双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 15 回


2


 繁みに屈んだ悠太は、黄金色に焼ける空を見上げた。
 この島で生活を始めて一週間……夕刻に規則正しく便意は襲ってきた。
 記憶を失う以前からそうだったのか、規則正しい生活で身体のリズムがそうなったのか、悠太にはわからなかった。
 深さ三十センチほど掘った穴への排泄、岩場に溜まった雨水を利用しての不定期的な入浴にも慣れた。
 蛇やカミキリムシの幼虫も、島に着いた当時は吐き気を催しろくに食べられなかったが、いまは美味しいと感じないまでも喉を通すことはできるようになった。
 悠太の身体と心が、人間には適応能力があると教えてくれた。
「安心しろ。いまは食べないから。お前も、一生懸命に生きてるんだしな」
 悠太は、ハマウドの葉に乗ったアマガエルに語りかけた。
 だが、この島の生活では人間と動物の友情が成り立たない。
 空腹になれば、も獲物に早変わりすることを悠太は知っていた。
「ちょっと、ごめんな」
 悠太は言いながら、アマガエルを手で払いハマウドの葉をちぎると肛門に当てた。
 いまでも、この行為には違和感を覚えるが紙がないので仕方がない。
「まだか?」
 突然、背後から声をかけられた。 
「ちょっ……」
 悠太は慌ててズボンとトランクスを引き上げ振り返った。
 野ウサギを肩に担いだひまわりが、目の前に立っていた。
「き、急にトイレ中にこないでくれよ!」
「埋めろ。ハエが湧く」
 ひまわりが、視線を穴に向けながら言った。
「あ、ああ、ごめん」
 悠太は謝り、大便に土をかけた。
「って、なんで僕が謝るんだ!? あのさ、トイレを覗くなんて悪趣味だぞ!?」
「覗いたんじゃない。遅いから呼びにきたんだ」
 悪びれたふうもなく、ひまわりが言った。
「君も同じことをやられたら嫌だろう?」
「別に、いいぞ」
 あっけらかんと答えるひまわりに、悠太は唖然とした。
「いいぞって……君はトイレを覗かれて恥ずかしくないのか!? しかも、僕は男だぞ?」
「恥ずかしい? なんでだ? みんなやってることだろう?」
 ひまわりが、珍獣を見るとでもいうような眼を悠太に向けて首を傾げた。
「それ……真剣に言ってるのかい? 君には、羞恥心がないのか?」
 悠太もまた、珍獣を見るような眼をひまわりに向けた。
「しゅうちしんって、なんだ?」
 幼子のように、ひまわりが訊ねた。
「そんなことも……」
 言いかけて、悠太は口を噤んだ。

――生まれてから、ずっとだよ。

 夜の砂浜で満天の星を見上げながら答えたひまわりの声が、脳裏に蘇った。
 知らなくて当然だ。
 ひまわりは、生まれたときからずっと無人島で暮らしているのだから。
「羞恥心っていうのは、恥ずかしく思う気持ちのことだよ」
「だから、なんで恥ずかしがる? 動物が恥ずかしがるか?」
 ひまわりが、不思議そうな顔で言った。
「そういうことじゃないよ。動物が裸でも、人間は服を着るだろう? 人間には、動物と違って恥じらいの感情があるんだよ」
「そうか? ウチは平気だぞ」
 言い終わらないうちに、ひまわりが野ウサギを地面に置くとTシャツを脱ぎ捨てた。
 脂肪の一切が削ぎ落とされたスリムな身体とアンバランスに豊満な乳房が、視界に飛び込んできた。
「ちょっ……なにやってるんだよ!」
 弾かれたように、悠太はひまわりに背を向けた。
 心臓が破裂しそうなほどに高鳴っていた。
 網膜に、鮮烈にひまわりの裸が焼きついていた。
「下も脱ぐか?」
 ひまわりの声で、鼓動の高鳴りに拍車がかかった。
「もういいから、上を着てくれ!」
 悠太は、大声で言った。
 頭に血が昇り、眩暈がした。
「なんだ、変な奴だな。裸になっただけで、どうして怒るんだ?」
 ぶつぶつと言いながらひまわりが、Tシャツを着る気配があった。
「着たぞ」
 悠太は、恐る恐る振り返った。
 まだ、胸が早鐘を打っていた。
「君って人は、本当に信じられないな」
 悠太は、ため息交じりに言うとまじまじとひまわりをみつめた。
 当のひまわりは、悠太の動揺などまったく意に介せず、彼の慌てぶりにきょとんとしていた。
 ひまわりの言動は、どれもこれも悠太の想像を絶していた。
 彼女はまるで、野生動物だった。
 獲物を狩り、大自然で暮らしているうちに動物的になるのかもしれない。
「ウチの裸を見て、どうして怒るんだ? お前の裸を見ても、ウチは怒らないぞ」
「怒ってはいないよ。ただ……」
 悠太は言い淀んだ。
 動揺しただけ……とは、下心を見透かされそうで言えなかった。
「ただ、なんだ?」
 ひまわりが、怪訝そうに悠太の顔を覗き込んできた。
「いや……なんでもない。お爺さん、夕食を待ってるだろうから行こう」
 悠太は早口で言うと、歩き始めた。
「ジイジはまだ海だ」
 ひまわりが、悠太を追い抜き言った。
 普通に歩いていても、ひまわりのほうが男の悠太より速かった。
 一歩一歩は悠太のほうが大きかったが、ひまわりのほうが圧倒的にピッチが速いのだ。
 悠太はひたすら無言で歩いた。
 正直に言えば、いまだに動転していた。
 一瞬だったが、ひまわりの裸をはっきりと記憶していた。
 彫刻のように美しい身体だった。
 まさに、ミロのヴィーナスのような……。
 悠太は、頭を小刻みに振ることで広がりそうになる妄想を打ち消した。
 ただでさえ、ここ数日の悠太は、ひまわりのことばかりを考えていた。
 一日の大半をともに行動しているからなのかもしれないと思ったが、違った。
 ひまわりが笑っているとき、獲物を狙っているとき、水を飲んでいるとき……悠太の胸はときめいた。
 この感覚が恋だということは、記憶を失っていてもわかる。
 悠太は立ち止まり、ひまわりへの感情を打ち消すとでもいうように頭を掻きむしった。
「おい、鳥の糞でもかけられたのか?」
 振り返り無邪気に訊ねるひまわりに、思わず悠太の口もとが綻んだ。
「じゃあ、僕は探し物をしてくるよ」
 悠太は、住居の前の調理場近くで夕食の準備に取りかかるひまわりに言った。
 今日のメイン料理は野ウサギだった。
 もう既に野ウサギは、木の枝に足首を縛られ逆さに吊るされていた。
 ひまわりが夕食を作っている間、悠太の役目は生活に役立てられそうなを拾ってくることだった。
 無人島といっても、十数年前までは人が生活をしていたそうなので岩場や波打ち際を探し回れば衣類、雑貨、家具などが落ちていた。
 尤も、長い期間、野ざらしになっていたのでそのほとんどは使い物にならなかった。
 悠太は、使えそうな物を選りすぐって持ち帰っていた。
 この三日間で悠太は、バケツ、椅子、ブリキのマグカップを二個、男性もののTシャツを二枚と女性ものの長袖セーターを一枚、していた。
「行かなくていい」
 背中を追ってくるひまわりの声に、悠太は足を止めた。
「なんで?」
 振り返り、悠太は訊ねた。
「今日は、ウサギの捌きかたを教えてやるから」
 ひまわりが、吊るされた野ウサギに視線を移しながら言った。
「えっ……僕は、いいよ」
「よくない。そろそろ、覚えたほうがいい」
「でも、僕は血が苦手だから無理だって」
 悠太は、懸命に訴えた。
 ひまわりのように皮を剥いだり首を切ったりなど、とてもではないができない。
「ウサギくらい捌けないと、ここで生きていけないぞ」
「いや、だけどさ……それに、このウサギ、まだ生きてるんだろう?」
 ひまわりは槍で野ウサギの腰椎を貫いて動けなくなったところを捕獲し、後頭部に手刀を叩き込んで失神させたのだ。
 まるで、漫画を見ているようだった。
 そう、ひまわりの存在自体が漫画の主人公のようだ。
「いいから、早くこっちにこい。肉が傷むだろ」
 ひまわりが、悠太の手を引き野ウサギのもとに連れて行った。
「最初に、血抜きをする」
 ひまわりがナイフで頸動脈を切ると、野ウサギの身体が激しく痙攣した――地面に向かって、勢いよく鮮血が噴出した。
 悠太は、思わず眼を逸らした。
「ちゃんと見てろ。血が残っていたら腐るのが早いし肉の味も悪くなる。血抜きをしている間に、足の先を切り落とす。このとき、深く切り過ぎないように注意しろ」
 淡々と言いながら、ひまわりは野ウサギの爪先を切断した。
 野ウサギは事切れたのだろう、ピクリとも動かなくなった。
「次は、皮を剥ぐ。後脚、背中、頭、前脚の順にナイフで切れ目を入れて……ちょっと、揺れないように押さえてろ」
 ひまわりに命じられ、悠太は宙づりの野ウサギを両手で押さえた。
「こうやって服を脱がせるように、足のほうから頭に向かって剥ぐ。体温があるうちだと、簡単に剥がせる」
 言葉通り、ひまわりが両手に力を込めるとソーセージのセロファンのように野ウサギの皮がずるりと剥けた。
 胃が伸縮した――悠太は、慌てて掌で口を押さえた。
「首のところまで剥がしたら、頭を切る」
 ひまわりは眉一つ動かさず、野ウサギの首を切断した。
 最初に血抜きをしていたので、新たな出血はなかった。
「うわっ!」
 足もとに野ウサギの顔が転がり、悠太は悲鳴とともに後退った。
「なんだ、大袈裟だな。ウサギ汁の出汁に使うから、拾ってそこの麻袋に入れてくれ」
「えっ……頭を触るのか?」
 悠太は、自分を見上げる野ウサギの生首に視線を落とした。
「あたりまえのことを言うな。早くしないと、虫に食われるぞ」 
 悠太は屈み、眼を閉じると生首を拾い急いで麻袋に入れた。
「それを持ってきてくれ」
 ひまわりが、四、五メートル離れた調理場に置いてあるブリキのバケツに視線を向けた。
 悠太が、一昨日、砂浜に打ち上げられていたのをしてきたものだ。
 嫌な予感に苛まれながら、悠太はバケツを取りに行った。
「急げ!」
 ひまわりに急かされ、悠太はバケツを手に駆け足で戻った。
「次は内臓だ。死んで時間が経つと、最初に内臓が腐ってしまうから手早く取り除く」
 予感が的中した。
 悠太が、最も苦手にしているシーンだ。
 ひまわりは、腹の肉を指先で摘まみナイフで切れ目を入れた。
「まず、肛門のほうに切り上げる」
 ナイフが滑ったあとに、パックリと皮膚が裂けた。
 血は出てこなかったが、黒みがかった緑や赤紫の臓器がはみ出した。
「ぼーっとしてないで、早く取り出せ」
「僕が!?」
 悠太は、己の顔を指差した。
「ウチはナイフを使ってるんだ。お前しかいないだろ?」
 当然、といったふうにひまわりが言った。
「いや、でも……」
「腐るから、早く!」
 悠太は肚を決め、裂けた腹に両手を入れた。
 掌に、ぬめぬめとした生温く不快な感触が広がった。
 細長く捩じれた形状から、腸だということがわかった。
 ほかにも、胃と思しき形をした臓器もあった。
 複数の臓器を零れ落ちないように、悠太は慎重に掬い上げバケツに移した。
「次は胸まで開くぞ」
 ひまわりが、ナイフの切っ先を胸骨のほうまで下ろした――裂け目がさらに開き、別の臓器が溢れ出した。
 今度は赤黒い色をした心臓も交じっていたが、腹部の臓器に比べると量が少なかった。
 横隔膜が痙攣し、背中が波打った。 
 胃液が食道を焼きながら逆流した。
 悠太は奥歯を噛み締め、嘔吐しないように我慢した。
「内臓をよく洗って串に刺せ」
「えっ……内臓を、食べるのか!?」
 悠太は、素頓狂な声で訊ねた。
「食べないのか? うまいしスタミナがつくぞ」
 淡々と言いながら、ひまわりは吊るしていた野ウサギを枝から外し調理場に移動した。
「ぼ、僕は遠慮しておくよ」
 悠太は、臓器の入ったバケツを手にひまわりのあとに続いた。
「だから、お前は体力がないんだぞ。ほら、見てろ」
 ひまわりは調理場の切り株の上に皮を剥いだ野ウサギを置くと、尻尾の根元から後脚の付け根にナイフを入れた。
 手前に腕を引くと、呆気なく後脚が胴体から外れた。
 反対側の脚も同じように切り外したひまわりは、次に前脚の付け根にナイフを入れた。
「関節にナイフを入れると脚は簡単に外れる」
 素っ気なく言うと、ひまわりは野ウサギを裏返しにした。
「次は胴を上下に切る」
 ひまわりが開いた肋骨の根もとにナイフの切っ先を入れると、野ウサギの胴体が真っ二つに切断された。
 その後ひまわりは、上半身を背骨に沿って半分にし、肋骨の隙間にナイフの刃を当てて一本一本から肉を削ぎ落とした。
「頭と一緒に出汁にするから、肋骨も水に入れろ」
 ひまわりが、肉を削いだ肋骨を別の切り株に置いた。
「だいたい、こんな感じだ。あとは同じことを繰り返す。覚えたか?」
「ああ……だいたい」
 相変わらず、悠太の胃はムカムカとしていた。
 別のバケツに汲み溜めしていた真水を、臓器が浸るくらいに注いだ。
 もう、血も肉も臓器も見るのもうんざりだったが、言われたことをやるまでは、ひまわりは許してくれないだろう。
 知り合って僅か一週間だが、ひまわりの頑固さはわかっていた。
 ぶっきら棒で、上から目線で、自分の意見は絶対に曲げず……そんなひまわりを、嫌だとは思わなかった。
 むしろ、惹かれている自分がいた。
 彼女の眼差しに、唇の動きに、身のこなしに悠太は魅了されっ放しだった。
 悠太は、臓器を傷つけないように柔らかな手つきで洗った。
 依然として胃液は込み上げていたが、嘔吐感はかなりおさまっていた。
 洗い終わった臓器を竹串に刺した悠太は、次に、バケツに溜めた水を缶に移し、野ウサギの頭部と肋骨を入れて火にかけた。
「なあ」
 野ウサギの肉を器用な手つきで竹串に刺しながら、ひまわりが声をかけてきた。
「ん? なに?」
「結婚するか?」
「ああ、結婚ね……えっ!?」
 強烈なパンチを顎に食らったように、脳みそに衝撃が走った。

(第16回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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