双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第20回

4(承前)

 浜辺の焦げるような暑さとは違い、雑木林は内臓に纏わりつくような蒸し蒸しとした暑さだった。
 海の湿気を木々や土が含んでいるのが、蒸し暑さの原因だった。
「あ!」
 突然、大声を上げたひまわりが朽木の前で腰を屈めた。
「ほら、ごちそうだぞ。お前にやる」
 なにかを捕まえたひまわりが、右手を悠太に差し出した。
 指先には、黒くぷりぷりとしたお尻の、大きな蟻が摘ままれていた。
「こんなにでかい蟻は珍しいぞ!」
 ひまわりの言うように、朽木に這う大群の蟻と比べても倍のサイズはあった。
 一センチ近くはあるだろうか?
「僕は、いいよ」
「遠慮するなって」
 ひまわりが立ち上がり、巨大蟻を悠太の鼻先に突きつけた。
 ふざけているわけでも、イジメているわけでもない。
 彼女は純粋に、悠太を喜ばせようとしているのだ。
 普通の女性が、彼氏に手料理を振る舞う感覚なのかもしれない。
 どちらにしても、ひまわりの好意であることは間違いない。
 だが、通常サイズならまだしも、巨大蟻を好んで食べるほど悠太は野生化していなかった。
「ほら? 栄養たっぷりだぞ」
 ひまわりが、無邪気に瞳を輝かせた。
 せっかくのを無下に断るのも気が引け、悠太は肚を決めてひまわりから巨大蟻を受け取り、口に入れた。
 噛み締めると、口内に甘酸っぱい味が広がった。
 たとえるなら、練乳をレモン汁で薄めたような感じだ。
 味わうと吐き気を催しそうなので、悠太は一気に呑み込んだ。
「うまかったろ?」
 通常サイズの蟻をピーナッツでも食べるかのように次々と口の中に放り込みつつ、ひまわりが訊ねてきた。
「あ、ああ」
 悠太は、曖昧な微笑みを浮かべて頷いた。
 巨大蟻はまずかったが、ひまわりの気持ちは嬉しかった。
 これが、野生で育った彼女流のデートなのだろう。
「もっと食うか?」
「いや、もう大丈夫。それより、歩こうよ」
 ふたたび朽木の前に屈もうとしたひまわりを、悠太は止めた。
 これ以上、蟻を食べさせられたらたまったものではない。
「デートだもんな。歩こう!」
 言葉は老人から聞いたのだろうが、恐らくデートの意味がわからず使っているひまわりが、愛らしかった。
 たんぽぽのような黄色の花、小ぶりなアジサイのような青い花、小さなサッカーボールのような赤い実をつけた白い花……雑木林は毎日のように歩いていたが、狩りでくることがほとんどなので風景をゆっくりと堪能する余裕はなかった。
「気持ちいいな」
 ひまわりが空を持ち上げるとでもいうように両手を伸ばし、天を仰いだ。
 彼女の端整な顔に、木漏れ日が降り注ぐ。
 アクセサリーをつけているわけでも、ドレスアップしているわけでもない。
 化粧気のない顔はこんがりと日焼けし、Tシャツは袖や裾が裂け、シャンプーなどないので髪も殺菌作用のある薬草で洗いざらしだ。
 だが、木漏れ日を浴びているひまわりは、どんなに着飾りお洒落をした女性よりも美しかった。
「なんだ?」
 ひまわりが、不意に悠太に顔を向けて訊ねてきた。
「あ、いや……その……ぼーっとしてた」
 悠太は、しどろもどろにごまかした。
「そうか」
 疑いもなく納得すると、ひまわりが屈み、薄紫のラッパのような花房を持つ野草の葉を引きちぎり口に入れた。
「オオバギボウシだ。お前も食え」
 ひまわりが、二十センチほどのスペードの形をした葉を差し出した。
 巨大蟻のときとは違い、悠太はすぐに口に入れた。
 表面にぬめりがあり、噛むとさくさくとした食感をしていた。
 これまでに何種類もの薬草や山菜を食べてきたが、そのどれとも違った。
 葉の大きさや歯応えは、レタスなどの野菜に近かった。
「冬の終わりに、よく似た野草を見ても絶対に食うな。それは毒草だ。オオバギボウシは夏にしか生えない」
 ひまわりが、むしゃむしゃと葉を食べながら言った。
「そういうのって、おじいちゃんから教えて貰うの?」 
「ああ。毒草や毒きのこの見分けかたや食べられる野草の見分けかたは、全部ジイジが教えてくれた」
「じゃあ、こういうことは?」
 悠太は、黄色の野花を一輪摘んで、ひまわりに差し出した。
「この花は食えるけど、まずいぞ」
 ひまわりが、野花を受け取り顔を顰めた。
「食べられるもの、食べられないもの、おいしいもの、おいしくないもの……たしかにそれは、生きていく上で重要なことだけど、ほかにも知っておいたほうがいいことはあるよ」 
「なんのことだ?」
「匂いを嗅いでみて」
「匂い?」
「ああ。早く」
 悠太は頷き、ひまわりを促した。
 ひまわりが、怪訝そうに花弁に鼻を近づけた。
「こんなに甘い匂いがするのか?」
 ひまわりが、驚いたように言った。
「その野花の名前も、見た目の愛らしさも、食べられるかどうかも、味も、すべて君は知っている。でも、花の魅力には香りもあるっていうことを君には知ってほしい」
「なんで? 匂いは生きることに必要か?」
 ひまわりが、首を傾げた。
「お腹を満たして喉を潤すこと以外にも、生きてゆく上で大事なことはある。美しい風景を見たり、素晴らしい音楽を聴いたり……僕は君に、そういうことの大切さを教えてあげたい」
 悠太は、自分で口にした言葉に驚きを隠せなかった。
 ゆきずりの縁だと思っていた。
 そうでなくても、記憶が戻るまでの関係だと思っていた。
 自分にとっては、五百ページを超える長編小説の一ページ……のはずだった。
「ふーん、そうか」
 ふたたび、ひまわりは野花の匂いを嗅いだ。
「うん、いい匂いだ。素晴らしい音楽って、どんなのがある?」
 ひまわりが、歩を踏み出しながら訊ねてきた。
「ショパンとかベートーヴェンとかって、知ってる?」
「それ、うまいのか?」
 真剣な顔を向けるひまわりに、悠太は思わず噴き出した。
「なにがおかしい!?」
 ひまわりが、険しい表情で詰め寄ってきた。
「ごめんごめん。ショパンとベートーヴェンは食べ物じゃなくて、音楽家なんだ」
「オンガクカ?」
「うん。簡単に言えば、曲を作る人のことだよ」
 考えてみれば、テレビも新聞もない島で生まれ育ったひまわりがクラシック音楽の巨匠を知らないのは当然だった。
「オンガクカは、生きるために必要なのか?」
 ひまわりが歩きながら、悠太の瞳をまっすぐにみつめた。
「えっ……あ、ああ、どうだろう……」
 悠太は、返答に詰まった。
 芸術が生きるために必要かと、改めて問われるとわからなかった。
 もちろん、マイナスにはならないが、なければ生きていけないということはない。
 ひまわりを見ていれば、不思議とそんな気になってくる。
 「夜想曲」や「運命」を聴かなくても、彼女には鳥の囀りや風が揺らす葉擦れの音を耳にすることで感受性が備わっている。
 絵本や童話を読まなくても、狡猾なカラスや咲き乱れる野花が彼女に物の善悪を教えてくれる。
 文明は生活を豊かにするかもしれないが、心まで豊かになるとはかぎらない。
 悠太は、冬の湖水のように澄み渡るひまわりの黒眼がちな瞳をみつめ返した。
 ひまわりは、自分達が知っていることで知らないことが多い。 
 だが、逆に自分達が知らないことを、ひまわりは知っている。
 もしかしたら、人間にとって大切なことを教えられているのは自分のほうかもしれない。
「獲物は食べるぶんだけ狩る。食料が少ないときはみなで分け合う。嘘は吐かない。大自然に感謝する。ジイジに教えて貰ったことだ。これだけじゃだめか?」
 信じられないくらいのひまわりの無垢さに、悠太は胸が熱くなった。
「君は、そのままでいいと思うよ」
 悠太は、ひまわりに微笑みかけて頷いた。
「なあ、お前のこと、ユータって呼んでもいいか?」
 突然、ひまわりが訊ねてきた。
「ユータ? どうして?」
「お前がユータだからゆうちゃんって呼んでた。色の白い女が言ってた」
「僕の名前がユータ……」
 その名前を聞いても、心に感じるものはなかった。 
「でも、ピンとこないな」
「名前がないと困るだろ? だから、ウチがユータって呼んでやる」 
 たしかに、名前がないのは不便だ。
 それに、ユータという名に覚えがなくても、これからひまわりが使うことで馴染んでくるだろう。
「わかった。そ、それで……あの、僕は、君をなんて呼べばいいかな?」
 どさくさに紛れて、悠太は切り出した。
 ずっと言い出したかったことだが、きっかけを掴めずにいた。
「ひまわりと呼べばいい」
 あっさりと、ひまわりが言った。
「あ……そうだね。じゃあ、ひまわりちゃん」
「子供じゃないっ。そんな呼びかたするな!」
 ひまわりが、悠太を睨みつけてきた。
「ひまわり……でいい?」
 その名前を口にしただけで、悠太の胸は早鐘を打った。
 ひまわりの両手が、悠太の首を掴んだ。
 次の瞬間、強い力で引き寄せられた。
 唇に、柔らかなものが触れた。
 ひまわりにキスをされていると気づくのに、数秒かかった。
 ひまわりの唇が、ゆっくり離れた。
 心臓が爆発してしまいそうだった。
 耳も頬も首筋も、火が出るように熱かった。
 悠太は眼をまん丸に見開き、足裏に根が生えたように動けなかった。
 年齢を考えても、記憶を失う前にキスくらいはしたことがあるだろう。
 だが、覚えていない以上、悠太にとってひまわりとのキスがファーストキスだった。
「い、いきなり……なにするの?」
 照れと動揺を隠すために悠太は平静を装おうとしたが、舌は縺れ声がうわずっていた。
「夫婦がキスするのは、いけないことか?」
 あっけらかんとした口調で言うと、ひまわりが首を傾げた。
「だから、僕達は夫婦じゃ……」
「悠ちゃん……!?」
 悠太の声を、女性の声が遮った。
 ゆっくりと悠太は、首を後方に巡らせた。
 およそ五メートルほど先に、雪のように白い肌の女性と若い男性が立っていた。
「悠ちゃん……やっぱり、悠ちゃんね!」
 女性が、涙声で叫んだ。
 ひまわりが南国系の顔立ちなら、女性はロシアか北欧とのハーフのようなはっきりとした目鼻立ちをしていた。
 悠太は女性に見覚えがなかった。
 だが、不思議と、初めて会ったような気もしなかった。
 彼女が、ひまわりの言っていた色の白い女性に違いない。
「生きてたのね……よかった……本当に……よかった……」
 女性の垂れ気味の大きな瞳から溢れ出した涙が頬を濡らした。
「悠ちゃん……とりあえず、帰ろう。怪我をしていないか、病院で診てもらわないと……」
 悠太に歩み寄ろうとした女性の前に、素早く動いたひまわりが立ちはだかった。
「ユータはウチの旦那さんだ。どこにも、連れて行かせない」
 ひまわりが、黒豹さながらの鋭い眼つきで女性を睨みつけた。
「旦那さん……?」
 絶句する女性の白い肌が、さらに血の気を失った。

(第21回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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