双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第35回

3(承前)

 五秒が、五分にも十分にも感じられた。
 周囲の通行人の動きが静止したように感じ、喧騒が鼓膜から遠のいた。
 まるで、世界中で存在しているのが悠太だけだとでもいうように。
 
 思い出せそうです。

 その一言だけでいい……その一言を悠太の口から聞くことができれば、ほかにはなにもいらない。
 
 僕にとって、君が特別な存在だったということを。
 
 その一言があれば、悠太の記憶が完全に戻るまで何年だって待てる。
 五年でも、十年でも……。
 あなたが私の知っている……私を知っているあなたに戻ってくれるなら、それ以上でも待てる。
 
 あなたがそばにいてくれるなら、私は、どんなことでも安らかに受け入れます。
 そして、どうぞ忘れないで。
 私がいつまでも、あなたを愛していることを。

 犬が飼い主への想いを綴った「犬の十戒」が、不意に頭に浮かんだ。
 その犬の気持ちが、雪美には痛いほどわかる。
 悠太のいない五十年の人生より、悠太とともに生きる十年を選びたい。

「あの……」
 悠太が、遠慮がちに声をかけてきた。
「どう? この絶世の美女を思い出せそう?」
 雪美は、己を指差し冗談めかして言った。
 言葉とは裏腹に、心臓が早鐘を打っていた。
 口の中が渇き、胃が鷲掴みにされたような気分になった。
「やっぱり……なにも思い出せそうにありません……」
 絞り出すような声で言うと、悠太が眼を伏せた。
 空の青が、植え込みの緑が、ポストの赤が色を失った――不意に、眩暈に襲われた。
「大丈夫ですか!?」
 悠太が駆け寄り、よろめく雪美の肩に腕を回した。
 懐かしい匂いと温もりが、雪美を抱き締めた。
 忘れようとしても、忘れることができない。
 女の子のように長い睫毛も、笑うと膨らむ涙袋も、拳が入りそうな大きな口も……悠太のすべてを、鮮明に覚えている。
 悠太の腕に抱かれたまま、雪美は思いを込めてみつめた。
 瞬間、悠太の瞳が揺らめいたような気がした。
「もう一度……これが、最後よ。なにか、思い出せそう?」
 眼を閉じたい気持ちに抗った――眼を逸らしたい気持ちに抗った。
 聞くのが怖かったが、逃げるわけにはいかない。
 十秒、二十秒……二人はみつめ合った。
 悠太の表情に、あるかなきかの戸惑いの色が浮かんだ。
 この戸惑いは……。
 闇に包まれた雪美の心に、微かに希望の光が射し込んだ。
 きっといるはずの神様は、叶えてくれるはず。
 生涯、悠太と寄り添いながら人生を築いてゆくことを。
「本当に、すみません……」
 悠太が消え入りそうな声で言うと、雪美の肩から腕を離した。
 雪美は、ゆっくりと眼を閉じた。
 睫毛が震えているのが、自分でもわかった。
 涙腺が熱を持った。
 きつく閉じた瞼から、涙が溢れないように……きつく噛み締めた唇から、嗚咽が漏れないように……。
 恐れていたことが、現実になった。
 記憶を失った悠太と再会してから、覚悟はしていた。
 初対面の人に接するような悠太を……新しい女性に心を惹かれている悠太を目の当たりにしたときに、最愛の人を失う予感に襲われた。
 神様に祈りは届かなかった――奇跡は起きなかった。
 そう、悠太が戻ってくる確率を奇跡と表現しなければならないほどに、彼は遠い存在になってしまった。
 これで本当に……。
 雪美は、おもむろに眼を開けた。
「あ、あの……」
 慌てた顔の悠太が、雪美の瞳に映った。
「騙された? 私が、絶望に打ちひしがれていると思ったんでしょ?」
 雪美は、明るい声音で言った。
「え……」
「ざーんねん! 私は負けず嫌いだから、哀しいっていうより悔しいんだよね。それに、初めて言うけど、悠ちゃんにたいしては普通に好きな程度の想いだったんだ。過去の彼氏ランクの中では、ちょうど真ん中くらいかな。だから、安心して!」
 雪美は弾ける笑顔で言いながら、悠太の背中を平手で叩いた。
「はぁ……」
「これ!」
 雪美は、呆気に取られた顔の悠太にスマートフォンを差し出した。
「おじいさんの大事なスマホでしょ?」
「どうも、すみません」
 悠太が頭を下げ、スマートフォンを受け取った。
「どうして悠ちゃんが謝るのよ。悪いのは、勝手にスマホを奪った私よ。ごめんね、いろいろ困らせちゃって。はい!」
 雪美はサバサバとした口調で言うと、右手を悠太に伸ばした。
「これで、バイバイだよ」
 気を抜けば、涙声になりそうだった――顔が強張りそうだった。
 戸惑いがちに、悠太が雪美の右手をそっと握った。
 物凄い勢いで蘇ろうとする悠太との思い出を、雪美は懸命に打ち消した。
 そうしないと、未練に負けてしまいそうだった。
 雪美は大きく息を吸い、震えながらもゆっくりと吐き出した。
「じゃ、元気でね!」
 これまでの一切の想いを断ち切るように明るく言い放ち、雪美は握っていた悠太の手を離すと踵を返した。
 まだ……まだだ。
 雪美は、奥歯を噛み締めながら駆け出した。
 まだ……。
 振り返りたい衝動を抑え、雪美はスピードを上げた。
 噛み締める奥歯に、さらに力を込めた。
 三十メートルほど走って角を曲がったところで、雪美は足を止めた。
 糸が切れたマリオネットのように、その場に屈み込んだ。
 アスファルトの歩道に、黒い雫が落ちた。
 二滴、三滴、四滴……黒い雫は、どんどん増えた。
 
 悠ちゃんの馬鹿……なにを真に受けてるの?
 恋人と呼べるのはあなただけ……悠ちゃんが私の初恋に決まっているじゃない。
 もし、過去の私に百人の彼氏がいたとしても、悠ちゃんは断トツよ。
 
 背中が波打ち、嗚咽が零れ出した。
 行き交う人々が、好奇の視線を注いできた。
 雪美は、人目も憚らずに泣いた。
 視界に、涙に濡れた革靴の爪先が現れた。
 顔を上げた雪美は息を呑んだ。
「大丈夫ですか?」
 菊池が屈みながら、心配そうに訊ねてきた。
「……どうして?」
「気になって、引き返してきたんです」
 追いかけてきたのだろう、菊池の息は弾んでいた。
「じゃあ、見てたんだ……」
 手の甲で涙を拭い、雪美は呟いた。
「盗み見する気はなかったんですが……」
 菊池が、バツが悪そうに言った。
「見ての通り、すっきりしたわ」
 雪美は、自らに言い聞かせた。
「いいんですか? あれで」
「もう、いいのよ。なにも思い出せそうにないって……菊池さんにもわかったでしょ?」
 菊池は、無言で雪美をみつめていた。
「あれだけはっきり言われたら、諦めもついたわ」
 雪美は、泣き笑いの表情で言った。
「どうして、急ぐんですか?」
 不意に、菊池が訊ねてきた。
「え?」
「先輩の記憶が戻るのを、待てばいいじゃないですか? 一生、記憶が戻らないと決まったわけではありませんし」
「悠ちゃんの記憶が戻るのは、三ヵ月後? 半年後? 一年後?……どれだけでも待てるよ。たとえ十年でもね。悠ちゃんの心に私がいなくても、記憶を取り戻すまで待てる」
「だったら……」
「でも、悠ちゃんの心には別の女性がいる」
 菊池を遮り立ち上がると、雪美は歩き出した。
「記憶が戻っても、私のもとに戻ってくるって保証はないでしょう?」
「先輩は、堀越さんのところに戻ってきますよ!」
 菊池が追い縋りながら訴えた。
「悠ちゃんを、苦しめたくないの!」
 立ち止まり、雪美は感情を爆発させた。
「考えたくないけど、悠ちゃんの心にはひまわりさんがいる……いまの悠ちゃんが、ひまわりさんを好きなことは事実よ」
「そうだとしても、記憶が蘇れば……」
「私を好きでいてくれた気持ちは、思い出すでしょう。だからといって、ひまわりさんを好きになった気持ちが消えると思う?」
「それは……」
 雪美の問いかけに、菊池が言葉を詰まらせた。
「人の心って、機械みたいには切り替えられないよ。私への想いを……私との誓いを思い出した悠ちゃんは、きっと苦しむわ」
「こうなったのは先輩のせいですから、苦しむのは仕方がないですよっ。そんなこと、堀越さんが気にする必要はないと思います!」
 菊池が、珍しく憤然とした口調で言った。
 たしかに、菊池の言う通りだ。
 自分が受けた心の傷を考えると、悠太の気持ちを心配している余裕などなかった。
 しかし……。
「わかってるよ。だけど、悠ちゃんが苦しむ姿を見たくないの」
「このままだと、堀越さんが苦しみ続けることになるんですよ!?」
「悠ちゃんを苦しませるより、自分が苦しむほうが楽なの。それが、誰かを愛するってことじゃないかな」
 雪美は、遠い眼差しで呟いた。
「堀越さん……」
 菊池が、驚いたように雪美の顔をまじまじとみつめた。
「ありがとうね。私のことを心配してくれて。でも、大丈夫よ。私だって、いつまでも悠ちゃんを引き摺って生き続けるわけじゃないから」
 雪美は、頬の筋肉を従わせ無理やり笑顔を作った。
「本当に、大丈夫なんですか?」
「あと半世紀以上は生きてゆかなければならないんだから、私も強くならなきゃ。メソメソばかりしていられないわ」
「わかりました。僕でよかったら、なんでも力になりますよ!」
「そう言ってくれる気持ちだけで、嬉しいわ」
「気持ちだけなんて……僕に、なにかできることはありませんか?」
 菊池が、胸に手を当て雪美をまっすぐにみつめた。
「そんな急に言われても……あ! 頼みたいことがあった!」
「なんですか?」
「大飛鳥島に行って貰ってもいい?」
「いいですけど、どうしてですか?」
 怪訝な表情で、菊池が訊ね返してきた。
「ホテルに荷物の入っているトランクを置いてきちゃったの。できれば、もう、悠ちゃんのいる近くには行きたくなくて……」
 悠太ののする場所に行くのは、つらかった。
「了解です。そういうことなら、喜んで。僕が、先輩を忘れさせて……」
 菊池がなにかを言いかけて、言葉の続きを呑み込んだ。
「え?」
「あ、いえ……なんでもありません! じゃあ、僕、堀越さんをご自宅に送ってから早速行ってきます」
「私は、一人で大丈夫だから」
「そういうわけにはいきません。近くに車を止めてあるので、送りますよ」 
「ううん。本当に、大丈夫。それに、少し一人になりたいの」
 気持ちの整理をしたかった。
 悠太の存在はあまりにも大き過ぎて……いや、雪美のすべてと言ってもよかった。
 彼のいなくなった心の穴を埋めるためには、時間が必要だった。
「そ、そうですよね。わかりました。じゃあ、荷物を取ってきたら連絡しますね。堀越さんも、なにか困ったことがあったら電話をください」
 菊池が笑顔で言い残し、小走りできた道を戻った。
 雪美は、菊池の背中が見えなくなると天を仰いだ。
 空は残酷なまでに晴れ渡っていた。
 そう、なにも変わらない。
 命と同じくらいに大事な悠太を失っても……生きる希望を失っても、世の中はなにごともなかったように動いている。

 ――あと半世紀以上は生きてゆかなければならないんだから、私も強くならなきゃ。メソメソばかりしていられないわ。

 菊池にはああ言ったものの、自信がなかった。
 悠太なしの人生は、想像がつかなかった。
 身体の半分を引き裂かれたら、人は生きていけるのか?
 心臓を刺されたら、人は生きていけるのか?
 悠太との別れは、雪美にとっては致命傷に等しかった。
 命は失わずとも、それは、呼吸と食事と睡眠を繰り返すだけの生ける屍のような人生だ。
 雪美は、足を踏み出した。
 が歩いている……雪美は、自嘲の笑みを力なく浮かべた。
(第36回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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