双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アンサーゲーム / 五十嵐貴久・著

©️ノグチユミコ

第9回
 京都だった、と里美は大きくうなずいた。
 時期もはっきり覚えている。あれは去年のお盆休みだった。毅の方から旅行へ行こうと提案されて、もちろん行くと答えた。
 即答したのはプロポーズの予感が濃厚にあったからだし、もうひとつ、焦りがあった。去年の連休明け、営業部に配属された小原桃香という若い女子社員は、二十四歳なのに妙な色気があった。
 今も思い出すと腹が立って頭が真っ白になるほどだが、桃香の毅に対する態度は露骨というレベルではなかった。銀座か六本木のホステスのように甘えた声で媚を売り、他に教育係の社員がいるのに、無視して何でも毅に相談していた。しかもブラウスの第二ボタンを外してだ。
 頭がおかしいと思ったし、それは他の女子社員も同意見だったけど、桃香はそういうことを一切気にしないタイプの女で、自分でも女友達は一人もいないと公言していたほどだ。
 あの頃、あたしと毅が付き合っていることは、部内の誰もが知っていた。先輩の女子社員の一人が、桃香に直接注意してくれたことも聞いている。
 だけど、それは桃香にとって何の意味もなかった。というより、人の男を奪うことが快感なのだろう。そんな女はどこにでもいる。あたしと毅の関係を知って、ますます積極的になっていった。
 毅も悪い気はしていないようだった。甘えた声で絡んでくる桃香の相手を、いつまでもしていた。
 セクシー女優とホステスのハーフみたいな女の子に、何をでれでれしているのか、と怒ったこともある。でも、心外そうに毅は言った。
「何にもないよ。あるわけないだろ? 彼女は営業部に来たばっかりなんだぜ。わからないことがあれば質問するのは当然じゃないか。最近じゃ珍しいぐらい積極的でいい子だなって、課長も言ってる。教えるのは先輩の義務だよ」
 そうだ。驚くべきことに、ほとんどの男子社員が桃香の側に立っていた。一度、さすがに不安になって、係長に相談したけど、カリカリしなさんなと笑われた。どうして男って、あんなに頭が悪いんだろう。
 タイミングも悪かった。あたしが担当していたクライアントの本社が大阪だったため、週末に出張が重なった。それ以外でも毅とスケジュールが合わなくて、デートする回数が極端に減っていた。
 そんな時、大学のゼミの同期会で、短い間だけ付き合っていた昔の男と再会した。その後、誘われて二人で飲みに行った。
 別に何もなかったけれど、それからも何度か誘われた。仕事があったり、プライベートの用事があったので、結局会っていないが、次に会えばどうなるか、自分でもわからなかった。桃香のことがストレスになっていたのは間違いない。
 それは話していなかったけど、さすがに毅も何か感じるものがあったのだろう。二泊三日で京都へ行こう、ということになった。
 このままだと関係が壊れてしまうという危機感が二人の中にあったし、修復するためにはひとつしか手が残っていなかった。つまりプロポーズだ。
 本音を言えば、京都行きが決まった時点で、桃香のことは気にならなくなっていた。毅が選んだのはあたしで、勝ったのもあたしだ。新幹線に乗った瞬間、あたしたちの結婚は確定していた。
 ただ、今回のクエスチョンは『プロポーズの言葉は?』だ。気持ちの話ではない。重要なのは、毅が何と言ったかだ。
 朝早くに出たので、新横浜を出た頃、あたしは毅の手を握ったまま眠っていた。そろそろだよ、と起こされたのは京都に着く十分前だった。
 寝ちゃったと言ったあたしの髪の毛を優しく撫でた毅が、ずっと一緒にいたいなと囁いた。あれがプロポーズの言葉と考えるべきなのか。結婚したいというニュアンスが伝わってきたのを、はっきりと覚えている。
 でも、違う。あれじゃない。なぜなら毅は「京都で」と言っていた。
 あの時、あたしたちは新幹線の車内にいて、まだ京都に着いていなかった。京都でのプロポーズが今回の回答だ、と毅が言おうとしていたのはわかっている。
 それに、ずっと一緒にいたいなというのは、二人の間でのルーティンでもあった。例えば土曜、彼の部屋に泊まって、日曜の夕方まで過ごし、そしてあたしが自宅へ帰る時、もっと一緒にいたいな、ずっとこうしていたいね、そんな言葉を交わし合うのが習慣になっていた。
 もちろん、そこには〝結婚しよう〟という意味が込められている。でも、だからといってイコールプロポーズではない。いい感じで恋愛している恋人同士なら、誰だってそんなことを言うだろう。
 京都、ともう一度つぶやいた。着いたのは昼前で、駅からほど近い蕎麦屋に入り、早めのランチをとった。
 それから宿へ行くまで、上賀茂神社でお参りをした。世界遺産に登録されている、名所中の名所だ。
 べた過ぎるけど、その方がいいと思った。変にこだわった旅行より、その時の気分にはふさわしかった。
 毅が予約していた優崎館という旅館に入ったのは夕方四時頃で、それなりに由緒のある古い温泉宿だった。部屋がとてもきれいだったのが印象に残っている。
 部屋に露天風呂はついてなかったので、それぞれ大浴場に入った。時間が早かったせいか、誰もいなくてリラックスできた。
 その後部屋で食事をした。いわゆる京懐石料理で、冷えた日本酒がよく合った。
 食事を終えてからも毅は飲み続け、そしてやや唐突なタイミングで「結婚するか」と言った。
 結婚、という言葉は前にも何度か出ていた。二月に同じ営業部の社員の結婚式に出席した後の車の中で、あるいは春に銀座で映画を観た帰り、たまたま通りかかったブティックのショーウインドウにディスプレイされていたウエディングドレスを見た時、テレビで流れていた結婚情報誌のコマーシャルを見た時。
 最初から、お互いに結婚を意識していた。それが自然だった。だから、普通のカップルより頻繁に、結婚というワードを使っていたかもしれない。
 だけど、京都での毅はそれまでと違った。笑ってごまかしたり、照れて恥ずかしがったり、そんなところは一切なかった。シンプルに、結婚するかと言った。
 あたしはうなずいて、笑顔を返した。それが答えだった。
 その夜は、そのまま眠ってしまった。あたしも毅も朝が早かったし、飲み過ぎていたせいもある。
 そして、あたしには安心感があった。プロポーズされた以上、もう焦ることはない。
 翌日も一日京都観光をした。お寺ばかり見た気がする。修学旅行だなと毅が冗談を言っていた。
 ただ、予想以上に京都の夏は暑かった。移動が主に徒歩だったこともあり、宿に戻った時、あたしは気分が悪くなっていた。軽い脱水症状を起こしていたのだろう。
 だからシャワーを浴びただけで、ほとんど夕食に箸をつけられないまま、寝ているしかなかった。あれは毅に悪いことをした、と今も思っている。
 翌朝になると体調が戻っていたので、いわゆる旅館の朝定食を食べて、東京へ戻った。朝食の時に二人で話して、そのままあたしの実家へ行って、結婚の報告をしようと決めていた。
 両親は毅のことを気に入っていたし、それまでも毅は何度か遊びに来ていた。結婚するつもりだとあたしは前から話していたから、お茶を飲んでおみやげを渡した毅が座り直して、お嬢さんと結婚させてくださいと頭を下げると、こちらこそよろしくお願いしますと父が言って、それでセレモニーは終わった。
 その時も、改めて結婚しようと言われた。でも、それは東京での出来事だし、確認のためだった。あれをプロポーズとは言わない。
 京都で、というのがキーワードだ。二泊三日の京都旅行を振り返ってみても、プロポーズと呼ぶべきなのは一日目の夜、食事を終えた後のあの言葉だ。それ以外ない。
 フリップに回答を書き込もうとした手が止まった。違う、もうひとつある。
 一日目の夜、彼が結婚するかと言ったのは間違いない。それははっきり覚えている。
 でも、あれは言葉だけだった。東京へ帰る日の朝、食事を済ませてから、改まった口調で座ってくれと言った毅が、一生君を幸せにするよ、と丹前から取り出した小さな紺色の箱をテーブルに載せた。
「給料四カ月分」笑みを浮かべた毅が、箱の蓋を開いた。「プラス一カ月分は、君への愛ってことで……ぼくと結婚してください」
 そこにあったのはダイヤモンドのリングだった。昨日渡すつもりだったんだけど、里美が寝ちゃったからな、と毅がまた笑った。
「何ていうか、タイミングがわかんなくてさ。ほら、はめてみろよ」
 左手の薬指にリングをはめると、サイズはぴったりだった。正直、あんなに感動するなんて思ってなかった。思わず泣いてしまったほどだ。
 プロポーズって何を指すのだろう、と里美は左手の薬指をまじまじと見た。今しているのは結婚指輪で、ゴールドのリングだ。でも、あのダイヤモンドのリングの輝きは、忘れたことがない。
 ダイヤモンドに釣られて結婚を承諾したわけではない。ただ、プロポーズというのは言葉だけで成立するものなのか。
 結婚するか、というのはよく考えてみると、積極的な言葉と言えない。何というか、ビジネス用語でいう打診に近い響きがある。ノーなら別の提案をいたします、そんな感じだ。
 それと比べると、一生君を幸せにするよ、というのは毅の意思だ。ダイヤモンドのリングも、意思を示している。明確な決意が込められていた。
 京都で、と彼は言った。その条件を加えると、毅はどちらを正式なプロポーズと考えているのだろう。
 考え過ぎてはならないとわかっていたが、どちらが正しい答えかわからなくなった。モニターには13:22という数字が映っていた。
「京都、結婚するか」
 フリップに答えを書いて、毅は左右に目をやった。まだ十分以上時間は残っている。その間にできることはないか。
 考えていたことがあった。本当にこの部屋から出られないのだろうか。
 これまでのところ、部屋から出る方法はない。
 部屋である以上、そしてその中に自分がいる以上、必ずどこかにドアがあるはずだが、何度調べても、どこにあるのかわからなかった。
 壁一面がドアになっているとか、どこかに巧妙な仕掛けがあるのだろうが、いずれにしても出入口は見つかっていない。
 ただ、一カ所だけ、外に出られる可能性があるところがあった。トイレだ。
 トイレの穴を確認して、中に黒いビニール袋が設置されていることはわかっていた。大、小、どちらにしても、そこに溜まるようにしているのだろう。
 照明が赤だった時は、その奥が見えなかったが、白熱電球に変わってから、ビニール袋の形状がわかるようになった。明らかに垂れ下がっている。つまり、便器の下には空間があるのだ。
 フリップを床に置いて、トイレに向かった。白い陶器の便器を両手で掴んで左右に揺さぶったが、微動だにしない。
 苛ついて足で蹴ったが、足の甲に痛みが走っただけだった。毅は床に顔をつけて、便器の回りを調べた。
 通常の便器とは違って、排水管はない。よく見ると、四カ所、床に木のネジで固定されているのがわかった。フランジと呼ばれている箇所にネジが埋め込まれている。
 そして、便器そのものが床に糊付けされているようだ。おそらく瞬間接着剤だろう。
 接着面は決して大きくない。大学時代、ホームセンターでアルバイトをしていたことがあった毅は、設置面積が広くない場合、瞬間接着剤は衝撃に弱いことを知っていた。
 テレビのコマーシャルでよく見るように、数百キロの過重にも耐えられるが、瞬間的な打撃を与えると、接着効果が薄れる。木のネジを外せば、便器を動かせるのではないか。
 ただ、木のネジを外すためには、ドライバーやペンチなど、工具がなければ難しい。力で引き抜くことなどできるはずもない。
 工具がないのはわかっていたが、使える物がひとつだけある。外したプラスティックの便座だ。
 持ってきた便座を足で押さえ、全身の力を込めて曲げていくと、鋭い音がして二つに割れた。これじゃ駄目だ、と毅は半分になった便座を放り投げた。
 きれいに真っ二つに割れてしまったため、工具としては使えない。ギャンブルだが、床に叩きつけて割るしかなかった。うまくいけば、ドライバーとして使えるかもしれない。
 ネジの頭は、一本の切れ込みが入っているだけだった。マイナスドライバー用のネジだ。サイズさえ合えば、回して抜くことができる。
 うまく割れてくれと念じながら、半分になった便座を床に叩きつけた。三回目で破片が飛び散り、手の中に斜めに割れ目の入った便座が残った。
 すぐにネジの切れ込みに当てると、ぴったり嵌まった。力を込めて押しながら、反時計回りに動かすと、ネジが動く気配がした。
(いける)
 回していくと、ネジが徐々に浮いてきた。指でつまみ、更に力を入れて回すと、意外と簡単に一本目が抜けた。
 首を伸ばして、モニターに目をやった。4:36という数字が見える。あと一本とつぶやいて、二本目に取り掛かった。
 木のネジなので、無理やり動かすとネジの頭が取れてしまう。そうなったら、外す事は絶対に不可能だ。慎重さが必要な作業だった。
 二本目を外し終えた時、ラストサーティセコンズというピエロの声がした。三十秒で残っている二本の木のネジを外すことはできない。
 そのまま毅はパイプ椅子に戻った。回答はフリップに書き込み済みだ。問題ない。
 スリー、ツー、ワン、ゼロとピエロがカウントし、終了のブザーが鳴った。
「いかがでしたか、シックスクエスチョン。愛し合っているお二人にとって、これ以上ないほどイージーな設問です。プロポーズの言葉、これほどシンプルで簡単な問題があるでしょうか? お二人の間に愛がある限り、絶対に忘れることのない言葉でしょう。いかがですか、自信のほどは」
 本当にお前の声は癇に障る、と毅は床に唾を吐いた。
「声もだが、その喋り方もだ。慇懃無礼を絵に描いたような口調だな。いいか、よく聞け。ここを出たら真っ先にお前を見つけて、親でも見分けがつかないぐらい殴ってやるぞ」
 下手な脅し文句ですね、とピエロが口元を歪めた。
「あなたには似合いませんよ。ビジネスの交渉事はお得意でしょうが、挑発には乗りません。あなたがわたしを見つけることはできませんしね。わたしは単なるマスター・オブ・セレモニーで、アンサーゲームが終われば存在そのものが消えてしまうのです」
 もういい、と毅は怒鳴った。
「さっさと答えを確認しろ。だが、その前にひとつだけ言っておくことがある」
「何でしょうか」
「出題前にも言ったが、多少のニュアンス違いのためにミスマッチと判定するなら、この問題には答えない。たとえば〝結婚しようか〟〝結婚するか〟その程度の差だったら、マッチングと認めろ。お前はイージーな問題だというが、プロポーズの言葉を正確に覚えている奴なんてめったにいない。違うか?」
 認めると申し上げたはずです、とピエロが口を開いた。
「おっしゃる通り、多くの男性がプロポーズの言葉を再現できないのは事実です。ですから、ニュアンスさえ合っていれば、マッチングと見なします。そうお約束したはずですが」
 それならいい、と毅は座り直した。京都でプロポーズしたことは、はっきりと覚えていたが、結婚しようか、あるいは結婚するか、どちらの言葉を用いたか、明確な記憶はなかった。もしかしたら、そろそろ結婚しよう、だったかもしれない。
 ピエロに対し、多少のニュアンス違いならマッチングと認めろと念を押したのは、予防線を張る意味があった。里美の方も、そこまではっきり覚えているとは思えない。人間の記憶など、当てにならないものだ。
 だが、結婚しようという意味の回答さえ書いていれば、それで十分だ。ピエロが何と言おうと、マッチングだと主張できる。
 極端に言えば、里美が「結婚」の二文字さえ書いてくれていればそれでいい。
 プロポーズなのだ。結婚というワードを外すわけがない。絶対にマッチングする。させてみせる。
 そろそろよろしいでしょうか、とピエロがモニターの中で指を振った。
「では、お互いの回答をモニターに向けてください。どうぞ!」
 毅はフリップを前に出した。画面に映った里美も同じ動きをしている。大きな音を立てて、ブザーが鳴った。
 ミスマッチング、というピエロの声が響いた。里美はモニターを見つめたまま、動けなくなっていた。
『京都、結婚するか』
 毅のフリップにはそう書かれている。そして自分の回答は『一生、君を幸せにする。ぼくと結婚してください・京都』だった。
 残念です、とモニターに映ったピエロが肩を落とした。
「わたしも、まさかこのような結果になるとは思っておりませんでした。ねえ、愛を誓い合ったお二人が、プロポーズの言葉を取り違えるなんて、そんなことが起こるものでしょうか。信じられません」
 待って、と里美はモニターに手を伸ばした。
「プロポーズは京都だったの。それは毅もあたしも書いてる。そうでしょう? 彼に旅館で結婚を申し込まれた。あの時、あたしたちは二人とも結婚するつもりでいたし、結婚を意識して話していた。ちょっとニュアンスが違っても――」
 どこでプロポーズしたかが問題ではありません、とピエロが言った。
「クエスチョンは『プロポーズの言葉は?』というシンプルなものです。場所は関係ありません」
「だけど……」
 確かにニュアンスの差異については許容すると申しました、とピエロが唇の端を吊り上げて笑った。
「ですが、お二人の回答は許容範囲を超えています。何しろ、一致するワードがひとつもありませんからね。黒を白と言うことはできませんよ。そうは思いませんか?」
「君を幸せにするっていうのは、イコール結婚しようって意味でしょ? お願い、お願いです。場所は合っているんだし、言い回しが違っていても、意味するところは同じなんだから、マッチングと認めて!」
 パイプ椅子から離れてモニターに近づいた里美に、残念ですが、とピエロが首を振った。
「シックスクエスチョンの設問は、まさにその言い回しが焦点となっております。確かに、京都へご旅行に行かれた際、一日目の夜、樋口様は〝結婚するか〟とおっしゃったでしょう。そして東京へ戻る朝、〝一生君を幸せにする。ぼくと結婚してください〟とおっしゃったわけです。どちらもプロポーズの言葉と言えますが、お二人の認識が違っていた以上、ミスマッチングと判定せざるを得ません」
 こんなの詐欺よ、と里美はモニターを叩いた。
「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、どっちを選ぶかはあたしたちの感覚次第で、そんなんじゃマッチングなんて運じゃない!」
 叫んだ里美の顔に、いきなり何かがぶつかり、視界が真っ白になった。比喩ではなく、本当に白く染まったのだ。
 失礼しました、とピエロが一礼した。
「最初に申し上げた通り、ミスマッチングの場合は罰ゲームが与えられます。大丈夫ですよ、顔についているのはホイップクリームで、お二人を傷つける意図は一切ございません」
 何よこれ、と里美は顔を手のひらで拭った。べたべたとまとわりつく不快な感触。そして卵が腐ったような臭い。
 忘れておりました、とピエロが手を叩いた。
「単にホイップクリームだけですと芸がありませんので、温めたお酢を多少混ぜております。何しろ罰ゲームですので……まあまあ、お気になさらずに。すぐ慣れますよ」
 何度も何度も顔のクリームを拭ったが、べとつく感触は消えない。拭うたびに床に手をこすりつけたが、完全に取れるものではなかった。そして臭気は酷くなっていく一方だ。
 吐きそうになって、里美は口に手を当てた。その拍子に、手についていたクリームが鼻に入り、嗚咽が止まらなくなった。
 吐かない方がよろしいかと存じます、とピエロが笑いながら言った。
「どうしてもということであれば、トイレへ急がれた方がいいでしょう。酢と嘔吐物の交じった臭いは、なかなか厳しいでしょうからね」
 吐き気を堪えて、里美はトイレへ走った。笑い声が追いかけてきた。
(第10回へつづく)

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五十嵐 貴久Takahisa Igarashi

1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2001年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。以降、ミステリーや警察小説、青春小説、恋愛小説など、幅広いジャンルで話題作を発表する。07年『シャーロック・ホームズと賢者の石』で第30回日本シャーロック・ホームズ賞を受賞。08年『相棒』で第14回中山義秀文学賞候補、11年『サウンド・オブ・サイレンス』で第28回坪田譲治文学賞候補。著書多数。

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