双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第25回

7

 灰色の空が頭上を流れてゆく……灰色の海が視界を掠めてゆく。
 曇っているわけではない。
 天気は快晴だったが、雪美には瞳に映るものすべてから色が失われていた。
 雪美と菊池を乗せたフィッシングボートは、大飛鳥島に向かっていた。
 命の危険を囁かれていた悠太は、生きていた。
 髪は伸び放題で顔もやつれていたが、生きていた。
 幸せな気持ちで、悠太とともに帰路に就くはずだった。
――失礼ですけど……あなたは誰ですか?
 悠太の口から出た言葉に、雪美は耳を疑った。
 婚約者の自分に敬語を使うだけでなく、覚えていない……俄かには、信じられなかった。
――本当に、あなたのことが思い出せないんです。
 担がれている……雪美はそう思った。
 いや、そうであってほしいと願った。
――僕、あなたのことだけじゃなく、自分が誰かもわからないんです……。
――海で溺れたときに、記憶を失ったみたいなんです。だから、事故の前のことをなにも覚えていなくて……。
 つい一時間ほど前の出来事が、いまでも現実だとは思えなかった。
 ドラマか映画でも観ているようで、リアリティがなかった。
 悠太が記憶を失っているだけなら、刹那の哀しみを我慢すればよかった。
 いずれ、記憶は甦る。
 すべてが元に戻ってから、予定通りに結婚に向けての準備を進めればいい。
 しかし……。
――僕は……この島で彼女と暮らします。
 記憶の中の悠太の声が、鋭利な刃物のように雪美の胸を切り裂いた。
「彼女」……ひまわりと記憶を失ってから出会い、恋に落ちてしまったというのか?
 そうだとしたなら、神様はなんと残酷なことをするのか?
 いや、神様がいれば、こんなことには……。
 涙がふたたび、頬を伝った。
「堀越さん……大丈夫ですか?」
 菊池が、心配そうに声をかけてきた。
 雪美は、返事をせずに濡れた瞳を飛沫を上げる海に向けた。
 いま、身を投げたら間違いなく死ぬだろう。
 どのくらいで、心臓は止まるのか?
 溺死は肺に水が入り、地獄の苦しみの中で息絶えるとなにかの本で読んだことがあった。
 だが、雪美にはわかっていた。
 心に自分はいなくなり、瞳に別の女性しか映っていない悠太を受け入れ諦める人生は、溺死するくらいに苦しいだろうことを。
「なんて言葉をかけていいのか……正直、僕も驚いています。まさか、先輩が記憶を失っているとは思いませんでした」
 菊池が、沈んだ声音で言った。
「記憶だけじゃない……」
 雪美は、力なく呟いた。
 フィッシングボートに乗って、初めて口にした言葉だった。
「あ、そうですね……それも、正直、驚いています。でも、気落ちしないでください。一時的なものです。記憶が戻ったら……」
「一時的なものだから、ほかの女の人と婚約しても気にするな……あなたは、そう言うの!?」
 雪美は、涙に潤む瞳を海から菊池に向けた。
「いや……ごめんなさいっ、そういう意味で言ったわけでは……」
「じゃあ、どういう意味よ! もし、悠ちゃんの記憶が戻らなかったら!? 戻っても、あのひまわりって子が好きだったら!? 他人事だと思って、適当なことを言わないでよ!」
 雪美は菊池を遮り、激しい口調で詰め寄った。
 八つ当たりだと、わかっていた。
 いけないとわかっていながらも、行き場のない感情の暴走を止めることができなかった。
「他人事だなんて、思っていません。先輩は、僕にとっても大事な人ですから……」
 菊池の顔が、暗鬱に翳った。
 哀しいのは菊池も同じ……忘れられてしまったのは、自分だけではないのだ。
 それなのに悲劇のヒロインになり、ひどいことを言ってしまった。
「ごめんなさい。あなたもつらいのに、言い過ぎたわ。でも、悠ちゃんが私じゃなく、彼女を選んだ事実はどうしようもないわ……」
 口にするだけでも、胸が張り裂けてしまいそうだった。
「それは、記憶を失っているからですよ。思い出したら、堀越さんのところに戻ってくるに決まっています!」
 吹きつける潮風に掻き消されないように、菊池が大声で言った。
「どうして、そう言い切れるの? 悠ちゃんは、たった三週間であの子のことを好きになっちゃったんだよ? 三週間だよ……記憶が戻っても島に残るかも……」
 雪美の言葉は、嗚咽に呑み込まれた。 
 数年生き別れていて、誰かを好きになるのならまだわかる。
 だが、菊池に言った通りに、悠太がひまわりと出会って僅か三週間しか経っていないのだ。
 いくら記憶を失っているからとはいえ、そんな短期間で恋心が芽生えるのは、ひまわりという女性によほど魅力があるか、もしくは、二人の相性が相当にいいのか……どちらにしても、耐えられなかった。
 雪美は、悠太を運命の人ソウルメイトだと信じて疑わなかった。
 悠太もまた、同じ気持ちだと信じていた。
 だが、雪美の自信は揺らいでいた。
 自分の気持ちが揺らいでいるのではない。
 昔もいまもこれからも、雪美が愛する男性は悠太だけだ。
 しかし、悠太も雪美くらいに強い想いなのかどうかがわからなくなった。
――彼女に命を助けて貰って……命の恩人なんです。
 ひまわりをみつめる悠太の瞳は、想い人にたいしてのものだった。
 二人がソウルメイトならば、記憶がなくなっても雪美と会えば心がなにかを感じるはず……少なくとも、ほかの女性を好きになったりはしないはずだ。
「吊り橋効果で、人間は恋に落ちやすいと言います」
「吊り橋効果?」
 洟を啜りながら、雪美は鸚鵡返しに訊ねた。
「はい。極限の不安や恐怖を感じているときに出会った人間にたいして、恋愛感情を持ちやすくなる心理状態を言います。船が転覆して八神島に流れ着いた先輩は、それこそ恐怖も不安も極限状態だったと思います。死にかけた上に、一切の記憶をなくしてしまったわけですからね。状況から推測すると、島に打ち上げられた先輩を助けたのはひまわりさんでしょう。先輩からすると、彼女のことが女神に思えたに……」
「もう、やめて!」
 雪美の悲痛な叫び声が、菊池の声を掻き消した。
「聞きたくない……そんなの、聞きたくないよ……」
 肩が震え、背中が波打った。
 雪美はきつく、膝を握り締めた――十指の爪が、デニムに食い込んだ。
 手の甲を、涙の雫が濡らした。
 たとえひまわりが命の恩人であろうと、受け入れられるはずがなかった。
 彼女がどんなに善人であったとしても、世界で一番嫌いな女性になるだろう。
「雪美ちゃん、本当!? 悠太が……本当に悠太が生きていたのね!」
 悠太の実家のリビングに、里恵の声が響き渡った。
 瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。
 行方不明のときには息子の生存を信じて気丈に振舞ってはいたが、内心、かなり不安だったに違いない。
「マジか! やった! さすがは星川だ!」
 佐竹も、涙声で叫びながらガッツポーズを作った。
 大飛鳥島に到着してから、里恵と佐竹には菊池が連絡を入れていた。
 ひまわりのことは、話さないで貰った。
 また、電話で話す内容でもなかった。
「ありがとうね……雪美ちゃん、菊池君」
 里恵が、感極まった表情で雪美の手を取った。
 雪美は、懸命に微笑んでみせた。
 笑顔になるのが、こんなにもつらいと思ったのは初めてだった。
 菊池も、強張った笑みを浮かべていた。
「で、星川は何時頃こっちに到着するんだ? もうそろそろ、検査が終わる頃じゃないのか?」
 佐竹が、思い出したように腕時計を見ながら菊池に訊ねた。
 あと五分で、午後六時になるところだ。
「えっと……」
 菊池が言い淀んだ。
 里恵と佐竹には、悠太は念のために菊池の先輩が医師として勤務する病院で検査を受けていると伝えていた。
 検査が終わる頃に先輩医師から菊池に連絡が入るので、それから迎えに行く……そう話していた。
 菊池に医師の先輩がいること以外は、もちろん嘘だった。
 とりあえず、どう真実を伝えるかを考えるための時間稼ぎが必要だった。
 なにより、雪美自身も依然として混乱していた。
 二人の前で取り乱さずに座っているだけで、精一杯だった。
――……とりあえず、ご家族や佐竹さんには先輩は見つからなかったと話しましょう。
 大飛鳥島の喫茶店で、菊池が言いづらそうに切り出した。
 ひまわりの存在にショックを受けた雪美には、里恵や佐竹のことにまで頭を回す余裕がなかった。
――嘘を吐くの?
――心苦しいですが、見つかったと言えばなぜ先輩を連れてこないのかと言われますし、本当のことを言うわけにも……。
 菊池が言い淀んだ。
 悠太がほかの女性と夫婦同然に無人島で暮らしているなどと言えないという菊池の気持ちもわかるし、雪美も口にさえしたくなかった。
――でも、嘘を吐くわけにはいかないわ。
――本当のことを言えば、大問題になります。僕も嘘は吐きたくありませんが……。
――それでも、嘘はだめよ。どんなにショックな事実でも、息子の生死にかかわる問題なのよ!?
――もちろん、わかっています。ただ、堀越さんのことを考えるとありのままを伝えるのはどうかと思ったんです。
――私は平気よ。だって……。
 雪美は言葉の続きを呑み込んだ。
 正直、平気ではない。
 だが、真実を隠したところで状況はなにも変わらない――悠太が記憶を失ったという事実……別の女性を選んで無人島に残ったという事実は変わらないのだ。
――わかりました。ただ、いきなり真実を言うのは待ってください。なにか理由をつけて、時間稼ぎをしましょう。
――時間稼ぎをして、どうするの?
――僕、もう一度八神島に行って先輩と話してきます。
――話すって……なにを?
――記憶を失っていても、一度東京に戻って親や堀越さんとちゃんと話し合うべきだということをです。
「なんだよ? どうしたんだ?」
 佐竹の声が、記憶の中の菊池の声を掻き消した。
「あ、まだ……検査が長引いているんだと思います」
 平静を装い、菊池がでたらめを口にした。
「そっか。心配だな。お母さん、いまから迎えに行きましょうよ」
 佐竹が、里恵に言った。
「そうね。こうして待っていても仕方がないし、そうしましょう」
 内心、気が急いていたのだろう、言い終わらないうちに里恵が立ち上がった。
「あの……お母さん、待ちましょう。もうすぐ、戻ってくると思いますので」
 慌てて、菊池が里恵に言った。
「じっと待っていると落ち着かないのよ。みんなで、タクシーで行きましょう。悠太は、どこの病院で検査を受けているの?」
「あ……で、でも、行き違いになったら困りますし、ここで待っていたほうがいいかと思います」
 嘘を吐こうと言いながら嘘が下手な菊池は、しどろもどろの口調になっていた。
「病院に電話して、私達が行くことを伝えましょう。先に検査が終わったら、待ってて貰えばいいわ」
 里恵の言うことはなにからなにまでが尤もで、菊池の顔からみるみる血の気が引いた。
「で、ですが……」
「おい、菊池。どうした? お前、なんだかおかしいぞ。なにか、隠し事してないか?」
 佐竹が訝しげな顔で菊池に訊ねた。
「や、やめてくださいよ……隠し事なんか、するわけないじゃないですか」
 引き攣り笑いを浮かべ、菊池がごまかした。
「だったら、なんでさっきから病院に行こうとするのを止めるんだよ?」
「いえ……止めるだなんて……僕はただ……」
 菊池の目は泳いでいた。
「ただ、なんだよ? なにか、言えないことでも……」
「悠ちゃんは、まだ、八神島なんです」
 なおも菊池を問い詰めようとする佐竹を遮り、雪美は里恵に言った。
(第26回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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