双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第27回

8

 荒い呼吸が、鼓膜の内側で反響した。
 悠太は天を仰ぎ、水面から顔を出した金魚のように空気を貪った。
 恨めしいほど、空は晴れ渡っていた。
「もっと、ちゃんと漕がんか!」
 潮風に乗った老人のよく通る声が、悠太の鼓膜を震わせた。
「漕いでますよ……」
 喘ぐように言う悠太の腕も肩も、パンパンに張っていた。
 オールを漕ぐたびに、肩甲骨や背筋が悲鳴を上げた。
「情けないのう、ひまわりでも、もっとまともに漕げるぞ」
 呆れた口調の老人は、息一つ乱さずに悠々とオールを漕いでいた。
 隆起する胸や肩の筋肉は、とても七十を超えた老人の肉体とは思えなかった。
「しようがないじゃないですか……カヌーなんて初めてなんですから」
 悠太は、不貞腐れたように言った。
 ボートならまだましに漕げる自信があったが、カヌーは船体が身体と密着しているのでバランスを取るのが難しかった。 
「言い訳するんじゃない! 自然が牙を剥いた時は、初めてじゃからって手加減はしてくれないんじゃぞ!」
「わかりましたよ……でも、腕が痺れて……」
 悠太は、半べそ顔で言った。
「まったく、仕方のない男じゃ。しばらく休んどれ。わし一人で漕ぐから」
 老人が、ため息交じりに言った。
「いえ、それは悪いですよ……」
 さすがに、二十代の自分が休んで七十代の老人に漕がせるのは気が引ける。
「そういう言葉はな、役に立つ人間の言うことじゃ。わし一人のほうが、進むわい。それに、大飛鳥島まではあと十分ほどじゃしな」
 悠太はうなだれた。
 返す言葉がなかった。
 八神島での約一ヵ月の生活でも、自分の体力のなさをいやというほどに思い知らされた悠太だったが、改めてひ弱さを実感した。
「……本当に、役立たずですみません」
 悠太は、情けない自分を素直に詫びた。
「そんなことより、どうするつもりじゃ?」
 老人が、獲物を狙う鷹のような鋭い眼で悠太を見据えた。
「え……? なにがですか?」
 悠太は、疑問符を浮かべた顔を老人に向けた。
「白い女の件じゃ」
「ああ……」
――悠ちゃん……なに黙ってるの!? どうして、結婚しないって言わないの!? 悠ちゃんは、私と婚約してるんだよ!? 記憶を失っていたって、その事実は変わらないんだよ!? それなのに……ひどいよ……。
 雪美という女性の悲痛な声が、悠太の胸を掻き毟った。
 かわいそうだが、仕方のないことだ。
 たとえ彼女が婚約者だとしても、悠太に愛したという記憶がない以上、希望に応えることはできない。
 愛する愛さない以前に、悠太にとって雪美は赤の他人なのだ。
 悠太は、罪悪感を打ち消すように己に言い聞かせた。
――命の恩人だからって……それがなによ! 私達は婚約している関係だって、何度言ったらわかるの!? 記憶だって、いつまでも失ってるわけじゃないでしょう!?
 だからといって、見ず知らずの人間を愛していると嘘を吐けというのか?
 そうすることで二人が結婚したとしても、幸せな生活を送れると思うのか?
 ふたたび蘇る雪美の声に、悠太は必死に抗った。 
 しかし、否定すればするほど悠太の罪悪感は膨張した――雪美の声が鼓膜から離れなかった。
「ひまわりの前でも言ったが、白い女が嘘を吐いてないのならお前達は婚約しておる。相手の親も、それに、お前の親もおることじゃろうから、記憶がないからやめますで済む問題ではない。なにより、あの女の気持ちというものもあるからのう」
 老人が、悠太の気持ちを量るように言った。
「けれど、知らない人と結婚することは……」
「知らない人でなくなったら?」
 悠太を遮り、老人が鋭い口調で切り込んだ。
「え……」
「あの女を好いておったことを思い出したら?」
 畳みかけるように、老人が質問を重ねた。
 悠太は、すぐに言葉を返せなかった。
 正直、雪美を好きだったことを前提に考えれば、その感情を思い出せば彼女が特別な存在になる可能性が高いということになる。
 だが、それはあくまでも可能性であって、いまの悠太には実感が湧かない。
――戻ってきたら、ずっと一緒に暮らそう。
 あのとき、笑顔で頷き悠太の胸にしがみついてきたひまわりの姿が頭から離れなかった。
「ひまわりさんを裏切るようなことは……」
「思い出しても、ひまわりを選ぶと約束してくれんか?」
 老人が、それまでと一転した懇願口調で言った。
「お前とあの女がどんなに好きあっとったとしても、ひまわりのところに戻ってくると、約束してくれんか?」
 老人がひまわりかわいさだけで自己中心的に物を言っているのでないことは、その苦悶の表情でわかった。
「勝手な頼み事をしていることは、わかっとるつもりだ。じゃが、ひまわりはすっかりお前になついておる。お前も、あの子を好きじゃろう?」
――記憶があるときのユータは、白い女を好きだったんだろ?
 いつも陽気で屈託のないひまわりの声は、珍しく強張っていた。
 あのとき、悠太はひまわりの自分にたいしての想いの強さを知った。
――そうなのかもしれない。だけど、君と出会った。そして、いま、僕の心にいるのは君だけだ。
 ひまわりに言った言葉は、嘘ではない。
 過去の自分が、どんな性格で、どんな食べ物を好み、どんな生活を送っていたのかは知らない。
 過去の自分が、どんな会話を雪美と交わし、どんな場所でデートを重ね、どんな夢を語ったのかは知らない。
はっきりしているのは、現在いまの自分の心を占めているのはただ一人……ひまわりだけだということだ。
「はい。僕は、ひまわりさんを大事に思っています」
 悠太は、老人にきっぱりと言った。
「そうか!」
 老人がオールを漕ぐ手を止め、分厚い掌で悠太の掌を包むと、眼尻に深い皺を刻み破顔した。
「なら、あの女に婚約を破棄すると言ってくれるか?」
 老人が、縋るような瞳で悠太をみつめた。
 悠太は、老人をみつめ返して力強く頷くとオールを手に取った。
 土産物店、レストラン、カフェ、スーパー……大飛鳥島は、八神島と違って人が多く様々な店もあった。
 悠太は落ち着きなく、きょろきょろとあたりを見渡した。
「このくらいで驚いておっては、東京に行ったら気絶するぞ」
 老人が、愉快そうに笑った。
 あまり驚いていないところを見ると、老人はたびたび大飛鳥島を訪れているのだろう。
 だが、観光客らしい周囲の人々は老人の風貌に好奇の視線を注いでいた。
 悠太は以前八神島にいた住人のものだろうデニムパンツとTシャツに着替えていたが、老人は薄汚れたカーキ色のハーフパンツに上半身裸だった。
 出で立ち以上に、仙人さながらの伸び放題の白髪と髭が観光客を驚かせているに違いない。
 だが、老人からは気にしている素振りは感じられなかった。
 悠太には、何事にも左右されない老人の堂々とした姿が素敵に映った。
「まずは、腹ごしらえだ」
 老人は言い終わらないうちに、レストランに入った。
「いらっしゃい……あ、ただいまご案内致しますので……」
 出迎えたウエイトレスを無視して、老人が入口近くの窓際の席に勝手に座った。
「ここは敵の動きがよく見えるし、一番早く逃げることもできる。わしは肉を三百グラム。よく焼いてくれ」
 呆気に取られるウエイトレスに、老人はメニューも見ずに注文を告げた。
 ステーキ、ハンバーグ、パスタ、カレー……記憶を失う前はあたりまえに食べていたのだろうが、いまの悠太にはどれもこれもが物珍しかった。
 もちろん、記憶を失ってからは食べたことのないものばかりだ。
 島での食事はウサギの肉はまともなほうで、カラス、ネズミ、ヘビ……動くものならなんでも食べていた。
 味覚を満足させるためではなく、生きるための食事だ。
「僕はカレーを……」
「こやつも肉を三百グラム。よく焼いてくれ」
 老人が、悠太を遮り勝手に注文した。
「あ、肉は食べ飽きたから……」
「肉と野菜以外は毒じゃ。いや、肉と野菜も保存料とかいう毒がまぶしてあるが、まだましじゃ」
 ふたたび悠太を遮った老人の失礼な言動に、ウエイトレスが眉間に縦皺を寄せた。
「当店のお肉料理はサーロインステーキとフィレステーキの二種類を用意しておりますが、どちらに致しましょう?」
 平常心を装い、ウエイトレスが伺いを立ててきた。
「脂が少ないからフィレじゃ」
「ステーキのソースは和風、ガーリック、デミグラス……」
「なにもいらん」
「え?」
 ウエイトレスが、怪訝な表情になった。
「余計なことをせんで、ただ、焼いて出してくれればいいんじゃ」
「ご注文を繰り返します。フィレステーキ三百グラムをウェルダンでお二人様分……よろしかったですね?」
 ウエイトレスの顔には、不快感が浮かんでいた。
「ああ、そうじゃ」
「お飲み物は、よろしかったでしょうか?」
「糖分と着色料だらけの毒はいらん」
 必死に我慢してきたのだろうウエイトレスも、平静さを保てずに憮然とした表情で踵を返した。
「いくらなんでも、失礼過ぎますよ」
 ウエイトレスの背中を見送りつつ、悠太は言った。
「毒を盛られないように身を守ることのどこが、失礼なんじゃ?」
 老人が、悪びれたふうもなく悠太に訊ねてきた。
「糖分や着色料が身体に悪いのはわかりますけど、毒を盛るとか言い過ぎですって。そんなことを言ったら、レストランにある物はすべて毒だってことになりますよ?」
「そう、レストランもスーパーも毒だらけの食べ物や飲み物を売っておる。毒だけじゃない。肉をよく焼いてくれと言ったのも、菌を殺すためじゃ」
「菌を殺す?」 
 悠太は、怪訝な顔を老人に向けた。
「そうじゃ。レストランやスーパーはな、わしらと違って、殺してから日が経つ腐りかけの肉を使っておる」
 周囲の客が、眉を顰めた。
「やっぱり、街での生活は無理ですね」
 悠太は、率直な思いを口にした。
「わしもそんな生活に戻りたいとは……ああ、そうそう、街で思い出したが、こやつに電話を入れたほうがいい」
 老人が名刺をテーブルに置いた。
「『現代日本ツーリスト』……」
 名刺は、雪美と一緒にいた菊池という男のものだった。
――先輩、僕のことも覚えていませんか?
 菊池は、先輩と呼びかけていた。
 自分は、彼と同じ旅行会社にいたのだろうか?
「僕、電話を持っていないんですけど……」
 もしかしたら持っていたかもしれないが、海に投げ出されたときに紛失したに違いない。
「これを、渡しとく。街では、なにをやるにも金じゃからな」
 老人が、一万円札二枚と十円硬貨を数枚テーブルに置いた。
「お金を持っていたんですか!?」
 悠太は、素頓狂な声で訊ねた。
「持ってなければ、こんなとこに入らんよ。八神島も、昔は人が住んでおった。その頃は、大飛鳥島と同じで、みな、お金で物を買っていた。わしは大工の棟梁じゃった。建設会社ってほどじゃないが、若い衆が五人ほどおる会社を経営しとった。そのときの金が、五百万ほど残っておるんじゃよ」
「五百万!? お金持ちじゃないですか!」
 悠太は、思わず大声を出した。
 まさか、老人がお金を持っているとは考えてもみなかった。
「金なんぞ、いくらあってもなんの役にも立たん。獲物を狩る技術と自然を生き抜く知恵がなければ、野垂れ死にじゃ」
「街で暮らす気はないんですか?」
「ないのう」
 老人が迷わず答えた。
「ああ……ひまわりさんを危険な目にあわせないためですね?」
 十八年前。赤ん坊だったひまわりは旅行にきていた父親によって、老人の家に置き去りにされたという。
――まだ島に住人がいた頃に、赤子を連れた若い男が旅行にきておってな。船の時間を間違えて大飛鳥島に戻れなくなったから、一泊だけさせてほしいと頼まれてな。まあ、以前にもそういう旅行客がおったし、わしも一人だったから、疑いなく泊めてやった。男は赤子の父親で、母親は出産直後に亡くなったそうだ。翌日、ベッドには赤子だけが寝かされ、父親は消えていた。
 夜の砂浜を散歩しながら老人が明かしてくれたひまわりの生い立ちが、脳裏に蘇った。
 事情があって、この子を育てられません。本当に申し訳ありません。
 ひまわりの枕もとには、置手紙が残されていたという。
――事情というのは、男が消えてから二日後にわかった。風体の悪い三人の男達が島に現れ、写真を見せながら人捜しをしていた。男達は、わしのもとにもきた。写真の男は赤子の父親じゃった。
 ふたたび、老人の声が蘇った。
 老人の話では、ひまわりの父親がなぜ追われていたのかはわからないという。
 だが、追っていたのがヤクザであれば、ひまわりの身にも危険が及ぶ可能性があった。
 だから、老人はひまわりと無人島で暮らしているのだ。
「もちろん、それも心配じゃが、ひまわりのことがなくとも、いまさら街で暮らす気にはならんな。わしには、島暮らしが性にあっとる」
 悠太には、老人の気持ちがわかるような気がした。
 電気、水道、ガス、コンビニエンスストア、レストラン、病院、美容室……八神島には、街にあるものが一切なかった。
 水を飲むにも火を起こすにも一苦労で、狩りや捕獲をしなければ食事にもありつけない。
 肌が溶けるように暑い夏でも、皮膚が切れるほどに寒い冬でも、冷房も暖房もない。
 怪我をしても病気になっても、病院も薬もなく薬草で治さなければならない。
 なにをするにも、不便ではある。
 しかし、宝石をちりばめたような星空を眺め、草木の匂いを嗅いでいると、そんなことは取るに足らないことのように思えた。
 悠太には、わかっていた。
 島に留まりたい理由が、それだけではないことを。
 太陽のような笑顔、吸い込まれそうな瞳、かもしかのようにしなやかで引き締まった褐色の肢体……ひまわりの存在は、悠太の中で日に日に大きく重要なものになっていた。
(第28回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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