双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 14 回


1(承前)


 雑木林の山道――岩場や砂浜とは違った負荷が、雪美の両足にかかった。
 軟らかい土と木の根の張った地面に足を取られないように踏ん張るので、必要以上にふくらはぎと太腿に力が入った。
 雑木林に足を踏み入れて、十分が過ぎた。
 平地とは違い湿気のせいか蒸し暑く、雪美の背中は汗ばんでいた。
「いやっ!」
 雪美は悲鳴を上げ、手の甲に載った黄色と黒の横縞模様のクモを振り払った。
「どうしました!?」
 前を歩いていた菊池が、驚いた顔で振り返った。
「クモが……」
 雪美は、言葉の続きを呑み込んだ。
 不意に、涙が溢れてきた。
「どうしたんですか!?」
 菊池が、びっくりした顔で訊ねてきた。
 とめどなく涙が溢れ、雪美は答えることさえできなかった。
 尤も、自分自身、涙の理由はわからなかった。
 もちろん、クモが怖かったからではない。
 驚いたことで張り詰めていた気持ちが緩み、心の奥底の不安な感情が溢れ出てしまったのかもしれない。
 本当は、怯えていた。
 悠太が、みつからないのではないかと……。
 本当は、恐れていた。
 悠太が……。
 細菌さながらに増殖しそうになるネガティブなイメージを、雪美は頭から打ち消した。
「ク、クモが大嫌いなの……」
 雪美は頬を濡らす涙を手の甲で拭いつつ、泣き笑いの表情でごまかした。
「ああ、僕も苦手です。あのエイリアンのような姿が、鳥肌もんですよね」
 疑ったふうもなく、菊池が共感の言葉を口にした。
 それから、二人は無言で歩いた。
 毛穴から噴き出す汗が、全身を不快に濡らした。
 五分、十分……視界に入るのは、草木と土とゴミばかりだった。
 無言なのは、疲ればかりが理由ではない。
 ふくらはぎがパンパンに張り硬くなっていたが、苦痛は感じなかった。
 肉体よりも、心が痛かった。
 悠太が行方不明になってからの一週間、食欲もなく、夜も眠れなかった。
 コンビニエンスストアのサンドイッチ一個と牛乳だけで食事を終わらせることも珍しくなかった。
 睡眠も、この一週間で十時間くらいしか取っていない。
 誰かと話すときに笑顔を作りはするが、心では泣いていた。
 抜けるような青空、美しく咲き誇る花、愛らしい小犬、柔らかな木漏れ日……すべてが、色褪せて見えた。
 悠太のいない世界では、どんなに素晴らしい光景も、音楽も、料理も、雪美にとっては無意味だった。
 次第に、陽射しが強くなってきた。
 あたりが明るくなってきたのは、雑木林の終わりが近いことを意味する。
 視覚に全神経を集中させて、あたりを見渡した。
 雑木林といっても木の本数は少なく大きな遮蔽物もないので、悠太が倒れていれば見落とす可能性は低い。
 重い足取りで、落ち葉を踏み締めた。
 一歩、また一歩、周囲が明るくなるに連れて雪美の心は闇が色濃くなってゆく。
 ついに、雑木林が終わった。
 恐れていた結果――飛鳥島に、悠太はいなかった。
「この島には、いないようですね」 
 沈んだ声で、菊池が言った。
 彼のTシャツも雪美同様に、ぐっしょりと汗に濡れそぼっていた。
「じゃあ……どこよ?」
 震える声を、雪美は絞り出した。 
「え……」
 菊池が、怪訝な顔を雪美に向けた。
「この島にいないなら、いったい、どこにいるっていうのよ!?」
 雪美は、ヒステリックに菊池を問い詰めた。
「ねえっ、なんとか言ってよ! 悠ちゃんは、どこにいるの!?」
 八つ当たりだと、わかっていた。
 聞いても無駄だと、わかっていた。
 わかっていたが、菊池に怒りをぶつける以外、雪美には為す術がなかった。
「すみません……僕が先輩を止めていれば……」
「そうよ! こんな島になんか……」
 雪美は、言葉を切った。
 ある考えが、頭を過った。
「ねえ、飛鳥島以外に無人島はある?」
 思いついたように、雪美は訊ねた。
「一番近いのは八神島っていう無人島で、船で十五分くらいだと思います」
「いまから行けない?」
 無意識に、口に出していた。
「八神島にですか!?」
 菊池が、素っ頓狂な声で訊ね返してきた。
「うん。飛鳥島に行くつもりだったのは、船の転覆前の話でしょ? 転覆したあと、悠ちゃんが飛鳥島に流れ着くとはかぎらないじゃない? 船が転覆した地点から、飛鳥島と八神島はどっちが近いの?」
「飛鳥島のほうが近いですけど、ちょっとの差です」
「でしょう!? ほら! だったら、八神島に流れ着いている可能性もあるよね?」
 雪美は、菊池の顔を覗き込むようにして言った。
「まあ、たしかに、距離的にはほとんど変わりませんからね」
「じゃあ、悠ちゃんが八神島にいる可能性はあるよね!?」
「でも、八神島には行けませんよ」
「なんでよ!?」
「八神島は『噴火警戒レベル』が導入されている無人島です。十八年前までは百人ほどの住民がいたんですが、火山噴火と噴火により引き起こされた地震で全住民が離島しました。だから、八神島は観光地どころか入島禁止になっていて立ち入ることはできません」 
「でも、人の生死がかかっているのよ!? これは、特例じゃない!」
 雪美は、激しい口調で訴えた。
「気持ちはわかりますけど……特例は認められないと思います」
「どうして!?」
「先輩が八神島に入島したという証拠があれば別ですが、現時点では単なる推測です。推測では、噴火警戒レベルが導入されている無人島に立ち入る許可は下りません」
 申し訳なさそうに、菊池が言った。
「あなただって、悠ちゃんが八神島に流れ着いている可能性があるって言ってたじゃないっ」
「言いました。僕だって、たとえ一パーセントの確率であっても、可能性があるかぎり捜索したいですよ。でも、いまも言いましたが、可能性では入島許可は下りないんです」
「だったら、内緒で行けばいいじゃない? 船もあるんだしさ? ね?」
 雪美の頭の中には、法も常識もなく、とにかく八神島に行くことしかなかった。
「無茶を言わないでください。そんなこと、船長が納得してくれませんよ」
「私からもお願いするから……」
「漁業組合にバレたら、船長は処分されてしまうんですよ!」
 強い口調で訴える菊池に、雪美は冷静さを取り戻した。
 船長にも、家庭がある。
 雪美がわがままを貫き通せば、家族が路頭に迷うことになるだろう。
 船長の家庭を壊す権利など、雪美にあるはずがなかった。
「ごめんなさい。勝手だったわ……」
「いいえ……僕のほうこそ、大声を出してすみません」
「ううん、悪いのは私よ。悠ちゃんのことが心配だからって、自分の都合しか考えていなかった。そんな私を見たら、悠ちゃんに嫌われるわ」
 雪美は、精一杯、笑顔を掻き集めた。
「力になれなくて、すみません。いったん戻ってから、方法を模索してみます。だから、諦めないでください」
 菊池が、励ますように言った。
「あたりまえじゃない! 私を誰だと思ってるの? 世界中の人間が諦めても、私は絶対に諦めないから!」
 雪美は、胸を張り拳で叩いた。
「それを聞いて、安心しました。船長が待ってますから、そろそろ戻りましょう」
 雪美は頷き、菊池の背中に続いた。

――世界中の人間が諦めても、私は絶対に諦めないから!

 菊池に言った言葉――己を鼓舞するために、雪美は胸奥で繰り返した。
 中野区野方――悠太の実家のリビングルームのソファに、重苦しい空気が広がった。
 菊池も「ドリームサポート」の佐竹も、沈痛な面持ちで俯いていた。
「そう」
 雪美から今日の報告を受けた里恵は呟き、視線をティーカップに落とした。
 さぞ、落胆していることだろう。
 それは、雪美も同じだ。
 悠太は飛鳥島にいる……そう信じていた。
 捜索隊が見落としていただけで悠太は生きている……そう信じていた。
 残酷にも、雪美の願いは打ち砕かれた。
 飛鳥島に、悠太の姿はなかった。
「ごめんなさい……」
 雪美は、悲痛な声を絞り出した。
「どうして、雪美ちゃんが謝るのよ? 悪いのはあなたではなく、船長さんの反対を押し切って船を出させた悠太なんだから」
 里恵が、雪美を気遣うように言った。
「お前も、どうして止めなかったんだよ? 星川にその船長を紹介したのは、お前なんだろう?」
 佐竹に咎められた菊池が、力なくうなだれた。
「やめて、佐竹君。菊池さんは、今日だって私のために船を手配してくれたり飛鳥島を探索してくれたり、いろいろやってくれたわ。そんなふうに言ったら、かわいそうよ」
 雪美は、佐竹を窘めた。
「でもさ……」
「雪美ちゃんの言うとおりよ。誰の責任とか、ああすればよかったとか……いまは、内輪揉めしている場合じゃないでしょう」
 里恵の言葉に、今度は佐竹がうなだれた。
 佐竹に悪気がないことも、本気で菊池を責めているわけではないこともわかっていた。
 みな、不安なのだ。
「ところで、雪美ちゃん。これから、どうするつもりだい? 捜索隊も打ち切られたし、飛鳥島にもいなかったんだから、もう、捜しようがないだろう?」
 佐竹が、遠慮がちに訊ねてきた。
「そんなことないわ。まだ、捜したいところがあるの」
 三人の視線が、雪美に集まった。
「堀越さん、それは……」
「悠ちゃんは、八神島にいるかもしれない」
 菊池の声を遮って、雪美は言った。
「八神島? その島って、どこにあるの?」
 里恵が、身を乗り出した。
 平静を装っているが、内心は、いても立ってもいられないに違いない。
「大飛鳥島から飛鳥島に行くのと、ほとんど同じくらいの距離の無人島なんです。捜索隊の人達が飛鳥島を捜したのは、悠ちゃんの目的地だったからです。でも、よく考えてください。船が転覆してしまえば、目的地もなにも関係ありません。潮の流れで、すぐ近くにある八神島に流れ着く可能性もあります。ね? 佐竹君、そうよね?」
 雪美は、視線を里恵から佐竹に移した。
「八神島か……たしかに、その可能性はあるな。飛鳥島に漂着することを想定するなら、八神島だって視野に入れるのは当然だ。雪美ちゃん、いいとこに目をつけたね!」
 佐竹が、握り拳で掌を叩いた。
「佐竹さん、堀越さんにも言いましたが、八神島は噴火警戒レベルが導入されている無人島です」
 すかさず、菊池が言った。
「あっ、そうだった。雪美ちゃん、八神島には行けないよ」
「それは散々、菊池さんから聞かされたわ。そこで、改めて佐竹君にも考えてほしいの。八神島を捜索する方法を」
「八神島を捜索する方法!?」
 雪美の言葉を、佐竹が素っ頓狂な声で繰り返した。
「堀越さん、何度も言いますが、八神島は立ち入り禁止なので着岸した船長まで罪に問われてしまいます」
 菊池が、諭すように言った。
「着岸しなければ、いいんでしょう?」
 悪戯っぽく、雪美が言った。
「え?」
 菊池が、怪訝な表情になった。
「近くまで運んでくれたら、ゴムボートを使って自分で八神島に行くわ。近くまで行くだけなら、船長さんも罪には問われないよね?」
「いや、それはそうですが……」
 菊池が、二の句を失った。
「雪美ちゃん、それはどういう意味?」
 佐竹が、訝しげに訊ねてきた。
「だから、八神島に着岸しちゃったら船長さんに迷惑がかかるから、近くで船を止めて貰って私だけゴムボートで降りるってことよ」
「そんな、無茶だよっ」
「僕も、そう思います」
 佐竹と菊池が、立て続けに雪美に反対した。
「そりゃあ、強引なやりかただと思うけど、だったら、ほかに方法あるわけ?」
「方法なんてあるわけないだろ? 立ち入り禁止の島なんだから! 雪美ちゃん、馬鹿なことを言っちゃだめだよっ」
 佐竹が、強い口調で窘めてきた。
「そうですよ。命に係わる問題ですから」
 菊池が佐竹に追従した。
「悠ちゃんの、生死がかかってるのっ。私だって、命懸けで悠ちゃんを捜すのはあたりまえじゃない!」
 雪美は強い口調で訴え、佐竹と菊池を交互に見据えた。
 あまりの雪美の迫力に、二人ともなにも言えずに口を噤んだ。
「雪美ちゃん、悠太のためにありがとうね。でも、あなたを、そんな危険な目に遭わせるわけにはいかないわ」
 里恵が、慈しみに満ちた瞳で雪美をみつめた。
「お母さんも大変なときに私のことを気遣ってくださり、こちらこそありがとうございます。でも、これは悠ちゃんのためであるのと同時に、私のためでもあるんです。悠ちゃんのいない人生なんて、私には考えられません。だから、可能性があるかぎり、世界中のどこにでも飛んでゆくつもりです」
 雪美は里恵をみつめ返し、力強く頷いて見せた。
 
 必ず、迎えに行くから……だから、待ってて。

 雪美は、心で悠太に語りかけた。

(第15回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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