「簡単よ。悠ちゃんは、私を好きだと錯覚していただけだったの」
「そんなこと、ないですよ!」
「そんなこと、あるのよ」
 すかさず否定する菊池に、雪美は言葉を被せた。
「想像妊娠と同じ。錯覚が、身体を反応させているだけよ。その人のことを好きかどうかなんて、本当のところは自分でもわかってないの。だから、今度から順番を変えることにしたのよ。胸がときめくとか愛おしい気持ちになるとか、根拠のないまやかしにごまかされることがないように、最初に関係を深めるの。ときめきとか愛おしい気持ちとか、あとからついてくればいいと思わない?」
 雪美は、誰か別の人間が喋っているような錯覚に襲われた。
「でも……関係を深めても、堀越さんが言うようなときめきを感じず、愛おしい気持ちにならなかったらどうするんですか!?」
「そのときは、二度と会わなければいいのよ」
「え……」
「そのほうが思いを引き摺らないし、胸が苦しくなることもないでしょう? 肉体からだより、心を奪われるダメージのほうがずっと大きいわ」
 雪美は淡々と言うと、後部座席のドアを開けた。
「なにしてるんですか?」
「ここで降りるから」
「待ってください」
 菊池の声に、片足だけ車外に出した体勢で雪美は動きを止めた。
「うまく言えないですけど……なにか、違うと思います。少なくとも、堀越さんらしくありません」
 雪美は無言で車を降りると、後ろ手でドアを閉めた。
 悠太を忘れるためなら、自分らしさなど微塵も残さずに消し去りたかった。

6

 フィッシングボートの舳先が、青い海原を掻き分けた。
 船首のデッキ――手摺りを掴み立ち尽くす悠太は、風に運ばれた飛沫でびしょ濡れだった。
 胸奥のもやもやを洗い流そうとでもいうように、悠太は正面から飛沫を浴び続けた。

 ――そうね~、朝ごはんがまだだから、なにか食べに連れてって!

 不意に、女性の声が聞こえた。雪美に、よく似た声だった。

 ――あのさ、君付けで呼んだりタメ語使ったりしてるけど、君は僕より五つくらい年下だろう?

 今度は、自分の声が聞こえた。

 ――わっ、そんなこと気にするなんて、昭和の人みたい!

 また、女性の声がした。
 雪美の声に似ていた……だが、雪美とそんな会話をした覚えはない。
 悠太を指差し、おかしそうに笑う雪美の顔が脳裏に浮かんだ。
 
 ――私が留年とかしちゃったら、婚前旅行どころじゃなくなるね。
 
 今度は、声と同時に悪戯っぽく舌を出す雪美の顔が浮かんだ。
 悠太は、白蝶貝のペンダントトップを握り締め頭を左右に激しく振った。

 ――ユータの戻りを砂浜で待ってるとき、きれいな貝殻をみつけたから作った。

 ひまわりの声が、雪美に似た女性の声を打ち消した。

 ――白蝶貝には、神様が宿ってるんだ。この貝を身につけてれば、怪我や病気からユータを守ってくれる。

 ひまわりの声が、雪美の顔を打ち消した。
 悠太は、白蝶貝を握り締める手に力を込めた。

 ――ユータのここには白い女がいる。ウチのここにはユータしかいない。

 自らの左胸を押さえながら悠太をみつめるひまわりの瞳が、罪悪感を掻き立てた。
「大丈夫……大丈夫だから……」
 悠太が己に言い聞かせるように呟いた声は、風に吹き飛ばされた。
「思い出したのなら、打ち消すんじゃ!」
 背後の操縦席で舵を取る老人のよく通る声が、悠太の背中に浴びせかけられた。
 わかっていた――できることなら、そうしたかった。
 だが、打ち消そうとすればするほど、雪美の影が頭から離れなかった。
「島に着く前に、白い女との記憶は海の中に捨ててしまえ!」
 動揺する悠太の心を見透かしたように、老人が大声で命じた。
「僕だって、どうしていいかわからないんですよ!」
 悠太は振り返り、操縦席の老人に大声を返した。
 記憶が甦りかけたことで皮肉にも、ストレスが鬱積していた。
「なにがわからないんじゃ! お前は、白い女との婚約を解消しに東京に行ったんじゃろうが!」
「思い出してきたんですよ……雪美さんのことを! いや、思い出さなかったとしても、彼女が僕の婚約者だった事実は変わりませんっ。僕の一方的な事情だけで彼女の人生を台無しにするなんて……」
 悠太は唇を噛み、肩を震わせた。
 自分で口にしていながら、驚きを隠せなかった。 
 雪美という婚約者の存在を知ってからも、そんなふうに思ったことはなかった。
 記憶を失う前の自分の言動はリセットして、新しく生まれ変わると決めた。
 だからこそ、老人が言うように雪美に会って婚約を解消するつもりだった。
 過去を清算し、ひまわりと新たな人生を築くと己に約束した。
 雪美と接しているうちに、なにかが変わった。
 いや、変わったのではなく本来の自分を取り戻しつつあるのかもしれなかった。
「ひまわりならいいのか!? ひまわりなら、お前の一方的な事情で傷つけてもいいのかと訊いておるんじゃ!」
 老人の怒声が、悠太の心を鷲掴みにした。
「それは……」
 悠太は言い淀んだ。
「あの子は、お前を信じて本土に送り出したっ。夫婦になれると信じて、いま、この瞬間もお前の帰りを待っておる! それなのに、お前のその優柔不断ぶりはなんだ!? 白い女だけじゃないっ。ひまわりも、立派なお前の婚約者じゃ!」
 老人の言葉は、悠太の良心をズタズタに引き裂いた。
「ひまわりになんて説明するんじゃ!? 白い女のことを思い出したから、ひまわりのことを好きではなくなった。だから本土に帰る……そう言うのか!?」
「そんなふうに、言うわけないじゃないですか! なにより、僕はひまわりさんのことをいまでも好きです!」
「じゃったら!」
 鬼の形相で操縦席から出てきた老人が、悠太の胸倉を掴んだ。
 七十を超えているとは思えないほどの強い力に、悠太の踵は浮いた。
「ひまわりのことだけを思えばいい! ひまわりのことだけを愛せばいいんじゃ!」
 老人が、悠太の胸倉を掴んだ両手を揺さぶった。
「じゃあ、雪美さんを見捨てろというんですか!?」
 悠太は、勇気を振り絞り懸命に抗った。
 いまさら、そんなことを言える立場でないことはわかっていた。
 記憶を失ったとはいえ、同時期に違う女性を愛してしまった自分が引き起こした事態だということも……。
 それでも、自分の都合でどちらか一方との関係をなかったことになどできはしない。
 優柔不断と言われても構わない……偽善者と言われても構わない。
 ならば、どうする気だ?
 自分が迷い込んだのは出口なき迷路なのかもしれない。
 それでも、必ず出口はあると信じて探し続けなければならない。
「迷うくらいなら、悩むくらいなら、どうしてひまわりを好きになった!? どうしてひまわりの心を奪った!?」
「すみません……そのときは、雪美さんとの記憶がまったくなくて……」
「あの子は、違うんじゃよ……」
 それまでとは一転した弱々しい声で、老人が言った。
「あんたや白い女とは違う……人に触れたことのない子じゃ。もちろん、わし以外の男を見たのはお前が初めてじゃ。卵から孵った雛鳥が最初に眼にした生き物を親だと思うのと同じように、ユータはかけがえのない存在なんじゃよ」
 老人が、一言一言を噛み締めるように口にした。
「はっきりと言わせて貰う。白い女には傷を癒してくれる者が大勢いるだろうが、ひまわりにはわししかおらん。わしは、そう長くは生きられん。ユータに捨てられてわしが死んだら……あの子は天涯孤独じゃ」
 老人の悠太をみつめる瞳には、涙が光っていた。
 悠太の涙腺も熱を持った。
「ひまわりさんを捨てたりしませんよ!」
 悠太は、力強く言い切った。
 嘘ではなかった。
 記憶が甦ったらひまわりを切り捨てるような、そんな非情な男にはなれなかった。
 だからこそ、雪美に背を向けることもできないでいる。
 いっそのこと、もっと冷徹な男になれたなら……。
「なら、白い女のことを忘れてくれるんじゃな?」
 老人が、縋るような瞳で悠太をみつめた。
 悠太は老人から眼を逸らし、唇を噛んだ。
 身体が浮いた――老人が、物凄い腕力で悠太をデッキの縁に押しつめた。
「頼むっ、約束してくれ! じゃないと、わしは、お前を海に突き落とすかもしれん!」
 悠太の上半身が、縁の外へと出た。
 視界の端を掠める潮流が、悠太の恐怖心を煽った。
「白い女のことを忘れる! いいや、忘れんでもいいから、白い女とは二度と会わん! それだけを約束してくれればいいんじゃ! 頼む……約束してくれ! ひまわりを天涯孤独にせんと……この通りじゃ!」
 老人が悠太の胸倉を掴んだ両腕を手綱のように激しく動かしながら、頭を下げた。
「わ、わかりました……」
 喘ぐように、悠太は言った。
 海に落とされるかもしれないという恐怖が、そう言わせたわけではない。
 たとえ人殺しになってでも、ひまわりを孤独にしないようにと悠太に頼みこむ老人の懸命な姿に胸を打たれたのだった。
「本当か!?」
 老人の顔が、輝いた。
 悠太は老人の瞳をみつめ、力強く頷いた。
 いきなり、景色が流れた――老人に抱き寄せられた。
「ありがとう……ユータ……ありがとう……」
 背骨が折れるのではないかと思うほどの腕力で抱き締め、老人が涙声で繰り返した。
(第40回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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