双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第31回

 

第三章

1


 重く暗鬱とした空気に耐え切れず、悠太はウーロン茶で喉を潤した。
 もともと白い雪美の肌がよりいっそう白く見えるのは、血の気が引いたせいかもしれない。
 彼女を蒼褪めさせるようなひどいことを、悠太は口にしてしまった。
 非情だということはわかっていた。
 悠太からすれば見知らぬ女性でも、雪美にとっての自分は永遠の愛を誓った特別な存在なのだ。
 三十秒……一分……沈黙は続いた。
 ショックに声と表情を失っている雪美の姿に、胸が締めつけられる思いだった。
 声をかけたい衝動を、悠太は懸命に堪えた。
 いま、悠太の胸にあるのは愛情ではなく同情だった。
 そんな気持ちで優しくするのは、雪美にたいしても失礼なことだ。
「約束する。たとえ一秒でも君を不安にさせないって」
 唐突に、雪美が口を開いた。
「…………」
「それも、忘れたのね」 
 雪美が、哀しさと寂しさを湛えた眼で悠太を見つめた。
「もしかして、それは僕の言葉ですか?」
 怖々と、悠太は訊ねた。
「忘れたことより、いまの質問のほうが残酷だわ……」
 雪美が下唇を噛んだ。
「すみません……」
「そうやって他人行儀に謝られることは、もっと残酷……」
 涙に揺らめく雪美の瞳が、悠太の良心に爪を立てた。
「なーんてね!」
 一転して、雪美がおどけた感じで言った。
「え……」
 悠太は、きょとんと雪美をみつめた。
「あなたを引っかけるために幸薄い女を演じたの! イェーイ、だーまさーれたー!」
 雪美が悠太を指差し、ケタケタと笑った。
 ようやく、自分にたいしての雪美の気遣いだということがわかった。
 悲哀に満ちた雪美を見ているのもつらかったが、陽気に振舞っている彼女の笑顔はさらにつらかった。
「あ! もしかして、私が無理に明るくしてると思ってるでしょ?」
 雪美が、悠太の胸の内を見透かしたように言った。
「え、いや……そんな……」
 図星を指され、悠太はしどろもどろになった。
「相変わらず、嘘が下手ね。すぐに顔に出るんだから」
 雪美が、おかしそうに言った。
 快活な彼女の言動を見聞きしていると、演技ではないような気もしてきた。
 だが、演技でないことは雪美の瞳の奥のゆらめきが証明していた。
「安心して! 私は悠ちゃんを心配させないように、わざと明るく振舞うような気遣いができるほど大人じゃないの。自分勝手でわがままだから、心配させたいときは気遣いなんかなしに、めちゃめちゃ心配させるから覚悟しておいてね!」
 雪美が鼻梁に皺を刻み悪戯っぽく笑うと、メモを置いた。
「今日のところは、退散してあげるわ。そのメモに書いてあるのは私の携帯番号よ。しばらく大飛鳥島のホテルに泊まってるから、一緒に東京に行く気になったら連絡をちょうだい」
「困ります、僕は……」
「自惚れないで。誰があなたのために泊まるって言った? たまには空気のいいところで気分転換したくなっただけよ。だって、婚約者がいきなり私のことを忘れて別の女の人と暮らしたいなんて言い出すんだから、気分転換くらいしたくなるでしょうに」
 腕組みをした雪美が、あっけらかんとした口調で言った。
「すみま……」
「そこまで! 謝られたくないって言ったでしょ? とにかく、気が向いたら連絡をちょうだい。ここは奢ってね!」
 悠太を遮り溌溂とした笑顔で言うと、雪美は席を立ち弾む足取りで店を出た。
 窓の外に視線を向けた。
 雪美が子供のように手を振り、踵を返した。
 不意に、動悸に襲われた。
 脈拍が早くなり、全身を物凄い勢いで血液が駆け巡った。
 突然の身体の変化に、悠太は戸惑いを隠せなかった。
 いったい、どうしてしまったのだろうか?
 悠太は、腰を上げ窓の外を見た。
 遠くに見える雪美の背中に、動悸が激しくなった。
 
 どうして……。
 
 悠太は、左の胸を押さえ雪美の携帯番号が書かれたメモをみつめた。
「で、白い女はなんと言ったんじゃ?」
 埠頭の先端に座った老人が、スルメを咀嚼しながら訊ねてきた。
 悠太が悪戦苦闘する硬さのスルメを、老人はいとも簡単に噛み裂いていた。
 歯が二十代の自分以上に強いのは、環境のなせる業だろう。
 小さな蟹を丸ごと口に入れて殻ごとバリバリと噛み砕く老人を初めて見たときの衝撃が、いまでも忘れられなかった。
「しばらく大飛鳥島のホテルに泊まるから、一緒に東京に行く気になったら連絡してほしい……そう言ってました」
 老人の隣に座った悠太は、陽光を照り返す海をみつめつつ言った。
 さっきほどひどくはなかったが、動悸はおさまっていなかった。
「むろん、東京に行く気はないと言ったんじゃろうな?」
「はい……」
 いま頃、彼女はホテルに戻ったのだろうか?
 わざわざ東京からきてくれた雪美に、自分の態度は冷た過ぎたのかもしれない。
 彼女は本気で、かかってくることのない自分からの電話を、何日も……いや、何週間も待つ気なのか?
「だったら、一安心じゃ。それにしても、島に残って連絡を待つとは、しぶとい女じゃな」
 老人が、子供のように小石を海に投げつつ言った。
「そうなるのが普通じゃないですか?」
 無意識に、口が動いた。
「ん? どういう意味じゃ?」
 老人が小石を投げる手を宙で止め、怪訝な顔を悠太に向けた。
「だって、彼女は僕の婚約者だったわけでしょう? 夫になるはずだった人間が、ある日突然に記憶を失って君とつき合う気はない……いきなりそう告げてきたら、はいそうですか、となるほうがおかしくないですか? 僕が逆の立場でも、そう簡単には受け入れられないと……」
「後悔しておるのか?」
 老人が、悠太を遮った。
「え……?」
「白い女と婚約解消したことを、後悔しておるのかと聞いておるんじゃ」
 悠太を見据える老人の瞳に、心の中を見透かされているような気がした。
 自分でも、なぜそんなことを口走ってしまったのか驚きを隠せなかった。
 老人は、自分の気持ちが揺れていると誤解しているのかもしれない。
 本当に、誤解なのか?
 後悔はなくても、悠太が雪美と会って混乱しているのは事実だった。
 その混乱が、どこからきているのかは自分でもわからなかった。
「後悔なんてしていません。ただ……」
「ただ……なんじゃ?」
 言い淀む悠太を、老人が促した。
「人として僕の取った態度は正しかっただろうか……そう思っただけです」
 悠太は罪悪感の原因を探りながら、老人に言った。
 ただ、雪美を憐れに思っているというのはたしかだ。
 しかし、それだけなのだろうか?
 悠太は、梅雨時に空を覆う雨雲さながらに心に広がる疑問から意識を逸らした。
 考えても、無駄なことだ。
 もっと言えば、考えるのが怖かった。
 混乱の原因が、もしも自分にとって疚しいことならば……。
「それが、重大なことかな?」
「え?」
「ユータは白い女と別れるんじゃから、残酷なことであっても言わなければならん。たとえそれが、彼女を地獄に落とすことになってもじゃ」
 老人が、厳しい表情で言った。
「そんな……」
「わしをひどい人間だと思うか? じゃが、わしから言わせれば、縒りを戻す気もないのに中途半端に優しさを見せるお前のほうがよっぽどひどい男じゃ!」
 老人の言葉が、悠太の胸に突き刺さった。
 自分が、ひどく醜い人間に思えた。
 一方的に別れを告げておきながら、傷ついた雪美を見ると良心の呵責を覚えた。
 悠太は、知っていた。
 雪美の受けた傷を気遣うというよりも、自分が傷つくことを恐れているのだ。
「彼女がユータを好きであるほど、諦めがつくようにしてやらなきゃならん。いまは、飯が喉を通らないほどに落ち込んでおったとしても、時が解決する。彼女に新たな一歩を踏み出させるためにも、ユータは非情にならないといかんのじゃ」
 たしかに、老人の言う通りだった。
 雪美にとって必要なことは、婚約者の存在を一日でも早く忘れられるようにしてやることだ。
 罪の意識に苛まれ、雪美に優しさを見せてしまうことが彼女をよけいに苦しめてしまうのだ。 
「さあ、船着き場に戻ろう。もうそろそろ、帰ったほうがいい時間じゃ。ひまわりが、首を長くして待っておるぞ!」
 老人が分厚くごつごつした掌で、悠太の背中を叩くと腰を上げた。
 悠太も、暗鬱な気持ちを吹っ切るように勢いよく立ち上がった。
(第32回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop