双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第28回

8(承前)

「そこに電話があるから、はようかけてこい」
 老人が指差す先に、サーモンピンク色の公衆電話があった。
「その前に、トイレに行ってきます」
 悠太は席を立ち、店の奥に向かった。
 トイレは使用中になっていた。
 外で用を足すことには慣れているが、ここは無人島ではないので、そういう訳にはいかない。
 いったん席に戻ろうと踵を返したときに、背後でドアが開く音がした。
「あっ!」
 トイレに入ろうとしたときに、擦れ違い様に男性が大声を上げた。
「あ……」
 悠太も、男性の顔を見て声を出した。
 よく日焼けした童顔にコントラストをなす白い歯、ポロシャツ越しにもわかる逞しい上半身……トイレから出てきた男性は、偶然にもこれから電話をかけようとした菊池だった。 
「先輩、どうしてここに?」
 菊池が、驚いた顔で訊ねてきた。
「いまから、君に電話をかけようと思ってたところだったんだ」
「僕にですか?」
「ああ。この前の件で、雪美さんって人と会ってはっきりさせようと思って」
「堀越さんと会って、なにをはっきりさせるんですか?」
 菊池が、怪訝な表情になった。
「僕と彼女の、婚約についての話さ。本当に婚約していたのか、していたのなら……」
「婚約していたのなら?」
 言い淀む悠太を、菊池が促した。
「解消してほしいとお願いするつもりだよ」
「婚約を解消するっていうことですか!?」
 顔を強張らせる菊池に、悠太は頷いた。
「菊池さんは、どうしてここに?」
「僕達も、そのことでもう一度先輩に会おうと思って……」
「僕達? あ、雪美さんも一緒なのかな? もしそうなら、ちょうどよかった。いま、彼女はどこに……」
「ちょ、ちょっと、待ってください。堀越さんは実家に用事があるみたいで、一本遅い便で到着します。僕は仕事で漁業組合のほうに顔を出さなければならないので、早くきたというわけです。あ、あの……雪美さんより先に、僕と話して貰ってもいいですか?」
 菊池が、慌てた様子で言った。
「君と?」
「はい。いきなり堀越さんが聞くとショックな話もあるでしょうし、僕も先輩に訊きたいことがありますから」
「わかった。島のお爺さんも一緒だけど大丈夫?」
「いえ……できるなら、二人で話したいんですけど」
 遠慮がちに、菊池が言った。
「とりあえず、一緒にきてくれる?」
 悠太はトイレには向かわず、客席に引き返した。
「電話は終わった……あれ、あんたは?」
 老人が、悠太から背後の菊池に視線を移して眼を見開いた。
「彼らも僕に話があるみたいで、大飛鳥島にきたそうです」
「菊池です。先日はいきなり押しかけて、申し訳ありませんでした」
 悠太の言葉を引き継ぎ、菊池が挨拶した。
「白い女もおるのか?」
「いえ、堀越さんは一時くらいに到着します」
 悠太は、店内にかけてある時計を見た。
 あと五分で、十一時になるところだった。
「手間が省けて、よかったのう。あんたも座らんか」 
 老人が、菊池に席を促した。
「あ、いえ、僕は……」
「二人で話をしたいそうですから、ちょっと外に出てきます」
 言葉に詰まる菊池の代わりに、悠太は言った。
「なんじゃ? わしに聞かれたら困る話か? 肉はどうするんじゃ?」
「三十分くらいで、戻ってきますよ。先に食べててください」
 不満げな老人を悠太は受け流し、出口に向かった。
「はよう戻ってこんと、全部食ってしまうからの!」
 悠太の背中を、老人の野太い声が追ってきた。
「先輩、好みまで変わったんですか?」
「シーサイドカフェ」――悠太の前に運ばれてきたウーロン茶のグラスを見て、菊池が訊ねてきた。
「なにが?」
「以前は、これを一日五杯も飲むほど好きでしたよ。ミルクと砂糖をたっぷりと入れてね」
 菊池はそう言いながら、コーヒーカップを宙に掲げてみせた。
「そんな毒を日に五杯も飲んでいたのか……」
 悠太は思わず呟いた。
「え? 毒って言いました?」
 菊池が、怪訝な眼を悠太に向けた。
「あ、いや……ほら、コーヒーを飲み過ぎると身体に毒だっていうじゃないか」
 慌てて、悠太は誤魔化した。
 いつの間にか、すっかり老人の影響を受けていた。
「昔はそう言われてましたけど、最近の研究では四、五杯程度なら逆に身体にいいことがわかったみたいですよ。あ、そんなこと話している時間はないですね。では、早速ですけど、まったく、記憶は戻っていないんですか?」
「ああ。なにも思い出せないよ。あのさ、雪美さんって人の話をする前に訊きたいことがあるんだけど……君は僕の両親を知ってる?」
 悠太は、ずっと気になっていたことを口にした。
 両親、兄弟、仕事、性格、犯罪歴……悠太は、雪美との婚約と同じくらい気になっていることを、菊池に会ったら聞こうと思っていた。
「お母様とは、昨日も話してきたばかりです。先輩のこと、凄く心配してて……」
 菊池が曇った表情で俯いた。
「僕が記憶を失っていることや無人島にいることを、母親は知っているの?」
 さすがに、顔も思い出せない人を母さんと呼ぶことに抵抗があった。
「先輩は船の事故で捜索も打ち切られ死んだ可能性が高いと思われていたから、生きていたことだけはすぐに報告したんです。記憶喪失の件やひまわりさんのことは言わないつもりだったんですが、すぐに会わせてくれということになって隠し通せませんでした」 
「哀しんでただろう?」
「その前に、生存が確認できて物凄く喜んでいました。死んだかもしれないと半ば諦めかけていた我が子が、生きていたわけですからね。先輩が行方不明になってから口には出しませんが、お母様の心労は相当なものだと思います。眼の下には隈ができて頬はこけ、かなりやつれた印象です。睡眠も、ほとんど取っていないんじゃないでしょうか」
 菊池の言葉に、顔も知らない母親に迷惑をかけたことに胸が痛んだ。
 だが、会いたいとは思わなかった……というより、会うのが怖かった。
 息子との再会に歓喜する母親と戸惑うだけの自分の温度差が……母親と同じぶんだけ感涙できない息子の姿を見せるのが怖かった。
「父親は、どんな感じ?」
「お父様……」
 悠太の質問に、菊池が言い淀んだ。
「なにか、まずいことでもあるのか?」
「……先輩が中学生のときに、癌で亡くなられています」
 申し訳なさそうに、菊池が言った。
「あ、そうなんだ……」
 そんなリアクションしかできない自分が情けなかった。
 手塩にかけて育てた子供の生死がわからず、やつれ果てるほどに母親に気を揉ませていたと考えるだけでも罪悪感に襲われた。
 その上、生きているとわかっても家には帰らないと言っているのだ。
 なんと、親不孝な人間だ……。
 罪の意識が、悠太の良心をズタズタに引き裂いた。
「ついでと言ってはなんですが、先輩に兄弟はいません」
 一人っ子という事実が、悠太にプレッシャーをかけた。
 兄弟がいるなら、自分一人がいなくても大丈夫という思いも正直あった。
「星川悠太について、菊池君が知っていることを全部教えてほしいんだ」
「僕でよければ、なんでも聞いてください! もしかしたら、先輩の記憶が蘇るかもしれないですからね。その前に、菊池君という呼びかたはむず痒いのでやめて貰えますか? 昔は洋って下の名前で呼ばれていましたから、それでお願いします」
「でも、いまの僕は君と初対面も同然だから、そんな馴れ馴れしい呼びかたはできないよ」
「わかりますけど、記憶を呼び戻すきっかけになる可能性もありますから、治療だと思って協力してください。先輩も、記憶を取り戻したいでしょう?」
 唐突な菊池の問いかけに、悠太は言葉に詰まった。
 本音の部分では、自分でもわからなかった。
 もちろん、過去の自分が何者だったのかは知りたい。
 だが、それは星川悠太の家族構成、性格、仕事、交友関係、生活態度などを情報として知りたいだけであり、記憶を取り戻すこととイコールではない。
 記憶を失う前の感情を知るのが怖かった――雪美にたいしての感情を思い出すのが怖かった。
「もちろんだよ。早速だけど、まずは、僕の仕事は菊池……いや、洋と同じ『現代日本ツーリスト』って旅行会社なのかな?」
 胸の疼きから意識を逸らし、悠太は話題を変えた。
「先輩も旅行業ですけれど、会社は別です。池袋の『ドリームサポート』っていう旅行代理店で、ツアーコンダクターをしていました」
「ツアーコンダクター?」
 聞き慣れない名前を、悠太は鸚鵡返しにした。
「ええ。ツアーに参加したお客さんを誘導し、スケジュールを管理して、トラブルが起きないように旅を円滑に進めるのがツアーコンダクターです。似たような職種にツアーガイドというのがあって、こちらは、旅先の観光スポットや飲食店の情報をツアー客に提供するのが仕事です。普通はコンダクターとガイドは別々にいるんですが、『ドリームサポート』は小さな会社だったので先輩は両方を兼務していました」
 菊池は丁寧に説明してくれてはいるが、悠太には他人事のように聞こえた。
 少なくとも、自分がそういう仕事をやっていたという実感はまったくなかった。
「先輩は、『ロビンソン・クルーソー☆ツアー』という新しい企画を考え、飛鳥島という無人島をツアー地にしようと視察に行く途中にフィッシングボートが転覆して、八神島に漂着したんです」
「そうだったのか……」
 悠太はため息を漏らした。
 だが、やはり、実感はなかった。
「因みに、堀越さんが転覆事故を知ったのは、二十二回目の誕生日を祝うために先輩と待ち合わせしていたフレンチレストランで、スマートフォンに流れるニュースを見たときだったそうです」
 菊池が、つらそうな顔で悠太をみつめた。
「えっ……」
 悠太は絶句した。
 記憶のかけらもない約束――不意に、悠太の脳裏にキャンドルライトのオレンジ色の光に照らされた哀しげな女性の顔が浮かんだ。
(第29回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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