双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 19 回

4

 無人島で暮らし始めて三週間が過ぎた。
 初めてのことばかりで戸惑いの連続だが、大自然に抱かれる生活も悪くはなかった。
 高床の住居の開け放たれたドアから吹き込む潮風が、悠太の頬を心地よく撫でた。
 外には強い陽差しが降り注いでいたが、屋根には樹皮、壁には竹を材料に使っているせいか部屋の中は風通しがよかった。
 部屋は十畳ほどの一間で、家具も電化製品もなかった。
 このスペースにを並べ、悠太、老人、ひまわりが川の字になって寝ていた。
 記憶を失う前のことは思い出せないが、ベッドか布団で寝る生活を送っていただろうことは間違いない。
 最初の二、三日は藁を敷いただけの寝床に身体が違和感を訴えていたが、それもいまではすっかり慣れた。
 普通の生活をしていただろう頃の記憶はないので比較はできないが、大自然での生活も悪いことばかりではなかった。
 日の出とともに眼を覚まし、山を歩き獲物を狩り、果実をもいで薬草を摘み、夕陽が沈む砂浜で語らい、雨水で身体を洗い、星空の下で虫の声に耳を傾ける。
 一日の終わりには、波の音が子守歌代わりにまどろみに誘ってくれた。
 丸太に樹皮を重ね合わせて敷いた床に座った悠太は、眼を閉じて、串焼きにした蛙を齧った。
 グロテスクな姿を見なければ、鶏肉のように淡泊で美味しかった。
「食べられるようになったか?」
 悠太の隣りで豪快に蛙にかぶりつきながら、ひまわりが言った。
「好き嫌いをしていたら、生きていけないことがわかったからね」
 カミキリムシの幼虫やムカデを食べるよりは、蛙の肉のほうがましだった。
「なあ、いつするんだ?」
 不意に、ひまわりが訊ねてきた。
「ん? なにが?」
「交尾だよ」
 あっけらかんと言うひまわりに、悠太は蛙の肉を噴き出した。
「な、な……なに、馬鹿なことを言ってるんだよっ」
 動転と狼狽が、悠太の舌を縺れさせた。
「なんで? ウチら、夫婦だろ?」
 ふたたび、悠太は激しく噎せた。
「ふ、夫婦って……」
「だって、結婚しただろ?」
 串を咥えたひまわりが、不思議そうな顔を悠太に向けた。
「あのさ、結婚っていうのは、愛し合った二人が役所に婚姻届けを出して、教会か神社で結婚式を挙げることを言うんだよ」
「ウチら、愛し合ってないのか?」
 一点の曇りもない瞳で、ひまわりが悠太をみつめた。
「愛し合うの意味、わかってる?」
「わかるぞ。ウチがお前を好きで、お前がウチを好きなことだろ? お前は狩りが下手で足も遅いけど、いい奴だからウチは好きだ。お前も、ウチが好きだろ?  獲物の獲りかたを教えてるし、料理の仕方も教えてるし」
 ひまわりが、悠太の前に身を乗り出し訊ねてきた。
「いや、そういうことじゃなくてさ」
 悠太は、ため息を吐いた。
「お前が昼飯を食ったら、交尾しよう」
 ひまわりは立ち上がり、Tシャツを脱ぎ始めた。
「ちょっ、馬鹿……なにやってるんだ!」
 悠太は蛙の焼き串を放り捨て、腹まで捲れ上がったひまわりのTシャツを元に戻した。
「どうして怒る? おかしな奴だな」
 ひまわりが、きょとんとした顔で言った。
「とにかく、そんなことはやめて」
 悠太は、ひまわりを座らせながら言った。
 心臓が、胸腔内で跳ね回っていた。
 
――わしが死んだら、ひまわりは天涯孤独になってしまう。ただの孤独ではない。文明を知らない天涯孤独じゃ。この先、この島で一人で生きて行くというのは、どう考えても無理がある。じゃが、あんたがひまわりと一緒になってくれたら安心だ。

 老人に思いを打ち明けられてから、ひまわりを妙に意識してしまうようになった。
 いや、それ以前から、魅力的な女性として意識はしていた。
 だが、結婚などと言われると話は違ってくる。
 夜寝ているときも、すぐそばにひまわりがいると思っただけで神経が昂り眠れなくなり、彼女の寝顔に胸をときめかせている自分がいた。
 一日のほとんどをひまわりと行動している悠太は、男っぽく荒々しい言動とは裏腹に、彼女が優しく温かな心の持ち主だということを知った。
 喜怒哀楽がはっきりし、心のままに思ったことを口にする天真爛漫なひまわりに、すっかり魅了されている自分がいた。
「ウチのことが、嫌いなのか?」
 ひまわりが、ため息が出るほどに澄んだ瞳で直視してきた。
「だから、そういうことじゃないんだって。僕には記憶が……」
 悠太は、言葉の続きを呑み込んだ。
 自分が何者か覚えていない状態で、ひまわりと結婚するなど軽々しいことは言えない。

 もし、自分が結婚していたら? 
 もし、自分が犯罪者だったら?
 もし、自分が余命僅かな重病を患っていたら?

 どれも可能性は高くはないが、ゼロではなかった。
 とくに、結婚はしていてもおかしくはない。
 記憶が蘇ったときに、ひまわりを哀しませたくはなかった。
 逆を言えば、それだけひまわりのことを大事に考えているということだった。
「おい、ゆうちゃん」
 不意に、ひまわりが言った。
 窺うように、悠太の顔を覗き込んでいる。
「え?」
「おい、ゆうちゃん」
 ひまわりが、同じ言葉を繰り返した。
 なにかを、試しているように見えた。
「ゆうちゃん? そう言った?」
 悠太は訊ねた。
 ひまわりが、なにを言っているのかわからなかった。
「ゆうちゃんって、わからないか?」
「誰のこと?」
 悠太は頷き、質問を返した。
「ウチも知らない」
「え……どういうこと?」
「色の白い女が捜していた」
「ゆうちゃんって人を?」
「そうだ。こんやくしゃらしい」
「婚約者?」
 ひまわりが頷いた。
「白い女は、ゆうちゃんと結婚すると言ってた」
「そうなんだ」
 相変わらず、ひまわりは悠太を窺うように見ていた。
「お前の、恋人じゃないのか?」
「僕の恋人!?」
 予想だにしないひまわりの言葉に、悠太の声は裏返った。
「会いたいか?」
「いや……会ってもわからないと思うし……」
「顔を見たら、思い出すかもしれないだろう?」 
「でも、僕に婚約者なんて……」
 悠太は、曖昧に言葉を濁した。
 怖かった。
 もし、色白の女性が本当に自分の婚約者だとしても、思い出せなかったら他人と同じだ。
 いま、ひまわりから、ゆうちゃん、というキーワードを聞いてもなにも感じないのだ。
 自分が婚約者に、ゆうちゃん、と呼ばれていたら少しはなにかを感じてもいいはずだ。
「まだ、島にいるかもしれない。会うか?」
「いや、いいよ」
 悠太は即答した。
 色白の女性が婚約者だとしたら、思い出せなくても島から出なければいけなくなる。
 将来、結婚を約束しているのだから一緒に帰るのはあたりまえの話だ。
 だが、悠太にとってはひまわりとこの無人島にいるほうが自然で安堵感があった。
 それに……。

――ひまわりを託せるのはあんたしかおらんのじゃよ。

 ふたたび耳に蘇る老人の声に、悠太の心が締めつけられた。
 たとえ記憶を失う前に色白の女性と婚約していたとしても、いまの自分の心はひまわりに向いている。
 しかし、それは一般社会で許されることではないだろう。
 だからこそ、に会うのが怖かった。
「そうか。じゃあ、ウチが追い返してやる」
 ひまわりが、嬉しそうに言った。
「暴力はだめだよ」
「獲物以外は殺さない」
 あっけらかんと言うひまわりに、悠太の背中に冷や汗が噴き出した。
 ひまわりが野性の常識で動き、万が一のことがあったら……。
 考えただけで、脳みそが粟立った。
「本当に、手を出しちゃだめだぞ」
「なんだ? 白い女を心配してるのか?」
 ひまわりが、悠太を睨みつけてきた。
「いや、そういうことじゃなくて、君が犯罪者になるからだよ」
 慌てて、悠太は否定した。
「ウチは、悪者じゃないぞ?」
「わかってるよ。だけど、もし誰かを傷つけてしまえば、警察に捕まってしまうんだよ。警察は、知ってるよね?」
 改めて、悠太は訊ねた。
 ひまわりのことだ。
 知らない、という可能性もゼロではない。
 少なくとも、この島にはいないので実物を見たことはないはずだ。
「ジイジに聞いたことがある。悪い奴らを捕まえるんだろう?」
「そう。罪を犯した人間を逮捕して牢屋に入れるんだ。君はこの島から出たことがないから知らないだろうけど、どんな理由があっても人を傷つけると警察に捕まってしまうんだよ」
「縄張りに侵入した人間のほうが悪い。おとなしく出て行けば、傷つけはしない」
 一歩も退く気のないひまわりに、悠太は困惑した。
「とにかく、僕はその女性に会うつもりはない。そのうち島を出て行くだろうから、構わずに放っておくんだ。いいね?」
 念を押す悠太をじっと見つめていたひまわりが、ゆっくりと頷いた。
 そして、左手を悠太の前に広げて見せた。
 薬指には、砂浜で拾った指輪が光っていた。
「旦那さんの言うことは聞けって、ジイジから言われた」
「旦那さんって……」
 悠太は、二の句が継げなかった。
「ウチらはもう夫婦だって、ジイジが言ってた」
「ジイジ、ジイジって、君の気持ちはどうなんだ? 僕のこと、なにも知らないだろう?」
「知ってる。さっきも言っただろ? 狩りが下手で足も遅いが、お前はいい奴だ」
 言いながらひまわりは立ち上がり、部屋の隅から竹筒を持ってきた。
 竹筒の中には、緑色をしたペースト状のものが入っていた。
「なにこれ?」
「アロエだ」
 言い終わらないうちにひまわりが背中を向け、Tシャツを脱ぎ捨てた。
「ちょっと……」
「塗ってくれ。日光浴してたら居眠りした」
 ひまわりの褐色の背中は、赤く火照っていた。
 日焼けし過ぎて、軽い火傷をした状態になっていた。
 背を向けてはいるが、腋の下から膨らみが覗いた。
 以前も思ったことだが、ひまわりの乳房は豊かで、悠太の心拍を跳ね上げた。
「なにをやってる? 早く塗ってくれ」
「あ、ああ……わかった」
 悠太は掌に掬い取ったアロエを、ひまわりの背中に塗りつけた。
 緊張に、手が震えた――喉がからからに干上がった。
 心臓が、胸壁を突き破り飛び出してしまいそうだった。
「さ、さっきの話の続きだけどさ……」
 動揺を見抜かれないようにした。
 ひまわりの裸に平常心を失っていることなど、知られたくはなかった。
「君が思っているほど、僕はいい人間じゃないかもしれない。結婚っていうのは一生を決めることだから、もっとちゃんと相手を選んだほうがいい」
 謙遜しているわけではなく、本音だった。
「ウチにはわかる。お前の眼は、野ウサギと同じで透き通っている」
「ひどいな、僕と野ウサギを一緒に……」
「出かけるぞ」
 突然、ひまわりが振り返った。
 瞬間、釣り鐘形の膨らみが視界に飛び込み、頭が真っ白に染まった。
 慌てて、悠太は眼を閉じた。
 鼓膜で、脈が大音響で打っていた。
 百メートルを全力疾走したように、鼓動が速いピッチを刻んでいた。
「なにをやってるんだ? どこか痛いのか?」
 きつく眼を閉じている顔が、痛みを堪えているように見えたのだろう。
「服っ、服を着て!」
「もう着てるぞ」
「えっ……」
 悠太は、ゆっくりと眼を開けた。
 何事もなかったようにTシャツを着たひまわりが、怪訝そうに悠太をみつめていた。
「汗びっしょりだぞ?」
 ひまわりは悠太の額の汗を掬い取った掌を振りながら立ち上がり、ドアに向かった。
「狩りに行くのか?」
 悠太は、ひまわりの背中に訊ねた。
「今夜と明日のぶんのストックはある」
 背を向けたまま、ひまわりが答えた。
「じゃあ、どこに行くんだい?」
「デートだ」
 振り返ったひまわりが、前歯を剥き出しにしてニッと笑った。

(第20回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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