双葉社web文芸マガジン[カラフル]

極限の婚約者たち / 新堂冬樹・著

第 10 回


5(承前)


 目印のパンフレットを認めた雪美は、里恵を振り返り一度頷くと、窓際のテーブル席に足を向けた。
「『現代日本ツーリスト』の菊池さんですか?」
 雪美に声をかけられた、濃紺のスーツ姿の男性が立ち上がった。
「はい。堀越雪美さんですね?」
「そうです。こちらは、悠ちゃんのお母様です」
 雪美は、里恵を紹介した。
「悠太の母親です。お忙しいところ、すみません」
「いえ、こちらから出向かなければならないところを……逆に申し訳ありません。とりあえず、お座りください」
 菊池が、雪美と里恵を促した。
 雪美は「現代日本ツーリスト」の近くにあるファミリーレストランに菊池を呼び出してから、里恵に連絡を取り事情を話したのだった。

――三十分くらいで行けると思う。雪美ちゃん。まだ、なにかあったと決まったわけじゃないから、気を強く持つのよ。悠太は私の息子。あの子は、早くに亡くなった父親のぶんまで強い子よ。絶対に、大丈夫だから。

 里恵は、母親として心配で堪らないはずなのに、動揺した素振りは少しも見せずに雪美を気遣ってくれた。
 悠太は、中学生のときに病気で父親を亡くしていた。
 以来、里恵は昼夜の仕事を掛け持ちながら幼い悠太を育て上げた気丈な女性だった。
 
――悠太を選んでくれて、ありがとうね。

 悠太と交際して初めて実家に挨拶に行ったとき、里恵にかけられた言葉をいまでも忘れない。
 
――選んだなんて、とんでもありません。
――ううん、悠太は私に似て、とても不器用でね。つき合って行くうちに、あなたもかなり苦労させられると思うわ。なにか至らないところがあったら、遠慮せずにびしっと叱らなきゃだめよ。まあ、わんこと同じね。
――わんこ?

 雪美は、怪訝な表情で訊ね返した。

――そう、わんこ。あの子は駆け引きとかできない単純な性格だから、遠回しな言いかたや気を遣った言いかたは逆効果なのよ。

 里恵が、下唇を突き出し肩を竦めた。

――あ、悠ちゃんのそういった不器用なところ、わかります。
――ときどき、いらいらするでしょう?
――はい、いらっときます。
 
 二人は互いに顔を見合わせ、ほとんど同時に噴き出した。
「電話でも言いましたが、江藤さんを星川先輩に紹介したのは僕です。観光船だと時間がタイトに決められているので、視察に向かないんです。だから、ウチの会社が提携している漁業組合の方に頼んで、フィッシングボートを一艘出して貰いました。江藤さんは最初、海が時化る恐れがあるから翌日に予定を変更したほうがいいと言ったんです。でも、先輩は、企画会議に間に合わないから船を出してほしいって……。大飛鳥島の近海は黒潮の影響で潮流が速くて、少しの天候の変化でも海が荒れてしまうんです」
「じゃあ、悠ちゃんが乗ったボートが引っくり返ったっていうのは……」
 わかってはいたが、万に一つの奇跡を期待して雪美は訊ねた。
「現代日本ツーリスト」に電話をしたときは、詳しいことは会ってから話したいと菊池が言うので、フィッシングボートに乗るまでの経緯を聞かされていなかったのだ。
 菊池が、唇を噛んで俯いた。
「なんで……」
 言葉を失う雪美の手を、里恵がそっと握った。
「ニュースでも報じられてますが、海上保安部の捜索で船長の江藤さんは発見されました。いまは病院に搬送されていますが、一命は取り留めたそうです」
 菊池が、俯いたまま力のない声で言った。
「悠ちゃんは……悠ちゃんはどこにいるの!?」
 思わず、雪美は詰問口調になっていた。
「まだ……見つかっていないようです」
「いないようですって……そんな、無責任な! あなたが紹介した人が操縦したボートが転覆したんでしょう!? どうして、そんな小さなボートを紹介したのよっ。もっと大きな観光船だったら、引っくり返らなかったかもしれないでしょう!? 観光船はスケジュールがタイトとか言ってたけど、海に落っこちて行方不明になったら元も子もないじゃない!」
 雪美の大声に、周囲の眼が集まった。
「すみません……」
 菊池がうなだれた。
「すみませんじゃ済まない……」
「雪美ちゃん、彼を責めるのはお門違いよ」
 里恵が、いきり立つ雪美を諭した。
「だって……」
「それに、船長さんが翌日に変更したほうがいいと言ったのに、無理を通して船を出して貰ったのは悠太なんだから」
 厳しい表情で諭す里恵の瞳に湛えられた哀しげな色に、雪美は胸を鷲掴みにされた気分になった。
 心配で堪らないのは里恵も同じなのに、懸命に平静を保っているのだ。
 たしかに、菊池に八つ当たりしたところで悠太が発見されるわけではない。
「菊池さんに責任はないのに、ごめんなさい」
 雪美は、素直に謝った。
 どれだけ菊池を責めても、悠太は帰ってこない。
 いまは、悠太を捜し出すことがなにより優先だ。
「いいえ、たしかに僕にも責任の一端はあります。おやっさん……江藤さんと一緒になって、ボートを出すのを止めるべきでした」
「仕方ないわよ。菊池さんは海の専門家じゃないし、最終的には船長さんが悠太に押し切られてゴーサインを出したわけですから」
 消沈する菊池を慰めるように、里恵が言った。
 凄いとは思うが、雪美には里恵のまねはできそうにもなかった。
 たしかに、フィッシングボートが転覆したのは菊池のせいではない。
 しかも、里恵の言うように、出航に難色を示す江藤を押し切ったのは悠太だ。
 だが、菊池が悠太を江藤にさえ引き合わせなければ……江藤と一緒になって悠太を説得してくれれば、こんなことにはならなかったという思いを拭い切れなかった。
 もちろん、それが責任転嫁だとわかっていた。
 菊池に責任がないことも、悪いのは悠太だということも……。
「捜索は、続くんですよね?」
 里恵が訊ねた。
「もちろんです。今日も、近海を数十人の捜索隊に加えてボランティアのダイバーが早朝から捜しています」
「二日間捜しても見つからないんだから、行く予定だった無人島にいるんじゃないの?」
 雪美は、藁にも縋る思いだった。

――あのへんは黒潮の影響で潮流が速くてさ、とても泳げるような海域じゃないんだよ。それに、ボートが転覆するくらいだから、輪をかけて海も荒れていただろうし……。

 脳裏に、佐竹の言葉が蘇った。
 常識で考えれば、時化の海を何キロも泳ぐのは不可能だ。
 しかし……。
「星川先輩が、飛鳥島まで泳いだと……」
「もちろん、それがどれだけ大変なことかはわかってるわ。可能なのは、オリンピックの競泳選手くらいかもしれない。だけど、わからないじゃない? ほら、人間って追い詰められると自分の能力の何倍もの力……火事場の馬鹿力が出るっていうでしょう? 以前に新聞で読んだけど、炎に包まれた家から五十キロの寝たきりの父親を背負い三十キロの息子を抱えて救出したのは、身長が百五十三センチで体重が四十キロの小柄な女性だったそうよ。アラスカでは、五百キロ以上あるグリズリーに襲われて素手で撃退した七十歳の老人の話もあるし。人間って、危機的状況に直面したときにアドレナリンが分泌されて、普段は七十パーセントくらいしか発揮できてない力が百パーセント発揮できるって、お医者さんがなにかの番組で言ってたわ。ということは、生命の危険を感じた悠ちゃんが、通常ではありえない能力を発揮してもおかしくないわけでしょう?」
 雪美は、次から次に頭に浮かびかけるネガティブな思いを打ち消すかのように、早口でを並べ立てた。
だが、それは雪美の不安の裏返しだった。
「雪美ちゃん……」
 里恵が涙で潤んだ瞳でみつめ、雪美の背中を優しく撫でた。
「捜索隊も、今日中に発見できなければ明日は飛鳥島に上陸して島中を捜すそうです。逆に、海で発見されていないという事実が、星川先輩の無事を証明しているのだと僕は信じていますから」
 菊池が、雪美をみつめ力強く頷いた。
「絶対に、見つけますから」
 雪美は、強い光を宿した瞳で宣言した。
 菊池に、というよりも自らに言い聞かせるように……。
『大飛鳥島の沖合で起きたフィッシングボートの転覆事故で、行方不明になっている東京都渋谷区の旅行代理店勤務、星川悠太さんの捜索は三日目に入り、伊豆海上保安部の捜索隊は当初の目的地だった無人島の飛鳥島に上陸しましたが、依然、星川さんの行方はわかっていません』
 五十畳のリビングルーム――雪美は、百インチのプラズマテレビの前で正座してニュースをみていた。
「あんなに大勢で捜しているのにな」
 ソファに座る父、達臣がワイングラスを口もとに運ぶ手を止めた。
 ニュース画面に映る制服にヘルメット姿の捜索隊は、ざっと見ても三十人以上いた。
 昨日、菊池が言っていた通り、捜索隊はフィッシングボートが向かうはずだった飛鳥島に上陸した。
 今日の捜索は、海辺と平野で重点的に行われたらしい。
 明日、雑木林の捜索が残されているとはいえ、飛鳥島での発見を期待していた雪美の落胆は大きかった。
「だいたい、海で発見されないから島を捜すなんて、海上保安部も短絡的過ぎるだろう」
 達臣が、非難めいた口調で言った。
「悠ちゃんは、飛鳥島にツアー地の視察に行く予定だったから」
「ボートが引っくり返るほどに荒れた海だぞ? 飛鳥島まで辿りつけるわけないだろう?」
「それ……どういう意味?」
 雪美は振り返り、達臣に厳しい眼を向けた。
「そんなこと、言わなくてもわかってるだろう。これも運命だと思って、忘れなさい」
「パパ……」
 二の句が継げなかった。
 雪美は、耳を疑った。
 もともと、達臣が悠太との交際に反対だったことは知っている。
 
――彼は「堀越ビルグループ」の社長の娘の婚約相手として、相応しいとは思えない。父さんは、認めるわけにはいかんな。
 
 悠太との結婚の話を切り出すたびに、達臣は同じ言葉を繰り返した。
 達臣が悠太を嫌っているわけではなかった。
 悠太を結婚相手として認めたくないのは、別の理由だ。
 教師だった悠太の父親は、彼が中学生のときに病気で他界した。
 だが、母子家庭で育った家庭環境に難色を示しているのではない。

――お言葉は凄くありがたく夢のようですが、僕は自分の力を試したいんです。小さな会社でもいいので、自分の城を作るのが僕の夢です。

 結婚したら「堀越ビルグループ」が所有するビルを一棟譲るという達臣の申し出を、悠太は恐縮しながらもきっぱりと固辞した。

――君がどんな夢を抱くのも自由だが、「堀越ビルグループ」の一人娘を貰う気なら勝手は許さない。君の夢は、雪美の夢にもなるわけだからな。

 達臣は、ビル一棟の経営が雪美との結婚の条件だと繰り返した。

――五年だけ、僕にチャンスをくれませんか? 五年経って自分の城を持てていなかったら、義父さんの言う通りにします。

 悠太は頑なに撥ねつけることはせず、達臣の気持ちも尊重した。

――そんなちっぽけなチャンスを五年も待つ必要が、どこにある? 何百倍ものチャンスをすぐに与えてやろうと言ってるんだぞ?

「不謹慎なことを言うようだが、お前のためを考えれば……」
「やめてよ!」
 達臣の声を、雪美の怒声が遮った。
「悠ちゃんがいま、どんな状況かわかってるよね!? それなのに、お酒を飲みながらひどいことばかり言って……信じられない……信じられないよ!」
 雪美は、涙声で叫んだ。
「もちろん、星川君には無事であってほしい。彼の不幸を、望んでいるわけがないじゃないか? ただ、もう二度と雪美の前には現れてほしくない。これは、私の偽らざる本音だよ」
「そんなに……冷たい人だったんだね」
 雪美は、うわずる声で言った。
「あなた、雪美の言う通りですよ」
 キッチンで料理をしていた母……真梨子が、話に割って入ってきた。
「お前は口を……」
「出しますよ。悠太君の生死がかかってることなんですから。いまは、雪美に相応しいとか相応しくないとか、そういうことを言っている場合じゃないでしょう? 親だったら、婚約者が船の転覆事故で行方不明になっている雪美の気持ちを考えてあげてください」
 いつもは達臣に意見などしない真梨子が、ここまで言うのは珍しいことだった。
「親だからこそ、言ってるんだ。『堀越ビルグループ』入りを断る婿なんて取ってどうするんだ」
 達臣が、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「断ってなんて、いないでしょう? 悠太君は、自分の力でやれるところまでやってみたいと言ってるだけよ。楽してお金を手にしようとばかり考える若者が多い中、立派な青年じゃないの」
 真梨子も、一歩も退かなかった。
「自分の力でやれるところまでやってみたいだと? 笑わせるんじゃない。それに、私は彼に楽して金を稼がせようとしているわけじゃない。与えられた物が多いぶん、責任もプレッシャーも大きくなるものだ。そうやって、実業家として鍛えられてゆく。彼は、立派でもなんでもない。臆病なだけ……」
「悠ちゃんは、臆病じゃない! 不器用で、うまく立ち回れないだけよっ」
 雪美の叫びが、達臣の言葉を遮った。
「私のために、わざと悠ちゃんにつらく当たっているんだと思っていた。でも、違った。パパは、本当に心のない人だわ」
 雪美は、達臣を睨みつけた。
「お前の将来のためなら、父さんは鬼にでも悪魔にでもなるつもりだ。とにかく、もう、星川君のことは忘れなさい」
「なら、私も同じよ」
「どういう意味だ?」
 達臣が、怪訝な顔を向けた。
「たとえ地獄に行ってでも、悠ちゃんを見つけ出してみせるから」
 雪美は、達臣を見据え力強く言った。
「お前は、父さんに逆らうつもりか!?」
「いま目の前にいる人は、私の知ってるパパじゃないわ。これから、私のやることに口を出さないで」
 雪美は言い残し、立ち上がった。
「なにをするつもりだ?」
「飛鳥島に行くの」
「飛鳥島!? なぜ、そんなところに行く!?」
「もちろん、悠ちゃんを捜しによ」
 躊躇わずに、雪美は言った。
「お前……正気で言ってるのか!?」
 達臣が気色ばみ、立ち上がった。
「うん、正気よ」
「だめだ。そんな勝手なまねは許さないぞ」
「私のやることに口を出さないでって、言ったでしょ?」
 言い残し、雪美はリビングのドアに向かった。
 親に取る態度でないことは、わかっていた。
 どんなにひどいことを言われても、二十二年間、愛情を注ぎながら育ててくれた事実に偽りはない。
 だが、今回だけは譲れない……。
 悠太は絶対に生きている……そう信じて見つけ出せるのは、自分しかいないのだから。
「いまこの部屋から出たら、親子の縁を切ることになるぞ!?」
 達臣の声が、背中を追ってきた。
 雪美は足を止めずに、微塵の迷いもなくリビングをあとにした。

(第11回につづく)

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新堂 冬樹Fuyuki Shindo

大阪府出身。1998年に作家デビュー。2003年に刊行した純愛小説『忘れ雪』が大ベストセラーとなる。
著書は『僕の行く道』『百年恋人』『君想曲』『ある愛の詩』『誰よりもつよく抱きしめて』『あなたに逢えてよかった』『引き出しの中のラブレター』『哀しみの星』『たったひとつの花だから』『別れさせ屋の恋 パルフェタムール』『瞳の犬』『少女A』など多数。

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