双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第21回

5

「こんな物しかないですけど」
 切り株に座った菊池が、ふたを開けたツナ缶と食パンを載せた紙皿を雪美に差し出してきた。
「私はいいから食べて」
 雪美は力なく言うと、雑木林に視線を巡らせた。
 降り注ぐ木漏れ日、小鳥の囀り、風に運ばれる潮の匂い、木々の梢から覗く碧空……本来なら癒されるはずの空間も、いまの雪美には複雑な迷路にしか思えなかった。
 停泊しているフィッシングボートで眠れぬ一夜を明かした雪美は、陽が昇ると同時に雑木林へ捜索に出た。
 昨日捻挫した右足首に鈍い痛みはあったが、歩けないほどではなかった。
「なにか食べなきゃ、力が出ませんよ」
 菊池が、心配そうな顔で言った。
「食欲なんてないわ。それに、まだ、三十分も歩いてないし」
 雪美は不機嫌な声で言い捨てた。
 菊池に責任がないのはわかっていた。
 責任がないどころか、雪美につき合って泊りがけで悠太を捜してくれているのだ。
「焦らなくても、陽が暮れるまでにはたっぷりと時間があります。堀越さんは足を痛めているので、休み休み捜さないと……」
「あなたは、ゆっくり食べてて」
 雪美は言い残し、切り株から腰を上げた。

――捜している男は、お前の恋人なのか?

 昨日出会った、野性的な少女のことが頭から離れなかった。
 彼女は、悠太のことを知っている。
 悠太が帰ってこられないのは、船がないからだ。
 フィッシングボートが転覆したときに、携帯電話もなくしたに違いない。
 なくしていないにしても、使えなくなっているはずだ。
 悠太は、救出を待っている。
 もしかしたら、怪我をしているのかもしれない。
 見知らぬ無人島に漂着し、どんなに心細いことだろう。
「堀越さん、待ってくださいっ」
 慌てて、菊池が追いかけてきた。
 一分でも……一秒でも早く悠太を救い出したかった。
 雪美は無言で、歩度を速めた。
「堀越さ……」
「待って!」
 雪美は立ち止まり、足もとに視線を落とした。
「どうしたんですか?」
 菊池の問いかけに答えず、雪美は屈んだ。
 地面に転がる八色のボールペンを、雪美は拾い上げた。
「これ、悠ちゃんが使っていたのと同じだわ」
 仕事に便利だからと、悠太は色の多いボールペンを好んで使っていた。
 一般的に使われているのは二色や三色、多くてもせいぜい四色までだ。
 稀に六色を使っている者もいるが、八色のボールペンは滅多に見かけない。
「あ、僕も、星川先輩が使ってるの見たことありますっ。このへんに、いるかも知れないですね!」
 菊池が、興奮した口調で言った。
 雪美は頷き、小走りに雑木林を進んだ。
 十分ほど歩くと、木々が少なくなってきた。
「え……!」
 雪美は、ふたたび足を止めた。
 約十メートル先に、建物が見えた。
「ねえ、あれ!」
 雪美は、建物を指差した。
「山小屋だ!」
 菊池の叫び声を背に、雪美は駆け出していた。
「ちょっと待ってください!」
 あっという間に追い抜いた菊池が、雪美の前に回り込んだ。
「危険だから、僕が先に行きます。これでも、男ですからね」
 菊池は言うと、雪美を先導した。
 丸太を組み合わせた建物は、地上から二メートルほどの高床になっていた。
 屋根は、広葉樹の落ち葉で覆われていた。
「生活の痕跡がありますね」
 菊池が、小石が積み上げられた穴のそばに屈んだ。
 直径はおよそ二、三十センチ、深さは十センチもない浅い穴だった。
「これは、なんの穴?」
 雪美は、菊池に訊ねた。
「火床でしょう」
「火床?」
「ここで火を起こして、お湯を沸かしたり料理を作ってるんだと思います」
 穴の中の灰を指先で掬いながら、菊池が言った。
「建物には僕が入りますから、ここで待っててください」
 雪美に告げて建物に向かおうとする菊池の腕を掴んだ。
「私も行くわ」
「まずは、危険がないかどうかを確認しますから」
「私も行くって言ってるでしょ!」
 雪美は強い口調で言うと足を踏み出した。
 あの建物の中に、悠太がいるかもしれないのだ。
 たとえどんな危険が待っていようとも、他人任せにはできない。
 最初に、悠太の瞳に映るのは自分でなければならない。
 雪美は階段を使い、建物の入口に上った。
 ドアは、竹を枠にして樹皮を重ね合わせて作られていた。
 雪美は、ドアをノックした。
 耳を澄ました――返答はなかった。
 ふたたび、ノックした。
 耳を澄ました――やはり、返答はなかった。
 雪美は、震える指先でドアノブ代わりの突起を掴んだ。
 高鳴る鼓動――心臓が、胸を突き破りそうだった。
 背後では、菊池が拳ほどの石を手に身構えていた。
 雪美は深呼吸をし、気を静めた。
「すみません……誰かいますか?」
 ゆっくりとドアを引きながら、声をかけた。
 部屋は、十畳ほどのスペースだった。
 家具はなにもなく、丸太を連ねた床には樹皮が敷かれていた。
「誰も、いませんね」
 雪美の肩越しに、菊池が部屋を覗き込みながら言った。
「調べて見るわ」
「だめですよ!」
 部屋に踏み入ろうとする雪美を、菊池が慌てて止めた。
「悠ちゃんの持ち物がないか、調べたいのよっ」
「山小屋みたいでも人の家ですから、不法侵入になりますよ!」
「悠ちゃんがこの島にいるのは確実なのに、じっとしていられないわ!」
 雪美は菊池の手を振り払い、感情を爆発させた。
 悠太は、大怪我をしているのかもしれないし、病気になっているのかもしれない。
 身体は元気でも、心を患っている可能性があった。
 悠太の命にかかわる、一刻を争う問題だ。
 不法侵入を恐れている場合ではない。
「でも……」
「そこで、なにをしておるんじゃ!?」
 不意に、船乗りさながらのよく通る野太い声が聞こえてきた。
 振り返ると、縮れた白髪、褐色の肌、筋肉質の身体……大柄な老人が、険しい顔で雪美と菊池を見上げていた。
「この家の方ですか?」
 雪美は、階段を下りながら訊ねた。
「そうじゃが、あんたらは?」
「僕は、旅行会社の者です」
 老人の問いかけに、菊池が手に持った石を背後に隠しつつ答えた。
「旅行会社が、わしの家になんの用じゃ?」
「私が頼んだんです!」
 雪美は、菊池の前に歩み出た。
「あんたは?」
 白い筆先のような眉毛の奥の鋭い瞳で、老人が雪美を見据えた。
 観察するような瞳だった。
「悠ちゃんの婚約者です」
「ゆうちゃん? それは、誰のことかな?」 
「二十七歳の男性です。ここに、きてますよね?」
 雪美は、断定的な物言いで訊ねた。
「なんのことじゃ。そんな男のこと、わしは知らんな」
 老人が、無愛想に吐き捨てた。
 嘘――雪美の直感がそう告げた。
「悠ちゃんも旅行会社に勤めていて、三週間前に仕事で飛鳥島に向かう途中に船が転覆して行方不明になったんですっ」
「だったら、飛鳥島を捜すべきじゃろう?」
「捜したけど、いなかったんですっ。だから、飛鳥島と近い八神島に漂着したんじゃないかと思って……」
「この島には、そんな男は流れ着いておらんよ」
 老人が、雪美を遮った。
「昨日、若い女性に会いました。彼女にも同じことを訊いたら、知ってるような感じでした」
 挑むような雪美の言葉に、老人の血相が変わった。
「知らんと言ったら知らん!」
 確信が深まった。
 やはり、老人は嘘を吐いている。
「どうして、嘘を吐くんですか!?」
 雪美は、声を荒らげ問い詰めた。
「嘘など吐いておらん。あんたら、ひまわりまで巻き込んで、なにが目的じゃ!?」
 老人が、険しい表情で雪美に詰め寄ってきた。
「私は、悠ちゃんを助けにきただけです! 私達……来年には結婚する予定だったんです。彼の乗った船が波に呑まれて、生きてるのか死んでるのかもわからないんですっ。不安で、居ても立ってもいられなくて……藁にも縋る思いで捜し回るのは当然じゃないですか!」
 雪美は、涙声で叫んだ。
 鬱積した感情が爆発し、涙が堰を切ったように溢れ出した。
「とにかく……この島には、あんたの捜している男はおらん。船が転覆したら、この荒波じゃてな、島に流れ着く前に命を落とすじゃろうて」
 老人の言葉が、毒矢のように雪美の心に突き刺さった。
「死んでない! 悠ちゃんは、絶対に生きてるわ! 取り消して! 取り消してよ!」
 雪美は、老人の分厚い胸板を拳で殴った。
「堀越さんっ。落ち着いてください!」
 振り上げた拳――背後から、菊池に手首を掴まれた。
「離してっ、離してよ!」
「出直しましょうっ。お騒がせして、すみませんでした」
 菊池は老人に頭を下げつつ、雪美を引き摺るようにして建物から離れた。
「お願いします! 悠ちゃん……いいえ、あなた達が匿っている男の人に会わせてくださいっ。五分……一分でも構いませんっ。人違いだったら、すぐに島から出て行きますから!」
 雪美は菊池の腕を振り払い、懇願した。
 老人が、厳しい顔つきで雪美に歩み寄ってきた。
「あんた、何度言ったらわかるんじゃ? わしらは、誰も匿ってなどおらん! すぐに島を出て行くんじゃっ。もう二度と、くるんじゃないぞ!」
 老人は強い口調で言い残し、背を向けると階段を上った。
「待ってくださ……」
「堀越さんっ、これ以上は本当にまずいですって!」
 菊池が、さっきより強い力で雪美を建物から引き離した。
「離してっ、あのお爺さんとひまわりって子は悠ちゃんを……」
「とにかく、ここはいったん引き下がりましょう! 僕に、考えがありますから!」
 老人は、階段の上で足を止め、雪美と菊池が立ち去るのを見張っていた。
 
(第22回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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