双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第33回

「ホテル大飛鳥島」の前の路上で、悠太は檻の中の動物さながらに行ったり来たりを繰り返していた。
 手には、雪美の携帯番号がディスプレイに表示されたスマートフォンを握り締めていた。
 足を止めた――通話ボタンを押そうとした親指が宙で止まった。
 ため息を吐き、悠太はふたたび歩を進めた。
 
 ――もう一度、彼女に会って僕の中にあるもやもやを消してくるよ。

 ひまわりに言った言葉に、嘘はなかった。
 自分の中にある澱のような感情が、迷いでないことを証明するためにも雪美と東京へ行く決意をした。
 自分の知らない雪美との思い出に触れても、心が動かないことを確認したかった。
 そして、雪美にわからせたかった。
 目の前にいる星川悠太は、雪美を愛した……雪美に愛された星川悠太ではないことを。
 しかし、いざ、ホテルに到着してみると迷いが生じた。
 気持ちが揺れるのではないかという不安を覚えたわけではない。
 ひまわりのためだからといって、雪美の心を傷つけてもいいのかという迷いだった。

 ――ユータは白い女と別れるんじゃから、残酷なことであっても言わなければならん。たとえそれが、彼女を地獄に落とすことになってもじゃ。

 老人の厳しい声が鼓膜に蘇った。

 ――わしをひどい人間だと思うか? じゃが、わしから言わせれば、縒りを戻す気もないのに中途半端に優しさを見せるお前のほうがよっぽどひどい男じゃ!
 
 記憶の中の老人の叱声に背を押されるように、悠太はスマートフォンの通話ボタンを押した。
 コール音と悠太の心音が重なった。
 三回、四回、五回……出てほしいという思いと出てほしくないという思いが悠太の胸で交錯した。
『おはよう、悠ちゃん!』
 六回目のコール音を、雪美の溌溂とした声が遮った。
「あ……おはようございます」
『まったく、いつまで家来みたいな言葉遣いをするつもり?』
「すみません……」
『まあ、いいわ。どうしたの?』
「あ、あの、気が向いたら連絡してくれと電話番号を教えて貰ったので……実は、いま、ホテルの前にいます」
 どうしたの? という雪美の問いかけに動揺しながら、悠太はしどろもどろに言った。
『私いま、東京なんだ』
「えっ……でも、連絡をくれと……」
 悠太は、予想外の展開に言葉を詰まらせた。
『ちょっと、用事があったの。それに、しばらく大飛鳥島のホテルに泊まると言ったけど、ずっと悠ちゃんを待ってるとは言わなかったでしょ?』
 あっけらかんとした口調で、雪美が言った。
「たしかに……そうですね。あの、いつ頃戻って……」
『いまから、東京にきて』
 悠太の質問を遮り、雪美が言った。
「東京にですか!?」
 思わず、悠太は素頓狂な声で訊ね返した。
『行くつもりだからホテルにきたんでしょう?』
「そうですけど……わかるかな……」
 東京に住んでいた頃の記憶は失われているので、雪美のもとに辿り着けるかどうか不安だった。
『菊池さんが、羽田空港まで迎えに行くから大丈夫よ』
「……わかりました」
『菊池さんに伝えなきゃならないから、何時頃到着するかわかったらもう一度連絡ちょうだい。じゃあね!』
 雪美は、一方的に電話を切った。
 束の間、悠太はスマートフォンをみつめて立ち尽くしていた。
 肩透かしを食らった気分だった。
 自分から連絡があるのを心待ちにしていると思っていた。
 自分が東京に行くというまで、ホテルに籠りきりなのかと思っていた。
 なにを期待している? 結婚を諦めさせるのが目的なのだから、彼女の拍子抜けの言動は好都合ではないか?
 悠太は己に言い聞かせ、空港に向かった。
 悠太は人込みに揉まれながら、雪美に指定された到着ロビーに向かった。
 大飛鳥島の人の数にも戸惑ったが、羽田空港の人の多さは比較にならなかった。
 手荷物受取場を抜け、待ち合わせ場所の「出会いのひろば1」に向かった。
「先輩!」
 十メートルほど先で手を振る青年――菊池が、笑顔で駆け寄ってきた。
 窓越しに流れるコンクリート、コンクリート、コンクリート……。
 羽田空港から菊池の運転する車に乗ってずっと、悠太は窓の外の景色を視線で追っていた。
 八神島にはもちろん、大飛鳥島にもこんなに大きな建物はない。
「どうしました? さっきから、外ばかり見てますけど」
 ルームミラー越しに、菊池が怪訝な眼を向けてきた。
「高層ビルだらけですね」
 悠太は、窓の外に視線を向けたまま言った。
 ビルの群れだけでなく、車の量も見たことがないほどに凄かった。
「やだなあ、先輩。こんなの十階くらいの雑居ビルですよ。この程度で驚いていたら、西新宿の本当の高層ビル街に行ったら腰を抜かしますよ」
 菊池が、呆れたように言った。
「それにしても、街の雰囲気とかも忘れているんですか?」
「はい」
「先輩は、毎日ビルの合間をあちこち飛び回っていたのに……」
 菊池が、複雑そうに言った。
 たしかに、菊池の言う通りだ。
 僅か一、二ヵ月前まで生活していた街のことを、ジャングルから出てきた人間が初めて文明社会を見たように驚いているのだから。
「いったい、どこに行くんですか? 雪美さんのところですか?」
 悠太は窓の外から視線をルームミラーの菊池の瞳に移した。
「それは内緒でーす」
 菊池が、悪戯っぽい口調で返してきた。
「どうしてですか?」
「とにかく、行けばわかります。あと十分くらいで着くので、もう少し我慢してください。ところで、相変わらず雪美さんのことなにも思い出せませんか?」
「……すみません」
「先輩はなにも悪くないですから、謝ることないですよ。ただ、このままでは堀越さんが憐れで……」
 菊池が、言葉の続きを呑み込んだ。
「君は、どうしてそんなに雪美さんのことを心配するんですか?」
 悠太は、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
 最初は、先輩である自分のためだと思っていた。
 いや、それもあるかもしれない。
 ただ、まるで自分のことのように熱心になる菊池を見て、ほかの理由があるような気がしてならなかった。
「どうしてって……堀越さんは先輩の婚約者ですし、先輩に転覆した船を斡旋したのは僕ですから」
 菊池が、沈んだ声で言った。
「僕への罪の意識なら、気にしないでください。船の手配を君に頼んだのは、僕ですから。そうですよね?」
「まあ、それはそうですが……先輩の言葉はありがたいですけど、そういうわけにはいきませんよ。それに……」
 菊池が、また言葉を呑み込んだ。
「もしかして、雪美さんのことを好きなんですか?」
 悠太は、核心に踏み込んだ。
 心の奥底でそうではないかと思っていたが、なかなか口に出せなかったのだ。
 菊池は車のスピードを落とし、路肩に停車した。
「着いたんですか?」
 悠太は、窓の外に視線を巡らせた。
 カフェや食堂が連なっているが、店の中に雪美がいるのだろうか?
「もしそうだとしたら、どうしますか?」
 菊池が、フロントウインドウをみつめたまま言った。
「え? 着いたのなら、行きましょうよ」
「もし僕が堀越さんを好きだと言ったら、先輩は怒りますか?」
 菊池が、ゆっくりと振り返り悠太をみつめた。
 悠太は、胃袋を鷲掴みにされたような気分になった。
「どうして、僕が怒るんですか? 菊池君が誰を好きになろうと自由でしょう?」
 言葉とは裏腹に、今度は胸が苦しくなった。
「どうしてって、そんなの、あたりまえじゃないですか!? だって、先輩は堀越さんの婚約者なんですよ!?」
「それは僕が覚えてないときのことです。だから、こうやって雪美さんに会って婚約解消を……」
「雪美さんは、全部覚えてます!」
 悠太の声を、菊池が大声で遮った。
「先輩が覚えてないからって、雪美さんの気持ちを無視して自分一人ですべてを決めるなんて、あんまりですよ!」
 菊池の言葉が、砕け散ったガラス片のように悠太の心に突き刺さった。
「じゃあ、雪美さんを愛した僕に戻ったふりをしろって言うのか!?」
 悠太は、鬱積した感情を爆発させた。
「すみません。つい、興奮して……」
 我を取り戻した悠太は、菊池に詫びた。
「僕のほうこそ、むきになってすみません。でも、堀越さんにたいしての思いは本気です」
 悠太をみつめる菊池の瞳に、力が籠った。
「いいんじゃないですか」
 笑顔を作ろうとしたが、頬が強張った――平静を装おうとしたが、声がうわずった。
「先輩が以前のように堀越さんにたいしての思いを持っているのなら、僕は自分の思いを抑えます。だけど、いまの先輩の心に堀越さんはいません。それだけなら、事故で記憶を失ったということもあり、理解できる部分もあったと思います。でも、先輩にはひまわりさんという新しい女性がいました。しかも、婚約まで……。僕に先輩を咎める権利はありません。ただ、僕が堀越さんを支える権利はあると思います」
 菊池のまっすぐな思いが、悠太にはつらかった。
 自分の汚れた心が浮き彫りになるようで、彼の一途な瞳を正視するのが耐え難かった。
 たしかに、雪美にとって過去をなかったことのように振舞う自分よりも、菊池とつき合ったほうが幸せになるだろう。
 だが、心がすっきりしないのはなぜ?
 雪美には、これから婚約解消を伝えに行くのではなかったのか?
 悠太にとっては、菊池が雪美とつき合うのは好都合ではないのか?
 頭ではわかっていても、胸の奥のもやもやは消えなかった。
「いまの僕では、雪美さんを幸せにすることはできません」
 悠太は、絞り出すような声で言った。
「いまの言葉が、答えだと思ってもいいですね?」
 間を置かず訊ねる菊池を見て、彼の雪美にたいしての真剣度合いが窺えた。
 悠太は複雑な感情から意識を逸らし、ゆっくりと顎を引いた。
「でも、わからないな」
 菊池が、独り言のように言った。
「結婚までしようと考えた人への思いって、記憶とともになくなってしまうものなんですかね?」
 皮肉ではなく、菊池の口調は本当に疑問を感じているようだった。
「……そうみたいですね」
 悠太は、他人事のように力なく言った。
 そう、記憶を失う以前の星川悠太は他人同然だった。
 記憶を失う以前の自分が、なにを考え、なにをして、なにを語ったのかをまったく覚えていないのだから。
「堀越さんと別れて、後悔しませんか?」
 菊池の問いに、悠太は言葉に詰まった。
「正直、それはわかりません」
「だったら、婚約を解消しないほうが……」
「わからないといったのは、もしも記憶が蘇ったときのことです。でも、雪美さんを好きだった頃の気持ちを覚えていない僕が、もしものときのことを考えて彼女の人生を束縛することはできません。だから、万が一後悔することになったとしても、いまの僕は婚約の解消を選択しなければならないんです」
 菊池に、というよりも自分に向けた言葉だった。
 雪美を好きだったときの気持ちは思い出せないが、雪美を好きだった気持ちは理解できる。
 いまの悠太にも、雪美の魅力は伝わっていた。
 菊池が彼女への思いを口にしたときに、嫉妬している自分がいた。
 もしかしたら、無意識のうちに以前の自分の感情が蘇る瞬間があるのかもしれない。
 たとえそうだとしても、菊池に言った通りにそんなあやふやな感情で雪美の人生を左右するわけにはいかない。
「わかりました。じゃあ、僕は遠慮なく堀越さんに思いを伝えます」
 菊池は言うと正面を向き、車を発進させた。
(第34回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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