双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 11 回


6


 腰が悲鳴を上げ、ふくらはぎがパンパンに張っていた。
 岩場の陰で中腰になって、恐らく十五分は過ぎていた。
「膝を突いたら、だめかな?」
 悠太は、恐る恐る訊ねた。
「だめだ」
 にべもなく答えるひまわりも、悠太と同じように中腰の姿勢だったが涼しい顔をしていた。
 悠太の膝はガクガクと震え、太腿には激痛が走るほどに乳酸が溜まっていた。
 いわゆる、空気椅子というトレーニングのときと同じような恰好を長時間しているので、その苦痛は想像を絶した。
 手製の槍を持つ手も、膝同様に震えていた。
 自分より筋肉量も少なく細い足をしているのに、どうして彼女は平気なのだろうか?
「ちょっとでいいからさ……」
 喘ぐような声で、悠太は食い下がった。
 正直、これだけ喋るのもやっとだった。
「そのちょっとの間に、逃げられてしまう」
 ひまわりは、一点をみつめたまま言った。
 ひまわりの視線の先――約五メートル先では、カラスがきょろきょろと首を巡らせていた。
「それにさ……カラスなんて食べたくないよ」
「お前、おかしなことを言うな? カラスは美味いし蛋白質も豊富だぞ」
 
 おかしなことを言うのは君だ。

 口には、出さなかった。
 この島に漂着してから三日間、おかしなことだらけだった。
 八神島での一日は、朝日が昇るのと同時に、シートで受けてペットボトルに溜めた水を回収することから始まる。
 水の回収が終われば、食料の補給に出かける。
 野ウサギ、野ネズミ、カニ、カミキリムシの幼虫……その日によって、捕獲する食料は様々だ。
 無人島の生活で重要なことは、眼についた食料から優先して獲ることらしい。
 後回しにして、次の機会に捕獲できる保証はないからだ。
 食料以外にも、薬草や木の枝の収穫も大事な日課だ。
 病院がない無人島では、怪我の放置は命取りになる。
 ちょっとした傷でも化膿したり感染症になったりしないよう、すぐ消毒するために薬草は欠かせないという。
 ほかにも、蚊やアブなどを避けるための香りの強いハーブ類も採集する。
 この島では苦労して手に入れている食物や薬も、街ではスーパーや薬局で手軽に購入することができる。
 街……。
 自分は、いったい、どんなところに住んでいたのだろうか?
 東京のような都会? 海辺の漁村? のどかな山村?
 島に流れ着いて三日が過ぎても、なにも思い出すことができなかった。
 一人暮らしだったのか? 実家に住んでいたのか? 結婚していたのか? 兄弟はいたのか? 恋人は? 友人は? ペットは飼っていたのか? 好きな食べ物は? 好きな映画は? スポーツはやっていたのか? 特技や趣味は? 勉強はできたのか?
 なにも覚えていない。名前も、年齢も……。
 自分は本当に存在しているのか? 
 それさえも、不安になってしまう。
「獲物から眼を離すな」
 ひまわりが、振り返らずに叱責した。
「あ、ごめん……」
 悠太は我に返り謝った。
 彼女の背中には、眼でもついているのだろうか?
 自分の意識がほかにいっているのが、気配でわかったのだろう。
 まるで、野生動物のような五感だ。
 ひまわりに叱られながら狩りにつき合い、幼虫や蛇を食べさせられ……三日間、慣れない生活に悠太は心身ともに疲弊していた。
 だが、そのおかげで、ずいぶんと気が紛れた。
 ひまわりのペースに翻弄され、束の間でも不安から解放された。
「ねえ、いつまで……」
 悠太が声をかけようとした瞬間、ひまわりが中腰のまま槍を持つ右腕を後ろに引いた。
 いよいよだ。
 しかし、槍を後方に引いてからひまわりは静止画像のように動きを止めていた。
 カラスは、ときおり首を周囲に巡らせつつ昆虫かなにかの残骸を啄んでいた。
 二、三秒啄んだらきょろきょろとし、また啄むことを繰り返しているので、ひまわりは迂闊に立ち上がって逃げられるのを警戒しているのだろう。
 悠太は、ひまわりの浮き上がる褐色の背筋に視線を奪われた。
 身体はスリムだが、背中、肩、腕、足に刻まれた筋肉のラインはギリシャ彫刻のように惚れ惚れとする美しさだった。
 ボディビルダーのような筋肉ではなく、ひまわりの筋肉はしなやかなのが見た目にもわかった。
 だからこそ、これだけ持久力があるに違いない。
 ひまわりが身体を反らした次の瞬間、上体が反対に沈んだ。
 ビュン、という風を切る音とともに放たれた槍が一直線に景色を切り裂いた。
 胴体を貫かれたカラスが羽をバタつかせ、地面でもがき苦しんでいた。
 ひまわりがダッシュした。
 慌てて追いかけようとした悠太は、切り株に足を取られて転倒した。
 ひまわりが慣れた手つきでカラスの首を折ると、ピタリと動かなくなった。
「ひどいな……」
 悠太は思わず呟いた。
「苦しませないためだ」
 にべもなく言うと、ひまわりはカラスを貫いた槍を肩に担いだ。
「足腰を鍛えろ。それじゃネズミも捕れないぞ」
 呆れたように言い残し、ひまわりが雑木林に引き返した。
「ネズミって……そんなの捕まえないし……」
 悠太はぶつぶつと言いながら立ち上がり、ひまわりのあとを追った。
 急いでいるふうには見えないのに、ひまわりの背中はどんどん遠ざかった。
 あの引き締まったふくらはぎのどこに、そんなパワーが詰まっているのだろうか?
「おい、待ってくれ。もうちょっとゆっくり……」
「この中で、食える野草は?」
 不意に立ち止まり、ひまわりが訊ねてきた。
 周囲には、何種類かの野草が生い茂っていた。
 ひまわりのの答えは、すぐにわかった。
「これだろ?」
 悠太は、ヨモギを指差した。
 昨日も一昨日も獲物の捕りかたと野草の見分けかたばかり聞かされていたので、かなり詳しくなっていた。
「なんの野草だ?」
「簡単だよ。ヨモギ。天ぷらやみそ汁の具にしたり、炒め物にもできる。食用以外にも、傷口に塗ると止血と痛み止めの作用がある……だろ?」
 自慢げに、悠太は言った。
「難しいことはわからない。ヨモギは食えて、怪我の薬になる」
 言いながら、ひまわりはヨモギをちぎり悠太の鼻先に突きつけた。
「でも、これを食ったら数分で死ぬ」
「え!? なんで?」
 悠太は、怪訝な顔で訊ねた。
「これは、ヨモギじゃなくてトリカブトだ」
「トリカブト!?」
 悠太は、素頓狂な声を上げた。
「形は似てるけど、ヨモギは葉と茎に毛が生えてる。トリカブトは生えてない。お前、死ぬぞ」
 ひまわりの淡々とした言葉に、悠太の背筋は冷たくなった。
 もし、知らないで食べていたら……。
 考えただけで、脳みそが粟立った。
「真剣に生きろ」
 ひまわりは短く言うと、トリカブトを捨てて歩き出した。
 彼女の言葉はぶっきら棒だが、胸に響いた。
 厳しい野生の環境で生活しているひまわりの一言には、説得力があった。
 だが、悠太の胸に複雑な思いが過った。
「好きで無人島暮らししてるんじゃないよ」
 悠太は歩を進めながら独りごちた。
 気づいたら、見覚えのない島に流れ着いていた。
 自分が何者かもわからないまま、過ごした三日間だった。
 助けを呼ぼうにも、連絡手段がなかった。
 電話があったとしても、どこに連絡をすればいいのかわからない。
 記憶を失う前の自分が何者かを思い出したい反面、怖かった。
 もし、自分の受け入れられない自分だったら……。
 誰からも愛されない孤独な男、敵の多い嫌われ者、なにをやらせてもだめな落伍者……「ジイジ」のことを疑っていたが、自分自身が犯罪者の可能性もあった。
 不意に、胸を突かれた。
 尻餅を突いた悠太の手から奪った槍を、ひまわりが地面に突き刺した。
「急に、なにするんだ……」
「見ろ」
 悠太を遮り、ひまわりが地面を指差した。
 視線を、彼女の指差す先に移した。
 槍で頭を串刺しにされた蛇が、激しく身をくねらせていた。
「マムシだ」
 ひまわりは言いながらナイフで蛇の首を切り落とすと、あっという間に皮を剥ぎ内臓を抜いた。
「死にたくないなら、気を抜くな」
 厳しい口調で窘めたひまわりは、肉塊と化したマムシを麻袋に詰めて悠太に放った。
「いい加減にしてくれ……」
 悠太は麻袋を握り締め、絞り出すような声で言った。
 ひまわりが首を傾げ気味にして、悠太をみつめた。
「好きで……こんなところにいるんじゃない。気がついたら無人島にいて……記憶を全部失っていて……。自分が何者かさえ覚えてないのに、マムシだトリカブトだなんて、わかるわけないじゃないかっ。勝手なことばかり、言わないでくれ!」
 悠太は、もどかしげに吐き捨てた。
 わかっていた。
 ひまわりには、なんの責任もないことを。
 責任どころか、彼女は命の恩人だ。
 わかってはいたが、やり場のない怒りと不安が悠太を精神的に追い詰めた。
「お前がどこからきたのか知らないが、生きたいならウチに従え。嫌なら、この島から出て行け」
 ひまわりが、突き放すような口調で言った。
 悠太はうなだれた。
 反論することも謝ることもできない自分が情けなく、歯痒かった。
 マムシを仕留めた槍を、ひまわりが無言で差し出してきた。
「やってみろ」
 ひまわりが向けた視線の先――約五メートル先の木の根もとで、ウサギが尻を向けていた。
「ウサギ?」
「ネズミだ」
「ネズミ!? でかいな……」
 悠太のイメージしているネズミの三倍はありそうだった。
「ネズミは耳もいいし、視力も十メートル以上先の動く物を見ることができるけど、ウサギみたいに視界が広くない。後ろを向いて夢中で木の根を齧っているから、チャンスだ」
 ひまわりが、槍を手渡しながら言った。
「いや、でも、僕には無理だよ」
「練習しただろ?」
 あっけらかんとした口調で、ひまわりが言った。
 たしかに、ひまわりが動かすひも付きの空き缶を獲物に見立てて練習はしたが、二、三時間程度の話だ。
「今日の食料はもうある。外しても大丈夫だから、やってみろ」
 ひまわりに促され、悠太は槍を構えた。
「肩の力を抜いて、獲物から眼を離さずに右腕を振り抜くんだ」
 悠太の背後に回ったひまわりが身体を密着させ、腕や肩の位置を調整しながら耳もとで囁いた。
 不意に、鼓動が高鳴った。
 槍が命中するかどうかの緊張が原因でないのは明白だった。
 こんな乱暴で男みたいな野生児に、胸がときめくはずがない。
 だが、よく見るとスタイルも抜群で顔立ちもハーフのようでかなりの美少女だ。
 悠太は、頭を振った。
 記憶を失い無人島に漂着しているという非常事態に、そんな不埒なことを考えている場合ではない。
「獲物に集中しろ」
 ひまわりの声に、心拍が跳ね上がった。
「わ、わかってるよ」
 悠太は眼を閉じ、深呼吸を繰り返し集中力を高めた。
 眼を開けた。
 ネズミは、同じ恰好で尻を向け木の根を齧っていた。
「あと一メートル距離を詰めろ。音に敏感だから、物音を立てないように」
 ひまわりのアドバイス通り、悠太は息を止め、スローモーションのように左右の足を踏み出した。
 二歩、三歩と距離を詰めたが、ネズミが気づく気配はなかった。
 鼻から、小刻みに息を漏らした。
 槍を持つ右腕を後方に引き、狙いを定めた。
 喉が干上がり、胸が早鐘を打った。
 腕が震えた――膝が震えた。
 リラックス、リラックス、リラックス……。
 悠太は、呪文のように心で呟いた。
 ひまわりの狩りを見守っているときよりも、精神的にも肉体的にも比較にならないほどに疲れた。
 息を止め、全神経を右腕に集中させた。
 できる。できる。絶対にできる。
 脳内で、ネズミを槍が貫くところをイメージした。
 五、四、三、二……。
 心でカウントを取りながら、勢いよく右腕を振り抜いた。
 槍は、ネズミの三十センチほど上の樹皮を抉り地面に落ちた。
「あ~」
 悠太は、落胆のため息を漏らした。
「あれ……」
 狙いが外れたのに、ネズミは逃げずに同じ場所にいた。
 悠太は、忍び足でネズミに近づいた。
 一メートルを切っても、ネズミが動く気配はなかった。
 悠太は前屈みになり、ネズミを凝視した。
 ここでようやく、ネズミが死んでいることに気づいた。
 槍は逸れているのに……。
 なにがどうなっているのか、わけがわからなかった。
「生きてるネズミだったら、逃げてたぞ」
 いつの間にか、ひまわりが悠太の隣に立っていた。
「え? もしかして……」
「それはジイジの作った練習用の剥製だ。よくできてるだろ?」
 ひまわりが、白い歯を覗かせた。
 ぶっきら棒になったり、幼子のように無邪気に微笑んだり……彼女には、不思議な魅力があった。
「僕を、騙したのか?」
「本当のことを言ったら、緊張感がなくなるからな」
 ひまわりが、剥製を抱え上げながら言った。
「じゃあ、最初から計画的に!?」
 悠太は訊ねた。
「ああ。空き缶より、うまくなる」
 悪びれたふうもなく、ひまわりが言った。
「お前は速く投げようとするから、力んで槍が獲物から外れるんだ。もっと、肩や腕の力を抜け。死体に当たらないんじゃ、動く獲物なんて絶対無理だぞ」
「少ししか練習してないんだから、仕方ないだろう?」
「ウチは一日目で、五メートル先の野ウサギを仕留めたぞ。もちろん、生きてる野ウサギだ」
 ひまわりが、自慢げに言った。
「なんか、腹立つな」
「だったら、早く一人前になれ」
「僕はここに一生いるわけじゃ……あ、おい!」
 話を聞かずに歩き出すひまわりのあとを、悠太は慌てて追いかけた。

(第12回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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