双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち(新堂冬樹)

第30回

9(承前)

「すみません、彼にコーヒーをお願いします」
 雪美は、ウエイトレスに告げた。
 悠太は自分で豆を挽くほどの無類のコーヒー好きで、日に五杯は飲んでいた。
「僕はコーヒーじゃなく、ウーロン茶をお願いします」
「あれ? コーヒーの味も忘れちゃった?」
 雪美は、努めて明るい口調で訊ねた。
「はい。僕、そんなにコーヒーが好きだったんですか?」
「うん。家でも外でもコーヒーばかり飲んでいて、そのうち、顔が焦げ茶色になるよ、なんてよく悠ちゃんをからかってたわ」
 雪美は、痛みとともに蘇る甘く幸せな記憶に思いを馳せた。

――じゃあ、雪美はグリーンスムージーばかり飲んでいるから顔が緑色になるんだ?
――緑色になっても、当然、私のこと好きよね?
――アマガエルみたいな彼女はちょっとな~。
――アマガエルですって!?
――嘘嘘、「ピッコロ大魔王」の間違い!
――こら! 

「コーヒーは毒だってお爺さんから言われたので」
 幸せな思い出を、現実の悠太の声が打ち消した。
「毒?」
 雪美は、怪訝な顔で悠太を見た。
「コーヒーだけじゃなく、炭酸飲料もスポーツドリンクも毒だから飲まないほうがいいそうです。街で暮らしてると、難しいですよね」
 悠太が、笑みを浮かべつつ言った。
 懐かしい笑顔……だが、その微笑みは、雪美に向けてくれていたあの頃のものとは違う。
「悠ちゃんは、島ではなにを飲んでるの?」
 乱れそうになる気持ちをコントロールし、雪美は訊ねた。
 自分の知らない悠太の生活を口にするのは……ひまわりと暮らす悠太の生活を口にするのは、胸が張り裂けそうなほどにつらかった。
 だが、記憶を失っている悠太には、八神島での暮らしがすべてなのだ。
 悠太を取り戻したいのであれば、自分の思いばかりを一方的に押しつけるべきではないと、前回の再会後に雪美は痛感した。
 いまの悠太にとって雪美は、見知らぬ女性でしかないのだ。
 そう考えただけで、涙腺が熱を持ち鼻の奥が熱くなった。
「ほとんど水です。雨水を溜める仕掛けを作って、飲料水としてストックしておくんです。こんなふうに、簡単に飲めれば楽なんですけどね」
 悠太が、グラスの水を宙に掲げた。
 そういう生活をしている悠太に、驚きを感じた。
 それ以上に、島での暮らしを受け入れている悠太に雪美は戸惑いを覚えた。
「食べ物とかは、どうしてるの?」
 知りたいという思いと、知りたくないという思いが雪美の中で葛藤した。
 眼を逸らしてはならない。
 昔の悠太を取り戻すには、つらくても現在の悠太を受け入れる必要があった。
「野ウサギやカラスを狩ったり、カニや魚を捕ったり……信じられないでしょう?」
 悠太が微笑んだ。
 信じられなかった。虫も殺せなかった悠太が動物を殺していることが……。
 信じられなかった。島での生活を楽しそうに語る悠太が……。
「捕まえるの、難しくない?」
 雪美は、平静を装い質問を重ねた。
「凄く難しいです。野ウサギは素早いしカラスは羽があるし……最初の頃は槍が掠りもしませんでしたけど、ひまわりさんに教えて貰っているうちにだんだんとコツを掴んで、いまでは十回に一回は命中するようになりました」
 悠太の口から出たひまわりの名前が、雪美の胸を滅多刺しにした。
「へぇー凄いね。ひまわりさんって、狩りがうまいんだ」
 動揺を悟られぬように、雪美は驚いて見せた。
「最初は、僕もびっくりしました。あんなに細いのに僕の何倍も遠くに槍を飛ばすし、平気な顔で野ウサギの腹を裂いて内臓を取り出すし、気持ちの悪いカミキリムシの幼虫をおいしそうに食べるし……ひまわりさんと行動をともにしてると、カルチャーショックの連続でした。でも、それが生きることなんだなって、彼女から教わりました」 
 ひまわりとの日常を語る悠太の一言一句が、雪美の心の傷口に爪を立てた。
 なによりショックなことは、ひまわりを語るときの悠太の幸せそうな顔……。
 雪美は、膝の上で拳を握り締めた。
「……ウサギとかカラスって、おいしいの?」
 雪美は瀕死の平常心を掻き集め、話題を変えた。
 こんなことで動揺していたら、悠太を連れ戻せはしない。
「ウサギもカラスも、淡泊でおいしいですよ。ヘルシーだから、街で食べても女性には好まれると思います。だけど、幼虫だけはだめです。あの口の中に広がる感触が、何度食べても……」
 悠太が、顔を顰めつつ言った。
 雪美は、大きなリアクションが取れない自分が哀しかった。
 以前の関係なら、グロテスクな話になると雪美は悠太をバシバシと叩きながら大騒ぎしていたものだ。
「そんなにまずいなら、食べなきゃいいのに」
 悠太が記憶を思い出しやすくなるように、雪美はつき合っていた当時と同じにリラックスした口調を心掛けた。
 雪美と初対面同然の悠太からしてみれば、図々しい女と感じることだろう。
 もしかしたら、印象が悪くなるかもしれない。
 信じるしかなかった。自分と悠太の絆を……。
「僕もそう思って最初のうちは拒否していたんですが、ひまわりさんが食べろ食べろってうるさくて。幼虫は、貴重な蛋白源らしいんです。だから、ひまわりさんとお爺さんはパクパク食べて、見ているだけで胸やけがします」
 悠太が、胸に手を当て眉間に縦皺を深く刻んだ。
「私も、気分が悪くなりそう」
 幼虫の話にではなく、悠太がひまわりの名前を口にするたびに雪美は眩暈に襲われた。
 この短い会話の中で、何度もひまわりが出てきていることでも、彼女が悠太の生活に深く入り込んでいるのがわかった。
「街に住んでいれば、幼虫なんて食べることはないんでしょうけどね」
 悠太の敬語を聞くたびに、彼がどんどん遠くに行ってしまうような錯覚に襲われた。
 濃い一文字の眉、くっきりとした二重瞼、力強い鼻梁、情の深さを表している厚めの唇……目の前の悠太は、雪美の知っている悠太と同じ顔立ちをしていた。
 だが、彼の瞳の中に雪美はいない……会話の中にも雪美はいない。
 恐らく、心の中にも……。
「いきなりだけど、記憶は少しも戻りそうにない?」
 雪美はあっけらかんとした口調で言いながら、悠太の表情を窺った。
 数秒の間を置き、悠太が遠慮がちに頷いた。
「私とこうして向き合っていても、なにも思い出せない? つい一ヵ月くらい前まで、東京のレストランやカフェで、いろんな話をしながらご飯を食べたりお茶をしてたんだよ。もしかして、ドッキリじゃないでしょうね?」
 雪美は、明るい口調で訊ねた。
 口調とは裏腹に雪美は、祈るような気持ちで悠太をみつめた。

――もし、一つだけ願い事が叶うなら、雪美はなにをお願いする?

 出会って半年ほど経ったある日の夜、代官山のイタリアンレストランで食事をしているときに、唐突に悠太が訊ねてきた。

――えーっ、一つだけ? 「『アラジン』の魔法のランプ」は、三つも願いが叶うよ?
――だめ。「ユータの魔法のランプ」は一つだけしか願いを叶えないから。
――ケチ!
 
 雪美が頬を膨らませた。

――なんでも願い事が叶うんだから、一つで十分だろう?
――しようがないから、一つで我慢してあげるわ。なにがいいかな~。スーパーモデルみたいなスタイルにもなりたいし、胸もあと2カップ大きくなりたいし、もっと小顔になりたいし、永遠に年を取りたくないし、お姫様が住むようなお城もほしいし、世界中のスイーツを食べたいし、それから……。
――もう、欲張りだな。どれだけ叶えたい願いが……。
――悠ちゃんの記憶を消すことかな。
 
 悠太の声を遮り、雪美は言った。

――僕の記憶を消す!?
――うん。くしゃみをする前の顔とか、怒ったときの顔とか、風邪を引いて鼻水が出たときとか、チョコレートを食べ過ぎてニキビができたときとか……悠ちゃんの記憶から変な顔の私を、ぜーんぶ消したいの!
――なんだ、そんなこと気にしなくていいのに。どんな変顔の雪美もかわいいよ。
――ほら、変顔だって思ってる!
――あ……いや、そういう意味じゃなくてさ……。

 悠太が、しどろもどろになった。

――冗談よ、冗談! ねえ、悠ちゃんの願いはなに?
――雪美の笑顔がずっと消えませんようにって……それが、僕の願いかな。僕は、雪美の笑顔が大好きなんだ。
――だったら、甘いものを与え続けていたら大丈夫だから。
 
 言って雪美が笑うと、悠太もつられて笑った。
「すみません……なにも、思い出せなくて……」
 記憶の中の悠太の笑い声とは対照的な、悠太の沈んだ声が雪美を現実に引き戻した。
「そっか。まあ、焦ることはないよ。一週間で記憶を取り戻す人もいれば、一年以上かかる人もいるみたいだからさ」
 雪美は、屈託のない笑顔で言った。
 悠ちゃん、いまの私には、笑顔でいることは簡単じゃないんだよ。
 本当は、つらくて、哀しくて……いま、すぐにでも大泣きできる自信があるわ。
 だって、あんなに私を好きでいてくれたあなたが……私を大事にしてくれたあなたが、いまは別の女性のことしか頭にないなんて……。
 私が独占していた悠ちゃんの心に住んでいるのは……ひまわりさん。
 私が、いけなかったのかな?
 願いが一つだけ叶うなら、悠ちゃんの記憶を消したいなんて言ったから。
 神様が願いを叶えてくれたみたい……。
 でも、消したかったのは私の変顔だけ……。
 二人の大切な思い出や、悠ちゃんが好きだって言ってくれた私の笑顔まで忘れるなんて、ひど過ぎるよ。
 神様、お願いします。
 もし、私があのとき言った願いで悠ちゃんの記憶を奪ったのなら……私の願いを取り消してください。
 変顔で笑われても、ニキビだらけの顔で引かれても構わない。
 見られたくない私でも、覚えていてほしい。
 堀越雪美のすべてを忘れられるほうが、何百倍もつらい……。
「怖いんです……」
 ぽつりと、悠太が呟いた。
「え……なにが?」
 雪美は、悠太を促した。
「以前の自分を思い出すのが……怖いんです」
 悠太が、絞り出すような声で言った。
「どうして、思い出すのが怖いの?」
 雪美は、笑顔で訊ねた。
 テーブルの下で、握り締める拳に力が入った。
「自分がどんな人間だったか……その……あなたと、どんな関係だったのかを知るのが……」
 悠太が眼を伏せ、口を噤んだ。
 二人とも、運ばれてきた飲み物には口をつけていなかった。
「悠ちゃんは、誰にでも優しくて、思いやりがあって、責任感のある男性だったわ。ちょっと、頑固だったけどね。私達の出会いは、最悪だったんだから」
 雪美は口元に笑みを湛え、眼を閉じた。
 
――探し物はこれですか?

 渋谷の公園通り沿いに建つ銀行の前で、悠太は真っ青な顔で探し物をしていた。
 雪美は、悠太が落としたスマートフォンを掲げながら声をかけた。
 スマートフォンを拾ってわざわざ電話をかけてあげた雪美にたいして悠太は、持ち主からかかってきたときのために、ちゃんと動くかスマートフォンを操作したことを説教してきた。
 腹を立てた雪美は、拾った場所に戻しておくと意地悪を言い、悠太が現れるのを待ち伏せしていたのだ。

――偉そうなことを言っていたくせに、ずいぶんと焦って……あ!

 雪美と悠太は、同時に互いを指差した。
 悠太とは、その日より前に既に会っていた。
 しかも、旅行までしていた。
 といっても、友人と小豆島旅行をするときに利用した旅行会社の客とガイドとしての話だ。

――なんだ、ガイドさんじゃない!
――君はたしか……堀越雪美さん、だったよね?
――へぇ、ガイドさんって、物覚えがいいのね。でもさ、あのときはよそゆきのあなたで、今はじめて本性を見たって感じ。
――どういう意味だい?
――落としたスマートフォンを拾ってくれた親切な人に文句を言うなんて、人間として最低じゃない?
――いや、だからそれは、君が勝手に僕のスマートフォンを……あっ、どこに行くの!?

雪美は悠太の話の途中で駆け出し、水溜まりのある場所で立ち止まった。
 
――恩人の君にあんな失礼なことを言って、僕が悪かった……そう謝ったら、許してあげる。

 雪美は、悠太のスマートフォンを水溜まりの上に掲げながらサディスティックな笑みを浮かべた。

――え……嘘だろ? ま、真面目に、言ってるのか!?

 あのときの悠太の慌てふためいた顔が、昨日のことのように雪美の脳裏に蘇った。
「もう、やめてください……」
 二人の出会いを語る雪美を、額に玉の汗を浮かべた悠太が苦し気な顔で遮った。
「どうしたの? なにか、思い出せそうなの!?」
 雪美は、身を乗り出した。
「いえ……なんだか、息苦しくなって、頭も痛くて……」
 悠太が、喘ぐように言った。
「落ち着いて……とりあえず、ほら」
 雪美がウーロン茶のグラスを差し出すと、悠太は一息に飲み干した。
「焦らなくていいの。ゆっくり、ゆっくりでいいから」
 闇が支配していた雪美の心に、一筋の光が射し込んだ。
 それはとても弱々しい光だったが、雪美にとっては希望の光だ。
 悠太の記憶が蘇れば、元の関係に戻れる。
 ひまわりとのことがまったく気にならないかと言えば嘘になるが、雪美の知っている悠太が戻ってきてくれるなら、それ以上は望まない。
「あなたに、お願いがあるの」
 雪美は、相変わらず苦し気な表情の悠太をみつめた。
「なんですか?」
「私と一緒に、東京に行ってほしいの」
「え……」
 悠太が、絶句した。
 明らかに困惑しているリアクションに、雪美の胸は痛んだ。
 二人で婚前旅行をするはずだった悠太が、一緒に東京に行くことに拒絶反応を起こしている。
「さっき話した渋谷の公園通りや、二人でデートした映画館やカフェを巡っているうちに記憶が……」
「記憶を取り戻したくないんです!」
 悠太が強い口調で言った。
 雪美には、悠太の言葉の意味がわからなかった。
 しかし、暗鬱な予感が雪美の胸に広がっていった。
「記憶を取り戻したくない……悠ちゃん、いま、そう言った?」
 怖々と、雪美は訊ねた。
 もし、そうなら……雪美の考えていることが理由で悠太がそう言ったなら……。
「僕は、ひまわりさんの知ってる星川悠太として、あの島で暮らしたいんです」
 悠太の声が、鼓膜からフェードアウトした。

――約束して。生涯、たとえ一分でも私を不安にさせないって……。
――約束する。たとえ一秒でも君を不安にさせないって。
 
 あのとき天国に導いてくれた悠太の約束が、雪美を地獄に突き落とした。
(第31回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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