双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 18 回

3(承前)

 岩場に仕掛けられた缶の罠を見たときに高くなったテンションは、雑木林を進むにつれて低くなっていった。
 十五分以上歩いても、人影をみかけるどころか人の気配さえしなかった。
 やはり、菊池が言ったようにたまたま島にきた誰かが遊び半分に仕掛けたものなのか?
「お腹減っちゃったから、ご飯にしようよ。サンドイッチ、作ってきたんだ」
 雪美は努めて明るく言うと、切り株に腰を下ろしリュックからタッパーを二つ取り出した。
 このままだとネガティヴな感情に支配されそうで、気分を変えたかった。
「じつは、僕もお腹がペコペコだったんです」
 白い歯を覗かせ、菊池が倒木に座った。
「はい、どうぞ」
 雪美は、タッパーを菊池に渡した。
 二つのタッパーには、卵焼き、ハム&チーズ、アボカド&タルタルソースの三種類のサンドイッチと、ウインナーとから揚げが入っていた。
「ありがとうございますっ。これ、堀越さんが作ったんですか?」
「そうよ」
 悠太と結婚したときのために、料理を勉強していた。
「料理が上手なんですね!」
 菊池が、感嘆の声を上げた。
「料理なんて、大袈裟よ。ただのサンドイッチだから」
「でも、凄いですよ。見た目もきれいですし」
「見た目だけじゃないから、食べてみて」
「いただきます!」
 菊池が、卵焼きのサンドイッチを頬張った。
「あっ、マジでうまいです!」
「でしょう? じゃあ、私も、いただきます」
 雪美がアボカドのサンドイッチを手に取ったときに、物音がした。
 顔を上げた雪美の視線の先――およそ十メートル先の繁みに、なにか動く人影のようなものが見えた。
「ねえ……誰かがいる。悠ちゃんかも……」
 雪美はうわずる声で言いながら、腰を上げた。
「本当ですか!?」
 菊池も、弾かれたように立ち上がった。
 雪美は頷き、影が見えたほうへと足を向けた。
「ちょっと、待ってください。熊かもしれません」
「熊とかいるの?」
 雪美は振り返り訊ねた。
「わからないですけど、無人島なのでなにがいてもおかしくないです。足音を立てないように、近づきましょう。僕が先に行きます」
 菊池が、抜き足差し足で雪美を先導した。
「なにもいないですね」
 中腰の姿勢で五、六メートル先の藪に視線を巡らせていた菊池が、声を潜めた。
「そんなことないわ。たしかに、人影を見たんだから」
「でも、なにもいませんよ。ほら、見てくださいよ」
 たしかに、菊池の言う通りに猫一匹見当たらなかった。
 眼の錯覚だったのか?
 だが、たしかに物音は聞いた。
 あれは、幻聴などではない。
「あっ、あれじゃないですか?」
 菊池が指差す先を視線で追った。
 切り株の上で、褐色の野ウサギが鼻をヒクつかせながらきょろきょろと首を巡らせていた。
「あんなに小さな生き物じゃなかったわ。あれは、絶対に人間よ」
「だけど、人間だったら見えるはず……」
 菊池が、言葉を呑んだ。
 視線の先――なにもいないように見えた藪の中から、人影が飛び出した。
 人影は男……いや、槍を持った女だった。
 しかも、少女といっていいほどに若かった。
 褐色の肌にしなやかな肢体――黒髪を靡かせながら、少女は物凄いスピードで野ウサギに向かって駆けた。
 少女の軽やかな走りはかもしかのように美しく優雅で、雪美は思わず見惚れた。
 少女は走りながら、上体を逸らした。
 次の瞬間、一直線に放たれた槍がウサギの胴体を貫いた。
 少女は、倒れて四肢をバタつかせるウサギに駆け寄ると首を九十度に曲げた。
「うわっ……」
 菊池が、驚愕の表情で凍てついていた。
 少女は涼しい顔で、首を折ったウサギを串刺しにした槍を肩に担いだ。
「だめですよ……」
 菊池が、足を踏み出そうとした雪美の腕を掴んだ。
「どうして? 悠ちゃんのことを訊かなきゃ……」
「危険ですよ。いまの、見たでしょう?」
 菊池が、耳もとで囁き雪美を引き留めた。
「せっかく人間がいたんだから!」
「殺人犯かも……」
「お前ら、誰だ?」
 少女の声に、菊池が言葉を呑み込んだ。
 ウサギから引き抜いた槍の切っ先を雪美と菊池に向けながら、少女が歩み寄ってきた。
「ちょ……ちょっと……ぼ……ぼ、僕達は怪しいものじゃありません……」
 動転した菊池が、しどろもどろに言った。
「誰だと訊いている」
 少女が、肉食獣のように鋭い眼で雪美と菊池を交互に睨みつけた。
「た、頼みますから……殺さないでください」
 菊池が、蒼白な顔で訴えた。
 雪美も、膝が震えていた。
「お前ら、悪い奴か?」
 少女の、彫りの深い顔がよりいっそう険しくなった。
 少女は、日本人なのだろうか?
 顔立ちは、イタリア人かスペイン人の血が混じっているように見える。
 そもそも、槍で狩りなどして、少女はいったい何者なのだろうか?
 破れたTシャツに泥だらけのデニムのショートパンツという出で立ちから察して、遭難者なのかもしれない。
 だが、野生動物さながらの動きから少女は、遭難者というよりも野生児といったほうがしっくりとくる。
「私達は、人を捜しにきたの」
 雪美は、恐怖心を振り払うように言った。
「誰を捜しにきた?」
 少女の顔に、警戒の色が浮かんだ。
「男の人よ。星川悠太という名前で、年は二十七歳っ」
 雪美は祈った。
 
 どうか、悠太がいますように……どうか、悠太が無事でありますように……。
 
 願いが叶うなら、代わりにどんな罰でも受けるつもりだった。
「その男に、なんの用だ?」
「その人は、私の婚約者なのっ」
「こんやくしゃ、って、なんだ?」
 少女が、怪訝な顔を向けた。
 雪美をからかっているわけではなさそうだ。
「あ……婚約者っていうのは、結婚を約束している恋人のことよ」
「捜している男は、お前の恋人なのか?」
「ええ。仕事で無人島に向かっているときに船が転覆して、悠ちゃんが行方不明になってしまって……」
「ゆうちゃんって、なんだ?」
 ふたたび、少女が訝しげな声で訊ねてきた。
 今度も、ふざけているわけではなさそうだった。
「星川悠太だから、悠ちゃんって呼んでいるのよ」
「そんな男は知らない」
 少女が、にべもなく言った。
「えっ……だって、悠ちゃんになんの用だって訊いたでしょう?」
「ゆうちゃんなんて男は知らない」
「じゃあ、訊きかたを変えるわね。二十七歳くらいの男の人が、この島にいない?」
「そんな男は知らない」
 素っ気なく言うと、少女は地面に置いていたウサギの耳を掴み踵を返した。
「待って!」
 雪美は、少女の正面に回り込み両手を水平に広げた。
 整った顔立ちだとわかってはいたが、間近で見ると、少女の美しさは想像以上だった。
 ネコ科の動物を彷彿とさせる切れ上がった二重瞼の奥の褐色の瞳は、息を呑むほどに澄んでいた。 
 どこかで見覚えのある瞳……そう、喜怒哀楽の感情をストレートに伝える動物の瞳だ。
 破れたシャツの裾から覗く腹回りはスプリンターさながらにうっすらと腹筋が浮き、雑誌モデルのように腕も足も細くしなやかだが、彼女達のようにガリガリではなく、筋肉はしっかりとついていた。
 身体つきを見ただけで、少女がターザンのような生活をこの無人島で送っているだろうことは容易に想像がついた。
「なんだ?」
「じゃあ、その男の人と私がどんな関係だって訊いたのはなぜ? 本当になにも知らないなら、そんなことを訊くのはおかしいでしょ?」
「訊きたかっただけだ」
 言い終わらないうちに、少女は雪美を押し退け歩き出した。
「ちょっと、待ちなさいよっ。話はまだ終わってないんだから!」
 雪美はふたたび、少女の行く手を遮った。
「いい加減にしろ」
 少女が威圧的な声で言い、目尻を吊り上げた。
 それはまるで、野生動物が縄張りに侵入してきた敵を威嚇しているかのようだった。
「なにか知ってるのなら、教えてちょうだいっ。悠ちゃんが行方不明になって三週間……捜索隊の人達は諦めても、私は信じてるの。悠ちゃんは、必ず生きてるって」
「そうか。頑張って捜せ。ウチは関係ない」
 少女が冷たく言い残し、足を踏み出した。
 確信した。
 少女は嘘を吐いている。
 だが、わからない。
 島に流れ着いた男性を知っているなら、どうして嘘を吐く必要があるのだ。
「堀越さん、やめときましょう。これ以上、かかわらないほうがいいですよ」
 菊池が、雪美の腕を掴んで言った。
「彼女は、なにかを知ってるわ」
 雪美は、菊池の腕を振り払い少女のあとを追った。
「待ってください。とりあえず、いったん、引き返しましょう。冷静になって考えてから行動を……」
「悠ちゃんは、すぐそこにいるかもしれないのよ! 怖いんだったら、一人で帰ってっ」
 雪美が少し足を止めただけで、少女は既に十メートルほど先を歩いていた。
 雪美は、小走りであとに続いた。
 菊池も、ため息を吐きながら雪美についてきた。
 足場の悪い山道を、少女は舗装されたアスファルトのように軽快に歩いた。
 普通に歩いている少女と、小走りの雪美のスピードはほぼ同じだった。
 まだ一、二分しか歩いていないというのに、雪美の息は上がり、ふくらはぎが強張った。
 不意に少女が振り返り、雪美に槍を向けた。
「なぜついてくる?」
「私は、悠ちゃんを捜し出さなきゃならないの」
 雪美は、視線を逸らさず少女を見据えた。
 怖くないと言えば、嘘になる。
 菊池の言う通り、危険だとわかっていた。
 だが、恐怖心以上に、悠太に会いたい気持ちが勝っていた。
 悠太のいない人生は、死んだも同じだ。
「ウチには関係ないと言っただろう?」
「なにか事情があるなら……」
 槍の柄が、雪美の足首を刈るように叩きつけられた。
 回る視界――少女が身を翻し駆け出した。 
「堀越さん! 大丈夫ですか!?」
「私は大丈夫だから、あの子を追って!」
 慌てて駆け寄る菊池に、雪美は叫んだ。
「堀越さんを置いては……」
「もう、いい!」
 雪美は立ち上がり、少女を追った。
 右の足首に違和感を覚えたが、構わず走った。
 だが、信じられないほどのスピードで少女の背中は遠ざかってゆく。
 必死に追いかけたが、少女との差は広がるばかりだ。
 二十メートルも走らないうちに、少女の姿が見えなくなった。
「ねえっ、どこ!? お願いっ、逃げないで!」
 雪美は悲痛な声で呼びかけつつ、少女の消えたほうへ走り続けた。
 ざらついた呼吸が鼓膜で反響した。
 脇腹が刺し込むように痛んだ。
 足の筋肉が攣りそうになった。
 だが、止まるわけにはいかない――少女を見失うわけにはいかない。
 肺が破れそうだった。
 歯を食い縛り、雪美は走り続けた。
 景色の流れが、ひどくゆっくりになった。
 もう、どこを走っているのかもわからない。
 水の入ったグラス越しに見たときのような歪んだ景色が、縦に流れた。
「堀越さん!」
 眼の前に、心配そうな菊池の顔があった。
 菊池の背後には、木の枝越しの碧空が広がっていた。
「起こして……」
「え?」
「追わなきゃ……」
「なにを言ってるんですか!? いま、倒れたんですよ!? これ以上は、無理ですよ! 堀越さん、右足を引きずってますし……挫いたんだと思います。病院で診て貰ったほうがいいです」
 菊池が、厳しい表情で説得した。
 言われて初めて、右の足首に痛みを感じた。
「悠ちゃんを置いて……帰れないわ……」
 喘ぐように言いながら、雪美は上半身を起こした。
「もし、堀越さんの言う通り彼女が嘘を吐いているなら、先輩は無事だということです。今日は大飛鳥島に戻りましょう。大飛鳥島に戻ればホテルもありますし、明日、病院で診て貰ったあとに大丈夫そうだったら、もう一度八神島に来ましょう。堀越さんが無理なようなら、僕一人で捜しに……」
 雪美は菊池の腕を掴み、立ち上がった。
「まだ、そんなに遠くに行ってないかもしれないから……」
「わかりました! じゃあ、こうしましょう!」
 雪美の肩を押さえた菊池が、意を決した表情で声を張り上げた。
「大飛鳥島に戻らなくてもいいです。今夜はフィッシングボートに泊まりましょう。でも、星川先輩を捜すのは明日にしてくださいっ。今日はとにかく身体を休ませるのが、八神島に残る条件です!」
 一歩も退かないという気迫の感じられる顔つきで、菊池が言った。
 本当はすぐにでも悠太を捜しに行きたかったが、雪美は条件を呑むことにした。
 八神島に泊まるということは、菊池も船長も帰れないのだ。
 しかも、入島禁止の八神島に、リスクを顧みずに菊池はつき合ってくれた。
 雪美も、自分のわがままばかりを通すわけにはいかない。
 それに、悠太のいる可能性の高い八神島に泊まれるだけで、かなりの安心感があった。
「わかった。私からも、一つだけ条件があるわ」
「なんですか?」
「明日、私の右足がどんな状態になってても悠ちゃんを捜しに行く。その条件を呑んでくれなきゃ、いまから捜すから」
 雪美もまた、一歩も退かないという強い意志を宿らせた瞳で菊池をみつめた。

(第19回につづく)

バックナンバー

新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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