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極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第23回

6

「ほら、またチャレンジしてみろ」
 火床を囲む切り株の椅子に座っていたひまわりが、竹筒の器を悠太に差し出してきた。
 竹筒には、こんがりと焼けて飴色になったカミキリムシの幼虫が入っていた。
 悠太の隣りに座っていた老人は、まるでポップコーンをそうするように鷲掴みにした幼虫を口に放り込んでいた。
 悠太も幼虫に手を伸ばした。
 口の中に濃厚な味が広がったが、気にならなかった。
「お? 平気で食べられるようになったのか?」
 ひまわりが、驚いた顔で言った。

――悠ちゃんは、私と婚約してるんだよ!? 記憶を失っていたって、その事実は変わらないんだよ!? それなのに……ひどいよ……。

 雪美という女性の悲痛に歪む顔が、頭に焼きついて離れなかった。
 もちろん悠太には、女性と婚約した覚えなどなかった。
 婚約どころか、彼女とは初対面だった。
 少なくとも、悠太にとっては見ず知らずの女性だ。
 だが、彼女が流した涙が嘘とは思えなかった。
 
――彼女に命を助けて貰って……命の恩人なんです。

 あのときの悠太は、そういうのが精一杯だった。
 自分の一言は、彼女をひどく傷つけたに違いない。
 
――命の恩人だからって……それがなによ! 私達は婚約している関係だって、何度言ったらわかるの!? 記憶だって、いつまでも失ってるわけじゃないでしょう!? 悠ちゃんが行方不明になってから、夜も眠れないで……毎日泣いて……あなたの無事を祈り続けて……それなのに……それなのに……。

 激しく嗚咽する記憶の中の女性に、悠太の胸は痛んだ。
 もし、本当に彼女と婚約していたとしたなら、たしかに自分の取った態度はひどいものだ。
 行方不明になった婚約者を無人島まで捜しにきたのに、あなたは誰ですか? と言われた気分は……。
 しかし、嘘は吐けなかった。
 覚えていない相手のことを知っているふりなどできはしないし、なにより、それで通るはずはなかった。
 もう二度と会えない人物ならいいが、彼女は違う。
 婚約者ならば、これからも頻繁にデートを重ね、ゆくゆくは結婚することになるのだ。
 自分は、あの女性を愛していたのだろうか?
 婚約をしているということは、当然、深い関係にあったに違いない。
 こんなところまで、自分を捜しにきてくれたのだ。
 嘘まで吐いて、彼女が得することはなにもない。
 
  女性と一緒に帰るべきだったんじゃないのか?

 不意に、脳内でもう一人の自分の声がした。

  帰る? いったい、どこに?
 
 悠太はもう一人の自分に問いかけた。
 
  自分の家に決まっているだろう。
 
 もう一人の自分が当然、といったふうに言った。
 
  自分の家って? 僕は、日本のどこに住んでいたかさえ覚えていないんだぞ? 
  
  それでも、帰るべきだ。記憶を失っているからって、すべてを捨てていいということにはならない。
  現実に背を向けている間に、どれだけの人間が心配していると思う?
  親はもちろんのこと、友人や会社の仲間を放っておくのか?
  なにより、あの女性はどうする?
  記憶を失いました、あなたのことを覚えていません、僕はこの島で別の女性と暮らします……結婚を約束している相手をようやく捜し出したと思ったら、一方的にこんなふうに言われたときの気持ちを考えてみたか?
 
 もう一人の自分が、熱っぽく諭してきた。
 
  それは、わかってるさ。でも、覚えていないってことは、知らない人と同じだ。知らない女性と婚約なんてできないよ。

 悠太は、もう一人の自分に吐き捨てるように言った。
 そんなふうに考える自分は、男として……いいや、人間として最低なのはわかっていた。
 わかってはいたが、どうしようもなかった。
 
 自分が覚えていなくても、相手は覚えている。
 二人の思い出を……婚約者の笑顔を。
 自分が覚えていなくても、相手は覚えている。
 婚約者を愛していることを……婚約者に愛されていたことを。

「おい、聞こえてるか?」
 ひまわりが、怪訝な顔で悠太をみつめていた。
「え……なんだっけ?」
「それ、平気で食べられるようになったのかって訊いたんだ」
 ひまわりが、悠太が手にしている竹筒の中の幼虫を指差した。
「あ、ああ……うん。意外と、うまいね」
 悠太は、カミキリムシの幼虫を食べていることをすっかり忘れていた。
「なにを考えてた?」
 ひまわりが、探るような眼を向けてきた。
「いや、別に……」
「白い女のことか?」
 惚けようとする悠太を遮ったひまわりが言った。
「え? いや……」
 惚け続けようとしたが、言葉が出てこなかった。
「気になるのか?」
 悠太を直視してくるひまわりの瞳はあまりにも純粋過ぎて、喉まで込み上げた言い訳を呑み下すしかなかった。 
「まあ、気にしていないって言ったら嘘になるかな」
 悠太は、自分の気持ちを確認しながら慎重に言葉を選んだ。
「なんで、知らない女を気にする?」
 質問を重ねるひまわりは嫉妬しているふうではなく、本当に不思議そうな顔をしていた。
「なんでって……婚約者だったなんて言われたら、気にするに決まってるよ」
「白い女と、約束したのか?」
「だから、なにも覚えてないんだ」
「じゃあ、気にするな」
 あっさりと、ひまわりが言った。
 呆れるほどに単純で、あっけらかんとした女だった。
「じゃが、あの女はまたくるぞ」
 それまで黙っていた老人が、口を挟んできた。
「ジイジ、白い女を知ってるのか?」
 ひまわりが、不思議そうな顔で訊ねた。
「さっき、家にきた」
「家にきたのか!?」
 ひまわりが、素頓狂な声を上げた。
「ああ。勝手に、部屋を覗き込んでおったぞ」
「部屋に入ったのか!?」
 ひまわりが血相を変えた。
「いや、覗いておっただけじゃ」
「同じだ! あの泥棒を、ウチが退治してやる!」
 ひまわりは険しい表情で言うと立ち上がり、樹木に立てかけてあった槍を手にした。
「ちょっと、なにをする気なんだ!?」
 悠太も腰を上げ、ひまわりに訊ねた。
 まさかとは思うが、ひまわりは常識で測れない少女だ。
「退治するって言っただろ? まだ、島にいるかもしれないから、ウチが仕留めてくる」
 ひまわりは言うと、槍を宙に翳した。
「なっ……そんなこと、本気で言ってるのか!?」
「もちろん本気だ。なんでだ?」
「なんでって……人間を槍で……そんなの、だめに決まってるじゃないか!」
 悠太は、思わず声を張り上げた。
「ユータも、ウチと一緒に野ウサギやカラスを槍で仕留めてるだろ?」
 不思議そうな顔を向けるひまわりを、悠太はあんぐりと口を開いてみつめた。
 ひまわりが、冗談を言うタイプでないことはわかっていた。
 彼女は本気で、野ウサギやカラスと同じように雪美という女性を槍で仕留めようとしているのだ。
「動物と人間を一緒にできるわけないだろう!?」
 悠太は、両手を広げて呆れた口調で訴えた。
「どうして?」
 眉間に皺を寄せたひまわりが、首を傾げた。
 そうしたいのは、自分のほうだった。
「人間を殺すのは殺人なんだぞ!? 殺人がいけないことくらい、わかるだろう?」
 悠太は、物の善悪がわかっていない幼児を相手にしている錯覚に襲われた。
 いや、錯覚ではない。
 ひまわりの道徳観は、幼児レベルだ。
 知能が云々の話ではなく、教育を受けているかいないか……の問題だ。
「野ウサギやカラスは殺してよくて、なんで人間はだめなんだ?」
 ひまわりが、主人をみつめる飼い犬のような汚れなき瞳で悠太を凝視した。
「そんなの、だめに決まってるじゃないか!」
「だから、どうしてだめなんだ? 人間はだめなのに、野ウサギやカラスは殺していいのか? 動物にも、ウチらと同じように命があるんだぞ? 生きるために、ウチは仕方なく動物を殺している」
「まいったな……」
 悠太は、言葉に詰まった。
 動物を殺すのはよくて、なぜ人間はだめなのか?
 明確な理由を訊かれると、意外と答えがみつからない。
 人の命は尊いから……多くの者はそういうだろう。
 悠太も、その一人だ。
 だが、なぜ人の命は尊くて動物の命は尊くないのかと幼子に訊かれたら、納得させられる理由を説明できる自信がなかった。
「無駄じゃよ」
 それまで静観していた老人が、独り言のように呟いた。
「え?」
 悠太は、ひまわりから老人に視線を移した。
「この子には、生き物はみんな平等じゃと、命の重さに変わりはないと教えてきたからの。人間も野ウサギも同等じゃとな。殺していいのは、生きるための食料にするときと身の危険を感じたときだけ……ひまわりにとっては、あの白い女はあんたに危害をくわえる害獣と同じなんじゃよ」
「害獣って……」
 悠太は、驚きに二の句が継げなかった。
 人間と野ウサギの命が平等など、ありえない。
 それを教える老人も老人だが、疑いもせずに信じるひまわりも……。
 悠太は、ふと思った。
 物心ついたときには無人島暮らしで、触れ合う人間は老人しかいない環境ならば仕方のないことかもしれない。
 ひまわりには老人が親であり友人であり先生なのだ。
 そう、ひまわりには罪はない。
 むしろ、罪があるのならば老人のほうだ。
「人間と動物の命の重さが平等だなんて、どうして、彼女をそんなふうに育てたんですか!?」
 悠太は、非難を込めた口調で訊ねた。
「人間が一番尊くて偉い生き物というのは、都会に住んでる者の勝手な言いぶんじゃよ。無人島で生きてゆくひまわりに教えなければならないのは、動物との共存じゃ。台風や地震がくるのを教えてくれるのは動物じゃし、真水や食べられる木の実の場所を教えてくれるのも動物じゃし、血肉になってくれるのも動物じゃ。この島では、動物がいなければ一ヶ月も生きられはしない。だから、巣から落ちた雛鳥がいたなら助けてやるし、怪我している野ウサギがいたら薬草で治療してやる。必要なとき以外は絶対に無駄な殺生はしない。やれ霜降りじゃやれフォアグラじゃやれフカヒレじゃと、欲望のために無駄な殺生をするのは人間だけじゃ。共存というのは、心の奥に感謝と思いやりがないと成立しない関係なんじゃよ」
 老人の言葉に、悠太は背筋に電気を流されたような衝撃を受けた。
 自分の考えが浅はかで甘かったということを、悠太は思い知らされ恥ずかしくなった。
「ひまわり。白い女は、わしらに危害をくわえはせん」
 老人が、悠太からひまわりに顔を向けた。
「でも、勝手に部屋を覗き込んでいたんだろ? あの女は、泥棒で悪い人間じゃないのか?」
 ストレートに疑問をぶつけるところが、無垢な幼子そのものだった。
「それは、結婚を約束したこの男を捜していたからじゃて」
「でも、ユータは約束を覚えてないと言ってるぞ?」
「覚えていないからといって、約束していないことにはならん。白い女のほうは、覚えているんじゃからな。ひまわりも、わしが急におらんようになったら心配になって捜すじゃろう? それと同じことじゃて」
 老人が、ひまわりを諭した。
「ウチはジイジと結婚しないぞ」
 ひまわりが槍を置き切り株の椅子に腰を下ろしつつ、真顔で言った。
 ほっと胸を撫で下ろし、悠太も座った。
「そういうことじゃなく、愛にはいろいろな形があるということじゃ。とにかく、婚約者がここにいるとわかった以上、このままじゃ終わらんだろう。あのコの親もいることだしな。お前、どうする気じゃ?」
 老人が、悠太に視線を移し訊ねた。
「え……どうするって?」
「彼女をどうするのかと、訊いておるんじゃよ」
「いや……彼女のことを覚えていないので、どうすればいいかわからなくて……」
 悠太は、困惑の表情で俯いた。
「ひまわりにも言ったが、お前が忘れてもあっちは覚えておるんじゃ。結婚するにしてもしないにしても、はっきりさせる責任があるじゃろうが」
 老人の戒めの言葉が、悠太の罪悪感の扉をノックした。
「ところで、あの女と結婚する気はあるのか? ないのか?」
「結婚!?」
 悠太は、裏返った声で叫んだ。
「なにをそんなに驚くことがあるか? 婚約しとる間柄なんじゃから、そういう話になるじゃろう」
「でも、お爺さんは、ひまわりさんと結婚してほしいって……」
「そうだぞ、ジイジ! ユータは、ウチの旦那さんだ」
 ひまわりが、悠太を遮り老人に訴えた。
「じゃからこそ、はっきりさせなければならんのだ。記憶がないからといって、人の婚約者とお前を結婚させるわけにはいかん。もう一度訊くが、あの女と結婚する気があるのか? ないのか?」
 老人が厳しい表情で悠太を詰問した。
 
(第24回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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