双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第37回

5

 夕焼けが、空を琥珀色に染めていた。
 白の観音開きのドアの前で、雪美はため息を吐いた。
 実家に戻ってくるのは、およそ二ヵ月ぶりのことだった。
 悠太がみつかるまで、家出同然に友人の部屋に泊まっていたのだ。
 単位を落とさない程度に、大学にも顔を出していた。 
 しかし、この二ヵ月の間、悠太以外のことはすべてにおいて上の空だった。
 講義も頭に入らず、公園に咲く花も瞳に映らず、愛らしい子犬がじゃれついてきても心は動かず……雪美の感受性のスイッチはオフになったままだった。
 いや、哀しみだけは感じた。
 希望の光を瞬時に消し去った、無窮の闇を伴う底なしの哀しみを……。
 白亜の豪邸、資産家の令嬢、お洒落なワンピース、白いグランドピアノ。
 悠太がいなければ、どれだけ恵まれていても無意味だった。
 悠太さえいれば、一間のアパート暮らしでも幸せだった。
 雪美は、眼を閉じた。

 ――やっぱり……なにも思い出せそうにありません……。
 
 苦悶の表情で眼を伏せる悠太の顔が、瞼の裏に蘇った。
 あんなに苦しそうな悠太の顔を見たのは、初めてのことだった。
 あのとき、雪美は悟った。
 自分は、もう、悠太を笑顔にすることはできない。
 愛を注げば注ぐほど、彼を苦しめるだけだった。
「雪美」
 雪美は眼を開け、振り返った。
 スポーツバッグを手にした母の真梨子が、驚いた顔で立っていた。
 テニス教室の帰りなのだろう。
 いまは運動不足解消のためにやる程度だが、学生時代は都大会でベスト8に入るほどの腕前だったらしい。
「菊池さんって方から連絡があったわ」
「そう」
 素っ気なく言いながら、雪美はドアを開けた。
「悠太君のこと聞いたわ。大変だったわね」
 玄関に入ると、真梨子が雪美の肩に手を置いた。
「終わったことだから」
 真梨子の手から逃れ、自室に続く階段に向かった。
「待ちなさい!」
 リビングから、いかめしい表情の父……達臣が現れた。
 スーツ姿なので、帰宅したばかりに違いない。
「勝手に出て行って、勝手に戻ってくるなり会話もなしに部屋に引きこもるのか?」
 達臣の声は、怒りに震えていた。
「あなた、悠太君のことでこの子もいろいろとあったんだから……」
「ちょうどよかったじゃないか! 分不相応な立場には目を瞑って結婚を認めてやったというのに……記憶を失ってすぐに出会った女と生活している男など、こっちから願い下げだっ」
 達臣が、顔を紅潮させて吐き捨てた。
「悪いけど、疲れてるの」
 階段に足をかけた雪美の腕を、達臣が掴んだ。
「その態度はなんだ! もともと、乗り気じゃなかった父さんを押し切って婚約した結果がこれだぞ!?」
「あなた、そんな言いかたはないでしょう? 少しは、雪美の気持ちも考えてあげてよ」
「お前が甘いことを言ってるから、不良娘みたいに二ヵ月も家を飛び出したきりなんだろう! あんな男、 最初からつき合わなければよかったんだっ」
 一方的に娘を捨ててほかの女性に走った悠太のことを、父として許せないのだろう。
 達臣の怒りは、理解できる。
 しかし、当事者の雪美には達臣の憤激を受け入れる精神的余裕はなかった。
「そのお気に召さない悠ちゃんとは別れたんだから、満足でしょ!」 
 雪美は達臣の手を振り払い、階段を駆け上がった。
「雪美っ、待ちなさい!」
 階下から追ってくる達臣の声を、ドアで遮断した。
 久しぶりの自室にも、懐かしさは感じなかった。
 それどころか、他人の部屋に入ってきたように落ち着かなかった。
 
 ――もう一度……これが、最後よ。なにか、思い出せそう?
 
 あのとき、悠太の瞳はたしかに揺らめいた。
 その揺らめきは、蘇る記憶にたいしての戸惑いだと思った。
 疑いかけた神様の存在を、ふたたび信じることができた。
 
 ――本当に、すみません……。

 神様はいなかった……いや、いたのかもしれない。
 もう、どっちでもよかった。
 悠太を連れてきてくれない神様なら、いても仕方がない。
 教えてください。どうしたら……。
 雪美は、ドアに預けていた背中を滑らせへたり込んだ。
「悠ちゃんを……忘れることができますか……」
 天を仰ぎ、雪美は涙声で呟いた。
 六本木のスポーツバーで、歓声が沸き起こった。
 サッカーの日本チームが、韓国チームを相手にゴールを決めたのだ。
 モニター近くのテーブルを占領していた若い男女の集団が、そこここで抱き合い喜びをわかち合っていた。
「さあ、私達も乾杯するよ!」
 雪美は、白ワインのグラスを宙に掲げた。
「三十分で三杯目だよ? ピッチが速過ぎるって! それに、雪美、サッカーに興味あったっけ?」
 眼の縁と頬を赤らめた真奈が、怪しくなった呂律で訊ねてきた。
 真奈は、高校時代に仲良くしていた同級生だ。
 高校を卒業すると同時にオーストラリアの大学に留学していたので、会うのは三年半ぶりだった。
 昼間、親戚の結婚式のために一時帰国していると突然、連絡があったのだ。
 本当は誰とも会いたくない気分だったが、真奈の誘いに応じたのは彼女が悠太の存在を知らなかったからだ。
 雪美にとって、悠太を知っている者との会話は地獄でしかない。
 いまの自分に必要なのは、悠太を知らない者と会って現実逃避することだった。
 逃避している世界が現実になるまで、悠太とは無関係の世界を生きるしかなかった。
「ううん、全然知らない!」
「だったら、なんで乾杯するのよ!?」
 雪美と真奈は、周囲の歓声に掻き消されないように大声でやり取りした。
「三杯目に、乾杯!」
 雪美は、グラスを真奈のグラスに触れ合わせた。
「あなた、大丈夫? もう酔っぱらってるんじゃない?」
 言葉とは裏腹に、真奈は腹を抱えて笑った。
 そういう真奈のほうこそ、かなり酔っているようだった。
「ぜーんぜん! こんなの水よ、水!」
 言うと、雪美はワインを飲み干した。
「すみませーん! 同じのくださーい!」
 雪美は、空になったワイングラスを頭上に掲げた。
「もう、潰れたって介抱しないからね~。私もお代わり~!」
 真奈もワイングラスを掲げてボーイを呼んだ。
「これくらいじゃ、酔えない酔えない。私、こうみえても酒豪なんだから」
 酒豪というのは冗談だが、酔えないのは本当だった。
 酔ったふりをしているが、頭の芯は冷めていた――どれだけ飲んでも、心の奥から悠太が消えることはなかった。
 テーブルに載せていた雪美のスマートフォンが震えた。
 ディスプレイに浮かんでいるのは、菊池の名前だった。
 悠太に関することかもしれないので、出る気はなかった。
「鳴ってるよ?」
 真奈が、怪訝な顔で言った。
「うん、いいのいいの」
 電話は執拗に鳴っていたが、雪美は無視した。
 真奈が、素早くスマートフォンを取り上げた。
「もしもーし! 雪美の友人の真奈って言いまーす!」
「ちょっと……」
「はい、いま、六本木の『フットサル』っていうスポーツバーで女子会やってるんです! もしかして、彼氏さんですか?」
 取り戻そうと伸ばした雪美の手を身を捩って躱しながら、真奈が訊ねた。
「そんなんじゃないから!」 
 雪美は身を乗り出し、真奈からスマートフォンを奪い返した。
「あ、ごめんね、友達が変なこと言っちゃって……」
『彼氏に間違われるなんて、僕は光栄ですよ。なんだか、凄く盛り上がっているみたいですね』
「数年ぶりに会った友達と飲んでるの。それより、どうしたの?」
『あ、いえ……どうしてるかなって、少し気になったので。でも、元気そうで安心しました』
「私のこと、気にしなくていいからチュッてしなよ、チュッて!」
 真奈が、送話口に顔を近づけて言った。
「ごめんごめん、真奈がうるさいから切るね。また、連絡する」
 雪美は早口で言うと、一方的に電話を切った。
「私に遠慮しないで、彼氏を呼べばいいのに~。会いたいくせに~」
 真奈が、冷やかすように言った。
「だから、彼氏じゃないってば。菊池君は……」 
「はいはいはい、わかったわかった。今度は、私が乾杯する番よ」
 真奈が何度も頷き、新しく運ばれてきた白ワインのグラスを雪美に渡し、自らは赤ワインのグラスを手にしながら言った。
「なにに乾杯?」
「井川真奈、カミングアウトしまーす! 私の結婚にかんぱーい!」
 真奈のワイングラスに伸ばそうとした雪美の右腕が、宙で止まった。
「え……」
「私、オーストラリアで出会った彼氏と来年の春、結婚することになったの!」
 満面に笑みを湛えた真奈の声が、鼓膜からフェードアウトした。

 ――あと八ヵ月か……あっという間だな。

 不意に、悠太の声が聞こえた。

 ――私が留年とかしちゃったら、婚前旅行どころじゃなくなるね。

 幸せだった頃の自分の声が、雪美の胸を掻き毟った。
 来年の春……大学を卒業した翌月に雪美は悠太と婚前旅行を予定していた。
 そして、来秋には結婚を……。
 雪美は、脳裏を支配しようとする思い出を慌てて打ち消した。
「雪美? どうしたの?」
 訝しげに訊ねてくる真奈の声に、雪美は我に返った。
「え……ああ、突然のことで、びっくりしちゃって! おめでとう! つき合って、どのくらいなの!?」
 雪美は慌てて真奈に訊ねた。
 本当は、平静さを装うことで精一杯だった。
「それが、まだ三ヵ月なの」
「えっ……」
「短いから大丈夫?って思うわよね。でも、こういうのって時間じゃないと思うの。五年つき合ってもすぐに離婚するカップルもいれば、一ヵ月で結婚してもずっと仲のいい夫婦もいるでしょう?」
「そうよね……」
 雪美は、頬が引き攣らないように微笑んでみせた。
 真奈に悪気がないのはわかっていた。
 しかし、彼女の言葉は追い討ちをかけるように雪美のボロボロの心を切り裂いた。
「男女の仲って、時間じゃなくてフィーリングだと思わない?」
「うん、そうだね……」
 雪美は、動揺を隠すようにワイングラスを一気に空けた。
「お姉さん達、強いね! これ、俺らの奢り!」
 不自然なほど陽焼けした肌の男性が二人、テキーラのショットグラスを四つ手にして雪美達のテーブルに歩み寄ってきた。
 一人が青と白のストライプのニットジャケット、もう一人は黒のジャケットにスカルプリントのインナーを着ていた。
 二人とも、雪美よりいくつか年上に見えた。
「ありがとう!」
 渡りに船――雪美は、笑顔でショットグラスを受け取った。
 これ以上、真奈の前で平常心を装える自信がなかった。
 なにより……悠太のことを思い出したくなかった。
(第38回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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