双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第22回

5(承前)

 雪美は抵抗するのをやめ、菊池に従い雑木林の奥へと歩いた。
「考えってなに?」
 住居から三十メートルほど離れたところで、雪美は足を止め菊池に訊ねた。
「いますぐ、島を出ましょう」
「え!? まさか、それがあなたの考え……」
「とりあえず、聞いてください」
 気色ばむ雪美を、菊池が遮った。 
「先輩は、なにかの事件に巻き込まれているかもしれません」
「事件に!?」
「ええ。あの老人、見るからに怪しいじゃないですか。先輩のことも、隠しているのがバレバレです。ひまわりって女性も、様子がおかしかったでしょう?」
「だったら、なおさら島を出ることなんてできないわっ。悠ちゃんを助け……」
「僕達二人じゃ、無理ですよ」
 ふたたび、菊池が雪美を遮った。
「無理って……悠ちゃんを見捨てろと言うの!?」
「そうじゃありません。警察に通報するんですよ。あの二人、犯罪者かもしれませんからね」
「犯罪者!?」
 雪美は、頓狂な声で繰り返した。
「そうです。だって、こんなところで暮らしているなんておかしいじゃないですか? 二人は、警察に指名手配されている逃亡者の可能性があります」
 たしかに、菊池の言う通りなのかもしれなかった。
 そうでなければ、無人島で生活しているはずがない。
「殺人犯かもしれないってこと……?」
「さあ、それはわかりません。でも、なにか罪を犯していなければこそこそと無人島で暮らしてなんかいませんよ」
「もし、あなたの言う通りだとしたら、悠ちゃんはどうして捕まってるのよ!?」
 思わず強い口調で、雪美は菊池に詰め寄った。
「理由はわかりませんが……とにかく、警察に任せたほうがいいです。素人判断で動いたら、先輩の身が危険です。堀越さん、気持ちはわかりますけど、先輩のために島を出ましょう」
 菊池が雪美をみつめ、訴えかけるように言った。
 菊池の推測通りに老人が犯罪者なら、悠太が危険だった。
 警察に通報し、一刻も早く救出しなければならない。
「わかったわ。行きましょう」
 雪美は菊池に頷き、足を踏み出した。
「あの二人、祖父と孫なのかな。あまり、似てないような気がしたんだけど」
 菊池が、独り言のように呟いた。
 興味がなかった。
 ひまわりという少女と老人の血が繋がっていようが赤の他人だろうが、どっちでもよかった。
 雪美にとっては、悠太が無事でいてくれればそれでいい。
「それにしても、あの老人、迫力ありましたね?  プロレスラーみたい……」
 前を歩いていた菊池が立ち止まり、言葉を切った。
「どうしたの?」
「僕、携帯電話を落としたみたいです。申し訳ありませんが、もう一度老人のところに戻りましょう」
 振り返った菊池は早口で言うと、雪美の背を押した。
「え? リュックに入れたままじゃないの? 雑木林を歩いているときに、出す機会なかったでしょう? リュックの中を捜してみなよ」
「あ……その……さ、さっき出したんですよ」
 菊池が、しどろもどろに言った。
「さっきって、いつ?」
「と、とにかく戻りましょう」
 菊池が言いながら、雪美の腕を取った。
「ちょっと、急にどうしたのよ!? なんだか、おかしい……」
 菊池の肩越しに視線をやった雪美は声を失った。
 約五メートルほど先に佇む男女――胸が早鐘を打った。
 男性は薄汚れて破れたワイシャツを着て雪美に背を向けているので、顔は確認できなかった。
 だが、雪美には確信があった。
 顔を見なくても、間違えるはずがなかった。
 心臓から送り出された大量の血液が、確信を深めた。
 干上がる喉と震える唇が、確信が事実だと告げていた。
「悠ちゃん……!?」
 無意識に、名前を呼んでいた。
 背中を向けていた男性が、ゆっくりと振り返った。
 何度も夢に出てきた顔が、いま、目の前にあった。
 会いたくて仕方がなかった男性が、いま、目の前に立っていた。
 悠太が行方不明になって三週間――捜索も打ち切られ、誰もが死んだと思っていた。
 雪美だけは、受け入れなかった。
 一瞬たりとも、悠太の生存を疑ったことはなかった。
 雪美の前にいるのは、夢ではなく本物の悠太だ。
 雪美の前にいるのは、幻ではなく本物の悠太だ。
「悠ちゃん……やっぱり、悠ちゃんね!」
 雪美は、涙声で叫んだ。
 悠太は無言で、じっと雪美の顔をみつめていた。
 驚き過ぎて、声が出せないに違いない。
「生きてたのね……よかった……本当に……よかった……」
 雪美は、嗚咽交じりに涙声を絞り出した。
 悠太は、相変わらず無言で雪美をみつめていた。
「悠ちゃん……とりあえず、帰ろう。怪我をしていないか、病院で診てもらわないと……」
 雪美が足を踏み出した瞬間、一緒にいた女性……ひまわりが、素早い動きで立ちはだかった。
「ユータはウチの旦那さんだ。どこにも、連れて行かせない」
 ひまわりが、鋭い眼つきで雪美を睨みつけた。
「旦那さん……?」
 雪美は、ひまわりの言葉をうわずる声で繰り返した。
 ひまわりは、たしかにそう言った。
 だが、どういうことだ?
 悠太がひまわりの旦那さん?
 そんなことが、あるはずがない。
 雪美が、聞き間違ったに違いない。
「そう、ウチとユータは夫婦だ」
 聞き間違いではなかった。
 悠太を自分に返したくないので、ひまわりは口から出任せを言っているのだろう。
「あなた……なにわけのわからないことを言ってるの!? 悠ちゃんとあなたが、夫婦なわけないでしょ!?」
 雪美は、ひまわりに激しい口調で抗議した。
 その様子をじっと眺めているだけの悠太にも、憤りを覚えた。
「ねえ、なぜ黙ってるの!? 悠ちゃん、なんとか言ってよ!」
 雪美は、ひまわりの背後に佇む悠太に訴えかけた。
「だから、言ってるだろ? ユータはウチの旦那さんだ。お前のことは知らない」
 ひまわりが、突き放すように言った。
「知らない……そんなわけないじゃない! 私達は、来年、結婚するんだからっ。人の婚約者を捕まえて旦那さんだなんて……あなた、おかしいんじゃないの!?」
 雪美は、ひまわりを罵倒した。
 激憤と動転で、おかしくなりそうなのは自分のほうだった。
 それにしても、彼女はどうかしている。
 冗談にしては悪質過ぎるし、冗談でなければもっと悪質だ。
 やはり、老人もひまわりも犯罪者なのかもしれない。
「ウチはおかしくない。ユータに訊いてみろ」
 そう言うとひまわりは一歩下がり、悠太の背中を押した。
 悠太が雪美の正面に立った。
 こけた頬、褐色に日焼けした肌、伸びて乱れた髪、口の周りにちらばる無精髭……正面に立つ悠太は、別人のように変わり果てていた。
 変わったのは、容姿だけではなかった。
 雪美の知っている悠太なら、泣きじゃくっている恋人を放っておくことなどできないはずだ。
 雪美の知っている悠太なら、再会した瞬間に駆け寄り抱き締めてくれたはずだ。
 少なくとも、雪美がほかの女性から信じられないでたらめで侮辱されているのを、黙って見ているような男性ではなかった。
「悠ちゃんっ、悪ふざけはやめろと、彼女に言って! 私は悠ちゃんの婚約者だと、彼女に言って!」
 雪美はひまわりを指差しつつ、涙声で叫んだ。
「失礼ですけど……あなたは誰ですか?」
 悠太の敬語での問いかけに、雪美は耳を疑った。
「もしかして……怒ってる?」
 雪美は、震える声で訊ねた。
 無人島に三週間も放り出されていたのだ。
 悠太が意地悪をしたくなる気持ちもわかる。
 じっさいに、雪美と菊池以外の知り合いは、口にこそ出さないが悠太は命を落としたものと思っていた。
 悠太が、見殺しにされたと考えて雪美に他人のふりをしても不思議ではない。
 きっとひまわりは、命を助けてくれた恩人なのだろう。
「僕が、あなたに怒ってるんですか?」
 あくまでも他人行儀な言葉遣いの悠太に、雪美は確信を深めた。
「もっと早くに見つけられればよかったんだけど……。寂しくてつらい思いをさせて、ごめんなさい」
 雪美は、心から詫びた。
 飲料水も食料も家もない無人島での三週間を、なに不自由のない環境で暮らせる東京での三週間と一緒にはできない。
 この島で過ごす一日は、都会での一ヶ月にも相当するだろう。
「僕には、なんのことだか……」
 悠太が、困惑した顔で口籠った。
「悠ちゃん……帰ろう? お母様も心配しているし、早く元気な顔を見せて……」
「本当に、あなたのことが思い出せないんです」
 雪美を遮り、悠太が苦しげに言った。
「どうしたら……許してくれる?」
 雪美は、悲痛な顔で悠太をみつめた。
「僕、あなたのことだけじゃなく、自分が誰かもわからないんです……」
 悠太が、消え入りそうな声で言った。
「え……」
 雪美は怪訝な表情で首を傾げた。
 すぐには、悠太の言っていることが理解できなかった。
「海で溺れたときに、記憶を失ったみたいなんです。だから、事故の前のことをなにも覚えていなくて……」
 絶句する雪美に、悠太が申し訳なさそうに言った。
 悠太が記憶喪失……。
 あまりに唐突な告白に、実感が湧かなかった。
 だが、そうだとすれば、再会してからの悠太の他人行儀な言動も理解できる。
 しかし……。
「そうだとしても……彼女と結婚してるって、どういうことなの!? 悠ちゃんが行方不明になって、三週間しか経っていないんだよ!?」
 雪美は、懸命に涙を堪えながら質問を重ねた。
「結婚は、していません。彼女に、そうしようって言われていますけど……」
「でも、ユータはウチと結婚するもんな」
 ひまわりが、重々しい雰囲気にそぐわぬ明るい声で口を挟んだ。
「悠ちゃん……なに黙ってるの!? どうして、結婚しないって言わないの!? 悠ちゃんは、私と婚約してるんだよ!? 記憶を失っていたって、その事実は変わらないんだよ!? それなのに……ひどいよ……」 
 ふたたび、涙が溢れ出してきた。
「彼女に命を助けて貰って……命の恩人なんです」
 ひまわりをみつめる悠太に、胸が張り裂けそうだった。
 嬉しそうに白い歯を零すひまわりに、頭がどうにかなりそうだった。
「命の恩人だからって……それがなによ! 私達は婚約している関係だって、何度言ったらわかるの!? 記憶だって、いつまでも失ってるわけじゃないでしょう!? 悠ちゃんが行方不明になってから、夜も眠れないで……毎日泣いて……あなたの無事を祈り続けて……それなのに……それなのに……」
 激しい嗚咽に、声が途切れた。
 雪美は両手で胸を押さえ、過呼吸になったように空気を貪った。
「堀越さん……大丈夫ですか!?」
 菊池が、雪美の背中を擦りながら心配そうに訊ねてきた。
「ほかの……女の人と……ひどいよ……ひどいよ……」
 しゃくりあげながら、雪美は繰り返した。
「先輩、僕のことも覚えていませんか?」
 どうしていいかわからないといったふうに立ち尽くす悠太に、菊池が訊ねた。
「すみません……」
 悠太がうなだれた。
「本当に、記憶がないんですね……」
 菊池が、狐に抓まれたような顔で言った。 
 それは、雪美も同じだった。
 夢にまでみた悠太との再会……。
 しかし、悠太の心からは雪美の存在は消え去っていた。
 それだけでも耐え切れないというのに、見知らぬ女性と親密な仲に……。
「めそめそするのは、私のキャラじゃないわね!」
 吹っ切るように明るく言うと雪美は、手の甲で頬の涙を拭って無理やり笑顔を作った。
「悠ちゃん、東京に帰ろう。病院に行って、お医者さんに診て貰うの……そしたら、すぐに記憶なんて戻るわ。さあ、私と一緒に行こう?」
 傷だらけの心を奮い立たせ、雪美は悠太に右手を差し出した。
 そう、東京に帰ればすべては元通りになる。
 フィッシングボートが転覆し海に投げ出されたのだから、記憶を失うのも仕方がない。
 記憶がない状態の悠太が、命を救ってくれた女性に好意を持ったとしても責められはしない。
 記憶を取り戻せば、すべては解決する――元の悠太に戻ってくれる。
 なにはともあれ、東京に悠太を連れ帰ることが先決だ。
「すみません……」
 突然、悠太が頭を下げた。
「なによ? いきなり?」
「僕は……この島で彼女と暮らします」
 悠太が、遠慮がちに、しかしきっぱりと言った。
「嘘でしょ……ねえ……なに……馬鹿なこと……言ってるのよ?」
 雪美は、強張った声を絞り出した。
 夢だ……これは、悪い夢を見ているに違いない。
 雪美は、青息吐息の平常心で懸命に自分に言い聞かせた。
「本当に……すみません」
 悠太がもう一度頭を下げ、踵を返した。
 ひまわりも身を翻し、悠太のあとを追った。
「嘘……嘘だって……」
 あまりのショックに、両足が竦んで動かなかった。
 雪美は、虚ろな瞳で遠ざかる二人の背中を見送ることしかできなかった。
「堀越さん……」
 菊池が、心配そうに声をかけてきた。
「いや……いやよ……」
 雪美は天を仰いだ。
 枝葉から覗く空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。
「そんなの……いやーっ!」
 雪美の叫喚が、碧空に吸い込まれた。
 
(第23回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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